白き瓶

明治三十七年 伊藤左千夫
 「小生は常に新聞などで、児を捨てて召集に応じた、妻を離別して奮起したなどといふ、報道を見る度に、甚だ不快に感ずるので、そんなことは皆虚説であると思ひ居り候、真に死を覚悟しての首途に,親と別れ妻子と別れこれを最後の見別れと感念した時に、悲しくないと云ふは虚言に候、実際悲しまない人があつたならば、それは自分勝手な功名だから、人間の至情を滅した挙動と存じ候、親を思はず妻子を愛せず、それで愛国心に富むとは大虚言の皮に候。<中略>乍併(しかしながら)、君国の大義を荷なひ軍に征役に従ふものが死を覚悟して出る位、忠義な感念は無之候、已に死を覚悟す而して親と別れ妻子と別る、世の中に是程悲しいことは無之候、悲むが当然に候、悲しんで悲みつくし泣いて泣きつくすが当然に候」
                            ――『馬酔木』第十号「消息」――


 昨夜はものすごい豪雨。
 でも、これで梅雨も明けるんじゃないかな。――希望的予測ですが――何かが変わってほしい。
 藤沢周平『白き瓶――小説長塚節』を読みはじめて驚いています。これまで読んできたものと文体がまるで違う。(藤沢周平の指は節々がこんなに出っ張っていたのか)と感じる骨太の文体なのです。
 『白き瓶』は国語部会の旅行中に部会長だった男から勧められたのですが,その時は(いい小説かもしれないけど、オレは読まない。)

 高校三年の時の現国教員(のちに鹿児島大副学長)は生徒を挑発するのが上手な人でした。
――こんな盆地でお山の大将だとイバって何になる。佐賀平野に行ってみろ、地平線が見えるぞ。
――少々の本を読んでいい気になるな。東京の生意気な高校生はもうサルトルを読んでるぞ。
その方があるとき、
――長塚節の『土』を最後まで読み通せるヤツがこの中にいるかな?
(ははぁーん。コイツは読み終えるのに難渋したんだな。――だったらオレが読んでやる。)
 一気読みでした。
 数日かかったのだと思いますが、息を殺して読み続け、読み終えたときの感動の大きさは、その先生のことなどどこかに吹っ飛んでいました。わたしの「文学」――いや「人生」かな?――の起点であるあの数日間
は、その後まったくぶれていません。その起点である時間を忘れたくなかったのです。

 去年だったか、たまたま百道の図書館に行ったとき「久保より江」句集のポスターを見て、借りてきて、そのより江(好ましい俳句です。)の夫久保猪之吉が長塚節を看取った医者だと知りました。――当時の九大病院は奈多にありました。中勘助は九大医学部教授に嫁ぎ病床に伏した妹の介護のために今の東区名島に行き、妹の布団の横に机を置いて『銀の匙』を書き継いだと何かで読んだことがありますから、当時も九大病院はそこにあったのだと思います。――

 小説は思いがけぬほど「歌」そのものに迫っています。
 「地声で歌え!」
――地声の歌の方向はわかっていた。写生である。子規がそう教えたのだ。・・・が・・・自分の言葉は、依然として見えて来なかった。
 しかし、実をいえば節はそのとき新しい言葉をつかみかけていたのである。(明治三十七年)十二月の「馬酔木」に節は「雑詠十六首」を提出した。その中につぎの一首がある。
   秋の田のわせ刈るあとの稲茎にわびしく残るおもだかの花
 それは節が目ざす写生の歌の萌芽だったのだが、節は気づいていなかった。 
(今日はここまで)2020/07/24

 

久保猪之吉と長塚節

久保猪之吉と長塚節

   のぞみ多き春よことしの此のゑまひとこしへに消えずあれとのみ   久保猪之吉

 久保猪之吉の父は福島二本松藩士。猪之吉(1874~1939)は、東京帝国大学卒業後イタリアに留学し、帰国後京都帝国大学福岡医科大(現九大医学部)教授。たまたま福岡にきた長塚節を看取った。落合直文門弟。

     泣き虫の子猫を親に戻しけり   久保より江

 より江(1884~1941)は松山出身。祖父母が下宿屋を営んでいた縁で、幼いとき夏目漱石正岡子規に可愛がられ、俳句をよくした。東京府立第二高女卒業後、久保猪之吉と結婚し、福岡に赴く。

 「たまたま福岡にきた」と書いたが、長塚節が「九州に行く」と挨拶に来たとき、妻のより江を通して知っていた漱石が「せっかくだから久保猪之吉に診て貰ってこい」。けっきょくそのまま福岡が長塚節の終焉の地になった。

 長塚節が九州に行った目的の一つ(ひょっとしたら、それが最大の目的だったのかも)は宮崎県の青島に住む女性に会うことだった、と書いていたのは赤坂憲雄だったかも知れない。
 赤坂憲雄は、「あを島」や「あは島」や「おほ島」は「はふりの島」だった(どれも岸から近いところに位置する。「大島」とあっても「小さな島」であることが多い。)と書いていたが、卓見だと信じている。
 人々は死者を舟でそれぞれの、この世とあの世の境(あはひ)にある島――以前にも言った。日本語の「しま」や「やま」は、islandやmountainを指していたのではない。そうではなくて他との関係を示すなにか。それぞれが意味や役割を分かっている聖域。――に運んで葬った。(葬ったと書いたが、たぶん――自信満々で言うが――放り出して逃げ帰った。ょうど黄泉の比良坂から逃げ帰ったイザナギのように。)
 「はふる」と「ほうる」はもともと同語。――言海≒「ほうるは、はふる、の誤。」――もちろん「葬り」と「祝り」は同語。
 
 れわれは海から来て、海に帰っていく。――内陸に移動した人々も川と通じることで「黄泉」との往来を断たないようにした。山で暮らす沢ガニたちと同様に。仏教伝来のずうっと以前のことです。

 長塚節は「即入院」という久保猪之吉のアドヴァイスを振り切って青島に行ったらしい。きっと美しい人だったんだろうが、その青島には「葬り島」伝承が残されている。その女性は、そういうことに携わっていた巫女のような立場のひとだったのかもしれない。
 そもそもその女性とどこで知り合ったのか?
 思いつくのは、彼女が短歌雑誌に投稿していた可能性。とすると、長塚と彼女はその時が初対面?
 あるいは久保より江同様に、東京に遊学していた期間があるのかもしれないが、それ以上のことは考えが及びもつかない。
 ――ヨーシ。すぐに閉じて戻してしまった藤沢周平『白き瓶』をあらためて図書館から借りる。
 北方謙三『破群の星』のあとは『白き瓶』。小説家はどれほどの想像力を働かせているのだろう。
         2020/07/20

 

工藤正廣

GESCHICHTE(ゲシフテ)

 去年ウナムーノをかじったとき最初に自分で作った西文は「La(ラ) vida(ヴィーダ) es(エ) la(ラ) literatura(リタラトゥーラ)」だった。
「人生は文学だ。」
 そのときむりやりに読んでいるものにピッタリだと思った。かじっただけだけど、スペイン文学は自然を語らない。ただただニンゲンを語る。そして、「矛盾したことを言ったことのない人は、まともに考えたことのない人だ」――先月名古屋から帰ってきた卒業生にその言葉を紹介すると緊張が解けた。「いままで口をきいた人の中でいちばん〝凄い〟と感じたのは豊田章一郎さんです。あの人はフツウなんです。」――のウナムーノの「Aquella(アケラ) noche(ノーチェ) naci(ナシ) infierrno(インフィエルノ) de(デ) mi(ミ) vida(ヴィーダ) 」が辞書抜きで自然に入ってきたところで(もう良かろう。限界だ。)。「その夜、わたしの人生に地獄が生まれた。――富田先生は、それを『その夜、わたしは、わたしの地獄のなかで生まれ直した。』と意訳した。そのほうがウナムーノの言おうとしたことに近いかもしれない。――

 「われわれ人間は歴史の中で生きている」――(最初の独文はこれにしよう。)
 ドイツ語を始めて一ヶ月ちょっと。風情のなかで生き続けてきたわれわれからのドイツ人観。
 「われわれ人間」はたぶん「Wir(ヴィア) menschen(メンシェン)」。
 ――歴史は?――「Geschichte(ゲシフテ)」。
 Geは名詞や完了形を作るときの接頭語。ではschichtは?「層・膜≒積み重なっているもの」。(英語のshift?)最後のeはたぶん複数形。
 ――そうか。われわれ(風情のなかで生き続けたきた人々)は縦文字文化だから、「歴史」というとすぐ左から右へ横に平行的に推移していく年表のようなものをイメージする。(バカタレのわたくしだけ?)。でも彼らにとっての「歴史」は縦に積み重なった複雑な層のような構造なんだ。彼らは、掘り起こしていくか、断層を見つけるかしないとGeschichte(ゲシフテ)に触ることは出来ない。
 彼らの足下に幾層にも幾層にも堆積していて、その上に土足でしか立つべき場所はなく、逃れようのないもの≒Geschichte(ゲシフテ)。・・・Dasien(ダーザイン)に少し近づいたぞ。
               ――7/11――

 上を書いたあと、工藤正廣『秋田雨雀紀行』を開いた。
 傑作とか名著とかいう言葉では言い表せない「ナマ」そのものを感じる。生々しさを感じる日本語の文章なんていったいいつ以来か。少し読むと頭が勝手に動き出すから、160頁ほどの小冊子なのに今日もまた(続きはまた次回)。
 秋田雨雀の作品は文学全集にひとつふたつ収録されているだけで、単行本はまったく見つからない。本を閉じて、津軽書房に問い合わせの手紙を書き、これから投函しに行く。
 その小冊子のなかで、青森の採掘場から駆け落ちをしようとしている貞吉とおそのについて、工藤正廣は、「(秋田雨雀にとって)この地方には、たくさんの<貞吉>が犇めき挫折しているのは先刻承知のことであった。<おその>もまたまた此処では彼女一人ではなく、数多くの似た実存があったのだ。」と書く。
――「実存」は「 Dasein(ダーザイン) 」の言い換え? いや、ハイデガーは(轟孝夫によると)、実存と現存在を使い分けている。――
 気になってしまったから自転車で津軽書房あての返信用封筒付きの依頼文書を投函してきたあとwikipedia
サーフィン。
 「実存」にあたるEXISTENCEはどうやらもともとは「EX-STENCE」。(STENCEはいまの英語のSTANCE
やSTANDのもとの言葉なので、EXISTENCEをむりやり訳すなら「はみ出した存在」。(どこから? 草葉の陰≒GEMEINSCHAFT(ゲマインシヤフト)から、)それを「いや現実的存在なんだ」と言ったのがキルケゴール。日本ではそれを二字熟語にした「実存」が汎用されるようになった。
 一方ハイデガーは、インフレを起こしたEXISTENZでは伝わらないことを、以前から使われていた普通語(かもしれない)の「DA-SEIN」(DAは「そこ≒there」。SEINは名詞でもあり、be動詞の原形でもある。)によって「現実内存在」という意味合いを伝えようとした――んじゃないか。――
 いわゆる「実存主義者」たちは,明らかに、そのハイデガーの「現存在」を自分たちのEXISTENCEに籠めつつ、ハイデガーを無視した。
 EXISTENCEを最初に実存と訳したのは九鬼周造らしい。では、DASEINを「現存在」と訳したのは誰なんだろう?
 やっぱり Dasein(ダーザイン)は「われわれ」と言い換えるほうが日本語としては自然な気がする。
 今日はもう『「秋田雨雀」紀行』に戻ります。
     ――7/13――

 『秋田雨雀紀行』読了。
 工藤正廣はこれを、中央に背を向け、「同胞」たちのほうを向いて書いている。
 工藤には『なつかしい終わりと始まり』という方言詩集もある。

まいね
まいねよー そしたごとせばァ!
そうしゃべらえれば
そしたごとしてぐなるもんだキャ

まいねよー そしたごとせばァ!
そうしゃべてける人さ  そうしゃべて貰えてして
そした声と聞きてばしネ
そしたことせば――

自分ずものの淵も深(ふけ)ぐなるんだネ

 高木恭造の『まるめろ』は中央を意識していた気がする。

          冬の月
嬶(カガ)ごと殴(ブタラ)いで戸外(オモデ)サ出ハれば
まんどろだ(,,,,,)お月様だ
吹雪(フ)イだ後(アド)の吹溜(ヤブ)こいで
何処(ド)サ行ぐどもなぐ俺(ワ)ア出ハて来たンだ

――ドしたてあたらネ憎(ニグ)ぐなるのだべナ
  憎(ニグ)がるのア愛(メゴ)がるより本気ネなるもンだネ
そして今まだ愛(メゴ)いど思ふのア ドしたごとだバ

ああ みんな吹雪(フギ)と同(オンナ)しせエ 過ぎでしまれば
まんどろだお月様だネ

 工藤正廣『みちのくの西行』(図書館にはまだない)を2800円出して読むかどうか迷っているうちに、同じ題名の本が二冊あるのに気づいた。もう一冊のほうを書いたのは先週『邪馬台国と秦王国』を読んだ後藤利雄。・・・オレはいま何かに近づきつつある。
    ――7/14――

GESCHICHTE(ゲシフテ)

 去年ウナムーノをかじったとき最初に自分で作った西文は「La(ラ) vida(ヴィーダ) es(エ) la(ラ) literatura(リタラトゥーラ)」だった。
「人生は文学だ。」
 そのときむりやりに読んでいるものにピッタリだと思った。かじっただけだけど、スペイン文学は自然を語らない。ただただニンゲンを語る。そして、「矛盾したことを言ったことのない人は、まともに考えたことのない人だ」――先月名古屋から帰ってきた卒業生にその言葉を紹介すると緊張が解けた。「いままで口をきいた人の中でいちばん〝凄い〟と感じたのは豊田章一郎さんです。あの人はフツウなんです。」――のウナムーノの「Aquella(アケラ) noche(ノーチェ) naci(ナシ) infierrno(インフィエルノ) de(デ) mi(ミ) vida(ヴィーダ) 」が辞書抜きで自然に入ってきたところで(もう良かろう。限界だ。)。「その夜、わたしの人生に地獄が生まれた。――富田先生は、それを『その夜、わたしは、わたしの地獄のなかで生まれ直した。』と意訳した。そのほうがウナムーノの言おうとしたことに近いかもしれない。――

 「われわれ人間は歴史の中で生きている」――(最初の独文はこれにしよう。)
 ドイツ語を始めて一ヶ月ちょっと。風情のなかで生き続けてきたわれわれからのドイツ人観。
 「われわれ人間」はたぶん「Wir(ヴィア) menschen(メンシェン)」。
 ――歴史は?――「Geschichte(ゲシフテ)」。
 Geは名詞や完了形を作るときの接頭語。ではschichtは?「層・膜≒積み重なっているもの」。(英語のshift?)最後のeはたぶん複数形。
 ――そうか。われわれ(風情のなかで生き続けたきた人々)は縦文字文化だから、「歴史」というとすぐ左から右へ横に平行的に推移していく年表のようなものをイメージする。(バカタレのわたくしだけ?)。でも彼らにとっての「歴史」は縦に積み重なった複雑な層のような構造なんだ。彼らは、掘り起こしていくか、断層を見つけるかしないとGeschichte(ゲシフテ)に触ることは出来ない。
 彼らの足下に幾層にも幾層にも堆積していて、その上に土足でしか立つべき場所はなく、逃れようのないもの≒Geschichte(ゲシフテ)。・・・Dasien(ダーザイン)に少し近づいたぞ。
               ――7/11――

 上を書いたあと、工藤正廣『秋田雨雀紀行』を開いた。
 傑作とか名著とかいう言葉では言い表せない「ナマ」そのものを感じる。生々しさを感じる日本語の文章なんていったいいつ以来か。少し読むと頭が勝手に動き出すから、160頁ほどの小冊子なのに今日もまた(続きはまた次回)。
 秋田雨雀の作品は文学全集にひとつふたつ収録されているだけで、単行本はまったく見つからない。本を閉じて、津軽書房に問い合わせの手紙を書き、これから投函しに行く。
 その小冊子のなかで、青森の採掘場から駆け落ちをしようとしている貞吉とおそのについて、工藤正廣は、「(秋田雨雀にとって)この地方には、たくさんの<貞吉>が犇めき挫折しているのは先刻承知のことであった。<おその>もまたまた此処では彼女一人ではなく、数多くの似た実存があったのだ。」と書く。
――「実存」は「 Dasein(ダーザイン) 」の言い換え? いや、ハイデガーは(轟孝夫によると)、実存と現存在を使い分けている。――
 気になってしまったから自転車で津軽書房あての返信用封筒付きの依頼文書を投函してきたあとwikipedia
サーフィン。
 「実存」にあたるEXISTENCEはどうやらもともとは「EX-STENCE」。(STENCEはいまの英語のSTANCE
やSTANDのもとの言葉なので、EXISTENCEをむりやり訳すなら「はみ出した存在」。(どこから? 草葉の陰≒GEMEINSCHAFT(ゲマインシヤフト)から、)それを「いや現実的存在なんだ」と言ったのがキルケゴール。日本ではそれを二字熟語にした「実存」が汎用されるようになった。
 一方ハイデガーは、インフレを起こしたEXISTENZでは伝わらないことを、以前から使われていた普通語(かもしれない)の「DA-SEIN」(DAは「そこ≒there」。SEINは名詞でもあり、be動詞の原形でもある。)によって「現実内存在」という意味合いを伝えようとした――んじゃないか。――
 いわゆる「実存主義者」たちは,明らかに、そのハイデガーの「現存在」を自分たちのEXISTENCEに籠めつつ、ハイデガーを無視した。
 EXISTENCEを最初に実存と訳したのは九鬼周造らしい。では、DASEINを「現存在」と訳したのは誰なんだろう?
 やっぱり Dasein(ダーザイン)は「われわれ」と言い換えるほうが日本語としては自然な気がする。
 今日はもう『「秋田雨雀」紀行』に戻ります。
     ――7/13――

 『秋田雨雀紀行』読了。
 工藤正廣はこれを、中央に背を向け、「同胞」たちのほうを向いて書いている。
 工藤には『なつかしい終わりと始まり』という方言詩集もある。

まいね
まいねよー そしたごとせばァ!
そうしゃべらえれば
そしたごとしてぐなるもんだキャ

まいねよー そしたごとせばァ!
そうしゃべてける人さ  そうしゃべて貰えてして
そした声と聞きてばしネ
そしたことせば――

自分ずものの淵も深(ふけ)ぐなるんだネ

 高木恭造の『まるめろ』は中央を意識していた気がする。

          冬の月
嬶(カガ)ごと殴(ブタラ)いで戸外(オモデ)サ出ハれば
まんどろだ(,,,,,)お月様だ
吹雪(フ)イだ後(アド)の吹溜(ヤブ)こいで
何処(ド)サ行ぐどもなぐ俺(ワ)ア出ハて来たンだ

――ドしたてあたらネ憎(ニグ)ぐなるのだべナ
  憎(ニグ)がるのア愛(メゴ)がるより本気ネなるもンだネ
そして今まだ愛(メゴ)いど思ふのア ドしたごとだバ

ああ みんな吹雪(フギ)と同(オンナ)しせエ 過ぎでしまれば
まんどろだお月様だネ

 工藤正廣『みちのくの西行』(図書館にはまだない)を2800円出して読むかどうか迷っているうちに、同じ題名の本が二冊あるのに気づいた。もう一冊のほうを書いたのは先週『邪馬台国と秦王国』を読んだ後藤利雄。・・・オレはいま何かに近づきつつある。
    ――7/14――

GESCHICHTE(ゲシフテ)

 去年ウナムーノをかじったとき最初に自分で作った西文は「La(ラ) vida(ヴィーダ) es(エ) la(ラ) literatura(リタラトゥーラ)」だった。
「人生は文学だ。」
 そのときむりやりに読んでいるものにピッタリだと思った。かじっただけだけど、スペイン文学は自然を語らない。ただただニンゲンを語る。そして、「矛盾したことを言ったことのない人は、まともに考えたことのない人だ」――先月名古屋から帰ってきた卒業生にその言葉を紹介すると緊張が解けた。「いままで口をきいた人の中でいちばん〝凄い〟と感じたのは豊田章一郎さんです。あの人はフツウなんです。」――のウナムーノの「Aquella(アケラ) noche(ノーチェ) naci(ナシ) infierrno(インフィエルノ) de(デ) mi(ミ) vida(ヴィーダ) 」が辞書抜きで自然に入ってきたところで(もう良かろう。限界だ。)。「その夜、わたしの人生に地獄が生まれた。――富田先生は、それを『その夜、わたしは、わたしの地獄のなかで生まれ直した。』と意訳した。そのほうがウナムーノの言おうとしたことに近いかもしれない。――

