今山物語6

 やっと越知彦四郎の碑を見つけた。
田中健之『靖国に祀られざる人々』のなかに、玄洋社が東公園に建てた福岡の変の供養塔は現在、平尾霊園に移されているとあったので、ひょっとしたらと行ってみた。駅から歩くこと一時間半。谷間の霊園の一画にその「特別区」があった。
 その当時たまたま警察に奉職していたために同志の越知彦四郎を斬首した篠原藤三郎は直後に辞職し、報奨金5円を石工に渡して碑を作らせ、そのまま西南の役に参加しようとして捕縛された。役後釈放された篠原は中国に渡り、さいごは朝鮮で死亡したらしい。その間、帰郷することはなかったのだろうと想像している。
 付け加えると、玄洋社頭山満たちは萩の乱に参加しようとして逮捕され、西南の役が終わるまでは獄中にあった。
 もともとは「灯籠のような形」のものだったと書かれているから、碑の上の白い四角部分は移転したときに付け加えたのだろうと思う。
 刻まれている歌は篠原藤三郎、
  散る花としれど嵐のなかりせば春の盛を友と競はん
 越知彦四郎の辞世
咲かで散る花のためしにならふ身はいつか誠の実を結ぶらん
 に呼応したのだろう。

 『靖国に祀られざる人々』には、印象的な人物や話がいくつも出てくる。

 中野正剛の葬儀に東条英機が花輪を贈ろうとしたとき、緒方竹虎が「どこに置いてもいいのなら受け取る」と返答したところ、花輪は届かなかった。

 三島由紀夫の「少年期の感情教育の師」だったという蓮田善明は応召し、敗戦を迎えたジョホールバルで連隊長を射殺したあと自殺したとある。

 昭和13年に刊行されて以来130万部売れたという広島の人杉本五郎大義』で多くの部分が伏せ字になっていた17章には次のようなことが書かれていた。「かくして今次の戦争は帝国主義戦争にして、亡国の戦と人謂はんに、何人がこれ抗弁しうるものぞ」
 その前に引用されている『大義』の一節。
「汝、我を見んと欲せば尊皇に生きよ。」
 その「尊皇」を「世界」に置き換えたら、そのままハイデガーになる、気がする。
 近代とは、多くの人々が、自分の「生えた場所」から引っこ抜かれて別の場所で生きることを強要された時代だった。カミュが書こうとした通り「裸」だったかれらは自分が根を生やすべき土壌を性急に求めた。そういう時代だったんだな。

 大隈重信は、爆弾を投げつけたあと自殺した来島恒喜の命日には毎年花を届けたそうだ。

 秩父困民党事件から脱出後、変名して北海道に渡った井上伝蔵は野付で高浜某と出遭い、その娘と結婚し、子ももうけた。かれは死期が迫ったとき初めて家族に本名と自分の履歴を明かした。妻は内縁の夫との婚姻届けを、つれ合いの死後に提出したそうだ。
 井出孫六が『秩父困民党の群像』という本を書いているのを知ったので、読んでみる。
『アトラス伝説』以来。