美浜日記2

 二階の窓からひょっと庭の楓を見ると黄葉しはじめている。一部はすでに紅い。
 季節はたしかに前に進んでいる。

 何度目かの堂々巡りがまた出発点に戻った(それは、本人にとっては大団円とでも言いたいほどの出来事)気がするので、その報告です。

 三木成夫『南と北の生物学』(『海・呼吸・古代形象』所収)を読んで不思議な思いに捉われているので、それを伝えたい。でも「考え」を伝えることもなかなか出来かねている男に「思い」を伝えることが出来るのか?
 前もって言っておかねばならないこと。
 三木成夫を読むことを奨める気はない。『胎児の世界』を読みつつ、「どうして今までこれを読まなかったのだろう?」と思い続けていたのは事実だが、読み終わってみると「今、で良かった。」若い頃にもし読んでいたらきっと生き方を狂わせていた。なにごとにも「その時」がある。「その時」が違ったら、せっかくの出遭いも生きてこない。それに、著者自身が「自分の仕事は科学と文学の混合物だから、アカデミズムから受け容れられることはない。」と書いている。そして自分の先駆者として挙げているのがゲーテ
 かれのやっていたことは「系統発生学」と呼ぶらしい。その先駆けである三木の師小川鼎三はツチクジラの胎児の解剖に没頭していた。陸から海に戻った生き物のなかに生物進化の跡が如実に残されている。しかも小型とはいえクジラの胎児だから解剖しやすい。その体の(無数と言っていい)神経の一本一本を確かめ、それぞれの神経の関係を考える。
 その系統発生学の先駆者小川鼎三もまた人に知られることはなかった。

 60歳のころ、夜中にふいに夢が出てきて、その夢を言葉に替えるということが2〜3年続いた。その度に眠れなくなる。「またか。」理屈としては、母親が次第に衰えてきたことと自分の定年が近づいていたことの二つが重なった(あとで振り返って見ると)けっこうな精神的危機の時期だったのだと思う。
 そんなある夜、出てきたものが「わたしたちはコトバで考えつづけているわけではけっしてない。・・・コトバで考えているつもりのことは単なる自分に対しての説明や説得だ」と変換された時、「ああ、やっとこれで終わる。」と感じ『あとがきに代えて』と題をつけた。押しつけた『一反田』のことです。

 以後「黄金の10年」に至るまでのことはほとんど覚えていない。
 50年ちかく前、イトコの禅寺に頼み込んで卓球部の合宿をしたことがある。その時生徒に「去年の今頃は何をしていたか?」「一昨年の今頃は?」というのを逆戻りしながら書かせたことがあるが、ある生徒の小学校以前のところは「ただ夢中で生きていた」とあった。『一反田』以後の自分も、母親の死までただ夢中で生きていた。そんな気がする。──そしていま「われわれは何のために生きているのか?」に自分なりの結論を見つけた。「生きるためだ。」

 池田紘一先生のユングの講演を偶然聴いたのは去年だったか?(その時からの課題『赤の書』はまだ本棚にあるまま。ただ、先生の解説を読み直すと「要するにこれはユングの黙示録だな。」と思った。読む時はそれを確かめながらになるはず。ユングが文字を書くことで浮かび上がらせたかったものもまたきっと「言語以前」の何かだった。)その後、先生に手紙を書いているうちに、「マリア様は文字を持たなかった」という確信めいたものが生まれた。マリア様だけではない。ジーザスもシッダルタも。彼らは文字なしで生きた。考えが固定される文字というものを嫌悪していた。文字を使いこなす人間を忌み嫌っていた。「
 宗教とエロスを切り離したら何も分からなくなる」と思うようになったのは30代半ば。「虚無を包含していない宗教はただの約束事にすぎない」と考えるようになったのは60歳前後。それらがひとつのイメージに収斂され「オレの全身運動としての思考もやっとたどり着くべき場所にたどり着いた。」それは安堵感に近い。
 「あとは読み部に徹しよう。」

 そして今回怪我をして動けなくなったあと、堀江敏幸(かれには『ジョルジュ・ペロスの方へ』という小説とも言いがたい文章がある。そのなかでペロスを代弁する様に言う。「書くという行為にはさまざまな誤解がまとわりついている。あまりにも多くの人が、書くことには才能が必要だと思いこんでいる。しかし、それは全く違うと、ペロスはこれからも繰り返すだろう。書くことは「奇妙な隷属状態に反する」ことであり、問題は才能の有無とは別に、つねに螺旋を描いて、中心がぽっかりと空いているところに身を置きつづける勇気があるかどうかなのだ。」)の『その姿の消し方』(これもまたペロス以上に世に知られぬ人の跡を辿ろうとしたもの)に出遭い、国武拓『ヤノマミ』に出遭い、三木成夫に出遭った。それは自分にとっては僥倖としか感じられないことだった。──その僥倖はたぶん今も続いている。──オレはなんてマングリがいいんだろう?

 三木は『南と北の生物学』で言う。
 古代人が「こころ」と呼んでいたのは内臓のことだ。(心臓はその内臓のひとつ)。人間は脳で考え、内臓で思う。──50年前の人々はそれを「情念」と呼んで片づけていた。──(得心したときは「腑に落」ち、納得しがたい時は「はらわたが煮えくりかえ」る。)が、いま脳の理性ばかりが強調され、人間は次第に思わなくなってきた。それは人間が生物とは言いがたい別物化してきていることなのかも知れない。

 言語中枢とは別の所にある言語以前の「思い」。それがすべて生物の「食の相」と「性の相」を司る。
 植物も動物も別個に進化したのではない。「動物の腸の内側と外側とを(シャツの袖を腕まくりするように)裏返したら、植物の茎の形状と役割になる。」そしてさらに「科学と文学が混淆した」考えのなかで、植物の太陽指向と、ウナギや鮭の産卵場所への遡行と、鳥たちの地球規模の飛行をひとつのものと見なす。「かれらの中に何らかのセンサーや原始時計を探しても見つからない。太古以来かれらは宇宙の一部として進化し、いまも宇宙の運行に従っているだけなのだ。」
 そして、植物の胎内は宇宙だ、と言い切る。「動物の心臓にあたるのが太陽だ。」

 『一反田』以後、「正しいことよりももっと大切なことがある」思うようになった。いまも、その「大切なこと」が何なのかは分からないんだが、ひょっとしたらその大切なこととは「分からないこと」そのものなのかもしれない。そして、自分もその「分からない」ことの一部分であることへの憧憬のようなものが自分のなかに生まれてきている。そのことと、50代後半にイメージした「この宇宙の欠如した部分」とが重なってきた。──今回の報告を終わります。
 
 次の出発はまだまだあと。
 昨日、理学療法士が「先生に相談してみてください。許可がでたら、これからは少しずつ負荷をかけていくリハビリに移ります。」・・・そうか、まだとうぶんあの人に会えるのか。
 裏山には、ショウジョウではないが赤トンボ(タイリクアカネというらしい。)の群舞が見られるようになりました。
 夜は虫の声。                                    2018/08/22