 「われわれ人間は歴史の中で生きている」――(最初の独文はこれにしよう。)
 ドイツ語を始めて一ヶ月ちょっと。風情のなかで生き続けてきたわれわれからのドイツ人観。
 「われわれ人間」はたぶん「Wir(ヴィア) menschen(メンシェン)」。
 ――歴史は?――「Geschichte(ゲシフテ)」。
 Geは名詞や完了形を作るときの接頭語。ではschichtは?「層・膜≒積み重なっているもの」。(英語のshift?)最後のeはたぶん複数形。
 ――そうか。われわれ(風情のなかで生き続けたきた人々)は縦文字文化だから、「歴史」というとすぐ左から右へ横に平行的に推移していく年表のようなものをイメージする。(バカタレのわたくしだけ?)。でも彼らにとっての「歴史」は縦に積み重なった複雑な層のような構造なんだ。彼らは、掘り起こしていくか、断層を見つけるかしないとGeschichte(ゲシフテ)に触ることは出来ない。
 彼らの足下に幾層にも幾層にも堆積していて、その上に土足でしか立つべき場所はなく、逃れようのないもの≒Geschichte(ゲシフテ)。・・・Dasien(ダーザイン)に少し近づいたぞ。
               ――7/11――

 上を書いたあと、工藤正廣『秋田雨雀紀行』を開いた。
 傑作とか名著とかいう言葉では言い表せない「ナマ」そのものを感じる。生々しさを感じる日本語の文章なんていったいいつ以来か。少し読むと頭が勝手に動き出すから、160頁ほどの小冊子なのに今日もまた(続きはまた次回)。
 秋田雨雀の作品は文学全集にひとつふたつ収録されているだけで、単行本はまったく見つからない。本を閉じて、津軽書房に問い合わせの手紙を書き、これから投函しに行く。
 その小冊子のなかで、青森の採掘場から駆け落ちをしようとしている貞吉とおそのについて、工藤正廣は、「(秋田雨雀にとって)この地方には、たくさんの<貞吉>が犇めき挫折しているのは先刻承知のことであった。<おその>もまたまた此処では彼女一人ではなく、数多くの似た実存があったのだ。」と書く。
――「実存」は「 Dasein(ダーザイン) 」の言い換え? いや、ハイデガーは(轟孝夫によると)、実存と現存在を使い分けている。――
 気になってしまったから自転車で津軽書房あての返信用封筒付きの依頼文書を投函してきたあとwikipedia
サーフィン。
 「実存」にあたるEXISTENCEはどうやらもともとは「EX-STENCE」。(STENCEはいまの英語のSTANCE
やSTANDのもとの言葉なので、EXISTENCEをむりやり訳すなら「はみ出した存在」。(どこから? 草葉の陰≒GEMEINSCHAFT(ゲマインシヤフト)から、)それを「いや現実的存在なんだ」と言ったのがキルケゴール。日本ではそれを二字熟語にした「実存」が汎用されるようになった。
 一方ハイデガーは、インフレを起こしたEXISTENZでは伝わらないことを、以前から使われていた普通語(かもしれない)の「DA-SEIN」(DAは「そこ≒there」。SEINは名詞でもあり、be動詞の原形でもある。)によって「現実内存在」という意味合いを伝えようとした――んじゃないか。――
 いわゆる「実存主義者」たちは,明らかに、そのハイデガーの「現存在」を自分たちのEXISTENCEに籠めつつ、ハイデガーを無視した。
 EXISTENCEを最初に実存と訳したのは九鬼周造らしい。では、DASEINを「現存在」と訳したのは誰なんだろう?
 やっぱり Dasein(ダーザイン)は「われわれ」と言い換えるほうが日本語としては自然な気がする。
 今日はもう『「秋田雨雀」紀行』に戻ります。
     ――7/13――

 『秋田雨雀紀行』読了。
 工藤正廣はこれを、中央に背を向け、「同胞」たちのほうを向いて書いている。
 工藤には『なつかしい終わりと始まり』という方言詩集もある。

まいね
まいねよー そしたごとせばァ!
そうしゃべらえれば
そしたごとしてぐなるもんだキャ

まいねよー そしたごとせばァ!
そうしゃべてける人さ  そうしゃべて貰えてして
そした声と聞きてばしネ
そしたことせば――

自分ずものの淵も深(ふけ)ぐなるんだネ

 高木恭造の『まるめろ』は中央を意識していた気がする。

          冬の月
嬶(カガ)ごと殴(ブタラ)いで戸外(オモデ)サ出ハれば
まんどろだ(,,,,,)お月様だ
吹雪(フ)イだ後(アド)の吹溜(ヤブ)こいで
何処(ド)サ行ぐどもなぐ俺(ワ)ア出ハて来たンだ

――ドしたてあたらネ憎(ニグ)ぐなるのだべナ
  憎(ニグ)がるのア愛(メゴ)がるより本気ネなるもンだネ
そして今まだ愛(メゴ)いど思ふのア ドしたごとだバ

ああ みんな吹雪(フギ)と同(オンナ)しせエ 過ぎでしまれば
まんどろだお月様だネ

 工藤正廣『みちのくの西行』(図書館にはまだない)を2800円出して読むかどうか迷っているうちに、同じ題名の本が二冊あるのに気づいた。もう一冊のほうを書いたのは先週『邪馬台国と秦王国』を読んだ後藤利雄。・・・オレはいま何かに近づきつつある。
    ――7/14――

GESCHICHTE(ゲシフテ)

 去年ウナムーノをかじったとき最初に自分で作った西文は「La(ラ) vida(ヴィーダ) es(エ) la(ラ) literatura(リタラトゥーラ)」だった。
「人生は文学だ。」
 そのときむりやりに読んでいるものにピッタリだと思った。かじっただけだけど、スペイン文学は自然を語らない。ただただニンゲンを語る。そして、「矛盾したことを言ったことのない人は、まともに考えたことのない人だ」――先月名古屋から帰ってきた卒業生にその言葉を紹介すると緊張が解けた。「いままで口をきいた人の中でいちばん〝凄い〟と感じたのは豊田章一郎さんです。あの人はフツウなんです。」――のウナムーノの「Aquella(アケラ) noche(ノーチェ) naci(ナシ) infierrno(インフィエルノ) de(デ) mi(ミ) vida(ヴィーダ) 」が辞書抜きで自然に入ってきたところで(もう良かろう。限界だ。)。「その夜、わたしの人生に地獄が生まれた。――富田先生は、それを『その夜、わたしは、わたしの地獄のなかで生まれ直した。』と意訳した。そのほうがウナムーノの言おうとしたことに近いかもしれない。――

 「われわれ人間は歴史の中で生きている」――(最初の独文はこれにしよう。)
 ドイツ語を始めて一ヶ月ちょっと。風情のなかで生き続けてきたわれわれからのドイツ人観。
 「われわれ人間」はたぶん「Wir(ヴィア) menschen(メンシェン)」。
 ――歴史は?――「Geschichte(ゲシフテ)」。
 Geは名詞や完了形を作るときの接頭語。ではschichtは?「層・膜≒積み重なっているもの」。(英語のshift?)最後のeはたぶん複数形。
 ――そうか。われわれ(風情のなかで生き続けたきた人々)は縦文字文化だから、「歴史」というとすぐ左から右へ横に平行的に推移していく年表のようなものをイメージする。(バカタレのわたくしだけ?)。でも彼らにとっての「歴史」は縦に積み重なった複雑な層のような構造なんだ。彼らは、掘り起こしていくか、断層を見つけるかしないとGeschichte(ゲシフテ)に触ることは出来ない。
 彼らの足下に幾層にも幾層にも堆積していて、その上に土足でしか立つべき場所はなく、逃れようのないもの≒Geschichte(ゲシフテ)。・・・Dasien(ダーザイン)に少し近づいたぞ。
               ――7/11――

 上を書いたあと、工藤正廣『秋田雨雀紀行』を開いた。
 傑作とか名著とかいう言葉では言い表せない「ナマ」そのものを感じる。生々しさを感じる日本語の文章なんていったいいつ以来か。少し読むと頭が勝手に動き出すから、160頁ほどの小冊子なのに今日もまた(続きはまた次回)。
 秋田雨雀の作品は文学全集にひとつふたつ収録されているだけで、単行本はまったく見つからない。本を閉じて、津軽書房に問い合わせの手紙を書き、これから投函しに行く。
 その小冊子のなかで、青森の採掘場から駆け落ちをしようとしている貞吉とおそのについて、工藤正廣は、「(秋田雨雀にとって)この地方には、たくさんの<貞吉>が犇めき挫折しているのは先刻承知のことであった。<おその>もまたまた此処では彼女一人ではなく、数多くの似た実存があったのだ。」と書く。
――「実存」は「 Dasein(ダーザイン) 」の言い換え? いや、ハイデガーは(轟孝夫によると)、実存と現存在を使い分けている。――
 気になってしまったから自転車で津軽書房あての返信用封筒付きの依頼文書を投函してきたあとwikipedia
サーフィン。
 「実存」にあたるEXISTENCEはどうやらもともとは「EX-STENCE」。(STENCEはいまの英語のSTANCE
やSTANDのもとの言葉なので、EXISTENCEをむりやり訳すなら「はみ出した存在」。(どこから? 草葉の陰≒GEMEINSCHAFT(ゲマインシヤフト)から、)それを「いや現実的存在なんだ」と言ったのがキルケゴール。日本ではそれを二字熟語にした「実存」が汎用されるようになった。
 一方ハイデガーは、インフレを起こしたEXISTENZでは伝わらないことを、以前から使われていた普通語(かもしれない)の「DA-SEIN」(DAは「そこ≒there」。SEINは名詞でもあり、be動詞の原形でもある。)によって「現実内存在」という意味合いを伝えようとした――んじゃないか。――
 いわゆる「実存主義者」たちは,明らかに、そのハイデガーの「現存在」を自分たちのEXISTENCEに籠めつつ、ハイデガーを無視した。
 EXISTENCEを最初に実存と訳したのは九鬼周造らしい。では、DASEINを「現存在」と訳したのは誰なんだろう?
 やっぱり Dasein(ダーザイン)は「われわれ」と言い換えるほうが日本語としては自然な気がする。
 今日はもう『「秋田雨雀」紀行』に戻ります。
     ――7/13――

 『秋田雨雀紀行』読了。
 工藤正廣はこれを、中央に背を向け、「同胞」たちのほうを向いて書いている。
 工藤には『なつかしい終わりと始まり』という方言詩集もある。

まいね
まいねよー そしたごとせばァ!
そうしゃべらえれば
そしたごとしてぐなるもんだキャ

まいねよー そしたごとせばァ!
そうしゃべてける人さ  そうしゃべて貰えてして
そした声と聞きてばしネ
そしたことせば――

自分ずものの淵も深(ふけ)ぐなるんだネ

 高木恭造の『まるめろ』は中央を意識していた気がする。

          冬の月
嬶(カガ)ごと殴(ブタラ)いで戸外(オモデ)サ出ハれば
まんどろだ(,,,,,)お月様だ
吹雪(フ)イだ後(アド)の吹溜(ヤブ)こいで
何処(ド)サ行ぐどもなぐ俺(ワ)ア出ハて来たンだ

――ドしたてあたらネ憎(ニグ)ぐなるのだべナ
  憎(ニグ)がるのア愛(メゴ)がるより本気ネなるもンだネ
そして今まだ愛(メゴ)いど思ふのア ドしたごとだバ

ああ みんな吹雪(フギ)と同(オンナ)しせエ 過ぎでしまれば
まんどろだお月様だネ

 工藤正廣『みちのくの西行』(図書館にはまだない)を2800円出して読むかどうか迷っているうちに、同じ題名の本が二冊あるのに気づいた。もう一冊のほうを書いたのは先週『邪馬台国と秦王国』を読んだ後藤利雄。・・・オレはいま何かに近づきつつある。
    ――7/14――

GESCHICHTE(ゲシフテ)

 去年ウナムーノをかじったとき最初に自分で作った西文は「La(ラ) vida(ヴィーダ) es(エ) la(ラ) literatura(リタラトゥーラ)」だった。
「人生は文学だ。」
 そのときむりやりに読んでいるものにピッタリだと思った。かじっただけだけど、スペイン文学は自然を語らない。ただただニンゲンを語る。そして、「矛盾したことを言ったことのない人は、まともに考えたことのない人だ」――先月名古屋から帰ってきた卒業生にその言葉を紹介すると緊張が解けた。「いままで口をきいた人の中でいちばん〝凄い〟と感じたのは豊田章一郎さんです。あの人はフツウなんです。」――のウナムーノの「Aquella(アケラ) noche(ノーチェ) naci(ナシ) infierrno(インフィエルノ) de(デ) mi(ミ) vida(ヴィーダ) 」が辞書抜きで自然に入ってきたところで(もう良かろう。限界だ。)。「その夜、わたしの人生に地獄が生まれた。――富田先生は、それを『その夜、わたしは、わたしの地獄のなかで生まれ直した。』と意訳した。そのほうがウナムーノの言おうとしたことに近いかもしれない。――

 「われわれ人間は歴史の中で生きている」――(最初の独文はこれにしよう。)
 ドイツ語を始めて一ヶ月ちょっと。風情のなかで生き続けてきたわれわれからのドイツ人観。
 「われわれ人間」はたぶん「Wir(ヴィア) menschen(メンシェン)」。
 ――歴史は?――「Geschichte(ゲシフテ)」。
 Geは名詞や完了形を作るときの接頭語。ではschichtは?「層・膜≒積み重なっているもの」。(英語のshift?)最後のeはたぶん複数形。
 ――そうか。われわれ(風情のなかで生き続けたきた人々)は縦文字文化だから、「歴史」というとすぐ左から右へ横に平行的に推移していく年表のようなものをイメージする。(バカタレのわたくしだけ?)。でも彼らにとっての「歴史」は縦に積み重なった複雑な層のような構造なんだ。彼らは、掘り起こしていくか、断層を見つけるかしないとGeschichte(ゲシフテ)に触ることは出来ない。
 彼らの足下に幾層にも幾層にも堆積していて、その上に土足でしか立つべき場所はなく、逃れようのないもの≒Geschichte(ゲシフテ)。・・・Dasien(ダーザイン)に少し近づいたぞ。
               ――7/11――

 上を書いたあと、工藤正廣『秋田雨雀紀行』を開いた。
 傑作とか名著とかいう言葉では言い表せない「ナマ」そのものを感じる。生々しさを感じる日本語の文章なんていったいいつ以来か。少し読むと頭が勝手に動き出すから、160頁ほどの小冊子なのに今日もまた(続きはまた次回)。
 秋田雨雀の作品は文学全集にひとつふたつ収録されているだけで、単行本はまったく見つからない。本を閉じて、津軽書房に問い合わせの手紙を書き、これから投函しに行く。
 その小冊子のなかで、青森の採掘場から駆け落ちをしようとしている貞吉とおそのについて、工藤正廣は、「(秋田雨雀にとって)この地方には、たくさんの<貞吉>が犇めき挫折しているのは先刻承知のことであった。<おその>もまたまた此処では彼女一人ではなく、数多くの似た実存があったのだ。」と書く。
――「実存」は「 Dasein(ダーザイン) 」の言い換え? いや、ハイデガーは(轟孝夫によると)、実存と現存在を使い分けている。――
 気になってしまったから自転車で津軽書房あての返信用封筒付きの依頼文書を投函してきたあとwikipedia
サーフィン。
 「実存」にあたるEXISTENCEはどうやらもともとは「EX-STENCE」。(STENCEはいまの英語のSTANCE
やSTANDのもとの言葉なので、EXISTENCEをむりやり訳すなら「はみ出した存在」。(どこから? 草葉の陰≒GEMEINSCHAFT(ゲマインシヤフト)から、)それを「いや現実的存在なんだ」と言ったのがキルケゴール。日本ではそれを二字熟語にした「実存」が汎用されるようになった。
 一方ハイデガーは、インフレを起こしたEXISTENZでは伝わらないことを、以前から使われていた普通語(かもしれない)の「DA-SEIN」(DAは「そこ≒there」。SEINは名詞でもあり、be動詞の原形でもある。)によって「現実内存在」という意味合いを伝えようとした――んじゃないか。――
 いわゆる「実存主義者」たちは,明らかに、そのハイデガーの「現存在」を自分たちのEXISTENCEに籠めつつ、ハイデガーを無視した。
 EXISTENCEを最初に実存と訳したのは九鬼周造らしい。では、DASEINを「現存在」と訳したのは誰なんだろう?
 やっぱり Dasein(ダーザイン)は「われわれ」と言い換えるほうが日本語としては自然な気がする。
 今日はもう『「秋田雨雀」紀行』に戻ります。
     ――7/13――

 『秋田雨雀紀行』読了。
 工藤正廣はこれを、中央に背を向け、「同胞」たちのほうを向いて書いている。
 工藤には『なつかしい終わりと始まり』という方言詩集もある。

まいね
まいねよー そしたごとせばァ!
そうしゃべらえれば
そしたごとしてぐなるもんだキャ

まいねよー そしたごとせばァ!
そうしゃべてける人さ  そうしゃべて貰えてして
そした声と聞きてばしネ
そしたことせば――

自分ずものの淵も深(ふけ)ぐなるんだネ

 高木恭造の『まるめろ』は中央を意識していた気がする。

          冬の月
嬶(カガ)ごと殴(ブタラ)いで戸外(オモデ)サ出ハれば
まんどろだ(,,,,,)お月様だ
吹雪(フ)イだ後(アド)の吹溜(ヤブ)こいで
何処(ド)サ行ぐどもなぐ俺(ワ)ア出ハて来たンだ

――ドしたてあたらネ憎(ニグ)ぐなるのだべナ
  憎(ニグ)がるのア愛(メゴ)がるより本気ネなるもンだネ
そして今まだ愛(メゴ)いど思ふのア ドしたごとだバ

ああ みんな吹雪(フギ)と同(オンナ)しせエ 過ぎでしまれば
まんどろだお月様だネ

 工藤正廣『みちのくの西行』(図書館にはまだない)を2800円出して読むかどうか迷っているうちに、同じ題名の本が二冊あるのに気づいた。もう一冊のほうを書いたのは先週『邪馬台国と秦王国』を読んだ後藤利雄。・・・オレはいま何かに近づきつつある。
    ――7/14――

GESCHICHTE(ゲシフテ)

 去年ウナムーノをかじったとき最初に自分で作った西文は「La(ラ) vida(ヴィーダ) es(エ) la(ラ) literatura(リタラトゥーラ)」だった。
「人生は文学だ。」
 そのときむりやりに読んでいるものにピッタリだと思った。かじっただけだけど、スペイン文学は自然を語らない。ただただニンゲンを語る。そして、「矛盾したことを言ったことのない人は、まともに考えたことのない人だ」――先月名古屋から帰ってきた卒業生にその言葉を紹介すると緊張が解けた。「いままで口をきいた人の中でいちばん〝凄い〟と感じたのは豊田章一郎さんです。あの人はフツウなんです。」――のウナムーノの「Aquella(アケラ) noche(ノーチェ) naci(ナシ) infierrno(インフィエルノ) de(デ) mi(ミ) vida(ヴィーダ) 」が辞書抜きで自然に入ってきたところで(もう良かろう。限界だ。)。「その夜、わたしの人生に地獄が生まれた。――富田先生は、それを『その夜、わたしは、わたしの地獄のなかで生まれ直した。』と意訳した。そのほうがウナムーノの言おうとしたことに近いかもしれない。――

