今山物語 文学史

  高校一年生のための
          一気読み日本文学史
                  福岡編
     
           <一>
  最初に、文学とはなにか、の話をしておきたい。
 文学は、物語や戯曲(ぎきよく)(お芝居の台本)や随筆や詩や歌だけを指すのではない。人々の心に残る言葉の総体を文学と呼ぶ。
 たとえばフランスには、亡くなった親の日記などをちゃんと製本して「世界にただ一冊の本」にする習慣があるという。絵の勉強をしにフランスに渡って製本(革張りの豪華なもの)家(か)になった大先輩と、「パリを描いているうちに気が狂った男の絵を見て気が狂いそうになるほど行きたくなっ」てパリで出会った野見山暁治(ぎようじ)さんはその大先輩の言葉を書き残している。「もっと長生きをしたい、と彼が言う。長生きして何になるんですかと問うとその老人が答えた。〝若い頃オレは自分を孤独だと思っていた。でも、齢(とし)をとったら、オレよりも宇宙のほうが孤独なんじゃないかと思うようになった。もっと齢(とし)をとったらもっとほかのことだって分かるかもしれないじゃないか。〟」
 わたしには、その老人の言葉が文学の源泉に思える。
 福岡出身の野見山さんはグレコセザンヌの絵を一言で「胎内(たいない)の蒼穹(そうきゆう)」――「?」と思ったままで平気で先に進みなさい。わたしがそれを実感できたのは七十歳になってから。――と評した。――ご本人はたぶん気づいていないけど、自分の文学を「虚空象嵌(こくうぞうがん)」と呼んだ先達の血統をたしかに受け継いでいる。――
 イギリスの老舗(しにせ)の本屋さんには書簡(しよかん)(手紙)集のコーナーがあるという。子孫が先祖のプライベートな手紙を公刊する。それを購入して読む人たちがいる。「文学とは、人々の心に残る言葉の総体だ。」とは、そういう意味だ。
 では「文学」性(文学を文学たらしめているもの。)≒心に残る」とはどういうことか?
 ことばは名づけることから始まった。「やま」、「かわ」、「みず」、「そら」、「くも」、「はな」。(福岡出身の山本健吉は、「花は端(はな)(≒発端)だ。」と書いている。「蕾がひらきかけているもの≒花。」)それらは固有名詞に近い(個人的な関係を感じた)普通名詞だった。山と自分たち。川と自分たち。空と自分たち。花と自分たち。それらとの親和の希求。
 言葉は産声(うぶごえ)をあげたときから、祈りや願いと似た横顔をしていた。発せられた言葉が文学であるかないかは、その「祈り」や「願い」が含まれて生きているかいないかでわたしは判断している気がする。
 「ぼくは君が好きだ」と発するとき、かれがその言葉を発する最初の人類であるかのようでなければ、けっして相手にその言葉は届かない。――数学者の新井紀子は言っている。「AIはきっと永久に〝カレーライスが好きだ〟の〝好き〟と、〝ぼくは君が好きだ〟の〝好き〟の違いを理解できないだろう。」――もし相手の胸にかれの言葉が届いたら、その言葉こそが詩(文学)なのだ。人は誰でも、人生で一度や二度は詩人になる。
 詩歌(しいか)(歌のなかに詩があり、詩のなかに歌がある。)が文学の精髄(せいずい)(エッセンス)だ。なぜなら詩歌にこそ言葉の初発性(祈りや願いと似た横顔)が含まれている。論理性が強まるとともにその赤ん坊の産声(うぶごえ)のような初発性(初々(ういうい)しさ)が薄れる。――その「初発性」は「始原(しげん)性」とも言い換えることができる。その「始原(しげん)性」の話はまたあとでする。――詩、そして歌、文学のエッセンスは、そのなかでいまも活(い)きている。
 でも、長い間、日本人の書く詩とは漢詩のことだった。漢詩とは中国語の詩のことだ。そこにも日本人の心が活きているのだろうが、ここではすべて省略する。
 わたしは詩集を開くのが大の苦手。詩は、それが詩であればあるほど読んでいると体中の神経がざわつきだして「ヤバい!」。自分の日常性を守るために本を閉じてしまう。もちろんそんな本物の詩集は0,0001%だけ。残りの「詩人」の言葉はわたしの心には届かない。
 その読者や聴者に、「もっと近づきたいけど、ヤバい!」と感じさせるものを「始原性」と呼んでいる。それは実は「原始(ひっくり返したら始原)」と紙一重、いや髪一重、ひょっとしたらDNAの二重螺旋(らせん)のように裏表の関係。わたしたちをそんな始原と真正面から向かい合わせるもの、初発の現場に立ちあっているかのような感覚(臨場感)を味あわせるもの、それが詩だ。
 文学はロマン(夢を見せてくれるもの)であるとともに、もっとも優れたものであればあるほど危険をはらんでいる。
 「日本一短い日本文学史」をこれから書く。――知っている範囲で「一気読みできる文学史」は小西甚一(じんいち)のもののみ。いまは講談社学術文庫に入っている――与えられた時間は三週間。急ごう。少々早口になるが許してほしい。でも、こういうことって早口じゃないと出来ないのかも知れない。
 この「日本一短い文学史」が「日本にあったはずの詩」を探す旅になればいいが。
 前もって言っておくけれど、人間は鳥や魚と同様に「自分が見たいものしか見えない」ように創られている。それは生きていくための大切な仕掛けだ。だから、これは、わたしのファンタジーとして読んでほしい。その方が可能性が広がる。わたしたちが必要としているのは確実性ではなく、その可能性なのだ。――むずかしく言うと、可能性というよりは「可変性」だと思っている。だって、それが備わっているから鳥も魚もわたしたちも進化して来た。わたしたちはもう進化を止めた、とは、わたしはまったく思っていない。――
 わたしたちが日常的に使っている、いわゆる日本語がいつごろ出来たのかは、たぶん永久の謎。
 このちっぽけな島には、まだユーラシア大陸とつながっていた数万年前に――あるいは、主要な食物だった草食動物の群れといっしょに移動しているうちに、ここにたどり着いたのか――人が移り住んできて以来、温暖化で氷が解けて島になってからも、北や南や西から多くの人たちが渡ってきた。ちゃちな舟にのって命がけで海を渡ってきた。
 自然災害から逃れてきた人たち。――「文明は逆境から生まれた。」という説がある。「アフリカや中東の乾燥。ヨーロッパの寒冷。」わたしはそこに「アジアの自然災害」も加えたい。――小さな話だが、福島県郡山市に久留米という地名がある。、明治時代、筑後川大洪水で、もと久留米藩の多くの人々が農地を失った。その人たちが政府の荒蕪地開墾者募集に応じてはじめての土地に移住した。東京都下にも久留米という地名がある。その地名の由来は知らないが、行政の作った記事にその地名が最初に出てくるのは筑後川大洪水のあった明治二十二年だから、あるいは似た事情だったのかもしれない。――飢饉に見舞われた人たち。他の部族に追われて海に逃げ出した人たち。宗教などの社会的迫害を受けた人たち。戦争から逃れた人たち、など、など、など。細長い島々のあちこちに実に多様な人たちがやってきた。――いまこの国には二十四万もの名があるそうだ。一億二千万を二十四万で割ったら五百人ずつ?たぶん、そんな国はほかにはない。――なかには不倫をして「ぼくたちのことを誰も知らないところに行こう。」と小舟を出したカップルもいたかもしれないし、「このままではウダツが上がらん。一か八か新天地に行って一旗(ひとはた)上げようぜ」と徒党(ととう)を組んで海に乗り出した若者たちもいたかもしれない。
 その人たちは、やっと陸を見つけて上陸し、「ここで生きよう」と決めた土地に挨拶した。「ここに住ませてください」と土に頼み目印を建てた。その目印は子々孫々守り続けられた――長野県諏訪地方の安曇(あずみ)族(最後まで仏教に帰依(きえ)することを拒んだ人々)の本拠は福岡の志賀島だったことが分かっている。――
 いまも全国にその目印(祠(ほこら)や社(やしろ))がたくさん残されている。住宅地や繁華街に珍しく緑の濃いところがあったら行ってみなさい。そこは古代からの聖地として大切に保存されてきたところかもしれない。日本人は「杜(ト)」に「もり」という、もともとの中国語にはなかった意味をつけ加えた。「鎮守の杜」は「チンジュのモリ」と読む。――柳田国男(これから何度か名前が出てくる)は「日本の神道は、神官という専門職種ができてから変質した。」と書いている。「それまでの神官は平等な持ち回り制だった。」・・・社会が誕生したころすでにこの国の人々は民主主義者だったのです。――
 そこでは季節ごとに、祇園山笠や唐津御九日(おくんち)のような盛大なものから、他地区の人は知らないままのささやかなものまで、さまざまな祭礼が行われている。それは、(米国流に言うと)そこに導いてくれた遠いとおいファザーズ(正確に言うとPilgrim Farthers)たちへの感謝祭なのだ。「わたしたちはいまもここで安穏に暮らしています。勇気を出してここに導いてくださってありがとう。」と同時にその祭礼は、「自分たちは何者だったのか」を確認する場でもある。――山笠のとき男たちは褌(ふんどし)姿になる。男たちの遠い祖先は日頃、褌一本で生きていたのだ。―― 
 その頃以来、この島の人口が数十万に増えても、まだ「日本」という国はなかった。「日本語」もまだなかった。人々は、他のところから来た人たちとは互いに手まねや口まねで意思を通じ合い、助け合って暮らした。助け合わないと暮らしていけなかった。
 詩の始原性の話を付け加える。
 言葉は教わった通りに使わないと意を通じ合うことは出来ない。と同時に、ただ教わった通りに使っている間は詩も歌も生まれない。詩や歌は、それまで使われていた言葉が新しい表情を見せた時に生まれる。
 唐突(とうとつ)になるが、いま思い出した二十世紀半ばの小野茂樹(一九三六~一九七〇)の歌を紹介する。
   あの夏の数限りなきそしてまたたったひとつの表情をせよ
 それが一九四五年の夏だということは分かるが、いったいどんな表情だったのだろう。
 われわれは個であると同時に全体でもある。
 だからいつも「自分はいったい何に帰属しているのだろう?」という思いを0,0001%くらいは、つまり脳でなくていいから脳とつながっている全身の神経のどこかでほんのちょっとだけ持ちつつ、歩を前に進めていくほうが安全なんじゃないかな。
 少なくとも、「自由とは、何にも帰属していない状態のことだ」とは全く思わない。むしろ、わたしたちは、自分が何かに帰属していることを実感したとき最も自由になれるのではないか?
 ユーラシア大陸の東側で大混乱が起こったきっかけは、周が殷(いん)――中国にもいないほどの偉大な漢字学者白川静は漢字のもとになる象形文字(しようけいもじ)を作ったのは南人(なんじん)(いまのべトナム辺りにいた人たち)だったと書いている。(白川静は大胆にも、南人は音としての言葉より先にシンボルとしての象形を創ったと書いている。)その南人の象形文字を利用して文章を作ったのが殷人――を滅ぼしたこと(前1046頃)だったのではないかと考えている。その後、春秋(しゆんじゆう)戦国期を経て秦(しん)の始皇帝(しこうてい)が統一を果たしたのも束(つか)の間、漢が秦を滅ぼし(前202頃)最大の戦利品を「漢字」と呼ぶようになってもまだユーラシア東部の混乱は収まらなかった。その間、半島を渡ったり、海を乗り越えたりして多くの人々がここに移り住んだ。――テレビのドキュメントを見ていると、中国の南や北や山間部や西の人たちのなかには、わたしたちそっくりの顔立ちの人たちがいる。。きっと東の海に逃げたわたしたちの祖先と根はいっしょ。――わたしたちの大半は、いわば難民の子孫なのだ。
   ここまでで第一夜が終わった。
   前途遼遠(ぜんとりようえん)。
 ※最初の部分の下書きを送った元日本史教師から感想が届いた。
博多祇園山笠」も「唐津御九日」もその歴史は浅く、近世に入ってからのものなのだそうだ。「でも、お前の書いているものは、それ自体が文学みたいなものだから・・・。」
 どうやらGOサインが出たらしいから付け加えよう。
 十九世紀後半、日本でいうと幕末、西洋にひとつの文学が生まれた。そこでは、夫を失って「わたしも殺してくれ」と嘆き悲しむ妻に神々の娘が、「お前はもう男の子を授かっている。だから強く生きなくてはならない。ここから真っ直ぐ東に向かって逃げると、川底に黄金の眠っている森にたどり着く。そこで夫の忘れ形見を産みなさい。しかし、決して黄金を自分のものにしようとしてはいけない。」と告げる。
 半分は神話のような物語だから、その詩人の想定した「東の森」は、数千キロ隔てた彼方にあったのかもしれないと想像するのは楽しい。
 
