久保猪之吉と長塚節

久保猪之吉と長塚節

   のぞみ多き春よことしの此のゑまひとこしへに消えずあれとのみ   久保猪之吉

 久保猪之吉の父は福島二本松藩士。猪之吉(1874~1939)は、東京帝国大学卒業後イタリアに留学し、帰国後京都帝国大学福岡医科大(現九大医学部)教授。たまたま福岡にきた長塚節を看取った。落合直文門弟。

     泣き虫の子猫を親に戻しけり   久保より江

 より江(1884~1941)は松山出身。祖父母が下宿屋を営んでいた縁で、幼いとき夏目漱石正岡子規に可愛がられ、俳句をよくした。東京府立第二高女卒業後、久保猪之吉と結婚し、福岡に赴く。

 「たまたま福岡にきた」と書いたが、長塚節が「九州に行く」と挨拶に来たとき、妻のより江を通して知っていた漱石が「せっかくだから久保猪之吉に診て貰ってこい」。けっきょくそのまま福岡が長塚節の終焉の地になった。

 長塚節が九州に行った目的の一つ(ひょっとしたら、それが最大の目的だったのかも)は宮崎県の青島に住む女性に会うことだった、と書いていたのは赤坂憲雄だったかも知れない。
 赤坂憲雄は、「あを島」や「あは島」や「おほ島」は「はふりの島」だった(どれも岸から近いところに位置する。「大島」とあっても「小さな島」であることが多い。)と書いていたが、卓見だと信じている。
 人々は死者を舟でそれぞれの、この世とあの世の境(あはひ)にある島――以前にも言った。日本語の「しま」や「やま」は、islandやmountainを指していたのではない。そうではなくて他との関係を示すなにか。それぞれが意味や役割を分かっている聖域。――に運んで葬った。(葬ったと書いたが、たぶん――自信満々で言うが――放り出して逃げ帰った。ょうど黄泉の比良坂から逃げ帰ったイザナギのように。)
 「はふる」と「ほうる」はもともと同語。――言海≒「ほうるは、はふる、の誤。」――もちろん「葬り」と「祝り」は同語。
 
 れわれは海から来て、海に帰っていく。――内陸に移動した人々も川と通じることで「黄泉」との往来を断たないようにした。山で暮らす沢ガニたちと同様に。仏教伝来のずうっと以前のことです。

 長塚節は「即入院」という久保猪之吉のアドヴァイスを振り切って青島に行ったらしい。きっと美しい人だったんだろうが、その青島には「葬り島」伝承が残されている。その女性は、そういうことに携わっていた巫女のような立場のひとだったのかもしれない。
 そもそもその女性とどこで知り合ったのか?
 思いつくのは、彼女が短歌雑誌に投稿していた可能性。とすると、長塚と彼女はその時が初対面?
 あるいは久保より江同様に、東京に遊学していた期間があるのかもしれないが、それ以上のことは考えが及びもつかない。
 ――ヨーシ。すぐに閉じて戻してしまった藤沢周平『白き瓶』をあらためて図書館から借りる。
 北方謙三『破群の星』のあとは『白き瓶』。小説家はどれほどの想像力を働かせているのだろう。
         2020/07/20