 「われわれ人間は歴史の中で生きている」――(最初の独文はこれにしよう。)
 ドイツ語を始めて一ヶ月ちょっと。風情のなかで生き続けてきたわれわれからのドイツ人観。
 「われわれ人間」はたぶん「Wir(ヴィア) menschen(メンシェン)」。
 ――歴史は?――「Geschichte(ゲシフテ)」。
 Geは名詞や完了形を作るときの接頭語。ではschichtは?「層・膜≒積み重なっているもの」。(英語のshift?)最後のeはたぶん複数形。
 ――そうか。われわれ(風情のなかで生き続けたきた人々)は縦文字文化だから、「歴史」というとすぐ左から右へ横に平行的に推移していく年表のようなものをイメージする。(バカタレのわたくしだけ?)。でも彼らにとっての「歴史」は縦に積み重なった複雑な層のような構造なんだ。彼らは、掘り起こしていくか、断層を見つけるかしないとGeschichte(ゲシフテ)に触ることは出来ない。
 彼らの足下に幾層にも幾層にも堆積していて、その上に土足でしか立つべき場所はなく、逃れようのないもの≒Geschichte(ゲシフテ)。・・・Dasien(ダーザイン)に少し近づいたぞ。
               ――7/11――

 上を書いたあと、工藤正廣『秋田雨雀紀行』を開いた。
 傑作とか名著とかいう言葉では言い表せない「ナマ」そのものを感じる。生々しさを感じる日本語の文章なんていったいいつ以来か。少し読むと頭が勝手に動き出すから、160頁ほどの小冊子なのに今日もまた(続きはまた次回)。
 秋田雨雀の作品は文学全集にひとつふたつ収録されているだけで、単行本はまったく見つからない。本を閉じて、津軽書房に問い合わせの手紙を書き、これから投函しに行く。
 その小冊子のなかで、青森の採掘場から駆け落ちをしようとしている貞吉とおそのについて、工藤正廣は、「(秋田雨雀にとって)この地方には、たくさんの<貞吉>が犇めき挫折しているのは先刻承知のことであった。<おその>もまたまた此処では彼女一人ではなく、数多くの似た実存があったのだ。」と書く。
――「実存」は「 Dasein(ダーザイン) 」の言い換え? いや、ハイデガーは(轟孝夫によると)、実存と現存在を使い分けている。――
 気になってしまったから自転車で津軽書房あての返信用封筒付きの依頼文書を投函してきたあとwikipedia
サーフィン。
 「実存」にあたるEXISTENCEはどうやらもともとは「EX-STENCE」。(STENCEはいまの英語のSTANCE
やSTANDのもとの言葉なので、EXISTENCEをむりやり訳すなら「はみ出した存在」。(どこから? 草葉の陰≒GEMEINSCHAFT(ゲマインシヤフト)から、)それを「いや現実的存在なんだ」と言ったのがキルケゴール。日本ではそれを二字熟語にした「実存」が汎用されるようになった。
 一方ハイデガーは、インフレを起こしたEXISTENZでは伝わらないことを、以前から使われていた普通語(かもしれない)の「DA-SEIN」(DAは「そこ≒there」。SEINは名詞でもあり、be動詞の原形でもある。)によって「現実内存在」という意味合いを伝えようとした――んじゃないか。――
 いわゆる「実存主義者」たちは,明らかに、そのハイデガーの「現存在」を自分たちのEXISTENCEに籠めつつ、ハイデガーを無視した。
 EXISTENCEを最初に実存と訳したのは九鬼周造らしい。では、DASEINを「現存在」と訳したのは誰なんだろう?
 やっぱり Dasein(ダーザイン)は「われわれ」と言い換えるほうが日本語としては自然な気がする。
 今日はもう『「秋田雨雀」紀行』に戻ります。
     ――7/13――

 『秋田雨雀紀行』読了。
 工藤正廣はこれを、中央に背を向け、「同胞」たちのほうを向いて書いている。
 工藤には『なつかしい終わりと始まり』という方言詩集もある。

まいね
まいねよー そしたごとせばァ!
そうしゃべらえれば
そしたごとしてぐなるもんだキャ

まいねよー そしたごとせばァ!
そうしゃべてける人さ  そうしゃべて貰えてして
そした声と聞きてばしネ
そしたことせば――

自分ずものの淵も深(ふけ)ぐなるんだネ

 高木恭造の『まるめろ』は中央を意識していた気がする。

          冬の月
嬶(カガ)ごと殴(ブタラ)いで戸外(オモデ)サ出ハれば
まんどろだ(,,,,,)お月様だ
吹雪(フ)イだ後(アド)の吹溜(ヤブ)こいで
何処(ド)サ行ぐどもなぐ俺(ワ)ア出ハて来たンだ

――ドしたてあたらネ憎(ニグ)ぐなるのだべナ
  憎(ニグ)がるのア愛(メゴ)がるより本気ネなるもンだネ
そして今まだ愛(メゴ)いど思ふのア ドしたごとだバ

ああ みんな吹雪(フギ)と同(オンナ)しせエ 過ぎでしまれば
まんどろだお月様だネ

 工藤正廣『みちのくの西行』(図書館にはまだない)を2800円出して読むかどうか迷っているうちに、同じ題名の本が二冊あるのに気づいた。もう一冊のほうを書いたのは先週『邪馬台国と秦王国』を読んだ後藤利雄。・・・オレはいま何かに近づきつつある。
    ――7/14――

GESCHICHTE(ゲシフテ)

 去年ウナムーノをかじったとき最初に自分で作った西文は「La(ラ) vida(ヴィーダ) es(エ) la(ラ) literatura(リタラトゥーラ)」だった。
「人生は文学だ。」
 そのときむりやりに読んでいるものにピッタリだと思った。かじっただけだけど、スペイン文学は自然を語らない。ただただニンゲンを語る。そして、「矛盾したことを言ったことのない人は、まともに考えたことのない人だ」――先月名古屋から帰ってきた卒業生にその言葉を紹介すると緊張が解けた。「いままで口をきいた人の中でいちばん〝凄い〟と感じたのは豊田章一郎さんです。あの人はフツウなんです。」――のウナムーノの「Aquella(アケラ) noche(ノーチェ) naci(ナシ) infierrno(インフィエルノ) de(デ) mi(ミ) vida(ヴィーダ) 」が辞書抜きで自然に入ってきたところで(もう良かろう。限界だ。)。「その夜、わたしの人生に地獄が生まれた。――富田先生は、それを『その夜、わたしは、わたしの地獄のなかで生まれ直した。』と意訳した。そのほうがウナムーノの言おうとしたことに近いかもしれない。――

 「われわれ人間は歴史の中で生きている」――(最初の独文はこれにしよう。)
 ドイツ語を始めて一ヶ月ちょっと。風情のなかで生き続けてきたわれわれからのドイツ人観。
 「われわれ人間」はたぶん「Wir(ヴィア) menschen(メンシェン)」。
 ――歴史は?――「Geschichte(ゲシフテ)」。
 Geは名詞や完了形を作るときの接頭語。ではschichtは?「層・膜≒積み重なっているもの」。(英語のshift?)最後のeはたぶん複数形。
 ――そうか。われわれ(風情のなかで生き続けたきた人々)は縦文字文化だから、「歴史」というとすぐ左から右へ横に平行的に推移していく年表のようなものをイメージする。(バカタレのわたくしだけ?)。でも彼らにとっての「歴史」は縦に積み重なった複雑な層のような構造なんだ。彼らは、掘り起こしていくか、断層を見つけるかしないとGeschichte(ゲシフテ)に触ることは出来ない。
 彼らの足下に幾層にも幾層にも堆積していて、その上に土足でしか立つべき場所はなく、逃れようのないもの≒Geschichte(ゲシフテ)。・・・Dasien(ダーザイン)に少し近づいたぞ。
               ――7/11――

 上を書いたあと、工藤正廣『秋田雨雀紀行』を開いた。
 傑作とか名著とかいう言葉では言い表せない「ナマ」そのものを感じる。生々しさを感じる日本語の文章なんていったいいつ以来か。少し読むと頭が勝手に動き出すから、160頁ほどの小冊子なのに今日もまた(続きはまた次回)。
 秋田雨雀の作品は文学全集にひとつふたつ収録されているだけで、単行本はまったく見つからない。本を閉じて、津軽書房に問い合わせの手紙を書き、これから投函しに行く。
 その小冊子のなかで、青森の採掘場から駆け落ちをしようとしている貞吉とおそのについて、工藤正廣は、「(秋田雨雀にとって)この地方には、たくさんの<貞吉>が犇めき挫折しているのは先刻承知のことであった。<おその>もまたまた此処では彼女一人ではなく、数多くの似た実存があったのだ。」と書く。
――「実存」は「 Dasein(ダーザイン) 」の言い換え? いや、ハイデガーは(轟孝夫によると)、実存と現存在を使い分けている。――
 気になってしまったから自転車で津軽書房あての返信用封筒付きの依頼文書を投函してきたあとwikipedia
サーフィン。
 「実存」にあたるEXISTENCEはどうやらもともとは「EX-STENCE」。(STENCEはいまの英語のSTANCE
やSTANDのもとの言葉なので、EXISTENCEをむりやり訳すなら「はみ出した存在」。(どこから? 草葉の陰≒GEMEINSCHAFT(ゲマインシヤフト)から、)それを「いや現実的存在なんだ」と言ったのがキルケゴール。日本ではそれを二字熟語にした「実存」が汎用されるようになった。
 一方ハイデガーは、インフレを起こしたEXISTENZでは伝わらないことを、以前から使われていた普通語(かもしれない)の「DA-SEIN」(DAは「そこ≒there」。SEINは名詞でもあり、be動詞の原形でもある。)によって「現実内存在」という意味合いを伝えようとした――んじゃないか。――
 いわゆる「実存主義者」たちは,明らかに、そのハイデガーの「現存在」を自分たちのEXISTENCEに籠めつつ、ハイデガーを無視した。
 EXISTENCEを最初に実存と訳したのは九鬼周造らしい。では、DASEINを「現存在」と訳したのは誰なんだろう?
 やっぱり Dasein(ダーザイン)は「われわれ」と言い換えるほうが日本語としては自然な気がする。
 今日はもう『「秋田雨雀」紀行』に戻ります。
     ――7/13――

 『秋田雨雀紀行』読了。
 工藤正廣はこれを、中央に背を向け、「同胞」たちのほうを向いて書いている。
 工藤には『なつかしい終わりと始まり』という方言詩集もある。

まいね
まいねよー そしたごとせばァ!
そうしゃべらえれば
そしたごとしてぐなるもんだキャ

まいねよー そしたごとせばァ!
そうしゃべてける人さ  そうしゃべて貰えてして
そした声と聞きてばしネ
そしたことせば――

自分ずものの淵も深(ふけ)ぐなるんだネ

 高木恭造の『まるめろ』は中央を意識していた気がする。

          冬の月
嬶(カガ)ごと殴(ブタラ)いで戸外(オモデ)サ出ハれば
まんどろだ(,,,,,)お月様だ
吹雪(フ)イだ後(アド)の吹溜(ヤブ)こいで
何処(ド)サ行ぐどもなぐ俺(ワ)ア出ハて来たンだ

――ドしたてあたらネ憎(ニグ)ぐなるのだべナ
  憎(ニグ)がるのア愛(メゴ)がるより本気ネなるもンだネ
そして今まだ愛(メゴ)いど思ふのア ドしたごとだバ

ああ みんな吹雪(フギ)と同(オンナ)しせエ 過ぎでしまれば
まんどろだお月様だネ

 工藤正廣『みちのくの西行』(図書館にはまだない)を2800円出して読むかどうか迷っているうちに、同じ題名の本が二冊あるのに気づいた。もう一冊のほうを書いたのは先週『邪馬台国と秦王国』を読んだ後藤利雄。・・・オレはいま何かに近づきつつある。
    ――7/14――

GESCHICHTE(ゲシフテ)

 去年ウナムーノをかじったとき最初に自分で作った西文は「La(ラ) vida(ヴィーダ) es(エ) la(ラ) literatura(リタラトゥーラ)」だった。
「人生は文学だ。」
 そのときむりやりに読んでいるものにピッタリだと思った。かじっただけだけど、スペイン文学は自然を語らない。ただただニンゲンを語る。そして、「矛盾したことを言ったことのない人は、まともに考えたことのない人だ」――先月名古屋から帰ってきた卒業生にその言葉を紹介すると緊張が解けた。「いままで口をきいた人の中でいちばん〝凄い〟と感じたのは豊田章一郎さんです。あの人はフツウなんです。」――のウナムーノの「Aquella(アケラ) noche(ノーチェ) naci(ナシ) infierrno(インフィエルノ) de(デ) mi(ミ) vida(ヴィーダ) 」が辞書抜きで自然に入ってきたところで(もう良かろう。限界だ。)。「その夜、わたしの人生に地獄が生まれた。――富田先生は、それを『その夜、わたしは、わたしの地獄のなかで生まれ直した。』と意訳した。そのほうがウナムーノの言おうとしたことに近いかもしれない。――

 「われわれ人間は歴史の中で生きている」――(最初の独文はこれにしよう。)
 ドイツ語を始めて一ヶ月ちょっと。風情のなかで生き続けてきたわれわれからのドイツ人観。
 「われわれ人間」はたぶん「Wir(ヴィア) menschen(メンシェン)」。
 ――歴史は?――「Geschichte(ゲシフテ)」。
 Geは名詞や完了形を作るときの接頭語。ではschichtは?「層・膜≒積み重なっているもの」。(英語のshift?)最後のeはたぶん複数形。
 ――そうか。われわれ(風情のなかで生き続けたきた人々)は縦文字文化だから、「歴史」というとすぐ左から右へ横に平行的に推移していく年表のようなものをイメージする。(バカタレのわたくしだけ?)。でも彼らにとっての「歴史」は縦に積み重なった複雑な層のような構造なんだ。彼らは、掘り起こしていくか、断層を見つけるかしないとGeschichte(ゲシフテ)に触ることは出来ない。
 彼らの足下に幾層にも幾層にも堆積していて、その上に土足でしか立つべき場所はなく、逃れようのないもの≒Geschichte(ゲシフテ)。・・・Dasien(ダーザイン)に少し近づいたぞ。
               ――7/11――

 上を書いたあと、工藤正廣『秋田雨雀紀行』を開いた。
 傑作とか名著とかいう言葉では言い表せない「ナマ」そのものを感じる。生々しさを感じる日本語の文章なんていったいいつ以来か。少し読むと頭が勝手に動き出すから、160頁ほどの小冊子なのに今日もまた(続きはまた次回)。
 秋田雨雀の作品は文学全集にひとつふたつ収録されているだけで、単行本はまったく見つからない。本を閉じて、津軽書房に問い合わせの手紙を書き、これから投函しに行く。
 その小冊子のなかで、青森の採掘場から駆け落ちをしようとしている貞吉とおそのについて、工藤正廣は、「(秋田雨雀にとって)この地方には、たくさんの<貞吉>が犇めき挫折しているのは先刻承知のことであった。<おその>もまたまた此処では彼女一人ではなく、数多くの似た実存があったのだ。」と書く。
――「実存」は「 Dasein(ダーザイン) 」の言い換え? いや、ハイデガーは(轟孝夫によると)、実存と現存在を使い分けている。――
 気になってしまったから自転車で津軽書房あての返信用封筒付きの依頼文書を投函してきたあとwikipedia
サーフィン。
 「実存」にあたるEXISTENCEはどうやらもともとは「EX-STENCE」。(STENCEはいまの英語のSTANCE
やSTANDのもとの言葉なので、EXISTENCEをむりやり訳すなら「はみ出した存在」。(どこから? 草葉の陰≒GEMEINSCHAFT(ゲマインシヤフト)から、)それを「いや現実的存在なんだ」と言ったのがキルケゴール。日本ではそれを二字熟語にした「実存」が汎用されるようになった。
 一方ハイデガーは、インフレを起こしたEXISTENZでは伝わらないことを、以前から使われていた普通語(かもしれない)の「DA-SEIN」(DAは「そこ≒there」。SEINは名詞でもあり、be動詞の原形でもある。)によって「現実内存在」という意味合いを伝えようとした――んじゃないか。――
 いわゆる「実存主義者」たちは,明らかに、そのハイデガーの「現存在」を自分たちのEXISTENCEに籠めつつ、ハイデガーを無視した。
 EXISTENCEを最初に実存と訳したのは九鬼周造らしい。では、DASEINを「現存在」と訳したのは誰なんだろう?
 やっぱり Dasein(ダーザイン)は「われわれ」と言い換えるほうが日本語としては自然な気がする。
 今日はもう『「秋田雨雀」紀行』に戻ります。
     ――7/13――

 『秋田雨雀紀行』読了。
 工藤正廣はこれを、中央に背を向け、「同胞」たちのほうを向いて書いている。
 工藤には『なつかしい終わりと始まり』という方言詩集もある。

まいね
まいねよー そしたごとせばァ!
そうしゃべらえれば
そしたごとしてぐなるもんだキャ

まいねよー そしたごとせばァ!
そうしゃべてける人さ  そうしゃべて貰えてして
そした声と聞きてばしネ
そしたことせば――

自分ずものの淵も深(ふけ)ぐなるんだネ

 高木恭造の『まるめろ』は中央を意識していた気がする。

          冬の月
嬶(カガ)ごと殴(ブタラ)いで戸外(オモデ)サ出ハれば
まんどろだ(,,,,,)お月様だ
吹雪(フ)イだ後(アド)の吹溜(ヤブ)こいで
何処(ド)サ行ぐどもなぐ俺(ワ)ア出ハて来たンだ

――ドしたてあたらネ憎(ニグ)ぐなるのだべナ
  憎(ニグ)がるのア愛(メゴ)がるより本気ネなるもンだネ
そして今まだ愛(メゴ)いど思ふのア ドしたごとだバ

ああ みんな吹雪(フギ)と同(オンナ)しせエ 過ぎでしまれば
まんどろだお月様だネ

 工藤正廣『みちのくの西行』(図書館にはまだない)を2800円出して読むかどうか迷っているうちに、同じ題名の本が二冊あるのに気づいた。もう一冊のほうを書いたのは先週『邪馬台国と秦王国』を読んだ後藤利雄。・・・オレはいま何かに近づきつつある。
    ――7/14――

GESCHICHTE(ゲシフテ)

 去年ウナムーノをかじったとき最初に自分で作った西文は「La(ラ) vida(ヴィーダ) es(エ) la(ラ) literatura(リタラトゥーラ)」だった。
「人生は文学だ。」
 そのときむりやりに読んでいるものにピッタリだと思った。かじっただけだけど、スペイン文学は自然を語らない。ただただニンゲンを語る。そして、「矛盾したことを言ったことのない人は、まともに考えたことのない人だ」――先月名古屋から帰ってきた卒業生にその言葉を紹介すると緊張が解けた。「いままで口をきいた人の中でいちばん〝凄い〟と感じたのは豊田章一郎さんです。あの人はフツウなんです。」――のウナムーノの「Aquella(アケラ) noche(ノーチェ) naci(ナシ) infierrno(インフィエルノ) de(デ) mi(ミ) vida(ヴィーダ) 」が辞書抜きで自然に入ってきたところで(もう良かろう。限界だ。)。「その夜、わたしの人生に地獄が生まれた。――富田先生は、それを『その夜、わたしは、わたしの地獄のなかで生まれ直した。』と意訳した。そのほうがウナムーノの言おうとしたことに近いかもしれない。――

 「われわれ人間は歴史の中で生きている」――(最初の独文はこれにしよう。)
 ドイツ語を始めて一ヶ月ちょっと。風情のなかで生き続けてきたわれわれからのドイツ人観。
 「われわれ人間」はたぶん「Wir(ヴィア) menschen(メンシェン)」。
 ――歴史は?――「Geschichte(ゲシフテ)」。
 Geは名詞や完了形を作るときの接頭語。ではschichtは?「層・膜≒積み重なっているもの」。(英語のshift?)最後のeはたぶん複数形。
 ――そうか。われわれ(風情のなかで生き続けたきた人々)は縦文字文化だから、「歴史」というとすぐ左から右へ横に平行的に推移していく年表のようなものをイメージする。(バカタレのわたくしだけ?)。でも彼らにとっての「歴史」は縦に積み重なった複雑な層のような構造なんだ。彼らは、掘り起こしていくか、断層を見つけるかしないとGeschichte(ゲシフテ)に触ることは出来ない。
 彼らの足下に幾層にも幾層にも堆積していて、その上に土足でしか立つべき場所はなく、逃れようのないもの≒Geschichte(ゲシフテ)。・・・Dasien(ダーザイン)に少し近づいたぞ。
               ――7/11――