        <二>

 七世紀の聖徳太子ははじめて憲法を作り、その第一条に「以和為貴」と掲げた。「みんな仲良くしようね。」・・・ということは、当時の飛鳥(あすか)では争いが絶えなかったのだ。さまざまな所からさまざまな出自(しゆつじ)をもって上陸した人たちは助けあい、それでなんとか生きてきた。しかし、飛鳥を中心にした実に狭い中枢部(ちゆうすうぶ)を目指した人たちはすさまじい主導権争いに明け暮れていた。聖徳太子にしても、自分のつくった「以和為貴」を果たしていま読むように「和(わ)を以(も)って貴(とうと)しと為(な)す」と読んでいたのかどうか、わたしは知らない。
 「飛鳥」はどうして「あすか」なのだろう?「平城京」がどうして「ならのみやこ」なのだろう?朝鮮の「白村江」は日本人だけが「はくすきのえ」と呼び、「百済」は日本人だけが「くだら」と呼ぶ。
 きっと「飛鳥」を「あすか」と呼んでいた人たちが飛鳥(明日香)京を創り、新羅・中国連合軍に滅ぼされた人たちは、自分たちの故郷をを「くだら」と呼んでいたのだ。
 だが、翻(ひるがえ)って考えてみると、エジプトやメソポタミアの大陸文化は、ギリシャという小さな島に移植されて花開き、そのギリシャの文化は寒冷の地ヨーロッパに移植されて実った。中国人は南人の象形文字を自分たちの土地に移植して偉大な漢字文化圏を誕生させた。
 わたしたちが文化と呼んでいるものは、単にもとの土に根を張るのではなく、他の土地に種がまかれて芽吹き、豊かに実った果実のことだ。別の土に育ったものは別の実になった。だからCULTUERなのだ。
 
 
               <三>
  
 日本人が持っている最初の文学である『古事記』は、八世紀初めに稗田阿礼(ひえだのあれ)の記憶を太安万侶(おおのやすまろ)が文字化したとされている。――『日本書紀』は漢文、つまり外国語で書かれているから省略。『風土記(ふどき)』は、歩けなくなったとき用にとっているので、スキップ。――
 「最初の日本語はAh(英語なら「Oh)だろう)だった」と江戸時代に書いた本居宣長(もとおりのりなが)――「あは」から「あは・れ)という感嘆と悲哀のないまざった言葉が生まれ、それが日本文学の底流となった。――ちなみに英語には「PITY」という言葉がある。興味を湧いた人は調べてみなさい。いろんなことが分かるはずだ。――は、注釈書『古事記伝(こじきでん)』(十九世紀末)で、それを、「夜麻登波(やまとは) 久爾能麻本呂婆(くにのまほろば) 多多那豆久(たたなづく) 阿袁加伎(あをがき) 夜麻碁母礼流(やまごもれる) 夜麻登志宇流波斯(やまとしうるはし)」と解読した。稗田阿礼が記憶していたのが、つまりは日本語であり、わたしたちに残されている最も古い文学だ。
 あとひとつ大切なことを覚えておこう。日本人は自分たちの言葉を表記するのに、漢字を一字一音とすることで利用した。それがのちの仮名文字となっていく。さきほど書いた「他の土地にまかれて別の果実として実る」文化の典型例がここにある。
 と同時に、先走って書くが、中国文を直接日本語にして「訓(よ)み下す」という世界中でほかに例があるかどうか知らない独特の方法をわたしたちの祖先は生み出した。そのことと仮名文字の普及とがあいまって、この国の識字層は近世までに西洋のどの国にも負けない厚みになっていた。――幕末の日本の識字率は世界一だったという学者も多い――ちなみに隣国では、近代に至るまで漢文は音読されるだけだった。――もし、聖徳太子の「以和為貴」を日本音で音読するなら、ただ「イワイキ」――
 「スキップ」と書いた『日本書紀』には、「『長谷』をどうして『はせ』と訓み、『日下』をどうして『くさか』と訓むのか、もう今となっては分からない。」と書かれている。日本書紀成立よりずっとずっと以前この島に「長谷」を「はせ」と呼び、「日下」を「くさか」と呼ぶ人たちが居たのだ。
 生きる、生ける、生む、生まれる、生える、生い茂る、実が生る、子を生(な)す、苔が生(む)す、生ビール、生醤油、生憎、御生(あれ)祭、芝生、埴生、「生方さん」、「生川」さん。「生」の訓はまだありそうな気がする。(「生徒」の「セイ」は漢音、「後生」の「ショウ」は呉音、「衆生(ジョウ)」、「平生(ゼイ)」、「什麼(そも)生(サン)」などなど。この国には彼の地では消えてしまったらしい各部族語がいまも生きている。)
 ひとつの文字の訓みがなぜ呆れるほどたくさんあるのか?この土地には多種多様な言語が混在していたからだ。
 何度でも繰り返す。わたしたちの国では、どこからか渡ってきてここの土で育った種子が新しい花を咲かせ、別の果実として実った。
 『羊の歌』の著者加藤周一はわたしたちの文化を「雑種文化」と呼んでいる。今風の言い方をするならば、さまざまなDNAが混ざり合うことで、実にユニークなハイブリッド種の果実がここに実った。
 そのもっとも大きな果実をわたしたちは「日本語」と呼んでいる。
 八世紀後半、歌謡集『万葉集』が編纂(へんさん)される。そこには長歌、短歌をはじめとする和歌(のちに漢詩に対してそう呼ぶようになる。)約四千五百首。柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)「東(ひむがし)の野にかぎろひ(陽炎)の立つ見えてかへり見すれば(西に)月傾(かたぶ)きぬ」を筆頭に、額田王(ぬかたのおおきみ)「君待つとわが恋ひ居(を)ればわが屋戸(やど)のすだれ動かし秋の風吹く」、山上憶良(やまのうえのおくら)「憶良らはいまは罷(まか)らむ子泣くらむそれその母も吾を待つらむぞ」、大伴旅人(おおとものたびと)「験(しるし)(効き目)なき物を思はずは一杯(ひとつき)の濁(にご)れる酒を飲むべくあるらし」、大伴家持(おおとものやかもち)「うらうらに照れる春日(はるび)にひばり上がり心悲しもひとりし思へば」などの歌人のほかにさまざまな階層、さまざまな土地の歌が含まれていて、その編纂の動機には分からないことが多い。のち(平安時代)の勅撰(ちよくせん)和歌集は天皇の勅(ちよく)(命令)によってつくられたが、『万葉集』はそうではない。前に漢字の起こりのところでも引用した白川静は「大伴氏が個人的に秘蔵していたものが奇跡的に残ったのではないか」と推測している。あるいはそうなのかも知れない。
 たとえば次の一首。
 可良己呂武(からころむ)(唐衣) 須宗尓等里都伎(すそにとりつき) 奈苦古良乎(なくこらを) 意伎弖曽伎怒也(おきてぞきぬや)(置きてぞ来(き)ぬや) 意母奈之尓志弖(おもなしにして)――その頃は「母」を「おも」と呼んでいたのか。あるいは東(あづま)の方言か。――
 この防人(さきもり)の歌は、東人(あづまびと)が詠んだのか?あるいは、理不尽(りふじん)な政治への憤りを誰かが代弁したのか?
 信濃路(しなのぢ)は今の墾道(はりみち)刈株(かりばね)に足踏(ふ)ましなむ沓(くつ)はけ我が背(せ)――信濃路は新しく切り開いたばかりの道だから、切り株をお踏みになるといけない。(せめて何か)履いてください。私の夫よ。(この時代、妻は夫を「せ」と呼んでいた。)――
 我妹子(わぎもこ)がいかに思へか(ぬばたまの(「夜」や「黒」を導く枕詞))一夜(ひとよ)落ちずに夢にし見ゆる――私の妻は(私を)どんなに思ってくれているのだろうか。一夜も欠かすことなく夢に出てくるよ。(この時代、男女とも恋人を「妹(いも)」と呼んでいた。)――
 太宰府に赴任し、この地に詩の種を落としていってくれた二人を紹介する。
   いざ子ども香椎の潟に白栲(しろたえ)の袖さへ濡れて朝菜(あさな)摘みてむ     大伴旅人(おおとものたびと)
    世間(よのなか)を憂しと痩(や)さしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば 山上憶良貧窮問答歌
 『万葉集』は、人々が互いに労(いた)わり合い、自然の恵みに感謝し、風や水と親しみ、「明日」が来るのを信じて安らかな眠りにつくことができた「古き良き時代」への愛惜(あいせき)のこもった目印に思える。
    ああ人は昔々鳥だったのかもしれないね。こんなにも空が恋しい   『この空を飛べたら』
    この大空に翼をひろげ 飛んで行きたいよ  『翼をください
    鳥になれ おおらかな翼をひろげて・・・・自由になれ  『鳥になれ』
 その目印はいまも生きている。これからも引き継がれて行くに違いない。
 時代は急激に変わり、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)をはじめとする万葉集のスターたちは、これを最後に歴史の表舞台から姿を消す。しかし、繰り返すけど、いまも『万葉集』は、政治的混乱のさなかにあっても、人々が家族を愛し、風や波や鳥や虫と唱和(しようわ)し、木や石や草や花と自分たちとの同質性を信じ、身体中で生きた時代の目印――適当な言葉を思いつかないからカタカナ語でごめん――わたしたちのエートス――尊敬してやまない音楽評論家の吉田秀和はそれを「永遠なる家郷」と言い換えている。しつこいけど、また繰り返す。言い換えられたもの、移し変えられたものをわたしたちは「文化」と呼んでいる。それが文学の根幹(こんかん)でもある。鵜呑(うの)みにした言葉は文学ではない。読者のなかで読者自身の言葉(それは「意味」というよりは「イメージ」や「音楽」に近い)に変化したものだけが文学だ。アメリカのソートン・ワイルダーは「文学は遺産相続争いではなく、聖火リレーに似ている」と書く。前走者の火が次のたいまつに移し替えられることで聖火リレーは続いていく。――として、いつでも現代社会に疲れ果てたわたしたちを受け容れてくれる。
――明治の「文明開化」はすさまじかった。日本人は髪型や服装を西洋風に変えただけでなく、考え方や生き方も変え、目に見えないものは無いものだと思うようになった。政府の廃仏毀釈に合わせて音楽界は廃琴毀三味線し、代わりにピアノとヴァイオリンを選んだ。(その後、宮城音弥(おとや)が現れて、楽器としての琴は復活したが、かれの作曲した有名な曲はほとんどドレミファの曲。学校で教えるのもドレミファ。日本の伝統的な音階はもはや辛うじて生きながらえているに過ぎない。(西洋音楽は♪に♯や♭をつけることで、各民族の伝統的音階も五線譜に吸収しつつある。ただし、あとひとつ、それぞれの文化はそれぞれのリズムを持っていたのだが。)いま「音楽」といえば「西洋音楽」のこと。日本の伝統音楽は?「音曲(おんぎよく)」。ーもうフリガナをつけなくてはいけなくなった。ー)そんな過程で諸々の「日本」が置き去りにされていったことに、危機感に駆られて自(みずか)ら民俗学をたちあげ、「自分たちはどんな世界で生きてきたのか」を記録しようとした(わたしたちの大切な恩人)柳田国男(一八七五~一九六二)は「木思石語(もくしせきご)」という、それをみただけで木や石が動き出しそうな言葉を書き留めた。それは決して柳田国男の発明ではなく、長くこの国の人々の拠り所だったことをわたしたちに伝えようとしたに過ぎない。――
 だいぶ先走りすぎた。
 七世紀の大化の改新以後、幾度もの遷都(せんと)を経て、平城京(ならのみやこ)が造営され、いわゆる「奈良時代」がはじまる。その繰り返された遷都は、それだけ政治が混乱していたことの証拠だ。難波(なにわ)(大阪)→藤原(奈良県橿原(かしはら)市)→近江(滋賀)→奈良→難波。その途中の白村江(はくすきのえ)の戦いののちの六七二年壬申(じんしん)の乱が起こり、大海人皇子(おおあまのおうじ)(天武天皇)の勝利によって、ほぼ現在の日本がなる。日本語の公式の誕生である。
 邪馬台国などが朝貢(ちようこう)していた頃、中国はわたしたちを「倭(わ)(ちび)」と蔑称(べつしよう)していた。草食系だったわたしたちの祖先は、肉食系だった中国人からみると、よほど小柄だったのだろう。
 ちなみに邪馬台国の「邪」は「邪魔」の「邪」、「卑弥呼」の「卑」は「卑小」の「卑」、この土地の古称と思われる「奴(な)」は「奴隷」の「奴」、亜細亜の「亜」は「にせもの」とか「真似をすること」という意味。だから「亜細亜人」とは、そう書いた中国から見れば「にせものの文明人」「文明人の真似をしている人類」のことだ。かれらはいまも内心では自分たちを亜細亜人とは思っていないかも知れない。
 ついでに天皇制にも一言触れておく。
 王族制は世界各地で興り、いまなお数多く存続しているが、他の王朝はどれも「○○朝」と称されるのに、日本の天皇制にだけ家族名の○○がついていない。
 さまざまな出自の人々の混合国家をつくるとき、首長みずからか、あるいは他の族長たちに強要されたか、元首となる者は家族名を捨てて単なる「大王(おおきみ)」(のちの天皇)になった。――現在つけられている○○天皇の「○○」は死後に贈られるもので、諡号(しごう)(いみな)という。――朝臣たちの「蘇我)とか「大伴」とかの家族名は残されているのに「大王(おおきみ)」になった者の家族名は記録から消されている。それがいつのことかは最早(もはや)分からないが、その自らの家族名を捨てたリーダーが現れ「倭」を「和」と書き換えたとき、この国はひとつの国になった。
 象徴天皇とは、現憲法が発明したものではない。その起こりから天皇は象徴だった。現憲法はそれを成文化しただけだ。
 
        <四>
  
 歴史はわたしたちの身体同様に緊張と弛緩(しかん)を繰り返す。文化はその弛緩の時期に花開く。(四百年ちかくも遷都が行われなかった)平安期の日本がそうだった。
 やっと君たちが勉強した『土佐日記』の時代に入る。かな文学が一気に花開いた時期である。
 その貴族中心の文学はほぼ百年という短期間で頂点に達し、その後は文学の担い手が次第に変わっていく。時代の担い手が変わっていくからだ。
 しかし、文学と貴族性を切り離して考えることはできない。じっさいの身分がどうであるかよりも、精神的な貴族性が文学を支えていく。
 平安時代は貴族の時代だった。そして、平安時代に日本独特の美意識――多くの仏像にもともと施されていた金箔や原色の塗料は時間の経過とともに剥落(はくらく)し褪色(たいしよく)していく。日本人はその剥落し幽(かす)かになっていく金や褪色した色にこの上ない「美」を見いだした。のちの「幽玄(ゆうげん)」や「わび」「さび」はそこから生まれる。・・・あと一つ付け加える。二十世紀イギリスの陶芸家バーナード・リーチは、「ヨーロッパや中国は均整の美を尊重した。しかし、日本人は不均整の美を発見した。西の美的価値観は極東に補われて豊かになった。」と書いている。――が生まれた。しかし、貴族主義はまだ生まれていない。貴族主義とは、貴族が没落したあと貴族以外のひとたちが「生き方」として選び取るものだ。
 『土佐日記』(九三五年頃)の紀貫之――人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける――は最初の勅撰(ちよくせん)和歌集『古今集』――五月(さつき)待つ花橘(たちばな)の香(か)をかげば昔の人の袖(そで)の香ぞする――読み人知らず――わたしたちの心細さの源には「自分の匂いは自分では分からない」ことがある。――のかな序で誇らしやかに日本文学の独立宣言をする。「和歌(やまとうた)は人の心を種として、万(よろず)の言の葉とぞなれりける。・・・花に鳴く鶯(うぐひす)、水に棲(す)む蛙(かはづ)の声を聴けば、生きとし生けるもの(生きているものすべて)、いづれか歌を詠まざりける。」自然と一体化して生きた万葉人(まんようびと)の心がよみがえったのだ。
 以後、平安末に藤原俊成が編んだ『千載(せんざい)和歌集』――世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる――小倉百人一首83――』や鎌倉初に俊成の子定家が編んだ『新古今和歌集』まで八つの勅撰和歌集(八大集)が成立する。最後の『新古今集』は鎌倉期まで生きた藤原定家が独力で完成させた前代の目印でもあった。
 それらを総じて評するなら、かれらは風や水を感じ、花や鳥を愛し、月を眺め、恋をし、季節を味わうことに無上の喜びを抱いた。
   見渡せば山もとかすむ水無瀬川(みなせがは)夕べは秋となに思ひけむ(新古今・後鳥羽院・春・小倉百人一首
 日本人にとっては自然もまた文化の一部であり、自分も自然の一部であり、そして、生きることも、それが何らかの象徴性を帯びないかぎり生きていることとはならないと信じた。 
   春の夜の夢の浮橋(うきはし)とだえして峰にわかるる横雲の空(新古今・藤原定家・春)
 『新古今集』は、土を失っても咲いた花――それを今の用語では象徴主義という。――だった。しかし、フランスでその運動が興ったのは十九世紀。
 この国の人々はあまりにも早すぎる洗練を知ってしまう。
 平安時代の日本文学は、のちに紫式部(むらさきしきぶ)が「作り物語の祖(おや)」と呼んだ『竹取物語』(十世紀末)から始まる。――かぐや姫の話であるが、実は、月からきた美しい女性の伝説はユーラシア大陸の各地に残されており、そのどれが源(おおもと)なのか確かめようがない。きっと古代に各方向へと移動をつづけた人々は、その伝説を持ったままそれぞれの場所に住みつくようになったのだ。――『竹取物語』の作者は分かっていない。――二十世紀後半に入って、戦地からなんとか生還した加藤道夫は、根限りの想像力を働かせて竹取物語の作者を創った『なよたけ』(青土社)という、この上なく美しい戯曲を遺書代わりに書いて三十五歳で亡くなった。(図書室にありますように。)――
 以後、『蜻蛉(かげろう)日記』(右大将道綱(みちつな)母――嘆きつつひとり寝(ぬ)る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る(知らないでしよう)――)、『枕草子(まくらのそうし)』(清少納言(せいしようなごん)――「春はあけぼの・・夏は宵(よひ)・・秋は夕暮れ・・冬はつとめて(早朝)、」――)、『和泉式部(いずみしきぶ)日記』――あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびの会ふこともがな(が叶いますように)――を経て、日本が世界に誇る紫式部源氏物語』(一〇〇八年頃)に至る。その間、わずか、百年。
 「いつれの御(おほん)時にか、女御(にようご)、更衣(かうい)あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際(きは)にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり」と始まる流麗(りゆうれい)な文章は、単なる言葉の羅列(られつ)ではなく、メロディーやリズムが内包された音楽の楽譜(歌詞つきの楽譜)のようであることに驚く。――明治の中頃二十六歳で来日し、夏目漱石たちに西洋哲学を教えたケーベル先生(岩波文庫。一九二三年横浜で没。七六歳。)は、日本に来ても何も不便を感じなかったと書いている。「ただ、音楽がないのが寂しかった。」かれは持ってきた楽譜を見て、頭のなかで音楽を再生して心を慰めたそうだ。――と同時に読む者はそこに初発性(はじめて発せられたかのような何か)、言葉が生まれる現場への臨場感(りんじようかん)を覚える。
 『源氏物語』の後半は、華麗な女性遍歴を繰り広げた光源氏――その生き方はギリシャ悲劇を思わせる。――から子の薫(その出生(しゆつしよう)の秘密の話は授業のときに習いなさい。)に移る。薫とその親友の匂宮(におうのみや)との板挟(いたばさ)みに陥って入水(じゆすい)自殺をはかった浮舟の居所を薫は探り当てるが、浮舟はもうけっして会おうとしない。その間五十四帖(ぢよう)。それは、物語という名になっているけれど、(読んでいると神経が泡だってくる)壮大な詩だ
 まだ世界中で「物語」といえば、先の『竹取物語』のような「ありえない不思議な話」や英雄伝説だった時代に、紫式部という一個人(それも本名が残っていないような下級貴族)が、生身(なまみ)の人間の喜びや悲しみや苦しみを『源氏物語』に凝縮(ぎようしゆく)させた。――ついでに、以前にも「雑種文化」のところで登場した加藤周一の言葉をここで紹介する。「日本が世界に誇る『源氏物語』や桂離宮(かつらりきゆう)(江戸時代に建てられた別荘)は、全体構想をもとにしてつくられたものではない。最初はごく小さなものから始まり、それが次第に広げられて現在わたしたちが知っているものになった。もし、今後、日本人が世界に貢献できる何かを創りだすとしたら、同じ発想をとったものになるはずだ。」ipS細胞のニュースを聞いたとき思い出した言葉です。――
 小野小町らとともに六歌仙(ろつかせん)と称された在原業平(ありわらのなりひら)――ちはやぶる神代(かみよ)も聞かず龍田川から(唐)くれなゐ(紅)に水くくるとは――をモデルにしたと言われている歌物語の代表『伊勢(いせ)物語』(十世紀初)、菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)の紀行文『更級(さらしな)日記』(一〇六〇年頃)、成尋阿闍梨母(じやうじんあじやりのはは)の旅日記(一〇七三頃)など、君たちに読ませたいものはたくさんある。その大半が女性の手になっていることも覚えておこう。 
      花の色はうつりにけりないたづらにわが身世(よ)にふるながめせし間に 小野小町古今集小倉百人一首9)
      玉の緒(わたしの命)よ絶えなば絶えね(消えるなら消えてしまえ)ながらへば(これ以上生きのびると)しのぶることの弱りもぞする(隠し通そうとする気持ちが弱つてはならないから)」 式子(しよくし)内親王新古今集・恋・小倉百人一首89)
   歌の旋律が君たちのなかに蘇りましたか?
 一方、この時代の後半には新しい動きが生まれた。そのひとつは、今でいう実録もの「歴史物語」が登場したことだ。『栄華物語(えいがものがたり)』(一〇三〇年頃)を先駆(せんく)とし、『大鏡(おおかがみ)』、『今鏡(いまかがみ)』、さらに鎌倉時代に入って『水鏡(みずかがみ)』『増鏡(ますかがみ)』と続いてゆく。それは、貴族階級と武士などその他の階級の文化的差が縮まり、さらに逆転していく過程で生まれていった。
 『今昔物語(こんじやくものがたり)』――今は昔、摂津(せつつ)の国の辺(ほとり)より盗みをせむがために京に上(のぼ)りける男(をのこ)の、日の未(いま)だ明かりければ、羅城門(らじやうもん)の下に立ち隠れて――はもう芥川龍之介の『羅生門』で勉強した。『宇治拾遺物語』も「ちごのそら寝」をやったので省略。
 最後に、万葉期につづく歌謡に触れておく。
 平安前期には、奈良時代からの祝詞(のりと)のほか、神前(しんぜん)での舞楽(ぶがく)である神楽(かぐら)歌や遊(あそび)歌――もともとの遊(あそび)とは、神々との交流を指していた。のちの遊女(あそびめ)はもともとそういうことを業とする女性たちだった。――をはじめ、宴(うたげ)の席で歌われる催馬楽(さいばら)など新しい歌謡が生まれた。また、歌の朗詠も盛んになり一〇一三年には藤原公任(きんとう)の手によって漢詩と和歌を集めた『和漢朗詠(ろうえい)集』が編まれた。後白河法皇(ごしらかわほうおう)による民間に流行した今様(いまよう)――七五調の歌。校歌を指を折りながら数えてみなさい。――集『梁塵秘抄(りようじんひしよう)』は、『千載(せんざい)集』や『新古今(しんこきん)集』と並ぶ、平安時代の棹尾(とうび)(最後)を飾るもひとつの目印である。
   遊びをせむとや生まれけむ 
   戯(たはぶ)れせむとや生まれけむ
   遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ揺(ゆる)がるれ
 また、西行(さいぎよう)の『山家集(さんかしゆう)』(十二世紀末)は、勅撰集から個人集の時代に移行する先駆けとなった。
 北面(ほくめん)の武士という名誉を捨てて、全国を僧体で行脚(あんぎや)した西行は生きているときから伝説化され、江戸時代の松尾芭蕉にまで大きな影響を与えた。
    願はくは花の下にて春死なむその如月(きさらぎ)の望月(もちづき)のころ 
   