 上を書いたあと、工藤正廣『秋田雨雀紀行』を開いた。
 傑作とか名著とかいう言葉では言い表せない「ナマ」そのものを感じる。生々しさを感じる日本語の文章なんていったいいつ以来か。少し読むと頭が勝手に動き出すから、160頁ほどの小冊子なのに今日もまた(続きはまた次回)。
 秋田雨雀の作品は文学全集にひとつふたつ収録されているだけで、単行本はまったく見つからない。本を閉じて、津軽書房に問い合わせの手紙を書き、これから投函しに行く。
 その小冊子のなかで、青森の採掘場から駆け落ちをしようとしている貞吉とおそのについて、工藤正廣は、「(秋田雨雀にとって)この地方には、たくさんの<貞吉>が犇めき挫折しているのは先刻承知のことであった。<おその>もまたまた此処では彼女一人ではなく、数多くの似た実存があったのだ。」と書く。
――「実存」は「 Dasein(ダーザイン) 」の言い換え? いや、ハイデガーは(轟孝夫によると)、実存と現存在を使い分けている。――
 気になってしまったから自転車で津軽書房あての返信用封筒付きの依頼文書を投函してきたあとwikipedia
サーフィン。
 「実存」にあたるEXISTENCEはどうやらもともとは「EX-STENCE」。(STENCEはいまの英語のSTANCE
やSTANDのもとの言葉なので、EXISTENCEをむりやり訳すなら「はみ出した存在」。(どこから? 草葉の陰≒GEMEINSCHAFT(ゲマインシヤフト)から、)それを「いや現実的存在なんだ」と言ったのがキルケゴール。日本ではそれを二字熟語にした「実存」が汎用されるようになった。
 一方ハイデガーは、インフレを起こしたEXISTENZでは伝わらないことを、以前から使われていた普通語(かもしれない)の「DA-SEIN」(DAは「そこ≒there」。SEINは名詞でもあり、be動詞の原形でもある。)によって「現実内存在」という意味合いを伝えようとした――んじゃないか。――
 いわゆる「実存主義者」たちは,明らかに、そのハイデガーの「現存在」を自分たちのEXISTENCEに籠めつつ、ハイデガーを無視した。
 EXISTENCEを最初に実存と訳したのは九鬼周造らしい。では、DASEINを「現存在」と訳したのは誰なんだろう?
 やっぱり Dasein(ダーザイン)は「われわれ」と言い換えるほうが日本語としては自然な気がする。
 今日はもう『「秋田雨雀」紀行』に戻ります。
     ――7/13――

 『秋田雨雀紀行』読了。
 工藤正廣はこれを、中央に背を向け、「同胞」たちのほうを向いて書いている。
 工藤には『なつかしい終わりと始まり』という方言詩集もある。

まいね
まいねよー そしたごとせばァ!
そうしゃべらえれば
そしたごとしてぐなるもんだキャ

まいねよー そしたごとせばァ!
そうしゃべてける人さ  そうしゃべて貰えてして
そした声と聞きてばしネ
そしたことせば――

自分ずものの淵も深(ふけ)ぐなるんだネ

 高木恭造の『まるめろ』は中央を意識していた気がする。

          冬の月
嬶(カガ)ごと殴(ブタラ)いで戸外(オモデ)サ出ハれば
まんどろだ(,,,,,)お月様だ
吹雪(フ)イだ後(アド)の吹溜(ヤブ)こいで
何処(ド)サ行ぐどもなぐ俺(ワ)ア出ハて来たンだ

――ドしたてあたらネ憎(ニグ)ぐなるのだべナ
  憎(ニグ)がるのア愛(メゴ)がるより本気ネなるもンだネ
そして今まだ愛(メゴ)いど思ふのア ドしたごとだバ

ああ みんな吹雪(フギ)と同(オンナ)しせエ 過ぎでしまれば
まんどろだお月様だネ

 工藤正廣『みちのくの西行』(図書館にはまだない)を2800円出して読むかどうか迷っているうちに、同じ題名の本が二冊あるのに気づいた。もう一冊のほうを書いたのは先週『邪馬台国と秦王国』を読んだ後藤利雄。・・・オレはいま何かに近づきつつある。
    ――7/14――

GESCHICHTE(ゲシフテ)

 去年ウナムーノをかじったとき最初に自分で作った西文は「La(ラ) vida(ヴィーダ) es(エ) la(ラ) literatura(リタラトゥーラ)」だった。
「人生は文学だ。」
 そのときむりやりに読んでいるものにピッタリだと思った。かじっただけだけど、スペイン文学は自然を語らない。ただただニンゲンを語る。そして、「矛盾したことを言ったことのない人は、まともに考えたことのない人だ」――先月名古屋から帰ってきた卒業生にその言葉を紹介すると緊張が解けた。「いままで口をきいた人の中でいちばん〝凄い〟と感じたのは豊田章一郎さんです。あの人はフツウなんです。」――のウナムーノの「Aquella(アケラ) noche(ノーチェ) naci(ナシ) infierrno(インフィエルノ) de(デ) mi(ミ) vida(ヴィーダ) 」が辞書抜きで自然に入ってきたところで(もう良かろう。限界だ。)。「その夜、わたしの人生に地獄が生まれた。――富田先生は、それを『その夜、わたしは、わたしの地獄のなかで生まれ直した。』と意訳した。そのほうがウナムーノの言おうとしたことに近いかもしれない。――

 「われわれ人間は歴史の中で生きている」――(最初の独文はこれにしよう。)
 ドイツ語を始めて一ヶ月ちょっと。風情のなかで生き続けてきたわれわれからのドイツ人観。
 「われわれ人間」はたぶん「Wir(ヴィア) menschen(メンシェン)」。
 ――歴史は?――「Geschichte(ゲシフテ)」。
 Geは名詞や完了形を作るときの接頭語。ではschichtは?「層・膜≒積み重なっているもの」。(英語のshift?)最後のeはたぶん複数形。
 ――そうか。われわれ(風情のなかで生き続けたきた人々)は縦文字文化だから、「歴史」というとすぐ左から右へ横に平行的に推移していく年表のようなものをイメージする。(バカタレのわたくしだけ?)。でも彼らにとっての「歴史」は縦に積み重なった複雑な層のような構造なんだ。彼らは、掘り起こしていくか、断層を見つけるかしないとGeschichte(ゲシフテ)に触ることは出来ない。
 彼らの足下に幾層にも幾層にも堆積していて、その上に土足でしか立つべき場所はなく、逃れようのないもの≒Geschichte(ゲシフテ)。・・・Dasien(ダーザイン)に少し近づいたぞ。
               ――7/11――

 上を書いたあと、工藤正廣『秋田雨雀紀行』を開いた。
 傑作とか名著とかいう言葉では言い表せない「ナマ」そのものを感じる。生々しさを感じる日本語の文章なんていったいいつ以来か。少し読むと頭が勝手に動き出すから、160頁ほどの小冊子なのに今日もまた(続きはまた次回)。
 秋田雨雀の作品は文学全集にひとつふたつ収録されているだけで、単行本はまったく見つからない。本を閉じて、津軽書房に問い合わせの手紙を書き、これから投函しに行く。
 その小冊子のなかで、青森の採掘場から駆け落ちをしようとしている貞吉とおそのについて、工藤正廣は、「(秋田雨雀にとって)この地方には、たくさんの<貞吉>が犇めき挫折しているのは先刻承知のことであった。<おその>もまたまた此処では彼女一人ではなく、数多くの似た実存があったのだ。」と書く。
――「実存」は「 Dasein(ダーザイン) 」の言い換え? いや、ハイデガーは(轟孝夫によると)、実存と現存在を使い分けている。――
 気になってしまったから自転車で津軽書房あての返信用封筒付きの依頼文書を投函してきたあとwikipedia
サーフィン。
 「実存」にあたるEXISTENCEはどうやらもともとは「EX-STENCE」。(STENCEはいまの英語のSTANCE
やSTANDのもとの言葉なので、EXISTENCEをむりやり訳すなら「はみ出した存在」。(どこから? 草葉の陰≒GEMEINSCHAFT(ゲマインシヤフト)から、)それを「いや現実的存在なんだ」と言ったのがキルケゴール。日本ではそれを二字熟語にした「実存」が汎用されるようになった。
 一方ハイデガーは、インフレを起こしたEXISTENZでは伝わらないことを、以前から使われていた普通語(かもしれない)の「DA-SEIN」(DAは「そこ≒there」。SEINは名詞でもあり、be動詞の原形でもある。)によって「現実内存在」という意味合いを伝えようとした――んじゃないか。――
 いわゆる「実存主義者」たちは,明らかに、そのハイデガーの「現存在」を自分たちのEXISTENCEに籠めつつ、ハイデガーを無視した。
 EXISTENCEを最初に実存と訳したのは九鬼周造らしい。では、DASEINを「現存在」と訳したのは誰なんだろう?
 やっぱり Dasein(ダーザイン)は「われわれ」と言い換えるほうが日本語としては自然な気がする。
 今日はもう『「秋田雨雀」紀行』に戻ります。
     ――7/13――

 『秋田雨雀紀行』読了。
 工藤正廣はこれを、中央に背を向け、「同胞」たちのほうを向いて書いている。
 工藤には『なつかしい終わりと始まり』という方言詩集もある。

まいね
まいねよー そしたごとせばァ!
そうしゃべらえれば
そしたごとしてぐなるもんだキャ

まいねよー そしたごとせばァ!
そうしゃべてける人さ  そうしゃべて貰えてして
そした声と聞きてばしネ
そしたことせば――

自分ずものの淵も深(ふけ)ぐなるんだネ

 高木恭造の『まるめろ』は中央を意識していた気がする。

          冬の月
嬶(カガ)ごと殴(ブタラ)いで戸外(オモデ)サ出ハれば
まんどろだ(,,,,,)お月様だ
吹雪(フ)イだ後(アド)の吹溜(ヤブ)こいで
何処(ド)サ行ぐどもなぐ俺(ワ)ア出ハて来たンだ

――ドしたてあたらネ憎(ニグ)ぐなるのだべナ
  憎(ニグ)がるのア愛(メゴ)がるより本気ネなるもンだネ
そして今まだ愛(メゴ)いど思ふのア ドしたごとだバ

ああ みんな吹雪(フギ)と同(オンナ)しせエ 過ぎでしまれば
まんどろだお月様だネ

 工藤正廣『みちのくの西行』(図書館にはまだない)を2800円出して読むかどうか迷っているうちに、同じ題名の本が二冊あるのに気づいた。もう一冊のほうを書いたのは先週『邪馬台国と秦王国』を読んだ後藤利雄。・・・オレはいま何かに近づきつつある。
    ――7/14――

GESCHICHTE(ゲシフテ)

 去年ウナムーノをかじったとき最初に自分で作った西文は「La(ラ) vida(ヴィーダ) es(エ) la(ラ) literatura(リタラトゥーラ)」だった。
「人生は文学だ。」
 そのときむりやりに読んでいるものにピッタリだと思った。かじっただけだけど、スペイン文学は自然を語らない。ただただニンゲンを語る。そして、「矛盾したことを言ったことのない人は、まともに考えたことのない人だ」――先月名古屋から帰ってきた卒業生にその言葉を紹介すると緊張が解けた。「いままで口をきいた人の中でいちばん〝凄い〟と感じたのは豊田章一郎さんです。あの人はフツウなんです。」――のウナムーノの「Aquella(アケラ) noche(ノーチェ) naci(ナシ) infierrno(インフィエルノ) de(デ) mi(ミ) vida(ヴィーダ) 」が辞書抜きで自然に入ってきたところで(もう良かろう。限界だ。)。「その夜、わたしの人生に地獄が生まれた。――富田先生は、それを『その夜、わたしは、わたしの地獄のなかで生まれ直した。』と意訳した。そのほうがウナムーノの言おうとしたことに近いかもしれない。――

 「われわれ人間は歴史の中で生きている」――(最初の独文はこれにしよう。)
 ドイツ語を始めて一ヶ月ちょっと。風情のなかで生き続けてきたわれわれからのドイツ人観。
 「われわれ人間」はたぶん「Wir(ヴィア) menschen(メンシェン)」。
 ――歴史は?――「Geschichte(ゲシフテ)」。
 Geは名詞や完了形を作るときの接頭語。ではschichtは?「層・膜≒積み重なっているもの」。(英語のshift?)最後のeはたぶん複数形。
 ――そうか。われわれ(風情のなかで生き続けたきた人々)は縦文字文化だから、「歴史」というとすぐ左から右へ横に平行的に推移していく年表のようなものをイメージする。(バカタレのわたくしだけ?)。でも彼らにとっての「歴史」は縦に積み重なった複雑な層のような構造なんだ。彼らは、掘り起こしていくか、断層を見つけるかしないとGeschichte(ゲシフテ)に触ることは出来ない。
 彼らの足下に幾層にも幾層にも堆積していて、その上に土足でしか立つべき場所はなく、逃れようのないもの≒Geschichte(ゲシフテ)。・・・Dasien(ダーザイン)に少し近づいたぞ。
               ――7/11――

 上を書いたあと、工藤正廣『秋田雨雀紀行』を開いた。
 傑作とか名著とかいう言葉では言い表せない「ナマ」そのものを感じる。生々しさを感じる日本語の文章なんていったいいつ以来か。少し読むと頭が勝手に動き出すから、160頁ほどの小冊子なのに今日もまた(続きはまた次回)。
 秋田雨雀の作品は文学全集にひとつふたつ収録されているだけで、単行本はまったく見つからない。本を閉じて、津軽書房に問い合わせの手紙を書き、これから投函しに行く。
 その小冊子のなかで、青森の採掘場から駆け落ちをしようとしている貞吉とおそのについて、工藤正廣は、「(秋田雨雀にとって)この地方には、たくさんの<貞吉>が犇めき挫折しているのは先刻承知のことであった。<おその>もまたまた此処では彼女一人ではなく、数多くの似た実存があったのだ。」と書く。
――「実存」は「 Dasein(ダーザイン) 」の言い換え? いや、ハイデガーは(轟孝夫によると)、実存と現存在を使い分けている。――
 気になってしまったから自転車で津軽書房あての返信用封筒付きの依頼文書を投函してきたあとwikipedia
サーフィン。
 「実存」にあたるEXISTENCEはどうやらもともとは「EX-STENCE」。(STENCEはいまの英語のSTANCE
やSTANDのもとの言葉なので、EXISTENCEをむりやり訳すなら「はみ出した存在」。(どこから? 草葉の陰≒GEMEINSCHAFT(ゲマインシヤフト)から、)それを「いや現実的存在なんだ」と言ったのがキルケゴール。日本ではそれを二字熟語にした「実存」が汎用されるようになった。
 一方ハイデガーは、インフレを起こしたEXISTENZでは伝わらないことを、以前から使われていた普通語(かもしれない)の「DA-SEIN」(DAは「そこ≒there」。SEINは名詞でもあり、be動詞の原形でもある。)によって「現実内存在」という意味合いを伝えようとした――んじゃないか。――
 いわゆる「実存主義者」たちは,明らかに、そのハイデガーの「現存在」を自分たちのEXISTENCEに籠めつつ、ハイデガーを無視した。
 EXISTENCEを最初に実存と訳したのは九鬼周造らしい。では、DASEINを「現存在」と訳したのは誰なんだろう?
 やっぱり Dasein(ダーザイン)は「われわれ」と言い換えるほうが日本語としては自然な気がする。
 今日はもう『「秋田雨雀」紀行』に戻ります。
     ――7/13――

 『秋田雨雀紀行』読了。
 工藤正廣はこれを、中央に背を向け、「同胞」たちのほうを向いて書いている。
 工藤には『なつかしい終わりと始まり』という方言詩集もある。

まいね
まいねよー そしたごとせばァ!
そうしゃべらえれば
そしたごとしてぐなるもんだキャ

まいねよー そしたごとせばァ!
そうしゃべてける人さ  そうしゃべて貰えてして
そした声と聞きてばしネ
そしたことせば――

自分ずものの淵も深(ふけ)ぐなるんだネ

 高木恭造の『まるめろ』は中央を意識していた気がする。

          冬の月
嬶(カガ)ごと殴(ブタラ)いで戸外(オモデ)サ出ハれば
まんどろだ(,,,,,)お月様だ
吹雪(フ)イだ後(アド)の吹溜(ヤブ)こいで
何処(ド)サ行ぐどもなぐ俺(ワ)ア出ハて来たンだ

――ドしたてあたらネ憎(ニグ)ぐなるのだべナ
  憎(ニグ)がるのア愛(メゴ)がるより本気ネなるもンだネ
そして今まだ愛(メゴ)いど思ふのア ドしたごとだバ

ああ みんな吹雪(フギ)と同(オンナ)しせエ 過ぎでしまれば
まんどろだお月様だネ

 工藤正廣『みちのくの西行』(図書館にはまだない)を2800円出して読むかどうか迷っているうちに、同じ題名の本が二冊あるのに気づいた。もう一冊のほうを書いたのは先週『邪馬台国と秦王国』を読んだ後藤利雄。・・・オレはいま何かに近づきつつある。
    ――7/14――

GESCHICHTE(ゲシフテ)

 去年ウナムーノをかじったとき最初に自分で作った西文は「La(ラ) vida(ヴィーダ) es(エ) la(ラ) literatura(リタラトゥーラ)」だった。
「人生は文学だ。」
 そのときむりやりに読んでいるものにピッタリだと思った。かじっただけだけど、スペイン文学は自然を語らない。ただただニンゲンを語る。そして、「矛盾したことを言ったことのない人は、まともに考えたことのない人だ」――先月名古屋から帰ってきた卒業生にその言葉を紹介すると緊張が解けた。「いままで口をきいた人の中でいちばん〝凄い〟と感じたのは豊田章一郎さんです。あの人はフツウなんです。」――のウナムーノの「Aquella(アケラ) noche(ノーチェ) naci(ナシ) infierrno(インフィエルノ) de(デ) mi(ミ) vida(ヴィーダ) 」が辞書抜きで自然に入ってきたところで(もう良かろう。限界だ。)。「その夜、わたしの人生に地獄が生まれた。――富田先生は、それを『その夜、わたしは、わたしの地獄のなかで生まれ直した。』と意訳した。そのほうがウナムーノの言おうとしたことに近いかもしれない。――

 「われわれ人間は歴史の中で生きている」――(最初の独文はこれにしよう。)
 ドイツ語を始めて一ヶ月ちょっと。風情のなかで生き続けてきたわれわれからのドイツ人観。
 「われわれ人間」はたぶん「Wir(ヴィア) menschen(メンシェン)」。
 ――歴史は?――「Geschichte(ゲシフテ)」。
 Geは名詞や完了形を作るときの接頭語。ではschichtは?「層・膜≒積み重なっているもの」。(英語のshift?)最後のeはたぶん複数形。
 ――そうか。われわれ(風情のなかで生き続けたきた人々)は縦文字文化だから、「歴史」というとすぐ左から右へ横に平行的に推移していく年表のようなものをイメージする。(バカタレのわたくしだけ?)。でも彼らにとっての「歴史」は縦に積み重なった複雑な層のような構造なんだ。彼らは、掘り起こしていくか、断層を見つけるかしないとGeschichte(ゲシフテ)に触ることは出来ない。
 彼らの足下に幾層にも幾層にも堆積していて、その上に土足でしか立つべき場所はなく、逃れようのないもの≒Geschichte(ゲシフテ)。・・・Dasien(ダーザイン)に少し近づいたぞ。
               ――7/11――