 先走るけど、次の鎌倉時代に作られた『平家物語』より、「平氏都落ち」の挿話(そうわ)を紹介してこの項を終わりたい。
 薩摩守(さつまのかみ)(平)忠教(ただのり)は途中から引き返し、歌の師である藤原俊成を訪ね、「(平氏)一門の運命はや尽き候(さうら)ひぬ。撰集(せんじゆう)のあるべき由(よし)承り候(さうらひ)しかば、生涯の面目(めんぼく)に、一首(いつしゆ)なりとも御恩(ごおん)をかうぶらうど存じて候、」と自分の歌を書き集めた巻物を托(たく)す。俊成は(いまや朝敵となった)忠教(ただのり)の歌を受け取る。
喜んだ忠教は「今は西海(さいかい)の浪の底にしづまば沈め、山野(さんや)に屍(かばね)をさらさばさらせ、浮世(うきよ)に思ひおくこと候はず」と馬に乗って立ち去っていく。「そののち、世しづまって、千載集(せんざいしゆう)を撰(せん)ぜられけるに、忠教(ただのり)のありしあり様(さま)、言ひおきし言の葉、いまさら思ひ出でて哀(あは)れなりければ・・・故郷花(こきようのはな)といふ題にて詠まれたりける歌一首ぞ(直勘(ちよつかん)の人なれば)「読人(よみびと)知らず」とぞ入れられける。」
    さゞなみや滋(※)賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな 
     ※滋賀の都≒飛鳥時代天智天皇中大兄皇子(なかのおおえのおうじ))が近江(おうみ)滋賀(現在の大津市)に営んだ都。壬申(じんしん)の乱で大海人皇子(おおあまのおうじ)(天武天皇)に敗れたため、わずか五年ほどで廃された。柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ) は「近江の海(み)夕波千鳥汝(な)が鳴けば心もしのに古(いにしへ)思ほゆ」と詠(うた)っている。
 忠教は自分を孤立した現代人だとは思っていない。かれのなかには前代と後代とをつなぐ継ぎ目としての自己意識が生まれている。それを「歴史意識」という。この「歴史意識」は次第に日本全体を動かしていくことになる。
 時代はたおやかな貴族から雄々(おお)しい平氏(へいし)(都を支えていた武士)へ、そしてさらに荒々しい源氏(げんじ)(東国武士)へとその担い手を代えていく。                            
          <五>
 「祇園精舎(ぎをんしやうじや)の鐘の声 諸行無常(しよぎやうむじやう)の響きあり 沙羅双樹(しやらさうじゆ)の花の色 盛者必衰(じやうしやひつすい)の理(ことわり)をあらはす」
 この先まで暗唱できる者もたくさんいるに違いない。『平家物語』冒頭である。『徒然草(つれづれぐさ)』によると、信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)が作ったのだという。 琵琶法師(びわはふし)(盲僧であったらしい)たちは、「平曲(へいきよく)」としてそれを全国津々浦々(つつうらうら)に広げ、のちの男たちの生き方に大きな影響を及ぼした。『方丈記(ほうじようき)』をもひっくるめて「無常観」と呼ぶけれど、それは現代人の私たちの思い浮かべるものとは相当に違う。
 「敦盛(あつもり)最期(さいご)」の場面は下のようになっている。
 (源氏の)熊谷次郎直実(なおざね)が、美しい装束(しようぞく)を着て馬で海に入り、沖の舟に向かっている武者に「まさなう(見苦しく)も敵にうしろを見せさせ給ふものかな。返へさせ給(たま)へ」と呼びかけると、大将軍とおぼしき平氏の武者は引き返してきて熊谷次郎に組み討ちを挑むが、熊谷次郎の敵ではなかった。「とって押さへて頸(くび)をかゝんと甲(かぶと)をおしあふのけて見ければ」敵は息子と同年代の十六、七歳と思われる美少年だった。助けて逃がそうかと一瞬思うが味方の軍勢が近づいてくる。「たとくとく(はやくはやく)頸(くび)をとれ」とせかされて少年の頸をとり、しきたり通りに少年の美しい鎧(よろい)直垂(ひたたれ) で頸を包もうとすると錦(にしき)の袋に入った笛を見つける。「あないとほし(気の毒だ)、(戦いを前にした)この暁(今朝)、城のうちにて管弦し(演奏し)給ひつる(なさつていたの)は、この人々にておはしけり(でいらつしやつたのか)。・・・上臈(じようろう)は、なほもやさしかりけり」
 平氏は武士とはいっても既に貴族化していた。熊谷次郎はそののち出家をし、伝説化する。
 また先走るが、稀代(きたい)のリアリスト(「見たいものしか見えない」わたしたちと違って、すべてのものが平等に見える人)織田信長は、同時に幸若舞(こうわかまい)――いまも福岡県のみやま市瀬高町大江天満神社の祭礼(今年は一月二〇日)に行けば見ることができる――を愛していた。明智光秀の攻撃を受けたとき、炎上する本能寺のなかで織田信長はみずから『敦盛(あつもり)』を謡いつつ舞ったと伝えられている。
 人間(じんかん)五十年 下天(げてん)のうちを比ぶれば 夢幻のごとくなり ・・・ひとたび生を享(う)け 滅(めつ)せぬもののあるべきか(あるはずがない)
 へんな言い方になるが、武士たちにとって「無常」は観念ではなく、ライヴだった。
 「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかた(泡沫)は、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。」『方丈(ほうじよう)記』鴨長明(かものちようめい)(1155?~1216?)
 「つれづれなるままに(退屈しのぎに)、日暮らし(一日中)硯(すずり)にむかひて、心にうつりゆくよしなしごと(つまらないこと)を、そこはかとなく(何が何だということもなく)書きつくれば、あやしうこそ(不思議なほどに)ものぐるほしけれ(気がおかしくなりそうだなあ)。」『徒然草(つれづれぐさ)』吉田兼好(けんこう)(1283
?~1352?)
 しかし、鴨長明吉田兼好も家にひきこもって考える人ではなく、現実を冷めた目で見つめる人であり、現実の中で生きる頑丈な神経の持ち主だった。平安末期からの戦乱や繰り返される自然災害をくぐり抜け、いまの神奈川県の鎌倉に幕府が開かれて大不況に陥った京都でしぶとく長寿を全うした。
 二六歳で暗殺された三代将軍源実朝(さねとも)の『金槐(きんかい)和歌集』は、低迷していたかに見える鎌倉期の歌のなかで異彩(いさい)を放ち、のちの明治から昭和にかけての「アララギ派」(斎藤茂吉「我が母よ死にたまひゆく我が母よ吾(わ)を生(う)まし乳足(ちた)らひし母よ」―「赤光(しやつこう)」―)の男たちに大きな影響を与えた。
    世の中は常にもがもな(永遠に変わらないでほしいなあ)渚こぐあま(漁師)の小舟(をぶね)の綱手(つなで)かなしも (小倉百人一首93・鎌倉右大臣)
    大海の磯(いそ)もとどろに寄する波われて砕けて裂けて散るかも
 という万葉調の男性的な歌は、貴族たちの女性的な歌(手弱女(たおやめ)ぶり)以前の、例えば柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の長歌
「石見(いはみ)の海、角(つぬ)の浦廻(うらみ)を浦なしと 人こそ見らめ 潟(かた)なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも 鯨魚(いさな)取り 海辺を指して 和多津(にぎたつ)の 荒磯(ありそ)の上に か青く生(お)ふる 玉藻(たまも)沖つ藻(も) 朝羽(あさば)振る 風こそ寄らめ 夕羽(ゆふは)振る 波こそ来寄れ 波のむた か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り寝し妹(いも)を 露霜(つゆしも)の 置きてし来れば この道の 八十隈(やそくま)ごとに 万(よろづ)たび かへり見すれど いや遠(とほ)に 里は離(さか)りぬ いや高(たか)に 山も越え来(き)ぬ 夏草の 思ひし萎(な)えて 偲(しの)ふらむ 妹(いも)が門(かど)見む 靡(なび)けこの山」
(意味だけを取り出すなら、「妻の家をも一度見たい。越えてきた山よ、頭を下げろ」) の雄渾(ゆうこん)さを思い出す。
                                               
 鎌倉時代は、内乱の時代であるとともに蒙古襲来の外患の時代でもあった。
 その混乱の時期に、親鸞浄土真宗道元曹洞宗日蓮法華宗などの、いわゆる「鎌倉新仏教」が誕生する。そのなかでも、弟子によって編まれた親鸞の談話録『歎異抄(たんにしよう)』は文学史に含めるにふさわしい。「善人なほもて往生(わうじやう)す。況(いは)んや悪人をや」(善人でさえ極楽で往生するのだから、悪人である私はなおさら往生する自信がある。)で知られる「悪人正機説(あくにんしようきせつ)」は殺人を業とする武士だけでなく、思いにそぐわぬ生き方を強いられていた多くの人々をも惹(ひ)きつけた。
 女性文学では、『建礼門院右京太夫集(けんれいもんいんうきようたゆうしゆう)』「物思へば心の春も知らぬ身に何(どうして)うぐひすの(が)(春の到来を)告げに来るらむ」――建礼門院は、壇ノ浦の闘いの最中にわずか六歳で亡くなった安徳天皇の母。平家滅亡後は京都大原寂光院(じやつかうゐん)で一族の菩提(ぼだい)を弔(とむら)った。『平家物語』は、後白河法皇が大原に建礼門院を訪ねる場面で終わる。右京大夫はその建礼門院に仕えていた女御。安徳天皇の墓と伝えられる所は瀬戸内海沿岸の各地にある。――と阿仏尼(あぶつに)の『十六夜日記(いざよひにつき)』を外せないが、「昔、壁の中より求め出でたりけん書(ふみ)の名をば、今の世の人の子は、夢ばかりも身の上のこととは知らざりけりな。」(『十六夜日記冒頭』)と読むと、もう心がざわつき始めるから、わたしがじっくり読むのはいつになるのか分からない。――「さらに思ひ続くれば、やまと歌の道は、・・・日の本の国に天の岩戸開けしより、四方(よも)の神たちの神楽(かぐら)の詞(ことば)をはじめて、世を治め物を和(やわ)らぐるなかだちと成(なり)にけりと、この道の聖(ひじり)たちは記(しる)し置かれたる。」
 歌ではほかに、これまで何度も引用した『小倉(おぐら)百人一首』を藤原定家が編んだのがちょうど時代の中頃のことである。
 が、人々の間では五七五七七を二人で詠む「連歌(れんが)」が盛んになった。次の室町時代になると連歌はより参加者を増やして、ひとつの世界(人間だけでなく自然をも含めたストーリー)を完成させようとする方向に進んでいく。その中心人物飯尾(いいお)宗祇(そうぎ)は全国を歩き、連歌を広め、この博多にも足をのばしている。
 「それより誰に急ぐともなく駒(こま)うち早め、夕陽のほのかなるに博多といふに着きぬ。・・・前に入海(いりうみ)はるかにして・・・沖には大船多くかゝれり。・・・ここより舟出(いだ)して志賀嶋にを(押)し渡る。・・・立ち出(いで)てながめ渡せば、万葉に詠(よ)めるおのころ嶋――「韓亭(からとまり)能許(のこ)の浦波 立たぬ日はあれども 家に恋ひぬ日は無し」―万葉集―も間近く見えて、筥崎(はこざき)の松、多々良潟(がた)、香椎の浦まではるかに見やらるゝ・・・
    浪風を治めて海の半ばまで道ある(「海の中道」のこと)国やまたも来てみむ
 明(あく)れば廿五日、生の松原へとみな同行(どうぎやう)誘ひて立出(たちいで)侍る・・・」
 江戸元禄時代松尾芭蕉にとって宗祗は、平安末期の西行や八世紀中国の杜甫(とほ)(「国破れて山河あり 城春にして草木深し 時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ 別れを恨(うら)んでは鳥にも心を驚かす 烽火(ほうくわ)三月(さんげつ)(三ヶ月)に連なり 家書(かしよ)(家族からの手紙)万金(ばんきん)に抵(あた)る 白頭(はくとう)掻(か)けば更に短く 渾(すべ)て簪(しん)(髪を留めるピン)に勝(た)へざらんと欲(ほつ)す」)とともに究極の先達(せんだつ)だった。
 
 軍記物『保元(ほうげん)物語』や『平治物語』は、すでに『平家物語』で代表させたし、四鏡(しきよう)のなかの『水鏡』や『増鏡(ますかがみ)』は平安時代の『大鏡』のときに触れたので省略する。
     
     
                <六>
 鎌倉幕府の実権は、実朝(さねとも)(『金槐(きんかい)和歌集』)の暗殺以後は北条氏に移る。
 元寇――対馬壱岐博多湾岸はその戦場となった。現在も西区のもとの海岸線には防塁跡が残っている。――を撃退したあとの国内には混乱が起こる。なかでも天皇家の二つの系統(南朝北朝)の争いは深刻だった。
 ここ九州は、平安時代に滅亡した平氏にとっての最後の根拠地だった。のちに北朝に屈する南朝を最後まで支持したのも九州の武家たちだった。この地には何か、そういう古代からの記憶が遺されていて、それが十九世紀になってから甦ったかに見えるが、これも先走り過ぎ。
 武家同士の熾烈(しれつ)な権力争いは足利(あしかが)氏(それを支持したのも九州の勢力だった)の勝利となり、京都に室町幕府が開かれる。
 室町時代の文学で特筆すべきものに能楽(のうがく)の台本謡曲(ようきよく)がある。いわゆる戯曲(ぎきよく)が初めてこの時代に登場する。
 「行方定めぬ道なれば、行方定めぬ道なれば、」と始まる『鉢木(はちのき)』の作者は分かっていない。雪のなか佐野(さの)の里にたどり着いた旅の僧がある家に「一夜の宿を御(おん)貸し候へ」と頼むが、住人は「泊め申したくは候へども、我等夫婦さへ住みかねたる体(てい)にて候ほどに」と断る。旅の僧が去ったあと雪はいよいよ降りしきる。――駒(こま)とめて袖(そで)うち払ふ蔭(=物陰)もなし佐野のわたりの雪の夕暮 藤原定家――宿かさぬ火影(ほかげ)や雪の家つづき 蕪村(ぶそん)――いったんは断った住人は思い直し、雪降るなか僧を追いかける。「なうなう(のうのう)旅の御人、お宿を参らせなう(のう)。」住人と僧は夜語(よがた)りをする。暖(だん)をとるべき薪もなかった住人は、大切にしていた盆栽の梅や松を惜しげもなく囲炉裏(いろり)にくべる。題名『鉢木(はちのき)』の由来である。
 後半では、その二人がまさに劇的な再会を果たすのだが、そこは、君たち自身が読むか、聞くか、見たときのために取っておく。
 「なうなう旅の御人」を思い出すたびに、昭和の童話作家新美(にいみ)南吉の『手袋を買いに』や『ごんぎつね』が甦(よみがえ)ってくる。きっと佐野の住人の人恋しさが感染するのだろう。――その「人恋しさ」こそが、わたしたちの文学の源泉、のような気がするのだが。
 能楽は、それまでの民衆芸能の田楽(でんがく)や猿楽(さるがく)(申楽(さるがく))をもとに世阿弥(ぜあみ)が舞台芸術として完成させた。――先に書いた「幸若舞(こうわかまい)」も田楽や申楽とともに民衆芸能となる以前は神々への奉納(ほうのう)芸(神事)だったのではないかと考えている。――その芸能論『風姿花伝(ふうしかでん)(花伝書(かでんしよ))』は舞台芸術のみならず日本の芸術一般、いや、日本人の美意識そのものに大きな影響を与えた。
 「秘すれば花なり。秘せずんば花なるべからず。・・・見るひとの花ぞと知らでこそ(ないでこそ)、為手(して)(演者(えんじや))の花にはなるべけれ。」
 
 また、能楽から独立した狂言(きやうげん)――能の主人公は主にヒーローやヒロインたちであるのに対して、狂言の主人公は太郎冠者(たろうかじや)や次郎冠者(じろうかじや)など民衆の代表。能楽が舞踊劇であるのに対して狂言は現代人が聞いても分かる台詞(せりふ)劇。能楽が悲劇であるのに対して狂言は喜劇――は広く一般に親しまれ、いまも多くの支持を得ている。――のちに「狂言」は「お芝居」と同義語になった。――
 室町後期に編集された小唄(こうた)(短歌ほど形式を重んじないもの)集『閑吟(かんぎん)集』には、恋する者の心をそのまま口にしたようなものが含まれていて、たぶん、君たちは「なにかのアニメにこんなシーンがあったな。」と感じるのではないだろうか。
 「あまりの声のかけたさに、〝あれ見さいのお、雲が、雲が行く〟」
 南北朝の争いを描いた『太平記(たいへいき)』――最大のヒーローは楠正成。平家物語源義経静御前、そして『忠臣蔵』とともに、のちの歌舞伎(かぶき)での人気狂言になっていく。――は、次の時代には「太平記読み」の語りを聞くものになっていき、文学の大衆化が一気に進んでいく。
 
                    
                       <七>
 織田信長豊臣秀吉の名をとって「織豊(しよくほう)時代」とも呼ばれる安土・桃山時代に入る。日本の中心がどこなのか分からないほどの混乱が収束(しゆうそく)され、安定期を迎えるまでの時代である。
 前のところで、「文化は弛緩(しかん)した時代に花開く」と書いた。つまり、戦国期という緊張した時代には、特筆すべき文学作品は見当たらないので、少し横道に逸(そ)れてみる。
 戦国武将の有能さは軍事面だけではない。例えば、織田信長の「楽市楽座」は、いまの言葉に直せば「規制緩和」であり、「経済の自由化」だった。そして、豊臣秀吉の時代に日本は貨幣経済期に突入していく。その先進的な政策によって、この時代に「近代化」への準備はいったん出来ていた。 しかし、関ヶ原の合戦を経て日本を統一した徳川幕府は、米の物納中心の税制度を維持しようとしつづけた。市場は自由経済――米の値段は需給バランスや買い占めによって大きく変動した――なのに、税は物納制。その制度は、米の価格変動にかかわらず、一定量を物納すれば良かったのだから農民にとっては善政だったと言える一面もあったかもしれないが、その矛盾が徳川幕府を次第に蝕(むしば)んでいく。
 徳川幕府崩壊の原因はいろいろあるだろうが、自分たちの作り上げた秩序を維持することに執着するあまり、自由経済(貨幣中心経済と呼ぶ方が適当かもしれない。)の可能性から目をそらし続けたことが、時代の先を見た人々(その中には幕臣(ばくしん)も含まれる)から見離された大きな理由のひとつだ。
 武将たちは極めて自由な発想力を持っていた。
 佐賀の名護屋城に居たとき、筆まめ豊臣秀吉大阪城に居た妻の淀君(よどぎみ)(茶々)に「そこもと様の口をはやく吸ひ申したく候」という手紙を書いている。その露骨なほどの自由さが秀吉にはあった。「心に残ることばが文学だ」と」最初に書いたが、ここまで来ると、もうそれが文学かどうか、どうでも良くなってくる。
 と同時に、かれらは教養人でもあった。
 当時、連歌(れんが)と並んで流行したものに、千利休(せんのりきゆう)の茶の湯がある。この二つには共通点がある。それは「座(ざ)」という概念(がいねん)の導入(どうにゆう)だ。複数(三人以上)の人々で連歌遊びをやるとき、その場(座、連座ともいう。)に参加した者(参加者はのちに連中(れんぢゆう)―連衆―と呼ばれる)の身分や財産はいっさい無視される。座では宗匠(そうしよう)(連歌のリーダー)以外は完全に平等なのだ。ただ一杯の茶を飲むだけというセレモニーにおいても利休は、身をかがませなければ入ることができない入り口から茶室に入ったとき、社会的身分差や外側の人間関係は消え去るものとした。茶室ではそこに居る人々はすべて対等なのだ。――豊臣秀吉はのちにその千利休切腹を命じる。――昭和初期の劇作家であり、優れた俳人(はいじん)でもあった久保田万太郎のことばを付け加える、「短歌の作者は社会性をおびたまま歌を作る。俳句の作者は自分の社会性を捨て、ただの人間になるために俳句を作る。」(「湯豆腐やいのちのはての薄明かり」)
 混乱を極めた時代に、少数者の文学としての俳句が、連歌の座のなかで準備されつつあった。合戦の前日、武将たちはその茶席に集まり、一服の茶を味わい――その後は酒が出たんだろうが――みなで連歌遊びをした。万一の場合はそれが最後となる言葉、しかしあくまでも優雅な言葉を書いた。
 利休の佗茶(わびちや)は、野趣(やしゆ)と貴族主義のハイブリッド体だった。
 横道ついでに触れる。幕末、長州藩十三代当主毛利敬親(たかちか)は茶室を作り、そこに家臣を呼んで話すのを好んだ。「ここでは対等に口をきけ。」桂小五郎木戸孝允(たかよし))はあるとき「毛利家の財産を使うのは今だ。」という建白書(けんぱくしよ)をその敬親に出した。毛利家は関ヶ原の合戦以後、捲土重来(けんどちようらい)のときのために、爪に火をともすようにして金を貯めていた。その金額は四百万両。――幕末の徳川家の年間予算は数百万両だったと記憶している。その予算の大半は人件費で消えるから、使途可能な金額はどれほどだったろう?――「日本はこのままではヨーロッパに分割され植民地になってしまう。一日もはやく徳川家をつぶして統一国家にすべきだ。統一国家とするためには徳川家だけでなくすべての藩もなくさなくてはならない。これは緊急を要する。毛利家の財産を使うのは今だ。」敬親(たかちか)は桂小五郎を呼び、話を聞き終わったあと「分かった。お前の好きなように金を使え。」と言ったあとに、「でも、それが成功したら、オレとお前はもう主従(しゆうじゆう)(殿様と家来)ではなくなるんだなぁ。」と言ったそうだ。
 二人が会った場所がどこかは知らないのだけれど、もしわたしが大河ドラマを書くとしたら、その場所は茶室にして、身分の差を乗り越えて建策した桂小五郎に「ははぁ!」と平服させたい。なお、明治維新後の敬親は、その茶室を売ってお金にかえている。
 もひとつ付け加える。自分たちから仕掛けた馬関(ばかん)戦争(馬関(ばかん)海峡はいまの関門海峡)で長州が完敗した――長州は、それまでの攘夷方針を一転させイギリスと提携する道を選ぶ。――のち、四国の宇和島藩をイギリスの使節団が訪問した。そのとき宇和島藩伊達宗城(だてむねなり)は、歓迎のセレモニーで、家臣たちと肩を組んでアイリッシュ・ダンスを披露(ひろう)し、イギリス人たちを驚かせたという。――フィギュアスケートが好きな者は、数年前に本郷理華がフリーで、足を交錯(こうさく)させながらステップを踏んだのを覚えているかも知れない。あれがアイリッシュ・ダンス。――応仁の乱以降の下克上(げこくじよう)を経て、すでに人々は「自由」も「平等」も知っていた。