 上を書いたあと、工藤正廣『秋田雨雀紀行』を開いた。
 傑作とか名著とかいう言葉では言い表せない「ナマ」そのものを感じる。生々しさを感じる日本語の文章なんていったいいつ以来か。少し読むと頭が勝手に動き出すから、160頁ほどの小冊子なのに今日もまた(続きはまた次回)。
 秋田雨雀の作品は文学全集にひとつふたつ収録されているだけで、単行本はまったく見つからない。本を閉じて、津軽書房に問い合わせの手紙を書き、これから投函しに行く。
 その小冊子のなかで、青森の採掘場から駆け落ちをしようとしている貞吉とおそのについて、工藤正廣は、「(秋田雨雀にとって)この地方には、たくさんの<貞吉>が犇めき挫折しているのは先刻承知のことであった。<おその>もまたまた此処では彼女一人ではなく、数多くの似た実存があったのだ。」と書く。
――「実存」は「 Dasein(ダーザイン) 」の言い換え? いや、ハイデガーは(轟孝夫によると)、実存と現存在を使い分けている。――
 気になってしまったから自転車で津軽書房あての返信用封筒付きの依頼文書を投函してきたあとwikipedia
サーフィン。
 「実存」にあたるEXISTENCEはどうやらもともとは「EX-STENCE」。(STENCEはいまの英語のSTANCE
やSTANDのもとの言葉なので、EXISTENCEをむりやり訳すなら「はみ出した存在」。(どこから? 草葉の陰≒GEMEINSCHAFT(ゲマインシヤフト)から、)それを「いや現実的存在なんだ」と言ったのがキルケゴール。日本ではそれを二字熟語にした「実存」が汎用されるようになった。
 一方ハイデガーは、インフレを起こしたEXISTENZでは伝わらないことを、以前から使われていた普通語(かもしれない)の「DA-SEIN」(DAは「そこ≒there」。SEINは名詞でもあり、be動詞の原形でもある。)によって「現実内存在」という意味合いを伝えようとした――んじゃないか。――
 いわゆる「実存主義者」たちは,明らかに、そのハイデガーの「現存在」を自分たちのEXISTENCEに籠めつつ、ハイデガーを無視した。
 EXISTENCEを最初に実存と訳したのは九鬼周造らしい。では、DASEINを「現存在」と訳したのは誰なんだろう?
 やっぱり Dasein(ダーザイン)は「われわれ」と言い換えるほうが日本語としては自然な気がする。
 今日はもう『「秋田雨雀」紀行』に戻ります。
     ――7/13――

 『秋田雨雀紀行』読了。
 工藤正廣はこれを、中央に背を向け、「同胞」たちのほうを向いて書いている。
 工藤には『なつかしい終わりと始まり』という方言詩集もある。

まいね
まいねよー そしたごとせばァ!
そうしゃべらえれば
そしたごとしてぐなるもんだキャ

まいねよー そしたごとせばァ!
そうしゃべてける人さ  そうしゃべて貰えてして
そした声と聞きてばしネ
そしたことせば――

自分ずものの淵も深(ふけ)ぐなるんだネ

 高木恭造の『まるめろ』は中央を意識していた気がする。

          冬の月
嬶(カガ)ごと殴(ブタラ)いで戸外(オモデ)サ出ハれば
まんどろだ(,,,,,)お月様だ
吹雪(フ)イだ後(アド)の吹溜(ヤブ)こいで
何処(ド)サ行ぐどもなぐ俺(ワ)ア出ハて来たンだ

――ドしたてあたらネ憎(ニグ)ぐなるのだべナ
  憎(ニグ)がるのア愛(メゴ)がるより本気ネなるもンだネ
そして今まだ愛(メゴ)いど思ふのア ドしたごとだバ

ああ みんな吹雪(フギ)と同(オンナ)しせエ 過ぎでしまれば
まんどろだお月様だネ

 工藤正廣『みちのくの西行』(図書館にはまだない)を2800円出して読むかどうか迷っているうちに、同じ題名の本が二冊あるのに気づいた。もう一冊のほうを書いたのは先週『邪馬台国と秦王国』を読んだ後藤利雄。・・・オレはいま何かに近づきつつある。
    ――7/14――

GESCHICHTE(ゲシフテ)

 去年ウナムーノをかじったとき最初に自分で作った西文は「La(ラ) vida(ヴィーダ) es(エ) la(ラ) literatura(リタラトゥーラ)」だった。
「人生は文学だ。」
 そのときむりやりに読んでいるものにピッタリだと思った。かじっただけだけど、スペイン文学は自然を語らない。ただただニンゲンを語る。そして、「矛盾したことを言ったことのない人は、まともに考えたことのない人だ」――先月名古屋から帰ってきた卒業生にその言葉を紹介すると緊張が解けた。「いままで口をきいた人の中でいちばん〝凄い〟と感じたのは豊田章一郎さんです。あの人はフツウなんです。」――のウナムーノの「Aquella(アケラ) noche(ノーチェ) naci(ナシ) infierrno(インフィエルノ) de(デ) mi(ミ) vida(ヴィーダ) 」が辞書抜きで自然に入ってきたところで(もう良かろう。限界だ。)。「その夜、わたしの人生に地獄が生まれた。――富田先生は、それを『その夜、わたしは、わたしの地獄のなかで生まれ直した。』と意訳した。そのほうがウナムーノの言おうとしたことに近いかもしれない。――

 「われわれ人間は歴史の中で生きている」――(最初の独文はこれにしよう。)
 ドイツ語を始めて一ヶ月ちょっと。風情のなかで生き続けてきたわれわれからのドイツ人観。
 「われわれ人間」はたぶん「Wir(ヴィア) menschen(メンシェン)」。
 ――歴史は?――「Geschichte(ゲシフテ)」。
 Geは名詞や完了形を作るときの接頭語。ではschichtは?「層・膜≒積み重なっているもの」。(英語のshift?)最後のeはたぶん複数形。
 ――そうか。われわれ(風情のなかで生き続けたきた人々)は縦文字文化だから、「歴史」というとすぐ左から右へ横に平行的に推移していく年表のようなものをイメージする。(バカタレのわたくしだけ?)。でも彼らにとっての「歴史」は縦に積み重なった複雑な層のような構造なんだ。彼らは、掘り起こしていくか、断層を見つけるかしないとGeschichte(ゲシフテ)に触ることは出来ない。
 彼らの足下に幾層にも幾層にも堆積していて、その上に土足でしか立つべき場所はなく、逃れようのないもの≒Geschichte(ゲシフテ)。・・・Dasien(ダーザイン)に少し近づいたぞ。
               ――7/11――

 上を書いたあと、工藤正廣『秋田雨雀紀行』を開いた。
 傑作とか名著とかいう言葉では言い表せない「ナマ」そのものを感じる。生々しさを感じる日本語の文章なんていったいいつ以来か。少し読むと頭が勝手に動き出すから、160頁ほどの小冊子なのに今日もまた(続きはまた次回)。
 秋田雨雀の作品は文学全集にひとつふたつ収録されているだけで、単行本はまったく見つからない。本を閉じて、津軽書房に問い合わせの手紙を書き、これから投函しに行く。
 その小冊子のなかで、青森の採掘場から駆け落ちをしようとしている貞吉とおそのについて、工藤正廣は、「(秋田雨雀にとって)この地方には、たくさんの<貞吉>が犇めき挫折しているのは先刻承知のことであった。<おその>もまたまた此処では彼女一人ではなく、数多くの似た実存があったのだ。」と書く。
――「実存」は「 Dasein(ダーザイン) 」の言い換え? いや、ハイデガーは(轟孝夫によると)、実存と現存在を使い分けている。――
 気になってしまったから自転車で津軽書房あての返信用封筒付きの依頼文書を投函してきたあとwikipedia
サーフィン。
 「実存」にあたるEXISTENCEはどうやらもともとは「EX-STENCE」。(STENCEはいまの英語のSTANCE
やSTANDのもとの言葉なので、EXISTENCEをむりやり訳すなら「はみ出した存在」。(どこから? 草葉の陰≒GEMEINSCHAFT(ゲマインシヤフト)から、)それを「いや現実的存在なんだ」と言ったのがキルケゴール。日本ではそれを二字熟語にした「実存」が汎用されるようになった。
 一方ハイデガーは、インフレを起こしたEXISTENZでは伝わらないことを、以前から使われていた普通語(かもしれない)の「DA-SEIN」(DAは「そこ≒there」。SEINは名詞でもあり、be動詞の原形でもある。)によって「現実内存在」という意味合いを伝えようとした――んじゃないか。――
 いわゆる「実存主義者」たちは,明らかに、そのハイデガーの「現存在」を自分たちのEXISTENCEに籠めつつ、ハイデガーを無視した。
 EXISTENCEを最初に実存と訳したのは九鬼周造らしい。では、DASEINを「現存在」と訳したのは誰なんだろう?
 やっぱり Dasein(ダーザイン)は「われわれ」と言い換えるほうが日本語としては自然な気がする。
 今日はもう『「秋田雨雀」紀行』に戻ります。
     ――7/13――

 『秋田雨雀紀行』読了。
 工藤正廣はこれを、中央に背を向け、「同胞」たちのほうを向いて書いている。
 工藤には『なつかしい終わりと始まり』という方言詩集もある。

まいね
まいねよー そしたごとせばァ!
そうしゃべらえれば
そしたごとしてぐなるもんだキャ

まいねよー そしたごとせばァ!
そうしゃべてける人さ  そうしゃべて貰えてして
そした声と聞きてばしネ
そしたことせば――

自分ずものの淵も深(ふけ)ぐなるんだネ

 高木恭造の『まるめろ』は中央を意識していた気がする。

          冬の月
嬶(カガ)ごと殴(ブタラ)いで戸外(オモデ)サ出ハれば
まんどろだ(,,,,,)お月様だ
吹雪(フ)イだ後(アド)の吹溜(ヤブ)こいで
何処(ド)サ行ぐどもなぐ俺(ワ)ア出ハて来たンだ

――ドしたてあたらネ憎(ニグ)ぐなるのだべナ
  憎(ニグ)がるのア愛(メゴ)がるより本気ネなるもンだネ
そして今まだ愛(メゴ)いど思ふのア ドしたごとだバ

ああ みんな吹雪(フギ)と同(オンナ)しせエ 過ぎでしまれば
まんどろだお月様だネ

 工藤正廣『みちのくの西行』(図書館にはまだない)を2800円出して読むかどうか迷っているうちに、同じ題名の本が二冊あるのに気づいた。もう一冊のほうを書いたのは先週『邪馬台国と秦王国』を読んだ後藤利雄。・・・オレはいま何かに近づきつつある。
    ――7/14――

GESCHICHTE(ゲシフテ)

 去年ウナムーノをかじったとき最初に自分で作った西文は「La(ラ) vida(ヴィーダ) es(エ) la(ラ) literatura(リタラトゥーラ)」だった。
「人生は文学だ。」
 そのときむりやりに読んでいるものにピッタリだと思った。かじっただけだけど、スペイン文学は自然を語らない。ただただニンゲンを語る。そして、「矛盾したことを言ったことのない人は、まともに考えたことのない人だ」――先月名古屋から帰ってきた卒業生にその言葉を紹介すると緊張が解けた。「いままで口をきいた人の中でいちばん〝凄い〟と感じたのは豊田章一郎さんです。あの人はフツウなんです。」――のウナムーノの「Aquella(アケラ) noche(ノーチェ) naci(ナシ) infierrno(インフィエルノ) de(デ) mi(ミ) vida(ヴィーダ) 」が辞書抜きで自然に入ってきたところで(もう良かろう。限界だ。)。「その夜、わたしの人生に地獄が生まれた。――富田先生は、それを『その夜、わたしは、わたしの地獄のなかで生まれ直した。』と意訳した。そのほうがウナムーノの言おうとしたことに近いかもしれない。――

 「われわれ人間は歴史の中で生きている」――(最初の独文はこれにしよう。)
 ドイツ語を始めて一ヶ月ちょっと。風情のなかで生き続けてきたわれわれからのドイツ人観。
 「われわれ人間」はたぶん「Wir(ヴィア) menschen(メンシェン)」。
 ――歴史は?――「Geschichte(ゲシフテ)」。
 Geは名詞や完了形を作るときの接頭語。ではschichtは?「層・膜≒積み重なっているもの」。(英語のshift?)最後のeはたぶん複数形。
 ――そうか。われわれ(風情のなかで生き続けたきた人々)は縦文字文化だから、「歴史」というとすぐ左から右へ横に平行的に推移していく年表のようなものをイメージする。(バカタレのわたくしだけ?)。でも彼らにとっての「歴史」は縦に積み重なった複雑な層のような構造なんだ。彼らは、掘り起こしていくか、断層を見つけるかしないとGeschichte(ゲシフテ)に触ることは出来ない。
 彼らの足下に幾層にも幾層にも堆積していて、その上に土足でしか立つべき場所はなく、逃れようのないもの≒Geschichte(ゲシフテ)。・・・Dasien(ダーザイン)に少し近づいたぞ。
               ――7/11――

 上を書いたあと、工藤正廣『秋田雨雀紀行』を開いた。
 傑作とか名著とかいう言葉では言い表せない「ナマ」そのものを感じる。生々しさを感じる日本語の文章なんていったいいつ以来か。少し読むと頭が勝手に動き出すから、160頁ほどの小冊子なのに今日もまた(続きはまた次回)。
 秋田雨雀の作品は文学全集にひとつふたつ収録されているだけで、単行本はまったく見つからない。本を閉じて、津軽書房に問い合わせの手紙を書き、これから投函しに行く。
 その小冊子のなかで、青森の採掘場から駆け落ちをしようとしている貞吉とおそのについて、工藤正廣は、「(秋田雨雀にとって)この地方には、たくさんの<貞吉>が犇めき挫折しているのは先刻承知のことであった。<おその>もまたまた此処では彼女一人ではなく、数多くの似た実存があったのだ。」と書く。
――「実存」は「 Dasein(ダーザイン) 」の言い換え? いや、ハイデガーは(轟孝夫によると)、実存と現存在を使い分けている。――
 気になってしまったから自転車で津軽書房あての返信用封筒付きの依頼文書を投函してきたあとwikipedia
サーフィン。
 「実存」にあたるEXISTENCEはどうやらもともとは「EX-STENCE」。(STENCEはいまの英語のSTANCE
やSTANDのもとの言葉なので、EXISTENCEをむりやり訳すなら「はみ出した存在」。(どこから? 草葉の陰≒GEMEINSCHAFT(ゲマインシヤフト)から、)それを「いや現実的存在なんだ」と言ったのがキルケゴール。日本ではそれを二字熟語にした「実存」が汎用されるようになった。
 一方ハイデガーは、インフレを起こしたEXISTENZでは伝わらないことを、以前から使われていた普通語(かもしれない)の「DA-SEIN」(DAは「そこ≒there」。SEINは名詞でもあり、be動詞の原形でもある。)によって「現実内存在」という意味合いを伝えようとした――んじゃないか。――
 いわゆる「実存主義者」たちは,明らかに、そのハイデガーの「現存在」を自分たちのEXISTENCEに籠めつつ、ハイデガーを無視した。
 EXISTENCEを最初に実存と訳したのは九鬼周造らしい。では、DASEINを「現存在」と訳したのは誰なんだろう?
 やっぱり Dasein(ダーザイン)は「われわれ」と言い換えるほうが日本語としては自然な気がする。
 今日はもう『「秋田雨雀」紀行』に戻ります。
     ――7/13――

 『秋田雨雀紀行』読了。
 工藤正廣はこれを、中央に背を向け、「同胞」たちのほうを向いて書いている。
 工藤には『なつかしい終わりと始まり』という方言詩集もある。

まいね
まいねよー そしたごとせばァ!
そうしゃべらえれば
そしたごとしてぐなるもんだキャ

まいねよー そしたごとせばァ!
そうしゃべてける人さ  そうしゃべて貰えてして
そした声と聞きてばしネ
そしたことせば――

自分ずものの淵も深(ふけ)ぐなるんだネ

 高木恭造の『まるめろ』は中央を意識していた気がする。

          冬の月
嬶(カガ)ごと殴(ブタラ)いで戸外(オモデ)サ出ハれば
まんどろだ(,,,,,)お月様だ
吹雪(フ)イだ後(アド)の吹溜(ヤブ)こいで
何処(ド)サ行ぐどもなぐ俺(ワ)ア出ハて来たンだ

――ドしたてあたらネ憎(ニグ)ぐなるのだべナ
  憎(ニグ)がるのア愛(メゴ)がるより本気ネなるもンだネ
そして今まだ愛(メゴ)いど思ふのア ドしたごとだバ

ああ みんな吹雪(フギ)と同(オンナ)しせエ 過ぎでしまれば
まんどろだお月様だネ

 工藤正廣『みちのくの西行』(図書館にはまだない)を2800円出して読むかどうか迷っているうちに、同じ題名の本が二冊あるのに気づいた。もう一冊のほうを書いたのは先週『邪馬台国と秦王国』を読んだ後藤利雄。・・・オレはいま何かに近づきつつある。
    ――7/14――

GESCHICHTE(ゲシフテ)

 去年ウナムーノをかじったとき最初に自分で作った西文は「La(ラ) vida(ヴィーダ) es(エ) la(ラ) literatura(リタラトゥーラ)」だった。
「人生は文学だ。」
 そのときむりやりに読んでいるものにピッタリだと思った。かじっただけだけど、スペイン文学は自然を語らない。ただただニンゲンを語る。そして、「矛盾したことを言ったことのない人は、まともに考えたことのない人だ」――先月名古屋から帰ってきた卒業生にその言葉を紹介すると緊張が解けた。「いままで口をきいた人の中でいちばん〝凄い〟と感じたのは豊田章一郎さんです。あの人はフツウなんです。」――のウナムーノの「Aquella(アケラ) noche(ノーチェ) naci(ナシ) infierrno(インフィエルノ) de(デ) mi(ミ) vida(ヴィーダ) 」が辞書抜きで自然に入ってきたところで(もう良かろう。限界だ。)。「その夜、わたしの人生に地獄が生まれた。――富田先生は、それを『その夜、わたしは、わたしの地獄のなかで生まれ直した。』と意訳した。そのほうがウナムーノの言おうとしたことに近いかもしれない。――

 「われわれ人間は歴史の中で生きている」――(最初の独文はこれにしよう。)
 ドイツ語を始めて一ヶ月ちょっと。風情のなかで生き続けてきたわれわれからのドイツ人観。
 「われわれ人間」はたぶん「Wir(ヴィア) menschen(メンシェン)」。
 ――歴史は?――「Geschichte(ゲシフテ)」。
 Geは名詞や完了形を作るときの接頭語。ではschichtは?「層・膜≒積み重なっているもの」。(英語のshift?)最後のeはたぶん複数形。
 ――そうか。われわれ(風情のなかで生き続けたきた人々)は縦文字文化だから、「歴史」というとすぐ左から右へ横に平行的に推移していく年表のようなものをイメージする。(バカタレのわたくしだけ?)。でも彼らにとっての「歴史」は縦に積み重なった複雑な層のような構造なんだ。彼らは、掘り起こしていくか、断層を見つけるかしないとGeschichte(ゲシフテ)に触ることは出来ない。
 彼らの足下に幾層にも幾層にも堆積していて、その上に土足でしか立つべき場所はなく、逃れようのないもの≒Geschichte(ゲシフテ)。・・・Dasien(ダーザイン)に少し近づいたぞ。
               ――7/11――

 上を書いたあと、工藤正廣『秋田雨雀紀行』を開いた。
 傑作とか名著とかいう言葉では言い表せない「ナマ」そのものを感じる。生々しさを感じる日本語の文章なんていったいいつ以来か。少し読むと頭が勝手に動き出すから、160頁ほどの小冊子なのに今日もまた(続きはまた次回)。
 秋田雨雀の作品は文学全集にひとつふたつ収録されているだけで、単行本はまったく見つからない。本を閉じて、津軽書房に問い合わせの手紙を書き、これから投函しに行く。
 その小冊子のなかで、青森の採掘場から駆け落ちをしようとしている貞吉とおそのについて、工藤正廣は、「(秋田雨雀にとって)この地方には、たくさんの<貞吉>が犇めき挫折しているのは先刻承知のことであった。<おその>もまたまた此処では彼女一人ではなく、数多くの似た実存があったのだ。」と書く。
――「実存」は「 Dasein(ダーザイン) 」の言い換え? いや、ハイデガーは(轟孝夫によると)、実存と現存在を使い分けている。――
 気になってしまったから自転車で津軽書房あての返信用封筒付きの依頼文書を投函してきたあとwikipedia
サーフィン。
 「実存」にあたるEXISTENCEはどうやらもともとは「EX-STENCE」。(STENCEはいまの英語のSTANCE
やSTANDのもとの言葉なので、EXISTENCEをむりやり訳すなら「はみ出した存在」。(どこから? 草葉の陰≒GEMEINSCHAFT(ゲマインシヤフト)から、)それを「いや現実的存在なんだ」と言ったのがキルケゴール。日本ではそれを二字熟語にした「実存」が汎用されるようになった。
 一方ハイデガーは、インフレを起こしたEXISTENZでは伝わらないことを、以前から使われていた普通語(かもしれない)の「DA-SEIN」(DAは「そこ≒there」。SEINは名詞でもあり、be動詞の原形でもある。)によって「現実内存在」という意味合いを伝えようとした――んじゃないか。――
 いわゆる「実存主義者」たちは,明らかに、そのハイデガーの「現存在」を自分たちのEXISTENCEに籠めつつ、ハイデガーを無視した。
 EXISTENCEを最初に実存と訳したのは九鬼周造らしい。では、DASEINを「現存在」と訳したのは誰なんだろう?
 やっぱり Dasein(ダーザイン)は「われわれ」と言い換えるほうが日本語としては自然な気がする。
 今日はもう『「秋田雨雀」紀行』に戻ります。
     ――7/13――

 『秋田雨雀紀行』読了。
 工藤正廣はこれを、中央に背を向け、「同胞」たちのほうを向いて書いている。
 工藤には『なつかしい終わりと始まり』という方言詩集もある。

まいね
まいねよー そしたごとせばァ!
そうしゃべらえれば
そしたごとしてぐなるもんだキャ

まいねよー そしたごとせばァ!
そうしゃべてける人さ  そうしゃべて貰えてして
そした声と聞きてばしネ
そしたことせば――

自分ずものの淵も深(ふけ)ぐなるんだネ

 高木恭造の『まるめろ』は中央を意識していた気がする。

          冬の月
嬶(カガ)ごと殴(ブタラ)いで戸外(オモデ)サ出ハれば
まんどろだ(,,,,,)お月様だ
吹雪(フ)イだ後(アド)の吹溜(ヤブ)こいで
何処(ド)サ行ぐどもなぐ俺(ワ)ア出ハて来たンだ

――ドしたてあたらネ憎(ニグ)ぐなるのだべナ
  憎(ニグ)がるのア愛(メゴ)がるより本気ネなるもンだネ
そして今まだ愛(メゴ)いど思ふのア ドしたごとだバ

ああ みんな吹雪(フギ)と同(オンナ)しせエ 過ぎでしまれば
まんどろだお月様だネ

 工藤正廣『みちのくの西行』(図書館にはまだない)を2800円出して読むかどうか迷っているうちに、同じ題名の本が二冊あるのに気づいた。もう一冊のほうを書いたのは先週『邪馬台国と秦王国』を読んだ後藤利雄。・・・オレはいま何かに近づきつつある。
    ――7/14――

後藤利雄

後藤利雄(山形大学。専門は万葉集。)「邪馬台国と秦王国」

○倭 また騰黄神獣有り、その色は黄、状は狐のごとく、背上に両角竜翼有り、・・・日本国に出づ、寿三千歳、黄帝得てこれに乗り、遂に六合(くに)を周旋す。・・・―― 『雲笈七籤』巻一百「軒轅本紀」――
○燕地 楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国となる。歳時をもって来たりて献見す云。――『前漢書』巻二十八下、地理誌。――
○燕 蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。――『山海経』――
○倭 周の成王のとき倭人鬯(ちよう)草を献ず。――『古今沿革地図』、『論衡』後漢・王充――
※ 鬯(ちよう)草=鬱金草=熱帯アジア原産。種子島琉球・台湾に自生。(牧野富太郎

 紀元前十一世紀ごろから、すでに倭人は、大陸との交渉を持っていた。・・しかし「倭国」ではなくて、あくまでも「倭人」である。・・「倭国」と称し得るような連合体は、まだなかった。
 ・・沖縄方言が、日本語から分離したのは、約二千年前と、言語年代学は推定している。しかし沖縄になぜ日本語が根を下ろしたかについては、誰も推測をしていない。歴史時代に入ってからの沖縄は、日本よりも中国との関係が深い。人種的にもかなりの混血を経ており、倭人ばなれした風貌も目につく。にも拘わらず、日本語の方言が話されているのは何故か。
 それはかつて沖縄が日本の主役であった時代があったからだと、私は考える。歴史以前に大陸と交渉を持ったのは、他ならぬ沖縄の人たちだった。魏志倭人伝にも対馬壱岐(一大≒一支)の島民が,舟に乗って南北に交流することが記されているが、何時の時代も、島々の人々は、そうしなければ生きてはいけない。周王朝が鬯草を欲しがっているという話を聞けば、それを献上して見返りの品を手に入れる。舟行に馴れた人ならば,誰しもが為すところであろう。
 その結果、沖縄には、大陸文化が、どの地よりも早く投影し、全倭人の先達となり、主役を務めるようになった。
○濊、狛、倭、韓、万里にして朝献す。――『漢書東夷伝―― 
建武中元二年、倭奴国、奉貢して朝賀す。――同『漢書東夷伝――
 紀元一世紀ごろは、主役の座も脇役の座も、九州に明け渡していた。
 沖縄の主導権(は)いきなり北九州の奴に移ったものではなかろう。・・九州南端の人々が、沖縄人に代わって主導権を握った時代があったろう。・・
 (九州南端の人々の)誇り高さが、三世紀において、邪馬台国に隷属することを肯んじさせなかったものと思う。そして武力や権力の点では、それを席巻できる程の力を持った邪馬台国の側でも、その存立を許容し、敢えて侵略ようとしなかった。

※後藤利雄「邪馬台国≒南九州説」要約。
 倭は沖縄に始まり、以後北漸して九州に到った。「倭国大乱」終息後、平和的な連合国家を形成した邪馬台国の影響は伊予・周防、つまり四国・中国地方にまで拡がっていった。
 ・・(大和政権の呼ぶ「熊襲」や「隼人」こそが「倭人」だった。)・・大隅、薩摩、それから日向の一部の人達は、「夷人雑類」の烙印を押されることによって、「犬吠え」をさせられたりして長期間忍従を余儀なくされた。そして彼らが真実の日本人であったことの証明は,実に十七世紀初頭の関ヶ原の合戦を、はたまた十九世紀の明治維新を待たなければならなかったのである。

※拙考。
 ワタクシは沖縄以前(有史以前)にも「倭」の先祖がいたと考えています。それは中国が「南人」と総称した人々。場所でいうなら、雲南やさらにその西(いまのブータン)やインドシナの山岳部や沿岸部など周辺にいた人々。
 さらに、これはほとんど(だったら愉快なんだけどなあ)なんだが、漢人と同化することを拒否しつつ彼の地で一定の力を維持し続けた、鄧小平や李登輝蔡英文はどうなのだろう?)など「客家」と呼ばれている人たちにも、血縁に近いものを感じる。

 『古事記』を素直に読めば、後藤利雄の言う「最初の倭人」の分派は北漸後に東漸し、大和に到達することに成功した。半島や大陸との交渉が密だった北部西部沿岸を除いて、九州には大和に対して「われわれが本家だ」という記憶が生き続けていた。
 平家や足利尊氏南朝を生き延びさせたのは、その人々の記憶だったし、後藤の言う、近世や近代の「西日本の逆襲」もまた彼らのその血のたぎり抜きには考えられない。
 九州・四国に限らず、裏日本にも、東北にも、この列島には「別の歴史」を生きた人々が大勢存在する。それらの人々を糾合するためには極めて単純なイデオローグが要求された、んじゃないかな。
 それは、たとえば「スペインなんて国はどこにもなかった。いまもないのかも知れない」と教えられたイスパニアが統一を図るためにはカソリシズムを必要としたのと同様のことに思えるし、中国にいたってはまだその途上に見える。近代に至るまで数百の国に分かれていたというドイツで何が起こったのかは、これから見ていきます。
 ※読んでいてびっくりしたことの報告。
 後藤利雄が措定した「邪馬台国への道」は、この1~2年に読んだ「近世の宣教師たちが長崎・大分間を往還したルート」を実際にあるいて措定した男(書名も著者も覚えていない。)の考えとまったく同じだった。両者が互いに相手の仕事を知っていたはずはない。それぞれが自分の興味に従って別々に、まったく同じ「道」を発見したことになる。

後藤利雄(山形大学。専門は万葉集。)「邪馬台国と秦王国」

○倭 また騰黄神獣有り、その色は黄、状は狐のごとく、背上に両角竜翼有り、・・・日本国に出づ、寿三千歳、黄帝得てこれに乗り、遂に六合(くに)を周旋す。・・・―― 『雲笈七籤』巻一百「軒轅本紀」――
○燕地 楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国となる。歳時をもって来たりて献見す云。――『前漢書』巻二十八下、地理誌。――
○燕 蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。――『山海経』――
○倭 周の成王のとき倭人鬯(ちよう)草を献ず。――『古今沿革地図』、『論衡』後漢・王充――
※ 鬯(ちよう)草=鬱金草=熱帯アジア原産。種子島琉球・台湾に自生。(牧野富太郎

 紀元前十一世紀ごろから、すでに倭人は、大陸との交渉を持っていた。・・しかし「倭国」ではなくて、あくまでも「倭人」である。・・「倭国」と称し得るような連合体は、まだなかった。
 ・・沖縄方言が、日本語から分離したのは、約二千年前と、言語年代学は推定している。しかし沖縄になぜ日本語が根を下ろしたかについては、誰も推測をしていない。歴史時代に入ってからの沖縄は、日本よりも中国との関係が深い。人種的にもかなりの混血を経ており、倭人ばなれした風貌も目につく。にも拘わらず、日本語の方言が話されているのは何故か。
 それはかつて沖縄が日本の主役であった時代があったからだと、私は考える。歴史以前に大陸と交渉を持ったのは、他ならぬ沖縄の人たちだった。魏志倭人伝にも対馬壱岐(一大≒一支)の島民が,舟に乗って南北に交流することが記されているが、何時の時代も、島々の人々は、そうしなければ生きてはいけない。周王朝が鬯草を欲しがっているという話を聞けば、それを献上して見返りの品を手に入れる。舟行に馴れた人ならば,誰しもが為すところであろう。
 その結果、沖縄には、大陸文化が、どの地よりも早く投影し、全倭人の先達となり、主役を務めるようになった。
○濊、狛、倭、韓、万里にして朝献す。――『漢書東夷伝―― 
建武中元二年、倭奴国、奉貢して朝賀す。――同『漢書東夷伝――
 紀元一世紀ごろは、主役の座も脇役の座も、九州に明け渡していた。
 沖縄の主導権(は)いきなり北九州の奴に移ったものではなかろう。・・九州南端の人々が、沖縄人に代わって主導権を握った時代があったろう。・・
 (九州南端の人々の)誇り高さが、三世紀において、邪馬台国に隷属することを肯んじさせなかったものと思う。そして武力や権力の点では、それを席巻できる程の力を持った邪馬台国の側でも、その存立を許容し、敢えて侵略ようとしなかった。

※後藤利雄「邪馬台国≒南九州説」要約。
 倭は沖縄に始まり、以後北漸して九州に到った。「倭国大乱」終息後、平和的な連合国家を形成した邪馬台国の影響は伊予・周防、つまり四国・中国地方にまで拡がっていった。
 ・・(大和政権の呼ぶ「熊襲」や「隼人」こそが「倭人」だった。)・・大隅、薩摩、それから日向の一部の人達は、「夷人雑類」の烙印を押されることによって、「犬吠え」をさせられたりして長期間忍従を余儀なくされた。そして彼らが真実の日本人であったことの証明は,実に十七世紀初頭の関ヶ原の合戦を、はたまた十九世紀の明治維新を待たなければならなかったのである。

※拙考。
 ワタクシは沖縄以前(有史以前)にも「倭」の先祖がいたと考えています。それは中国が「南人」と総称した人々。場所でいうなら、雲南やさらにその西(いまのブータン)やインドシナの山岳部や沿岸部など周辺にいた人々。
 さらに、これはほとんど(だったら愉快なんだけどなあ)なんだが、漢人と同化することを拒否しつつ彼の地で一定の力を維持し続けた、鄧小平や李登輝蔡英文はどうなのだろう?)など「客家」と呼ばれている人たちにも、血縁に近いものを感じる。

 『古事記』を素直に読めば、後藤利雄の言う「最初の倭人」の分派は北漸後に東漸し、大和に到達することに成功した。半島や大陸との交渉が密だった北部西部沿岸を除いて、九州には大和に対して「われわれが本家だ」という記憶が生き続けていた。
 平家や足利尊氏南朝を生き延びさせたのは、その人々の記憶だったし、後藤の言う、近世や近代の「西日本の逆襲」もまた彼らのその血のたぎり抜きには考えられない。
 九州・四国に限らず、裏日本にも、東北にも、この列島には「別の歴史」を生きた人々が大勢存在する。それらの人々を糾合するためには極めて単純なイデオローグが要求された、んじゃないかな。
 それは、たとえば「スペインなんて国はどこにもなかった。いまもないのかも知れない」と教えられたイスパニアが統一を図るためにはカソリシズムを必要としたのと同様のことに思えるし、中国にいたってはまだその途上に見える。近代に至るまで数百の国に分かれていたというドイツで何が起こったのかは、これから見ていきます。
 ※読んでいてびっくりしたことの報告。
 後藤利雄が措定した「邪馬台国への道」は、この1~2年に読んだ「近世の宣教師たちが長崎・大分間を往還したルート」を実際にあるいて措定した男(書名も著者も覚えていない。)の考えとまったく同じだった。両者が互いに相手の仕事を知っていたはずはない。それぞれが自分の興味に従って別々に、まったく同じ「道」を発見したことになる。

後藤利雄(山形大学。専門は万葉集。)「邪馬台国と秦王国」

○倭 また騰黄神獣有り、その色は黄、状は狐のごとく、背上に両角竜翼有り、・・・日本国に出づ、寿三千歳、黄帝得てこれに乗り、遂に六合(くに)を周旋す。・・・―― 『雲笈七籤』巻一百「軒轅本紀」――
○燕地 楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国となる。歳時をもって来たりて献見す云。――『前漢書』巻二十八下、地理誌。――
○燕 蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。――『山海経』――
○倭 周の成王のとき倭人鬯(ちよう)草を献ず。――『古今沿革地図』、『論衡』後漢・王充――
※ 鬯(ちよう)草=鬱金草=熱帯アジア原産。種子島琉球・台湾に自生。(牧野富太郎

 紀元前十一世紀ごろから、すでに倭人は、大陸との交渉を持っていた。・・しかし「倭国」ではなくて、あくまでも「倭人」である。・・「倭国」と称し得るような連合体は、まだなかった。
 ・・沖縄方言が、日本語から分離したのは、約二千年前と、言語年代学は推定している。しかし沖縄になぜ日本語が根を下ろしたかについては、誰も推測をしていない。歴史時代に入ってからの沖縄は、日本よりも中国との関係が深い。人種的にもかなりの混血を経ており、倭人ばなれした風貌も目につく。にも拘わらず、日本語の方言が話されているのは何故か。
 それはかつて沖縄が日本の主役であった時代があったからだと、私は考える。歴史以前に大陸と交渉を持ったのは、他ならぬ沖縄の人たちだった。魏志倭人伝にも対馬壱岐(一大≒一支)の島民が,舟に乗って南北に交流することが記されているが、何時の時代も、島々の人々は、そうしなければ生きてはいけない。周王朝が鬯草を欲しがっているという話を聞けば、それを献上して見返りの品を手に入れる。舟行に馴れた人ならば,誰しもが為すところであろう。
 その結果、沖縄には、大陸文化が、どの地よりも早く投影し、全倭人の先達となり、主役を務めるようになった。
○濊、狛、倭、韓、万里にして朝献す。――『漢書東夷伝―― 
建武中元二年、倭奴国、奉貢して朝賀す。――同『漢書東夷伝――
 紀元一世紀ごろは、主役の座も脇役の座も、九州に明け渡していた。
 沖縄の主導権(は)いきなり北九州の奴に移ったものではなかろう。・・九州南端の人々が、沖縄人に代わって主導権を握った時代があったろう。・・
 (九州南端の人々の)誇り高さが、三世紀において、邪馬台国に隷属することを肯んじさせなかったものと思う。そして武力や権力の点では、それを席巻できる程の力を持った邪馬台国の側でも、その存立を許容し、敢えて侵略ようとしなかった。

※後藤利雄「邪馬台国≒南九州説」要約。
 倭は沖縄に始まり、以後北漸して九州に到った。「倭国大乱」終息後、平和的な連合国家を形成した邪馬台国の影響は伊予・周防、つまり四国・中国地方にまで拡がっていった。
 ・・(大和政権の呼ぶ「熊襲」や「隼人」こそが「倭人」だった。)・・大隅、薩摩、それから日向の一部の人達は、「夷人雑類」の烙印を押されることによって、「犬吠え」をさせられたりして長期間忍従を余儀なくされた。そして彼らが真実の日本人であったことの証明は,実に十七世紀初頭の関ヶ原の合戦を、はたまた十九世紀の明治維新を待たなければならなかったのである。

※拙考。
 ワタクシは沖縄以前(有史以前)にも「倭」の先祖がいたと考えています。それは中国が「南人」と総称した人々。場所でいうなら、雲南やさらにその西(いまのブータン)やインドシナの山岳部や沿岸部など周辺にいた人々。
 さらに、これはほとんど(だったら愉快なんだけどなあ)なんだが、漢人と同化することを拒否しつつ彼の地で一定の力を維持し続けた、鄧小平や李登輝蔡英文はどうなのだろう?)など「客家」と呼ばれている人たちにも、血縁に近いものを感じる。

 『古事記』を素直に読めば、後藤利雄の言う「最初の倭人」の分派は北漸後に東漸し、大和に到達することに成功した。半島や大陸との交渉が密だった北部西部沿岸を除いて、九州には大和に対して「われわれが本家だ」という記憶が生き続けていた。
 平家や足利尊氏南朝を生き延びさせたのは、その人々の記憶だったし、後藤の言う、近世や近代の「西日本の逆襲」もまた彼らのその血のたぎり抜きには考えられない。
 九州・四国に限らず、裏日本にも、東北にも、この列島には「別の歴史」を生きた人々が大勢存在する。それらの人々を糾合するためには極めて単純なイデオローグが要求された、んじゃないかな。
 それは、たとえば「スペインなんて国はどこにもなかった。いまもないのかも知れない」と教えられたイスパニアが統一を図るためにはカソリシズムを必要としたのと同様のことに思えるし、中国にいたってはまだその途上に見える。近代に至るまで数百の国に分かれていたというドイツで何が起こったのかは、これから見ていきます。
 ※読んでいてびっくりしたことの報告。
 後藤利雄が措定した「邪馬台国への道」は、この1~2年に読んだ「近世の宣教師たちが長崎・大分間を往還したルート」を実際にあるいて措定した男(書名も著者も覚えていない。)の考えとまったく同じだった。両者が互いに相手の仕事を知っていたはずはない。それぞれが自分の興味に従って別々に、まったく同じ「道」を発見したことになる。

後藤利雄(山形大学。専門は万葉集。)「邪馬台国と秦王国」

○倭 また騰黄神獣有り、その色は黄、状は狐のごとく、背上に両角竜翼有り、・・・日本国に出づ、寿三千歳、黄帝得てこれに乗り、遂に六合(くに)を周旋す。・・・―― 『雲笈七籤』巻一百「軒轅本紀」――
○燕地 楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国となる。歳時をもって来たりて献見す云。――『前漢書』巻二十八下、地理誌。――
○燕 蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。――『山海経』――
○倭 周の成王のとき倭人鬯(ちよう)草を献ず。――『古今沿革地図』、『論衡』後漢・王充――
※ 鬯(ちよう)草=鬱金草=熱帯アジア原産。種子島琉球・台湾に自生。(牧野富太郎

 紀元前十一世紀ごろから、すでに倭人は、大陸との交渉を持っていた。・・しかし「倭国」ではなくて、あくまでも「倭人」である。・・「倭国」と称し得るような連合体は、まだなかった。
 ・・沖縄方言が、日本語から分離したのは、約二千年前と、言語年代学は推定している。しかし沖縄になぜ日本語が根を下ろしたかについては、誰も推測をしていない。歴史時代に入ってからの沖縄は、日本よりも中国との関係が深い。人種的にもかなりの混血を経ており、倭人ばなれした風貌も目につく。にも拘わらず、日本語の方言が話されているのは何故か。
 それはかつて沖縄が日本の主役であった時代があったからだと、私は考える。歴史以前に大陸と交渉を持ったのは、他ならぬ沖縄の人たちだった。魏志倭人伝にも対馬壱岐(一大≒一支)の島民が,舟に乗って南北に交流することが記されているが、何時の時代も、島々の人々は、そうしなければ生きてはいけない。周王朝が鬯草を欲しがっているという話を聞けば、それを献上して見返りの品を手に入れる。舟行に馴れた人ならば,誰しもが為すところであろう。
 その結果、沖縄には、大陸文化が、どの地よりも早く投影し、全倭人の先達となり、主役を務めるようになった。
○濊、狛、倭、韓、万里にして朝献す。――『漢書東夷伝―― 
建武中元二年、倭奴国、奉貢して朝賀す。――同『漢書東夷伝――
 紀元一世紀ごろは、主役の座も脇役の座も、九州に明け渡していた。
 沖縄の主導権(は)いきなり北九州の奴に移ったものではなかろう。・・九州南端の人々が、沖縄人に代わって主導権を握った時代があったろう。・・
 (九州南端の人々の)誇り高さが、三世紀において、邪馬台国に隷属することを肯んじさせなかったものと思う。そして武力や権力の点では、それを席巻できる程の力を持った邪馬台国の側でも、その存立を許容し、敢えて侵略ようとしなかった。