            <八>

 応仁の乱以後、百四十年ちかく続いた動乱の時代が終わり、江戸幕府が開かれる。人々は、やっと平和と安逸(あんいつ)を貪(むさぼ)ることができるようになった。
 江戸時代の初めの十七世紀後半はまずは大阪で、それから江戸で都市文化が花開いた。
 浮世草子(うきよぞうし)『好色一代男』の井原西鶴(さいかく)、人形浄瑠璃(にんぎようじようるり)『曾根崎心中』の近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)は、旺盛(おうせい)に書きつづけ、人気を博しつづける。
 とくに近松門左衛門の心中物(しんじゆうもの)の人形浄瑠璃は評判を呼び、『冥途(めいど)の飛脚(ひきやく)』や『心中天網島(しんぢゆうてんのあみじま)』や『女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)』は、『曾根崎心中』とともに、いまも上演されたり映画化されたりしている。
 が、それらの恋愛物を見ていると、登場人物たちの「愛」はいまのわたしたちのそれとは相当に趣(おもむき)が違うのに気づく。わたしたちにとっては快(こころよ)く甘い「愛」は、かれらにとっては甘美(かんび)であるだけでなく、重々しく苦(にが)い。あるいは、『源氏物語』の紫式部にとっての「愛」もそうだったのかも知れない。しかし、その重々しく苦いなかにこそ、彼らや彼女たちは言いようもない喜びを感じていた。
 人形浄瑠璃近松没後もおどろおどろしい『妹背山(いもせやま)婦女庭訓(おんなていきん)』や現在の大河ドラマの原型である『仮名手本忠臣蔵(かなてほんちゆうしんぐら)』で大当たりを取り、のちには歌舞伎に取り入れられて、いまもなお人気を保っている。
 が、そのような華やかで騒がしい社会にあって松尾芭蕉(ばしよう)は、能因(のういん)(998~1050。三十六歌仙の一人)や宗祇(そうぎ)や西行(さいぎよう)(1118~1190)以来の「風狂(ふうきよう)」の道を歩むという独自の生き方を選んだ。
 サリンジャー(1919~2010)に『テディ』という小さな小説がある。
 「Nothing intimates  How soon they must die,....Crying cicadas.」と不意にテディが言った。
 「Aloong this road  goes no one , this autumn ive.」 「なに?」とニコルソンが微笑みながら訊ねる。「も一度言ってみて、」――「詩人なんて感情をもてあそぶ天才たちにすぎない。」というニコルソンに直接には反論せずにテディが応える場面――「ふたつとも日本の詩。両方ともあまり感情を詰め込んでいない。」
   この道や行く人なしに秋の暮
   やがて死ぬけしきは見えず蝉の声
 二十世紀なかごろに英語教師として来日したR・H・ブライス芭蕉の文学に出会い、膨大(ぼうだい)な英訳と評論を発表し続けた。彼の発信したものは世界の隅々にまで広まり、その「俳諧連歌の発句(ほつく)」――略してHAIKU――は今さまざまの言葉で作られている。「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人也」で始まる『奥の細道』はいったい何カ国語に翻訳されているのだろう。ちなみに、わたしの持っている『 A HAIKU JOUNEY--Basho's Narrow Road to a Far Province 』は、「The  Passing days and months are eternal travelers in time.」と始まっている。
 R・H・ブライスは言う。「(主語を省くことが多い)日本語のあいまいさ――与謝蕪村月天心貧しき町を通りけり』の主語は?――は、ヘブライ語、英語、中国語が取り逃がしている、人生における何かと一致する。・・・ものごとは決して大文字で始まったりはしない。ただ単に、絶え間ない生成と変容があるだけだ。」
 「春立てる(春めいた)霞(かすみ)の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、」には、
「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白川の関」と歌った能因(のういん)法師への意識が見てとれる。
 平安時代末期の平忠教のところでも書いたが、それを「歴史意識」という。歴史意識には「歴史に自分の名を残したい」という浪漫(ろうまん)主義もあるが――また、あとでも述べるが、浪漫主義を一言でいうなら、実物よりも大きく自画像を描こうとする主義。――、芭蕉にとっての歴史意識は、「行く川の流れ」の一部分になりたいという切ない願望だった気がする。
   行春(ゆくはる)や鳥啼(な)き魚(うを)の目は泪(なみだ)     千住(せんじゆ)
   時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ 別れを恨(うら)んでは鳥にも心を驚かす 『春望』
   国破れて山河あり、城春にして草靑みたり、と笠うち敷きて泪を落としはべりぬ。
    夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡   平泉
 ここには、八世紀の杜甫(とほ)だけでなく、平家を滅ぼす軍功をたてながら自(みづか)らも平泉で滅んだ源義経たちへの思いも強く見てとれる。
 『野ざらし紀行』――草枕(くさまくら)犬もしぐるるか夜の聲(こえ)――、『鹿島紀行』、『笈(おい)の小文』――旅人と我名(わがな)よばれん初しぐれ――、『更科(さらしな)紀行』――俤(おもかげ)や姨(をば)ひとりなく月の友(更科には姨捨て伝説があった)――、『おくのほそ道』と歩き続けた――彼がほとんどどこへでも旅をするのが可能だったのは、各地に「蕉風俳諧(しようふうはいかい)」の愛好者たちがいたからだ。彼は、全三十六句それぞれの位置と役割を定めた、いわばレシピを創った。それに従って連歌をやれ(それを歌仙を巻く、という。)ば、自然に部立てをもった古今集などのように、森羅万象と人事を盛り込んだ一篇の文学的小宇宙が出来る。この蕉風俳諧は全国的に流行した。――芭蕉は、五十歳のとき、弟子たちが止めるのも聞かずまた旅立つ。飯尾宗祇が足を踏み入れた筑紫の国に自分もどうしても行きたかったのだ。しかし、病に倒れ大阪で息を引き取る。
   旅に病んで夢は枯野(かれの)をかけ廻(めぐ)る
 弟子たちはささやかな墓を滋賀大津市義仲(ぎちゆう)寺に建てた。木曽義仲(よしなか)もまた芭蕉が好んだ悲運の武将だった。――芭蕉の信奉者のなかには無視したがる人もいるが、芭蕉もまた、戦燼(せんじん)の臭いが残る元禄の時代人なのです。――寺と呼ぶのが気のひけるほどのとても小さな寺である。
 芭蕉終焉(しゆうえん)の様子を描いた『花屋日記』(岩波文庫)という同時代の偽書(ぎしよ)がある。のちの芥川龍之介の『枯野抄(かれのしよう)』より数段感動的だから、芭蕉に興味をもった者には、弟子の向井去来(きよらい)の書いた『去来抄』とともに勧める。
 名残惜しいので、厚かましくも、わたくしの英訳を書く。だってブライスは「 I shall be a
traveller .Iと訳しているが――それじゃ、まるでシェイクスピアやろ?――どの句かはすぐに分かる。
    From this time 
    I beg you calling me "a traveller" ,just a traveller. 
    THe first winter-rain fall.                   
 ――隣室に行って黒板に書き、いつも英語の本を開いている先生に「これ、英語になっていますか?」と訊くと、「わたくしを旅人と呼んでくださらんか?」――この先生すごい!――
 芭蕉は、「言ひ果(おほ)せて何かある(なんになるのか?)」と言っている。「言い果(おお)せないものこそ貴(とうと)い。」
 あることを正確に言おうとすればするほど、説明しきれないものが残る。――だから大抵の場合、わたしたちは比喩に逃げる。――しかし、それでも説明し尽くそうとして果たせなかったとき、その空白の部分にポエジー(poesy 詩情)が現出する。文学に限ったことではない。人生だってそうだ。
 芭蕉とほぼ同時代の宝井其角(きかく)の句を紹介して元禄期を終わる。
    蟷螂(とうろう)の尋常に死ぬ枯野かな
 十八世紀の与謝蕪村(よさぶそん)(「春の海終日(ひねもす)のたりのたり哉(かな)」)や、十九世紀の小林一茶(いつさ)『おらが春』(「目出度(めでた)さもちう位也(なり)おらが春」)にも触れたいが、芭蕉でスペースをとり過ぎてしまった。ただ与謝蕪村(よさぶそん)『春風(しゆんぷう)馬堤(ばてい)曲』は「詩」と呼ぶしかないもので、いまから二百年以上も前の作品であるとは思えない清新さに満ちている。
   春風(しゆんぷう)や堤(つつみ)長うして家遠し
 あと一人、まったく孤立したままだったので高校生用の文学史には登場しないが、幕末から明治前期を信州で生きた俳人(はいじん)井月(せいげつ)(岩波文庫『井月句集』)を紹介したい。
   用のなき雪のたゞ降る余寒(よかん)かな       ※「余寒」=立春以降の寒さ
   新米や塩打って焼く魚(うを)の味
 このリアルさは、次には二十世紀後半にならないと現れない。
 西洋のオペラと並ぶ歌舞伎は、出雲(いづも)の阿国(おくに)のかぶき踊りにはじまったと言われている。「かぶく」は「傾く」こと。それ以前から「かぶき者」と呼ばれる者たちが居た。いまで言うなら「ヤンキー」。その派手な外見で人目をひく女(おんな)歌舞伎は、若衆(わかしゆ)歌舞伎、野郎(やろう)歌舞伎と形を変え、女形(おやま)(「おんながた」とも言う)が演ずる現在のスタイルになるとともに、十九世紀に入り、鶴屋南北(なんぼく)(『東海道四谷怪談』――「首が飛んでも動いてみせるわ!」と言い放つ極悪人伊右衛門(いえもん)は、いまも俳優たちが演じてみたいと思う典型的なアンチ・ヒーロー)や河竹黙阿弥(もくあみ)が現れ、ほぼ完成した。
 井原西鶴(さいかく)の浮世草子(うきよぞうし)ののち、現在の小説の前身読本(よみほん)が登場する。上田秋成(あきなり)の『雨月(うげつ)物語』や曲亭(きよくてい)馬琴(ばきん)の『南総里見八犬伝(なんそうさとみはつけんでん)』は、さらにのちの十返舎一九(じつぺんしやいつく)の滑稽(こつけい)本『東海道中膝栗毛(ひざくりげ)』とともに、いまも装(よそお)いを変えながら読者を持っている。
 学問の話に移る。長くこの国では、学問といえば漢文の書籍を読むことだった。――和歌やかな文学は逆に漢語をいっさい排(はい)している。世阿弥(ぜあみ)の謡曲(ようきよく)は戯曲とはいっても漢語がふんだんに出てくる。が、それらには「雅語(がご)」と呼ばれる上品な言葉しか用いないという暗黙の了解のようなものがあった。その点で「鮓(すし)」や「煮麺(にゆうめん)」が出てくる一方で漢語も用いられる蕉風俳諧(しようふうはいかい)は画期(かつき)的だった。――そこに、長崎鳴滝塾(なるたきじゆく)のシーボルトの弟子たちによる西洋医学を中心にした蘭学(らんがく)が、新時代を開く学問として志をもった若者たちを捉(とら)えた。――『蘭学事始(らんがくことはじめ)』をなぜ文学史に含めないのだろう。読み出したらワクワクするのに。また、二十世紀の後半に吉村昭の書いた『ふぉん・しーほるとの娘』は、わたしたちが何者だったのかを教えてくれる貴重な作品です。――十八世紀末の賀茂真淵(かものまぶち)による注釈書『万葉考(まんようこう)』に端(たん)を発した国学は、いわば「純国産の学問」だった。
 奈良時代のところで触れた本居宣長(もとおりのりなが)は町医者として家族の生活を支えながら、注釈書『古事記伝』、『源氏物語玉(たま)の小櫛(おぐし)』、随筆『玉勝間(たまかつま)』を著(あらわ)した。いまわたしたちが、日本人としての自分、を素直に受け入れて疑わないのは、本居宣長らのお陰のような気がする。が、一方で、読み始めると、純和語だけで考えることには窮屈(きゆうくつ)さやもどかしさを覚える。「日本人」がハイブリッドである以上、日本語はその成り立ちからハイブリッドだったのだ。
 時代は1853年ペリー来航によって激しく動き出す。
 スペースが少し余ったので、横道にずれる。
 幕末に来日したフランス人が、「日本の子どもは世界一しあわせだ。」と書いている。「日本では父親と子どもがいっしょくたになって遊んでいる。」――遊びをせむとや生まれけむ。戯れせむとや生まれけむ。遊ぶ子どもの声聞けば、我が身さへこそ揺がるれ『梁塵秘抄』――どうやら当時のフランスにはそういう文化はなかったらしい。いまでもないかもしれない。
 数年前になるが、やっと吹いてきた春風に誘われて大濠公園に行ったことがある。すごい人出で、色んな店も出ていて賑やかだった。その人混(ご)みのなかで小さな男の子が「ダディ!ダディ!」と泣きじゃくりながらお父さんを探している。(ダディは何をしているんだ?)と見回すと、反対側のベンチに座って、わざとそっぽを向いている。(ははぁーん。)
 用事を済ませて同じ場所に戻ってくると、男の子は乾いた涙の跡がいっぱい残ったほっぺたのままお父さんの膝に乗って満足そうにしているので、わざと「ダディ。」と呼びかけると、お父さんがニコッとした。
 どこの国のお父さんかは知らないけれど、あのお父さんは、いずれは独り立ちしなければならない子どもの教育をもう始めていた。「大切なものは自分で探せ。」日本人にはなかなかそれが出来ない。・・・出来ないし、どっちのほうがいいのか、分からないままだ。