※後藤利雄「邪馬台国≒南九州説」要約。
 倭は沖縄に始まり、以後北漸して九州に到った。「倭国大乱」終息後、平和的な連合国家を形成した邪馬台国の影響は伊予・周防、つまり四国・中国地方にまで拡がっていった。
 ・・(大和政権の呼ぶ「熊襲」や「隼人」こそが「倭人」だった。)・・大隅、薩摩、それから日向の一部の人達は、「夷人雑類」の烙印を押されることによって、「犬吠え」をさせられたりして長期間忍従を余儀なくされた。そして彼らが真実の日本人であったことの証明は,実に十七世紀初頭の関ヶ原の合戦を、はたまた十九世紀の明治維新を待たなければならなかったのである。

※拙考。
 ワタクシは沖縄以前(有史以前)にも「倭」の先祖がいたと考えています。それは中国が「南人」と総称した人々。場所でいうなら、雲南やさらにその西(いまのブータン)やインドシナの山岳部や沿岸部など周辺にいた人々。
 さらに、これはほとんど(だったら愉快なんだけどなあ)なんだが、漢人と同化することを拒否しつつ彼の地で一定の力を維持し続けた、鄧小平や李登輝蔡英文はどうなのだろう?)など「客家」と呼ばれている人たちにも、血縁に近いものを感じる。

 『古事記』を素直に読めば、後藤利雄の言う「最初の倭人」の分派は北漸後に東漸し、大和に到達することに成功した。半島や大陸との交渉が密だった北部西部沿岸を除いて、九州には大和に対して「われわれが本家だ」という記憶が生き続けていた。
 平家や足利尊氏南朝を生き延びさせたのは、その人々の記憶だったし、後藤の言う、近世や近代の「西日本の逆襲」もまた彼らのその血のたぎり抜きには考えられない。
 九州・四国に限らず、裏日本にも、東北にも、この列島には「別の歴史」を生きた人々が大勢存在する。それらの人々を糾合するためには極めて単純なイデオローグが要求された、んじゃないかな。
 それは、たとえば「スペインなんて国はどこにもなかった。いまもないのかも知れない」と教えられたイスパニアが統一を図るためにはカソリシズムを必要としたのと同様のことに思えるし、中国にいたってはまだその途上に見える。近代に至るまで数百の国に分かれていたというドイツで何が起こったのかは、これから見ていきます。
 ※読んでいてびっくりしたことの報告。
 後藤利雄が措定した「邪馬台国への道」は、この1~2年に読んだ「近世の宣教師たちが長崎・大分間を往還したルート」を実際にあるいて措定した男(書名も著者も覚えていない。)の考えとまったく同じだった。両者が互いに相手の仕事を知っていたはずはない。それぞれが自分の興味に従って別々に、まったく同じ「道」を発見したことになる。

美浜日記2020/07/04

 こちらに「なし」という言葉がある。
 東京弁でいうなら「なぜ」。
 ただし、「なぜ」とちがってじつに頻繁に使われた。
 大人の言うことに「?」を感じた子どもは即座に(相手が親でも先生でも)「なし?」語尾は上がらない。だから小学校の先生はつねに「なし」攻めに遇う。
――なし?
――なし?
――なし?
 もちろんアラキさんちのミットちゃんはいいとこの坊ちゃんなので、「どうしてなんですか?」と標準語で訊き返していたけれど、先生は逆にチビから見下ろされているような不快感を覚えていただろうなと思うようになったのは大人になってから。「なし」にはそんな、どこか相手をとがめるようなニュアンスもあった。――でも、この「疑問を感じたら即ぐにそれを表明する」文化は相当に強烈だった。多分それが炭鉱町独特の文化のひとつ。「納得できないことはしない。」
 ついでに言うと、「なし」は語尾につきう場合もある。「○○でなし。」は「○○ですよね」という念を押す言い方。「そうでなし。」は「そうですよね。」東北に「○○でない。」という同じ用法があるのを知ったときは懐かしかった。
 若いころ大分を歩いていて、『なしか』という麦焼酎の看板を見つけて嬉しくなった。(ここにも「疑問を感じたら即座にそれを表明する」文化がある。)その文化から「下町のナポレオン」いいちこが生まれたんだと思っているし、大林宣彦が作っていたんだろうと勝手に思っている「二階堂酒造」のCMにも同じ文化の匂いを感じていた。
――懐かしい?
 そんな文化のなかで育ったせいだと思うが、高校に入って、「知性とは疑うことだ」と言わんばかりの言説(疑いさえすれば相手より優位に立てる)には「アホか」。ましてや「すべてのことを疑え」と言ったとか言わなかったとかいう哲学者には「だったら、そう言う自分をまずは疑ってみろ」

 母親もすぐに「なし」を息子に向かって発していた。
 「うーん。それはねぇ。」
 生徒に説明するときのように、ゆっくりと話すと「・・・・・。」あるときはそのあとに「あんた、自分が政治家になろうちゃ思わんとね?」
(ああ、母親はそれなりに息子を評価しているんだな)と感じるのは、母親にとって幸せなことだろうと思われた。「あたし、あんたごたる先生から習いたかった。」

 8月15日には毎年記念放送がある。
 晩年の父親はただただボロボロ涙を流しつづけていた。「いかん? 戦争はいかん?」
 母親は毎年のように「みちと、なし、日本は戦争をしたとね?」物覚えのいい人だったから前の説明とはちがう言葉で(でも、たぶん同じ事を)話していたが、その年は説明が終わってもまた「なし?」それに答えてもまた「なし?」、そして、とうとう、こちらが答える前に全身の力を振り絞って「なし?」を発してそのまま前に崩れ落ちた。
――お前、小説家になれ。
 という声が聞こえてきそうだが、(こんなこと、もったいなくて、小説なんかに出来るか?)
 その後の彼女は身も心も軽くなり、入居したグループホームの部屋に父親の写真を飾ると「それ、誰ね?」本気で訊いていた。
――先生、それ、なしですか?
――うーん。なしかなあ。
(あ、この先生はオレの感じた疑問を正当な疑問として受けとめてくれた。)
――ちっぽけなヒロイズムなんか捨てろ。
(ああでもなし、こうでもなし。なしですかなあ?)

 今年はじめての墓参りをすませた帰り道のホームで、小学生と思われる女の子に声をかけられた。
――あなたはどこに行きますか?
――ん? ○○。
――わたしは○○に行きたいです。
 子どもから「あなた」と呼びかけられたのは、たぶん初めて。
――○○ならね、反対側のホームで待っていなさい。
――はい、ありがとうございます。
(この子はアジアじんではあっても日本人じゃないのかもしれないな。)と思っていると、取り出したキャンディかチューインガムの銀紙とセロハン紙を指先でつまんだまま、
――これ、どこに捨てますか?
――(たまたまポケットに入れていたので)あ、それじゃ、おじいちゃんのゴミ袋に入れなさい。
――はい、ありがとうございます。
(この子はひょっとしたらオレと似たような道を歩くことになるのかも知れない。)と、そっとエールを送った。
             2020/07/04

美浜日記 國分功一郎

『中動態の世界』を読み終えて、言葉が出なくなった事情を少しだけ書きます。
 「自由を追求することは自由意志を認めることではない。中動態を論ずるなかでわれわれは何度も自由意志あるいは意志の存在について否定的な見解を述べてきた。もしかしたらその論述は読者に〝自由〟に対する否定的な見解を抱かせたかもしれない。・・・・
 だが、自由意志を信仰することこそ、われわれが自由になる道をふさいでしまう・・・・。その信仰はありもしない純粋な始まりを信じることを強い、われわれが物事をありのままに認識することを妨げる。・・・
 ・・・中動態の哲学(≒スピノザの『エチカ』)は(※自由意志ではなく)自由を志向する。」
※終章は『白鯨』のメルヴィルの遺作『ビリー・バッド(主人公の名前)―未完―)』について。オペラにもなっているそうだ。ビリーは『白痴』を思い出させた。
 「われわれは完全に自由にはなれないし、完全に強制された状態に陥ることもない。・・・われわれは、ときおり、自由に近づき、ときおり、強制に近づく。・・・われわれはおそらく、自分たち自身を思考する際の様式を根本的に改める必要がある。それは容易ではない。しかし不可能でもない。・・・われわれは中動態の世界を生きているのだから。」
※「むすび」の最後に「当初の計画ではまったく予定されていなかった」ハンナ・アレントに言及し、「何か運命的なものすらを感じた。」と言う。
「一度でよいから実際に会ってお話をしてみたかった。〝ビリーもクラッガードもヴィアもわれわれそのものではないでしょうか?アレント先生には彼らのようなところはありませんか?〟――その際におうかがいしたかったことはただ一つこれである。」
 ※それはバルラハの『大洪水』を読んだ時のこの男の感想でもあった。
 池田先生に手紙を書いたので、そのコピーを送ります。
 書いたあとに思い出したことが二つ。
 ひとつはウナムーノのmono dialogos。『アベル・サンチェス』はまるで戯曲のような小説だった。
 あとひとつは学生時代の漱石が提出したという『老子の哲学』。そのなかで夏目金之助青年は「老子の哲学は一元論だ。」と意気軒昂に書く。「一元論に発展性はない。」――でも、二元論的芸術なんてあるんですか?
      ピュシス⇔中動態⇔自動詞(甦る・現る)⇔ノン・エゴ
 この世界は二元論を手に入れることによって文明が勃興し、拡がり、つながり、充実してきた。その芳醇な果実はいま世界各地でたわわに実っている。と同時に、封じ込めてきた「自然」からまがまがしい災厄が始まることを人々は恐れている。
 それでも言えることはひとつだけ。
 前に進むしかない。
 そんなことを考えています。
 
  やっと春っぽくなってきました。
 数年前から冬の寒さがひどくこたえるようになりましたので、暖かくなると、それだけで嬉しくなります。
 世間ではコロナ騒ぎがおさまりませんが、どこかの国の医者が言った通り、再来年頃にはインフルエンザの一種程度とみなされるようになるのでしょう。
 お元気のことと存じます。
 わたしは、リタイア後の一年は、これでもか、これでもか、という状態が続き、年があらたまって一息つくつもりでしたのに、今度は数冊の本との出会いがあって、実はいま言葉を失っています。
 浅野俊哉『スピノザ<触発の思考>』
 ジャン≒クレール・マルタンフェルメールスピノザ<永遠>の公式』
 大貫隆グノーシスの神話』
 福岡伸一『西田哲学を読む』
 國分功一郎『中動態の世界』
 國分功一郎はNHK「百分de名著」で知った若者で、その冊子はいまも机の正面に置かれています。
 グノーシスはずいぶん前から気になり続けていたものですが、今回やっとおぼろげながらイメージが湧いてきました。
 福岡伸一の『西田哲学』は、ひとことで言うなら「ピュシスの哲学」(そのことば自体が成り立ち得るものなのかどうか私には判然としませんが、それがいわゆる「哲学」と呼べるかどうかは別にして、私には近しいものです。と言っても、若い頃『善の研究』を読んだだけなのですが。)
 浅野俊哉は次のように述べています。
 「スピノザが見たのは次のような世界のあるようである。・・・何かと何かが出遇い、そこに前と異なる状態が現出する。・・・世界とはそれらが遭遇し、反発し合ったり、時にひとつに合わさって新たな存在や力を創出したりしながら、たえず変化を続けて止まらない生成の過程以外のものではない。」
――これって、福岡伸一の「動的平衡」そっくりじゃないか?
 「中動態」については、わたしは、日本語はもともと中動態的世界だったんじゃないかなと感じていました。そのいわば中和的状態が二度激しく揺さぶられて、いまのような日本語になった。――一度目は漢化によって、二度目は洋化によって――。そういうイメージでしたが、國分功一郎を読んでいると、実は、それは世界中で起きたことなのかもしれない、と感じつつ、先生の文章を思い出しました。
 ご無礼して書きます。
 「近代の敷居にたっていたファウストゲーテ)にとっての無意識の意識化は必然であった。しかし、・・・心のうちなる非自我(ノン・エゴ)・・・の意識への同化は極めて大きな危険をともなう。・・・けれども、・・・かかる非自我としての無意識の実在を知り、謙虚に受けとめることなしには心の全一性を回復することはできない。」
 「ファウストの下降は死と再生の旅。「冥府行」にほかならない。」
 12月、友人に誘われた宮崎県米良銀鏡神楽で大泣きに泣いてしまった体験はまさにそれでした。「よみがえる」とは「黄泉からかえる」ことだったと気づきました。
 その「よみがえる」は能動態でも受動態でもありません。
 西田幾多郎福岡伸一)のピュシス。
 スピノザ國分功一郎)の中動態。
 ユング池田紘一)の非自我。
 それらは、わたしには別々のものとは思えません。
 国分は後書きに書いています。
 「哲学は概念を扱う。哲学は漠然と真理を追究しているのではない。直面した問題に応答すべく概念を創造する――それが哲学の営みである。(真理とはおそらくこの営みの副産物として得られるものだ。)哲学にできるのはそのようなことであり、そのようなことでしかない。」
 「言ひおほせて何かある。」
 しかし、「言いおおせ」ようとしない者に「何か」(それは究極のところ言語化不能のことに思えますが)の手がかりはありません。――これはグノーシス的かもしれません。
 お彼岸を過ぎたら、今年も動き出すつもりです。
 足がかりは得られた感じがしますので、勇躍動き出します。どうせ自分にはたどり着けないところを目指しているのだと考えていますから、かえって気が楽です。(行けるところまで行けばいい。)  
 そして、小林秀雄の書くように「闇夜で何かにさわった」という感触がもし得られれば、それで十分です。
 その可能性はあります。わたしは自分を「めちゃくちゃに運のいい男」だと思い込んでいます。
 次回、お会いできる時が待ち遠しいです。
 奥様にもよろしくお伝え下さい。
                     3/19
                    我が家の態度のデカい精霊の誕生日に。 

五つの物語

 
      五つの物語
 
 
<1>   あると

 体がすっと持ち上げられた。
 これまで経験したことのない高さになったが、ちっとも怖くなかった。
 あたかい胸に抱かれて喜びでいっぱいになったとき、
 彼女は母親のことも兄弟のことも、すべて忘れていた。
 少年は子犬をあるとと名づけた。
 「あると!」
 そう呼ばれただけで幸福になりすぎて体がふるえ、
 あるとは少年のもとに駆けつけた。
 抱きかかえられたあるとは、も一度幸福を味わいたくて体をばたつかせ、
 下ろされると、わざと少年から離れて、名前を呼ばれるのを待った。
 「あると!」
  聞き終わらないうちにあるとは少年に突進した。
 至福の毎日が過ぎ、あるとは少年を追い越して大人になった。
 ある日の散歩の途中、あるとは一匹の美々しい犬を見かけるともう走り出していた。
 「待て!」という少年の声は耳に入らなかった。
 あるとは五匹のかわいらしい子どもを産んだ。
 子どもたちから乳を吸われているとき、
 あるとは喜びで恍惚となりそうだった。
 お腹が空くと町に出て、
 口を動かしている人間の前にお座りしてシッポを振った。
 辛抱強くシッポを振っていれば、人間は苦笑して食べ物を分けてくれた。
 魚屋や肉屋は、店じまいのときに残りものを投げてくれた。
 出産場所に選んだ神社の床下は、あるとと子どもたちとの楽園だった。
 そこを侵そうとするものが現れたとき、
 あるとは歯をむいて威嚇し、追い払った。
 乳離れを迎えた子どもたちを、ランは町に連れていった。
 子どもたちが人間に抱きかかえられて行くのを、
 あるとはうっとりとしながら見送った。
 充実した日々を過ごしているうちに、あるとは老いていった。
 雄犬はあるとに近づかなくなった。
 シッポを振っても食べ物をくれる人間が減った。
 あるとはやせていった。
 でも、あるとは落胆しなかった。
 それほどお腹が空くこともなくなっていた。
 子どもたちとの楽園だった神社の床下でまどろむときがいちばん安心できた。
 そこであるとは夢をみていた。
 夢をみているときあるとはしあわせだったが、
 それが何の夢なのかはわからなかった。
 
 ある日、喉のかわきをおぼえて床下から外に出ると、やせこけたた犬と目が合った。
 飢えた犬のなかには、死肉の味を覚えたものがいることをあるとは知っていた。
 それでも、べつに怖いとは感じなかった。
 ただ一瞬立ち止まったとき急に喉が熱くなった。
 
 「こらっ!」
 太い声が聞こえると、喉の熱さが消えた。
 
 「かわいそうに」
 大きな手が体を抱きあげようとしているのが分かった。
 
 そのとき彼女は自分が「あると」であるのを思い出した。
 満ち足りた気持ちが体のすみずみにまで行きわたった。
                                                   2016/11/04
                    
 


        〈二〉
タカ女(じよ)とキビョウエ
 
北の国にタカという美しい娘がいた。
母を早くに亡くしたので、タカは父と弟のためにかいがいしく働いていた。
タカの家は武家だった。
父と弟は戦場にいることが多かった。
戦場から戻ってくると、弟は姉に甘えてばかりいた。
戦場では並の男以上の働きをしているというのがタカには信じられなかった。
家事を仕切ることと父や弟の無事を祈ることがタカの日常だった。
 
ある日、郎党(ろうとう)が息を切らせて駆け込んできた。
父と弟の訃報だった。
「父上のみならず弟までか?」
「ははぁ。」
「何故(なにゆえ)? 何故じゃ!」
タカの髪は総毛立(そうけだ)ち、眼(まなこ)は真っ赤になり、目尻は切れ、顔中に真っ黒い剛毛が生えた。
以後、戦(いくさ)があるたびにタカは、父や弟の代わりに甲冑(かつちゆう)で身を固めて出陣した。
まっ黒い髭(ひげ)の奥で真っ赤な眼がらんらんと光っているタカの顔を見ると、敵は恐れをなして逃げた。
北の国は連戦連勝であった。
鬼女タカの名は諸国に知れ渡った。
 
南の国にキビョウエという心優しい男がいた。
父を早くに亡くしていたので、キビョウエは母や姉のために家長としての義務を忘れることがなかった。
キビョウエの家は武家であった。
ある時、臨月を迎えようとしている姉を気づかいながら、キビョウエは戦場に赴いた。
長い長い戦いは勝利し、意気揚々と戻ってみると、町は敵の伏兵に焼かれ、母も姉も殺されていた。
「なんと酷(むご)いことを!」
その時赤子(あかご)の激しい泣き声が聞こえた。
姉の子であった。
キビョウエが抱きかかえた赤子(あかご)はすぐにキビョウエの胸をさぐった。
お腹をすかせていたのだった。
赤子のなすままにさせていると、キビョウエの胸がみるみる膨らみ乳がほとばしり出た。吸いたいだけ乳を吸って満足した赤子はキビョウエの胸ですやすやと眠りはじめた。
一部始終を見ていた郎党たちは畏れおののき、キビョウエを敬った。
以後、戦いのたびに、郎党のみならず南の国の兵卒は「キビョウエさまを守れ」と結束した。
どんな難敵が襲って来ようとも、兵卒は一歩も退こうとはしなくなった。
南の国は連戦連勝であった。
母男キビョウエの名は天下に知れ渡った。
 
ついに北の国と南の国が雌雄を決する時がきた。
北の国の兵卒に勝利を疑う者はひとりもなく、タカ女(じよ)を先頭に進軍した。
南の国のすべての兵卒は奇蹟の母キビョウエの守護を信じ、粛々と合戦場に展開した。
「かかれぇ!」
将の号令一下、北の兵卒は南に突撃を開始した。
南の兵卒はキビョウエの周りに集結した。
ところが、猛(たけ)り狂ったキビョウエの馬は、味方を蹴散らして真一文字にタカ女に向かってって行った。
タカ女の馬もまたキビョウエのみが敵であるかのように他には目もくれず走った。
会戦場の中央で両者の馬がすれ違うかと思われた時、互いの槍が互いの胸を貫いた。
ふたりは抱き合うようにして横倒しに馬から落ちた。
地に横になったタカ女の顔から髭(ひげ)が消え、美しい女性(によしよう)の顔が現れた。
「お手前がタカ女殿であるか。」
「キビョウエ様ですのね。」
「お会い致しとうござった。」
「嬉しゅうございます。」
ふたりは犇(ひし)と抱き合った。
しかし、その力ははやくも萎(な)えはじめていた。
「もっと語り合いたいが、もうその時間は残されておらぬようだ。ゆるせ、タカ殿。」
キビョウエは最後の力を振り絞って、両軍に聞こえる大音声(だいおんじよう)をあげた。
「者ども聞け! 我らをともに葬れ! この世ではかなわなかったふたりが、のちの世で夫婦(みようと)として添い遂げるためである!」 
タカは満足そうに最後の息をもらした。
タカを抱くキビョウエの腕が緩みはじめた。

北の国の将が兵卒たちに命じた。
「槍を地に置け! このふたりを手厚く葬ろうぞ。」
南の国の将も応じた。
「弓矢も刀も納めよ! ふたりを荼毘(だび)にふす枯れ枝を集めて参れ。」
兵卒たちからすすり泣きの声が漏れはじめた。
夕闇が迫ってくる頃、北と南の別なく、兵卒たちが黙々と集めて積み上げた枯れ枝は、小さな岡のようになった。
二人の亡骸(なきがら)はその上に置かれた。
北の将が大きな声で呼びかけた。
「南の将よ、二度と会うまいぞ。」
南の将も応じた。
「北の将よ、二度と会うまいぞ。」
兵卒たちのすすり泣きは。嗚咽(おえつ)に変わった。
           
とっぷりと暮れた頃、枯れ枝に火が入れられた。
枯れ枝はまたたく間に燃え上がり兵卒たちを赤く照らした。
兵卒たちの嗚咽は号泣となった。
その声は夜空に響き、満天の星たちをふるわした。
                                       2016/11/17
                          
 

      <3>木履(ぽくり)
 
 八七歳の恩師を囲んだクラス会は参加者は十人だったけど盛況だった。
 企画してくれたCちゃん、割り勘要員という名目で加わってくれたO、I、それに、わずかな酒で大声を張り上げる半端爺々の面倒を文句も言わずにして下さったお店の方々、それから、言い忘れたらあとが怖しい優しい女性軍よ、有り難うございました。
 『雪国』を二十回以上読んだというSとは、またも言い合いこになった。「そんな風やからややこしい生き方をしてしまうとたい。女の気持ちやら分からん振りをして戸惑っておけば長続きする。」(なんだか、のっけから何処かの学校の△山通信みたいになってきた。でも、気づかないふりをするのも貴重な優しさ。)とはいうものの、一連の近代史ものが終わったら、友情の証しに五十数年ぶりに読んでみる。『津軽』同様なにか新しい発見があるかもしれない。
 先生は教え子たちに校歌を歌うように要求する。──魚津でもそうだったな。「ミチト歌え!」
 ーー歴史は遠し三千年 光遍き大御代に・・・見よや燦たる校章は朝日に匂う山桜
 教員と生徒の合作なのだそうだ。
 「ヨーシ、匂う、ちゃ何か?」
 「匂いというのはこの場合は鼻でかぐものではなく目で見るまぶしいほどの美しさを言います。」
 「ヨーシ、さすがは国語の先生!」
 (もう引退したんですけど、、、。)
 「なんで山桜なとか? 本居宣長はなんで大和心を山桜に喩えたとか?」
 「サクラ、サクラ、彌生の空は見渡す限り、霞か雲か、ちゅうでしょ? 山桜はぜんぜん目立たんで満開になっても霞か雲と間違えられるぐらいぼうっと見えるとです。だから、目立つ様なことは一切期待せず、己が義務と思うことを確実に果たして自足する精神を、本居宣長は山桜に喩えたとです。」
 「ウーン。よかろう。じゃ、ソメイヨシノと山桜はどう違うとか?」
 「ソメイヨシノは花が先に咲きます。花が散ってから葉が出ます。でも山桜はですねぇ、葉と花が同時です。」
 「ちょっと違う。山桜は葉が先に出る。花はあと。その代わりじっくり咲く。ソメイヨシノはパッと咲いてパッと散る。」
 「はあ、」
 先生は突然「遠き別れに耐えかねて、、」を歌い出す。教え子たちもそれに続いて斉唱する。
 ーー君がさやけき目の色も、君くれなゐの唇も、君が緑の黒髪も、
 たしか前後三回も歌わされた。
 「緑の黒髪ちゃ何か? どうして黒髪が緑なとか?」
 (こんなシツコい人とは思っていなかった。坦々と受験英語を教えながら、こんなことを考えていたんだ)
 「みどり児ちゅう言葉がありますから、「みどり」は色ではなくて、初々しさや若さを表しとぉっちゃないとですか?」
 (日本語の色は、以前「白馬」で「どうして「白」が「あを」なのか」についてウンチクを傾けた様に実にややこしい。)
 「ウーン。も少し行け。生命力じゃ。緑の黒髪はイキイキした黒髪なったい。」
 ーー先生の言いたいことが分かった! 山桜のほうがソメイヨシノより生命力に満ちとる。粘り強く生きるとが大和心ぞち言いたいとばい。
 ーーお前たちはまだヒヨッコじゃ。まだまだこれからジックリと葉を茂らせれ。花を咲かせるとはずっと後ぞち先生は言いよんしゃぁとやね。
 「先生まかせといて下さい。オレたちはしぶとく長生きします。先生もですよ。」
 「オウ、お前たちはオレにとって特別の生徒じゃ。」 
 「これからがオレたちの黄金の十年ぞ!」
 「オウ! よう言うた!」
 それから越後湯沢の話に変わったのは、Sが『雪国』にこだわっていたからだろう。
 その先生の話は次のようなものだった。
 
昔、越後湯沢に匂いたつほどに美しい娘がいた。
娘は両親を知らずに育ったが、優しい祖父母と兄たちに守られて健やかに成長した。
村の男たちは彼女のまばゆさに誰も声をかけることが出来ずにいた。
娘は年頃になっても一度も男から言い寄られないのを気に病んでいた。
まだ鏡というものを知らなかった頃のことである。
ある年の夏祭のとき、隣村から来た若者が、一緒に踊ろうと誘った。
娘は天にものぼる気持ちになった。
祭が終わったあと若者は、来年の春、雪が融けたら迎えに来ていいか、と娘に言った。
娘は大きくうなづいた。
秋がきて冬になった。
雪が降り続き、みな家に閉じこもっているしかなかった。
家族の話題はしぜんに隣村の若者のことになった。
「早く春が来てくんろ」
しかし、越後湯沢の冬は長かった。
毎日毎日雪が降り続いた。
ほんとうに春が来るのか。
それ以上に、あの人は本当に迎えに来てくれるのか。
娘はしだいに悩み始めた。
そして焦りはじめた。
ある日、娘は、隣村に行ってみると言い出した。
驚いた家族は、吹雪になるかも知れないからと引き留めようとした。
しかし、寡黙な娘が一度言い出したら決して引こうとしないことを良く知ってもいた。
娘は、親が、形見にと娘に残した木履を出してきた。
「そんなもん危ねぇから、せめて雪ぐつを履いていけ。」
娘は拒んだ。
女の子に恵まれたことを喜んで親が買ってくれていたという木履以外、彼女は何一つ華やかなものを持ち合わせていなかった。
木履での雪道は難渋した。
それでなくとも覚悟していた道中は少しも進まなかった。
しかも家族の言ったとおり次第に吹雪き始めた。
寒かった。
暗くなってきた。
方角があやしくなっていった。
泣きそうになるのをこらえながら、それでも先に進もうとして転んだ。
「ひゃっ。」
足から外れた木履を手にした娘に絶望感が襲った。
片方の鼻緒が切れていた。
「会えない。」
彼女は泣きながら引き返した。
「会えない。」
それは、もう一生会えないことのように思えた。
吹雪は何日も続いた。
娘は食事も喉を通らず、口もきけずに過ごした。
家族はただ黙って見守っているしかなかった。
雪も風も止み、明るい陽がさしてきた日。
娘は木履のことが気になって、も一度あの場所に出かけた。
木履はなかなか見つからなかった。
見つからなければ見つからないほど、鼻緒が切れたとは言え、あの木履が、自分と若者を結びつける唯一のたよりのような気がした。
この辺りだったはずだと雪を払っているうちに、
「あった!」
木履を見つけた。
手にした木履には真新しい赤い鼻緒が付け替えられていた。
 
 先生の話の記憶はそこで途切れている。
 先生が酔ってしまったのか、自分が限界を越えたのか、あるいはその両方か、もうその記憶も当然のようにない。ただ、新しい鼻緒の赤さはいまも、それこそ「みどりの赤」と呼びたいほど鮮やかに甦る。
 だから、その記憶が新鮮なうちに、先生の話を完成させたい。
 
「あの人だ。あの人は虫の報せで吹雪のなかを私を探しに出てきたんだ。そして鼻緒の切れたこの木履を見つけて、付け替えてくれたんだ。ーー春になったら必ず迎えにいくから待っていろーーと私を励ますために。」
娘は、若者の冷え切った手を温めるかのように、そうっとその木履を胸に入れて抱きしめた。
そして涙が頬を伝わるのも気にせずに家に戻った。
もちろん、
春になり、雪がとけるとすぐ、若者が晴れやかな顔で娘を迎えにきた。
家族からの心のこもった風呂敷包みを抱えて出てきた娘は、赤い鼻緒を若者に見せて微笑んだ。
夫となるべき若者は左右の鼻緒が片々なのに気づき、「どちらかと似た布ぎれが家にあるかなぁ。」と思いつつ微笑みを返した。
村の若者は最後まで娘に声をかけることなく、まぶしそうに二人を見送った。

附記
 散会が近づいた頃、小学校以来の同級生が話しかけてきた。
 「アタシ、もういつ死んでもいいと思いよった。ばってん、未練を残しながら死ぬのもいいかなあち思うようになってきた。」
 「そら良か。是非そうしぃ。」
 「うん。」
                                                                      2017/06/06
 
 
      挿話
      
ドシンという大きな音がしたので階下に降りた。
ガラス戸の向こうに鳶らしき小さな物体を見つけた。
戸を開けようとすると、
「行ったらいかん! 母親が近くにおる!」
失神しているだけかもしれないと見守っていたが、いつまでたっても動かないので、玄関から回って裏庭に行ってみた。
バサッという音に驚いて見回すと、思いがけぬほど大きな翼が隣家の軒下から空に去って行くのが目に入った。
(ああ、いま彼女は、自分に子があったことを百%忘れた)
                                                             2017/110/29
 
                  <四>ひょう
     
太郎と始一は敵同士でありながら、互いを唯一の兄弟のように意識していた。
二人の父親は境を接した国の慈悲深い領主たちだった。
それぞれの領民を慈しみ、郎党を育てているうちに若者が増え、新しい耕作地が必要になったのだが、その新天地は入会地を越えた国ざかいの荒れ地にしか求めようがなかった。
二人の領主は、郎党や領民を気づかい、一騎打ちで決着させることを選び、入会地の奥に進み、人々の見守るなかで刺し違えて死んだ。
太郎と始一は幼い領主として大切に育てられたが、いつかはまた父親と同様の立場になることを覚悟し、心身の錬磨を怠ることはなかった。
太郎が矢を二十間先の的に当てたと伝え聞くと、始一は的を二十五間先に据えさせた。
始一が俵かつぎに加わっていると伝え聞くと、太郎は叺(かます)運びを手伝った。
太郎が畳では寝ようとしないと聞くと、始一は重ね着をいっさい拒むようになった。
始一が一汁一菜を貫いていると知ると、太郎は水以外の飲み物をけっして口にしなくなった。
あるとき太郎は領民から一頭の美しい仔馬を贈られた。
太郎はその馬が一目で気に入り、「ひょう」と名づけ、それからは馬小屋でいっしょに暮らした。
飼い葉を与え、体を洗い、いつもひょうに話しかけていると、ひょうはしだいに人語を解するようになった。
「シューッ。」
「ひょう、起きるぞ」
「シューッ。」
「ひょう、頭をあげろ」
「シューッ。」
「ヒョウ、足を折れ」
「シューッ。」
「ひょう、今日はよく走ったな。明日は川向こうまで行ってみるぞ」
「シューッ。」
可愛がっているうちに、ひょうはあっという間に太郎よりも大きくたくましくなった。
美しくたくましいひょうにまたがって巡回する太郎の後ろに郎党は誇らしげに続き、領民はまぶしそうに見上げては頭を下げた。
しかし、いちばん誇らしそうであるのがひょうであることを誰も疑わなかった。
太郎の治世は次第に国を富ませ、また子どもたちが増えはじめ、人々は太郎を見上げることがつらくなってきた。
始一の国もまた富んできたといううわさが流れてきていたからである。
あるとき太郎は新しい遊びをひょうに教えることを思いついた。
「ひょう、動くな」
「動くな、ひょう」
しだいに距離をとり、もう限界かと思えるところから、
「ひょう、来い!」
ひょうは猛然と太郎に突進した。
「どお、どお!」
「シューッ。」
「とまれ、ひょう!」
「シューッ。」
太郎が大手を拡げて立ちはだかると、ひょうは太郎の目の前で前脚を高々とあげて止まった。
息を呑んで見ていた郎党たちは、その鮮やかさと美しさに、思わず歓声をあげた。
太郎とひょうとの遊びは毎日つづいた。
ある日、太郎は始一に最大最高のm贈り物を届けた。
自分の最愛のひょうであった。
始一はひょうの美しさに一目惚れし、毎日いっしょに暮らした。
野を駆けるときも、水浴びをするときも、食事をするときも、眠るときも、始一とひょうはいつもいっしょだった。
ひょうは始一の人語もまたすぐに解するようになった。
「ひょう、悲しむな。それがどんな日になるかは別として、きっとまたお前は太郎に会える」
ひょうは始一にたいして常に忠実であったが、声でこたえることがないのに始一は気づかなかった。
国ざかいでの小競り合いが頻発するようになった。
太郎は始一に手紙を書いた。
「オレはひとりで行く。お前もひとりで来い」
始一は太郎に返事を書いた。
「郎党たちには百間(ひやつけん)以内にはけっして近づくなと命じる。かられがオレの命令に従うことを信じてくれ」
ふたりはそれぞれの入会地を過ぎ、峠を越えて争いの地につくと、馬にのって進んだ。
太郎の馬は新しい馬、始一の馬はひょうであった。
その天地の主人だった狼たちは恐れて二人にその場をゆずり、姿をかくした。
「始一、いくぞ!」
「太郎、こい!」
二人の馬は猛然と走り出した。
中間点ちかくまでくると太郎は馬から下り、大手を拡げて立ちはだかった。
「ひょう、どお、どお! とまれ!」
ひょうは前のめりになりそうになりながら立ち止まり、前脚を大きく空に向けた。
始一は地面に叩きつけられた。
「ひょう、オレのひょう!」
喜色に満ちあふれた太郎が近づこうとした。
しかし、ひょうはそのまま後ろ脚で進み、太郎の上に覆いかぶさってきた。
太郎はひょうの巨体を避けようとはしなかった。
「シューッ。」
(ひょう、お前はそんなにオレを恨んでいたのか⁉)
「シューッ。」
太郎の郎党たちは、
「この畜生めが!」
と駆けつけて次々にひょうの背中に槍を突き刺した。
ひょうはまるで太郎をかばうかのように身じろぎもせず、その槍をすべて受けとめた。
ひょうの背中は槍だらけになった。
「シューッ。」
息を吹き返した始一は目の前の光景をみてすべてを悟り、大声をあげた。
「ひけぇ! ものども、ひけぇ! もうお前たちの太郎は戻ってこない。オレの双子の兄弟のようだった太郎はもう戻ってこない。オレが心から愛したひょうももう戻ってこない。ひけぇ!」
始一はさらに続けた。
「お前らに太郎の何が分かるというのか⁉ お前らに太郎が分かるはずがない! オレしかいない。太郎が分かるのはオレしかいなかった! 太郎が分かるのはオレしかいなかったぁ!」
それから、始一は両側の人々に令した。
「帰れ! ひょうは愚かなオレたちにもっとも大切なことを教えた。・・・愛するものをけっして手放すな。愛するものからけっして離れるな。・・・分かったものは帰れ。まっすぐ愛するもののところに帰れ! 帰り着いたら二度とそこを離れるな。・・・帰れ!」
人々は後ずさりをし、それから背を向け、はじめはのろのろと、そしてしだいに速度をはやめ、争いの地から姿を消していった。
夜になった。
荒野にひとり残った始一は、意をけっしたように立ちあがり、月明かりの下で、手で土をあつめ、太郎とひょうの上にかけはじめた。
遠巻きにしていた狼たちは黙って始一のすることを見守っていた。
始一は一週間、太郎とひょうに土をかけつづけた。
その間、始一はひとことももらさず、土をかける以外のなにごともしなかった。
太郎とひょうはちいさなひとつの山になった。
始一はその前に坐り、さらに一週間生きた。
そして前のめりになって地に伏し、動かなくなった。
雨が始一を腐らせ、土が始一を吸い取り、虫たちが始一を崩し、陽が始一を乾かし、風が始一を吹き飛ばしていった。
始一が消えてしまうまで、狼たちはただ哀しげに遠吠えを繰り返すばかりで、あえて近づこうとはしなかった。
                                                    2018/2/17

 
            <五>無題
 
二人にはなにもなかった。
なにもなかったが、新しい命を授かった。
二人は山に入って炭焼きをすることにし、小さな小屋を建てた。
炭を焼きながら、少しずつ畑と田を作っていった。
毎日、毎日、二人はただ働いた。
ただ夢中で働いた。
夜、二人は一枚の布団で抱き合って眠った。
抱き合っていると、冬でも少しも寒くなかった。
子どもが一人増えると、そのぶん田や畑を増やした。
小屋も、家と呼べるような広さにした。
ただ夢中だった。
家には新聞もラジオもなかった。
でも、なにも読みたいとは思わず、聴きたいこともなかった。
夜の風の音と、季節ごとの鳥と、虫の声と、子どもたちの嬌声があれば、もうそれで十分だった。
十分すぎるほどに十分だった。
その季節になれば夜通し鳴く蛙の声に包まれて眠るのが好きだった。
昼中鳴く蟬の声の下で働くのが好きだった。
子どもが小さいうちは畑の傍らの木陰に寝かしつけて働いた。
大きくなった子どもたちは、親が働いているあいだ、田や畑のそばで遊んだり喧嘩をしたりして、いつも賑やかだった。
二人とも夢中だったから、学校に行きはじめた子どもたちが次第に無口になっていくのには気がつかなかった。
子どもたちは成長し、一人、二人と家を出て行った。
子どもが家を出て行くたびに、田や畑を山に戻していった。
気がつくと、また二人になっていた。
布団があまるようになったが、二人はやはり一つの布団で眠った。
子どもたちが携帯ラジオを送ってきた。
二人は喜んで毎日それを木陰にぶら下げて働いた。
少し賑やかになったが、電池が切れて音がしなくなっても無頓着だった。
ただ、働いて、汗をかいて、木陰で休息をとるときの風が気持ちよかった。
ともすると、木陰に腰を下ろして風を感じるために働いているような気さえした。
相変わらず新聞はなかったし、カレンダーもなかったから、子どもたちがいなくなってどのくらい経つのかも気にしなかった。
ある日、いつも通り木陰で昼寝をしている夫がいつまでも起きてこないので近寄ってみると、大きないびきをたてたまま眼を覚まさないのに気がついた。
 
夫が病院に送られたあと、子どもたちが帰ってきた。
これからの父親と母親をどうするかという子どもたちの話し合いは、いつまでも終わりそうになかった。
妻は眠るのをあきらめて外に出て、いつもの木陰に行って腰を下ろした。
月明かりがきれいだった。
蛙の声がやかましかった。
彼女にはその蛙の声だけが現実のように思えた。
風が通りすぎていった。
                                                       2018//04/17