                       <九>
     

 わたしたちのなかには、DNAのほかに「文化的遺伝子」とでも呼ぶしかないものが生きている。社会のなかにもありそうな気がする。生物学者によると、すべての遺伝子はいつもスイッチが入っているわけではなく、「スリープ」状態のものも、けっこうあるのだそうだ。
 そのスリープ状態だった文化的遺伝子が覚醒したのが幕末であり、次の時代に入ってその遺伝子は興奮状態になった。人間も社会も激しく動いた。動きすぎて、ついに日本人は自分たちがどうしたいのか、どうなりたいのかも分からなくなってしまった。それが明治末・大正・昭和前期だ。そして、日本は軍国主義の時代に突入していく。
 だからと言って、「明治維新なんかなければ良かった」と言う人たちには同意しない。「自由」は扱いの厄介な可燃性のもので、ひとつ間違えるときわめて危険なものではあるが、いったん手にした自由を手放したいとは思う人はほとんどいまい。と同時に、明治維新を評価しつつ、その後の軍国主義日本を批判する人も信用しない。明治の日本と軍国主義の日本はひとつながりのもので、けっして別々のものではない。そして敗戦後の日本も。幕末→明治→大正→昭和、は裸一貫から出直した人の波乱に満ちた一生のようにも思える。
 開国後の日本は不安だった。日清戦争に勝ってもその不安は消えなかった。国家予算の三倍以上の借金――その借金はやっと1961年に完済された。――をして戦った日露戦争に勝っても不安は増すばかりだった。第一次世界大戦(欧州大戦)でアジアに居座っていたドイツ軍に完勝すると不安はピークに達した。日本は不安に駆られ、不安を忘れようと目をつぶって底なし沼に向かって進み始める。
 1940年最後の元老西園寺公望(さいおんじきんもち)が世を去った。その明治維新軍国主義の日本――もちろん、それ以前の日本も――がなければ、いまのこのわたしはいない。「たとえ負債のほうが多くとも遺産相続をする。」それは、日本人の、これからへの覚悟であり、誇り(=矜恃(きようじ))だ。
 日本は進行中。まわりの国も進行中。すでに決まっていることなぞ何ひとつない。
 ――「文化的遺伝子」の補足。――ひとまわりほど年下の理科教師に「この宇宙には、オレたちが思っていたような「物質」は存在しないじゃないかな。オレたちが「物質」と呼んでいるのは力の塊のことのような気がしてきた。」と言うと、「先生は勘が鋭い。いま、そういう方向に進んでいます。ただ、力の塊ではなくてエネルギーの塊です。」「ほう。」と返事したら、「それと、情報。・・・エネルギーと情報の塊。」――(もう、そこまで来たのか。)〝科学的遺伝子〟とか〝文化的遺伝子〟とかの区別をしている場合じゃない。どちらも含めて〝情報〟。分子レベルでの〝情報〟だ。
 ちなみに、いま愛読している生物学者福岡伸一(『生物と無生物のあいだ』『動的平衡』『動的平衡2』のなかでいちばん読みやすいのは『生物と無生物のあいだ』いずれも新書。)は「文系宣言」をした。もう、理系とか文系とかの区別をしていては科学が成り立たなくなってきた。かれの先達(せんだつ)である木村成夫(しげお)(『胎児の世界』)は「わたしがアカデミズムに受け入れられることはないだろう。」と書いている。福岡伸一も同じことを感じたのだろう。「それでも前に進む。」それが〝自由〟を行使すること――
 いよいよ明治時代だが、ここから先は少々書きづらい。
 その理由は三つある。
 ひとつめは、わたしの曾祖父母は幕末に生まれて明治・大正・昭和を生きたこと。――祖父母は明治に生まれて、大正・昭和を生きた。両親は大正時代に生まれ、昭和・平成を。そして姉とわたしは、昭和・平成・令和を生きることになる。――曾祖母は、行(あん)灯(どん)のそばで手習いをして育ち、洋灯(ランプ)とともに新婚生活を送り、電灯をともして孫の世話をし、蛍光灯のあまりもの明るさに「ほうっ。」という嘆声を曾孫といっしょに漏らした。
 つまり、ここから先は自分史と重なってくるので客観視が難しい。――名著『敗北を抱きしめて』の著者ジョン・ダワーは書いている。「焦点を合わせて何かを熟視することは、それ以外のものから目をそむけることと背中合わせだ。」
 「客観」とは、直接的な関係のない第三者的立場から見ることだとは分かっている。でも、「直接的関係のない」ことをちゃんと見ることが出来るようにわたしたちは創られているのだろうか? それが出来るのは天才だけのような気がする。わたしたちは、むしろ、関係があるからこそちゃんと見ようとする。
 あとひとつの理由は、長くても百五十年しか経っていないものの歴史的評価はまだ定まっていないこと。とくに印刷技術が発達してからは、歴史的評価が短期間では難しくなってきた。印刷技術が未発達だったころは、人々は本を自分で書き写した。だから自然に、残る本と残らない本とが分かれた。――それを「淘汰(とうた)される」という。――
 文化は隔世(かくせい)遺伝する。次の世代や次の時代を見ただけでは文化的趨勢(すうせい)は分からないので、ここからは今まで以上にわたしの価値判断――わたしの主観――による取捨(しゆしや)選択の幅が大きくなる。
 三つめは、<九>の最初にも書いた通り、わたし自身がこの時代をひとつの視点で見る気がないから。
 少し長くなるけど、具体例をひとつ挙げておく。
 明治維新後、日本の人口は爆発的に増えた。農地に縛りつけられていた次男坊や三男坊が都会に出て新しい職を得、家庭を持つようになったことが大きかったと見ている。次男坊も三男坊もやっと手にした「自由」を行使して、新しい人生を切り開こうとした。次女も三女も天から降ってきたような「自由」に戸惑(とまど)いながらも勇気を出して、自分自身の生き方を自分で選び、自分自身の家庭を築こうとした。新しい日本の下地を固めたのはその次男三男、二女三女たちの勇気だった。町にはあちこちで子どもたちの声があふれるようになる。その増え方は、「いまに日本の人口は七千万を超えるぞ」と政治家たちを震え上がらせた。
 江戸時代の人口は約三千万弱。三千万を超えると食糧不足になり飢饉(ききん)が起こり餓死者が続出する。――江戸時代の旅行家菅江真澄(すがえますみ)(『北越雪譜(ほくえつせつぷ)』岩波文庫)は『周山(しゆうざん)紀行』で、「飢饉のあと二度目に訪れたとき、ひとつの集落がなくなっていた」ことを記録している。――それによって人口が急減し、また安定期になる、ということの繰り返しだった。鎖国政策は慢性的な食糧不足を抱えていたのだが、幕府は効果的な政策を何一つ打つことが出来なかった。
 それぞれの藩は自給自足を補完するための努力はした。               
 いまでは観光名所になっている朝倉の筑後大堰(おおぜき)や三連水車は、川がなかった農地に水を供給するための大プロジェクトだったし、現在のJR九大学研都市駅周辺の開拓を指導した宮崎安貞の名は、日本初の本格的な農書『農業全書』の著者として日本史の教科書にも登場する。奈良時代に遣唐船が風待ちをしていたという西区の今津湾は干拓され、現在は「今津湾を守れ」という運動が起こるほどに小さくなった。――今津湾周辺の農地に行ってみなさい。江戸時代に作られた海水の逆流を防ぐ堰(せき)がいまも生かされている。――慢性的な米不足に悩んでいた諫早藩は有明海につながる諫早湾干拓した。――が、1957年の集中豪雨で本明寺川を通って海からの水が海抜0メートル地帯に逆流し六百三十人ほどのの死者・行方不明者を出した。現在は、潮受け堤防が建設され、諫早市民を守っている。――が、国土の割に人口が多い状態は変わらなかった。当時の江戸の人口は世界一だったという推計もある。
 開国した日本は米不足を補うために、朝鮮からの輸入を始めたが、すぐに打ち切られてしまう。儒教「仁(じん)」の国の非人道的な対応に日本は失望する。
 明治政府の要人たちは、中国や朝鮮を日本が学ぶべき先進国として尊んでいた江戸時代の教育を受けた人たちで、――この「日本以外のどかに自分たちの見本となる国がある」という発想から日本人が解放されたのは、つい昨日のこと。その後の日本人はいまだに「国作りのマニュアル」を見つけられずに戸惑っているように見える。――。どちらの国にも日本以上に飢えに苦しんでいる人たちがいることには考えが及ばなかった。
 「国民を飢えさせることへの恐怖」が開国後日本の外交政策を大きく動かした。――しかし、国民を飢えさせないことへの貢献度は、官(政府)よりも民(民間の営利企業)のほうが遙かに大きい。――
 ずっとあとになるが、極東司令官を解職されてアメリカに呼び戻され、軍事外交合同委員会で証言台に立たされたマッカーサーは次のように証言している。(間違えないように原文を引く。分からない単語や熟語があったら辞書を引きなさい。えらそうにしているけど、国語教師だってすらすら読めたわけじゃない。)
  You must understand that Japan had an enormous population of nearly 80 million people,crowded into 4islands. It was about half a farm pupulation. The other half was engaged in industry.
  Potentially the labor pool in Japan,both quantity and quality,is as good as anything that I have ever known. Some place down the line they have discovered what you might call the dignity of labor, that men are happier
when they are working and constructing than when they are idling.
 This enormous capacity for work meant that they had to have something to work on. They built the factories,they had the labor,but they didn't have the basic materials.
 There is practically nothing indigenous to Japan expect the silkworm. They lack cotton,they lack wool, they
lack petroleum product,they lack tin,they lack rubber,they lack a great many other things,all of which was in
the Asiatic basin.
 They feared that if those supplise were cut off,there would be 10 to 12 million peaole unoccupied in Japan.
Their purpose,therefore, in going to war was largely dictated by security.      
 マッカサーは重要なことを抜かしている。日本は食料の自給が出来なかった。まるっきり足りなかった。アメリカとの戦争が現実化しかけたとき、まず食料不足に備えて配給制度を布(し)いた。
 敗戦後、日本の人口はさらに増えた。いまでは一億人ぶんの食料を輸入している計算になる。ものを作って輸出し、そのお金で国内に不足している食料や資源を外国から買って生活する、というこの国のサバイバル戦略は、この一五〇年間少しも変わっていない。これからも変わりようがない。
                                                                    
 明治維新は、武士たちが自分たちの階級をぶち壊すことで新しい国を作ろうとした革命だった。だから武士たちの革命が成功したあと、武士は当然のようにいったん全員が失業者になった。そんな変な革命をほかに知らない。――ただし、江戸時代の侍はいまで言えば公務員だったのだから、新しい行政の仕組みが出来るとまた公務員や教員になったひとが多かったろう。――
  そのことへの不満は、旧武士の反乱という形で西日本――革命に参加した侍の多い地域――に多発した。その最たるものが西南戦争なんだが、政府はそれに対処する一方で日本を西欧並みにする布石(ふせき)を打ち続けるのを怠らなかった。――侍はもともと戦士だった。戦士の誇りは命がけで守るべきものを持っていることだった。「オレたちには気高さがある。」その気高さの象徴が刀だった。(でも、刀を持たないひとたちほど「命がけ「にならないと生き延びられない、ということを知っていたのは少数派だった)・・・刀を捨てた侍はみずから滅んだ。もと農民の銃の前に倒れた侍も滅んだ。そして日本は平等で自由な社会を目指した。――
 武士道のことにもちょっと触れておく。
 武士が滅んだあと武士道だけが残った。その武士道が昭和になっていったん滅んだのは、「武士」を自認する男たちが増殖したからだ。が、文化は隔世(かくせい)遺伝する。いまも武士道は、スポーツマンやウーマンたちにとっての「死力を尽くして戦え、が同時に、同じように死力を尽くして挑んでくる敵への敬意をけっして忘れるな」という精神として受け継がれている。それもまた、「あらたな土に咲いたあらたな花、あらたな土に実ったあらたな果実」だ。
 政府が西欧の科学技術を取り入れるために大学の整備に着手したのがちょうど西南戦争の時。――西欧の力の源泉が学問にあることにこの国の先人たちはいち早く気づいた。その時はそこまでは気づかなかっただろうが、西欧の学問は普遍性に富んでいる。それが西欧イズムが世界中に広まった大きな要因だ。その「普遍性」の中身についてわたしが考えるのは、まだ先のことになる。――西欧からはいま思えばびっくりするほどの優秀な学者がたくさんロマンをもって来日し、熱心に教えた。――まえに紹介した漱石の先生のケーベル先生もそのひとり――日本の学生は彼らから貪欲(どんよく)に学問を吸収した。
 まず理系。それから文系。文系には文学部もある。文学部のなかにはイギリスなら英文学科、フランスならフランス文学科、日本なら国学科?「違う!国学は西欧的学問じゃない!」
 1900年、文部省は、当時熊本で英語を教えていた30歳を超えている妻子持ちの夏目金之助にイギリス留学を命じる。単身での留学だった。トム・クルーズ風に言うと、かれに課せられたミッションは「日本の文学を文明開化すること」だった。少なくとも本人はそう考えた。
 夏目金之助は、まずイギリス文学の要素をいったんすべてばらばらに解きほぐし、それをも一度日本語で組み立て直す、という化学者や技術者のような手法でそのミッションをポッシブルにしようとする。それは世界的な頭脳の持ち主にしかできないことだった。
 しかし、帰国後に与えられた役割はまた英語教師。かれは敢然と大学をやめ夏目漱石というプロの作家になる。漱石の小説が連載された新聞は爆発的に売れる。新聞社はまた新しい小説を書くよう頼む。『三四郎』『それから』『門』『こゝろ』『明暗』
 まず、全体構想をつくり、それから部分部分を具体化して書くかれの小説をいま読むと、血肉湧(わ)き躍(おど)るようなものではない。――ミステリー作家のアガサ・クリスティは「いったいこの中の誰が犯人なのかしら、と思いつつ書くのは無類に楽しかった。」と言っている。でも、漱石にとって小説を書くことは、先ず義務だった。――しかし、当時の読者から圧倒的な支持を得た。新しかったのだ。なによりもその日本語が新しかったのだ。――十五歳ほど年下の友人が「五十代になってはじめて漱石を読んだ。百年前の小説がすらすら読めたのでびっくりした。」と言ったことがある。「それ、いちばん凄いことに気づいたね。」――
 それまで鹿児島の人間と青森の人間が出会っても話し言葉は通じなかった。会話をするには漢文書き下し調の候文(そうろうぶん)で語り合うしかなかった。「××××で候(そうろう)。」「××××哉(や)?」しかし、漱石の小説の読者同士なら、漱石の日本語さえ使えばスムーズな意思の疎通(そつう)ができた。
 図らずも漱石は、日本語の統一に大きな貢献をしたことになる。
 個人的には、漱石の日本語よりは、幸田露伴(『幻談』『五重塔』。後者は歌舞伎の演目にもなっている。)や正岡子規(しき)(『病床六尺』)や二葉亭四迷(しめい)(『浮雲』よりもツルゲネフの翻訳を勧める。)や中江兆民(ちようみん)(『一年有(ゆう)半』)の日本語のほうが数段好み。
 森鴎外が『舞姫(まいひめ)』を発表したときは、女性たちが集まって、朗読会を開いて楽しんだという。
 しかし、漱石の偉大さは文学という枠を超えたところにある。――面白くもおかしくもない『こゝろ』で漱石は、倫理的な理由だけで自らを罰する日本人を描きたかった。苦心は、どういう風に書けば読者が違和感を抱かずに読み続けられるかにあった。でも、いくら仕事でももう『こゝろ』を読み返したくはない。もし読み直すなら『草枕(くさまくら)』とそれ以前のもの。――ついでに書く。「くさまくら」は「旅」の枕詞(まくらことば)。古代の人々にとっては、大地に臥(ふ)して、真の闇で眠り、太陽の光で眠りを破られることが「旅」だった。旅は、大切なことを忘れることなく生きるために必要な神聖な行事だった。だから「草枕」のつかない旅はあり得なかった。・・・「枕詞」の説明のつもりです。――
 遺作になった『明暗』の構想を練っているとき漱石は日記に「気が狂いそうだ。」と書いた。それでも「これを完成させる!」国語教師に言わせると、詩以上に危険性に満ちた『明暗』を書いている途中で漱石は血を吐いた。意識が戻ったとき彼は家族に「まだ死ぬわけにはいかん。」と呟(つぶや)いたという。でも、わたしには中断して良かった。あれ以上は読みたくない。
 漱石は、詩や歌から独立した新しい日本語を創りだした。日本臭さのないその口語体の文は簡潔・平板で、リズムや抑揚(よくよう)がなく無味無臭(むしゆう)だ。つまり、アクやクセがなくすっきりとしている。一昔まえのテレビのCMを借りれば「Solid State」。安定感がある。それが広く受け入れられた大きな理由の一つに思われる。その一方、政治家や実業家や軍人に漱石の愛読者が居た気配はまったくない。――「師匠」である正岡子規の愛読者はいくらでも居たはず。――新聞も本も売れまくったというのに、いったい誰が読んでいたのだろう?
 漱石には正岡子規(しき)という無二の親友がいた。子規が病気で松山に戻った後は手紙で文学論争をしている。その論争は漱石が理詰めで完膚なきまでに追い込み、子規は黙ってしまう。――その正岡子規の沈黙のなかにこそ文学の秘密があるんだけどなあ・・。――ことばでは表現できないことに出遭った時、ことばにならないものが込み上げてきた時。文学はその時に始まる。――松山から反論の手紙が来なくなった漱石は、また自分から手紙を書いている。「俳句をやりたくなったから教えてくれ。」子規のお陰で「世界一小さな詩」は生き残った。
    病床におもちゃ並べて冬籠(ごも)り   子規
 イギリスで子規の訃報(ふほう)を受け取った漱石はつぎのように詠んだ。
   手向(たむ)くべき線香もなくて秋の暮(くれ)  漱石   
 わたしたち夫婦に「しあわせ」ということの意味を教えに来てくれた二匹のチビを見ていて気づいたことがある。居間の家具の配置をちょっとでも変えると「ワンワン!」「ぎゃんぎゃん!」「わんわん!」「ギャンギャン!」いつまでも抗議をやめないから人間の方が負けて「はい、はい。」と家具をもとの位置に戻す。((秩序って、こういうことなんだな。)どの配置が正しいのかが重要なのではない。もとのままであることが秩序なのだ。もとのままだから安心して暮らすことが出来る。
 「馬にでもわかる日本語で書くんだ」と友人に語った福沢諭吉は、「封建主義は親の仇(かたき)でござる。」と書いた。――福沢諭吉の『学問のすすめ』は累計(るいけい)で数百万部売れたという。――その封建制度という「秩序」が壊れた。
 維新後の多くの人々は、極端に言うと、信号機の色の違いが何を意味するのかも教えられないまま、着の身着のままで交差点の真ん中に放り出されたようなものだった。危険から身を避けるために身をすくめている暇はなかった。動くしかなかった。着る物を売って食事代を手に入れたあとで寒さに気づいても、とにかく「食うこと」を優先させるしかなかった。少数の才覚(さいかく)ある者が「自由」を享受(きようじゆ)する一方で、人々は、ただおろおろとするか、じっとしているしかなかった。それまでの「みんな貧しくて平等」の形が崩れた。そんななかで多くの人が自分の「自由」を行使して、先祖伝来の生き方を選び直した。そのお陰で、わたしたちの社会は切れ目なくいまに続いている。
 若者たちにとっては、その自由の象徴が恋愛だった。
   柔肌(やわはだ)の熱き血潮に触(ふ)れもみで寂しからずや道を説(と)く君  与謝野(よさの)晶子(あきこ)『みだれ髪』
 与謝野晶子の自画像は、それまでのどの女性のよりも立体的で大きい。それを浪漫(ろうまん)主義という。彼女は憧れの男性と結婚し、ほとんど筆一本で十一人の子どもを育てあげた。
 与謝野晶子以後の女流歌人のなかで、一人だけ覚えてほしい人がいる。数奇な運命を背負って激動の昭和を生きた斉藤史(ふみ)は、最期まで介護をした母親のことを次のように歌っている。
    われを産みしはこの鶏殻(とりがら)のごときものか さればよ 生(あ)れしことに黙(もだ)す
 岩手県から上京したものの、現実社会で生き延びるには何かが欠けていた石川啄木(たくぼく)は志を遂げることなく二十七歳で病没した。
   命なき砂の悲しさよさらさらと握れば指のあひだより落つ 『一握(いちあく)の砂』
 啄木が浪漫的であろうとすればするほど、読む方はせつなくなってくる。そのぶん彼の歌はこれからも読み継がれていくだろう。
    たはむ(戯)れに母を背負ひてそのあまりに軽(かろ)きに泣きて三歩あゆまず
 洪水が押し寄せたような社会の隅で、宝石のような小さな小説を書き、わずか二十四歳で病死した女性がいる。樋口一葉(いちよう)である。国語教師は生徒に「古文を勉強して、いつか『たけくらべ』を読めるようになれ。」と言い続けた。その『たけくらべ』と読後感がじつによく似ていたのが長塚節(ながづかたかし)の『土』。友人から、長塚節のことを藤沢周平が書いた『白き瓶(かめ)』を勧められたことがあるが、読まないことにした。「土』を読んでいた十八歳の自分を忘れたくない。  
 読んでいたときの自分をはっきりと覚えているのは森鴎外の『渋江抽斎(しぶえちゆうさい)』もそうだ。 
 あとひとつだけ、柳田国男の『遠野物語』をあげて、第七夜を終える。
                    <十>
 やっとわたしの時代にたどり着いたところで時間切れになってしまった。でも、もっとも書きにくいところなので何だかほっとしたりもしている。
  なぜ書きにくいのか?
 906年岡倉天心アメリカで出版した「THE BOOK OF TEA」に次のような一節がある。
 「He(西洋人をさす) was wont to regard Japan as barbarous while she(日本をさす)indulged in the gentle arts of peace(茶道をさす): he call her civilised since she began to commit wholesale slaughter on Manchurian battlefield.」
 これは皮肉なのではない。反語(強い疑問のなかにすでに答えが含まれているもの)的もの言いなのだ。
 わたしたちの二十世紀はそのようにして始まった。
 
 わたしは若い頃、自分の生き方を決めてから社会人になった。
 「頭のいいヤツらが一日で考えることを10年・20年かけて考えてやる。(その頃は、10年や二20年ではぜんぜん足りないとは思いも寄らなかった。それに「頭がいいヤツら」は、一日どころか数秒で考えて結論を出すのだということも。)先走りたいヤツはどんどん先走れ。オレは落ち穂拾いをしながら生きていく。」
 五十年ちかく、そんな生き方が出来たことに満足。その拾い集めた落ち穂の一部を君たちに手渡したくなって、これを書いた。
 受け取り拒否や無視、がいちばん多いかな。眺めるだけで終わるもよし。生のまま噛んで「プッ。」もよし。いつか精米して炊いてみようと取っておくのもよし。適当な土に蒔(ま)いて、そのまま忘れてしまう、というのもオシャレな生き方かもしれない。――「忘れる」って大切なことなんですよ。だって、忘れないと、思い出せない。覚えていることより、思い出すことのほうがどんなに価値のあることか。その簡単な理屈が「頭のいいヤツら」には分かっていない。――
 最後は話題を変えて、読書について書きたい。
 平安時代のところでもチラと書いたが、本は楽譜に似ている。まず、ちゃんと勉強した者にしか読めない。読めても、その読み方には様々なレベルがある。プロ級の演奏家は楽譜を見ながら演奏の予習をする。そのとき演奏家の頭では音楽が鳴っているはずだ。その、人によってまったく違う音楽を「解釈の違い」、と表現する。
 読書でも同じことが起きる。同じ本を読んでも、人によってその印象はまったく違う。読者は「読む」というよりは、その楽譜を演奏しているようなものだからだ。――音楽の演奏自体がもともとは人に聴かせるものではなく、自分や自分たちで聴くものだった。――同じ楽譜でも演奏者によって様々な音楽になるように、読書も読者それぞれによって読んだものが異なってくる。読者は演奏者に近い。著者が書いた楽譜を演奏するのが読者。ただし、その演奏を聴けるのは本人ただひとり。その体験をだれかと分かち合うことは出来ない。
 読書はそのひとを孤独にする。しかし、読書は、自分が孤立していないことを教えてもくれる。
 著者と自分との関係は、文字通りかけがえのないものだ。それに、友人に「×××を読んだ。」とだけ――それ以上は言っても詮(せん)ないことだから、――言ったとき、友人がただ「うん。」とうなずいてくれたら、それだけでほっとする。(ああ、コイツもオレと同じ思いを味わったんだ。)
 友だちも、恋人も、いつまでもは待ってくれないかもしれない。しかし、本は、いつまででも君を待ってくれる。
 わたしにも、「まだまだ先だ」と思っている本が何冊もある。その本と向かい合うためには、まだ先に進むしかない。
 一夜目の末尾にもどる。
 前途遼遠。
            <補遺>
     
     
 今朝になって、大切なことを書き忘れていたのを思い出したので、慌てて追加します。
 ギリシャで生まれ、アイルランドで育ち、アメリカで新聞記者になったあと日本に来て、けっきょく日本人「小泉八雲(やくも)」――「小泉」は奥さんの姓。「八雲」はハーンが暮らした出雲の枕詞「八雲たつ」から――になったラフカディオ・ハーン(1850~1904)のことです。――あの頃の人たちは、いまのわたしたちより遙かに冒険心に富んでいた。おなじく英語を教えにアメリカから日本に来たウィリアム・ヴォーリス(1880~1964)は建築家になり、近江にたくさんの西洋建築を残した。と同時に、近江の人たちの暮らしを支えるために製薬会社を創った。「近江(おうみ)兄弟(けいてい)」社という会社名や学校名、あるいは「メンソレータム」という薬品名を知っている人はいまも多い。かれも1941年日本に帰化している。相当な決心が必要だったろう。ヴォーリスが設計した滋賀県豊郷町豊郷小学校は、「耐震が不十分だから」という理由で取り壊すことになったのを、卒業生たちが猛反対をして保存に決定したそうだ。・・・貧しかったころ古本屋の店先に自分の小遣いで買える値段で積み上げられていた「源氏物語」を見つけたことがきっかけだったという日本文学者ドナルド・キーンは2011年にアメリカから「帰国」した。「日本に永住する。」東日本大震災を知ったことがきっかけだった。・・・飛行機での大西洋初飛行に成功したリンドバーグの妻アン・モロウは、ひょっとしたら夫以上の冒険家だったのかも知れないと思う時がある。その『海からの贈物(おくりもの)』は新潮文庫に入っている。――
 ギリシャ西欧文化発祥(はつしよう)の地。そのギリシャ神話はいまも多くの人たちを魅了してやまない。しかも、そのなかの『オルフェウス』とまったく同じ話が日本の古事記にも出てくる。――若くて美しいまま亡くなった妻に会いたくてたまらなくなった夫が黄泉(よみ)の国まで会いに行く話――
 『竹取物語』――それをもとにして加藤道夫が『なよたけ』という傑作を書いた、ということは前に話した。フランスでは同じ伝承をもとにしてジロドゥが『オンディーヌ』という、これも傑作を書いている。ストーリーはまったく違うが、どちらも、音楽とおなじで、何度でも読みかえしたくなる。――のところでもちょっと書いたが、数百万年前にアフリカで誕生したわたしたちの祖先は、ユーラシア大陸に渡り、そこから東へ北へと移動と拡散を続けた。そのユーラシア大陸の端っこの端っこが、ここ。人類の宝物がここに渡ってきたのはシルクロードができるずうっと以前からそうだった。
 アイルランドに残っているキリスト教以前の文化をケルト文化という。いつかそのケルト文化に触れてみなさい。驚くほどわたしたちの文化に似ている。アイルランドユーラシア大陸の西の端っこの端っこにあります。
 英語教師になったハーンは、日本に残っているさまざまの伝承に興味を持ち、それを英文にしてアメリカに紹介しつづけた。日本人は逆に、日本語訳された――「翻訳」の意味はいちど辞書で引いてみる価値がある。――ものを読んで、忘れかけていた自分たちのことを思い出すことが出来た。その中の「耳なし芳一(ほういち)」や「雪女」の話はいま、子ども向けのアニメにもなっている。
 そのハーンに『ハカタ』という題の小さな話がある。
 昔、ハカタというところに、父親と娘の二人家族がいた。娘の母親は早くに亡くなっていたので、娘は母親のことをなにも覚えていなかった。「お母さんってどんな人?」父親は説明しようとする度に妻のことを思い出すのがつらくてたまらなかった。それに、妻そっくりになってきた年頃の娘を見るのもつらくなってくる。
 あるとき父親は仕事でマツヤマに行った。そこで、高価だが財布をはたけば買えそうな鏡を見つけた。まだ普通の人たちは鏡というものを知らなかった時代の話だ。
 父親は鏡を買って帰り、娘に何の説明もせずにお土産として渡す。「これからはお母さんに会いたくなったときは、これを見なさい。きっと、会えるから。」
 娘は毎日「お母さん」に向かって話しかける。
 ある日、娘が父親にうれしそうに言う。「わたしのお母さんってきれいな人だったんですね。」
 父親は涙を見せないために、娘から目をそらした・・・。
 
 自分のことを分かってほしい人(あるいは人たち)がいる。でも、それ以外の人たちには、自分のことを分かられたくなんかない。・・・でも、ひょっとしたら、もっとも分かってほしい人とは、もっとも分かられたくない人のことなのかも知れない。
 <十>の最後に書いたことを訂正する。
 文学は、音楽と同じように、わたしたちを一人にする。――ロシアの指揮者の印象的なことばを紹介する。「ほかの作曲家は聴衆に聞かせるために作曲しました。でも、チャイコフスキーに耳を澄ませてください。チャイコフスキーはあなた一人に語りかけてきます。」――と同時に、文学は音楽とおなじように、わたしたちを一つにする。
 それは、わたしたちを幸福にしてくれると同時に、優れていればいるほど危険性を増しても来る。
 でも、「危険を避けて安全に」とは、わたしは思わない。――若い頃ならイザ知らず、この年になって危険を避けて何になる?――もう足の力は若い頃の半分以下に減ったから体を動かすのは無理だけど、心の冒険はこれからも続ける。と同時に、チビたちが教えてくれた「お腹いっぱい食べられて、家族が全員そろっていたら、もう100%」のしあわせを満喫(まんきつ)しつづけます。
 『文学史』の最初にもどって終わる。
 「太宰帥(そち)大伴卿
   余能奈可波(よのなかは) 牟奈之伎母乃等(むなしきものと) 士流等伎子(しるときし) 伊予余麻須万須(いよよますます) 加奈之可利家理(かなしかりけり)」
     この世での仲ははかないものだと思い知れば知るほど、かえって恋しくて、切なくて、愛しさがつのる。
                                                          万葉集巻五 七九三
                                                             
                                 2019/01/18