美浜日記④消えてゆく物語続

映画『消えていく物語──デカ・チビ・ノッポの冒険』覚え書き③

 三人はサーカスに雇ってもらう。
 トイレ掃除、荷物運び。曲芸師たちの衣装の手入れ、下着の洗濯。仕事は山ほどある。
 新しい土地に着いたら、荷物の整理もほどほどにちんどん屋に早変わり。チビは美少女といっしょになれるので有頂天。戻ってきたら呼び込み、切符もぎり。それが済んだらピエロになって「お煎餅に、キャラメルぅ。」デカ・チビ・ノッポ・のピエロトリオは子どもたちに大人気。インスタント・カメラでいっしょに撮った写真は飛ぶように売れる。
 最初は寝る所と食べ物と着る物だけだったのが、お給金も出るようになる。
 三人ともすっかりサーカス一座に溶け込んで大満足しつつ移動をつづける。

 その移動するトラックのなかでノッポがポツリポツリと身の上話をはじめる。

──オレはどこで生まれたのか覚えていない。ある日おふくろに連れられて列車に乗った。下に妹と弟がいたはずだけど、オレひとりだけだった。父親のことは覚えていない。
 おふくろを独占できるのが嬉しかった。でも、なんだか不安だった。不安を紛らわせるために、列車のなかでオレは、まるでいまのチビみたいにはしゃぎ回っていた。
 何時間も何時間もかかって弘前というところに着き、ジィちゃんとバァちゃんだという人の家に連れて行かれた。オレはいよいよ不安になり、片時も離れないようにおふくろにまとわりついていた。
 でも、翌朝目を覚ますとおふくろの姿はなかった。
 オレはジィちゃんにもバァちゃんにもおふくろのことを訊かなかった。それは訊いてはいけないことだと思った。ジィちゃんもバァちゃんも、おふくろなんか最初から居なかったかのような態度だった。
 最初から三人だけだったかのような平凡な暮らしが始まった。
 ジィちゃんもバァちゃんもほんとうにいい人だった。思い出してみれば、オレがあんなに安心できる生活をしたのはあの時だけだ。でも、さびしかった。そのさびしさを訴えられる人は誰もいなかった。
 祭が始まった。ねぷた祭。
 極彩色の様々な絵柄のねぷたが町中を練り歩く。そのねぷたを見ていると、見ているねぷたと、見ている自分と、どっちが現実なのか分からなくなるほど迫力がある。
 そうだ、お前たちにもそのねぷたを見せたい!
 でも、はじめて見たねぷたはただ怖かった。無性にただただ怖かった。
 オレは大声で泣き始めた。言葉にはならなかったけど、きっと「かあちゃんかあちゃん!」と叫んでいたんだと思う。
 気がつくとオレは誰もいないところに一人で居た。
 オレはそのまま家に帰らなかった。
 ジィちゃんにもバァちゃんにもそれっきり会っていない。勿論おふくろにも会っていない。居たはずの妹や弟とも会っていない。父親の記憶はまったくない。

 黙って聞いていたデカがぽつりと訊く。
──おふくろさんのことで覚えていることは?
 しばらくの沈黙のあとノッポが言う。
──きれいな人だった。
「うぉーぉーぉーお!」を叫ぶのはチビ。
──行こう。おカネが貯まったら弘前に行こう!
──うん。ねぷたを三人で見よう!
──いっしょに行ってくれるか?前から、前から、も一度見に行きたかったんだけど、一人で行くのが怖かったんだ。
──いっしょに行くとも。オレたちは友だちやろもん。
──ありがとう!
──よーし、三人で弘前に行ってねぷたを見るぞぉ!

美浜日記③消えてゆく物語Ⅰ

映画『消えていく物語──デカ・チビ・ノッポの冒険』覚え書き①


 老人施設で三人の爺さんたち、デカとチビとノッポが出会う。
 デカは温厚なのんびり型。チビは頭も体もチョロチョロ動いて止まらない。ノッポは駄洒落が得意だと本人は思っている理論派。毎日それぞれの色んなとっておきの話を披露し合っている。(それがどんな話かはいずれまた。きっとエッチな話だらけなんだと思う。)
 そのうちに「も一度行ってみたい所」を披露し合う。
──いいねぇ。
──行って見たいねぇ。
──行って見ようか?
 施設には、「この世にこんなに美しくて優しい人がいるのか?」と(チビは)、現実の存在とは思えない介護士さんがいる。とくにチビはその「マドンナ」にぞっこんで、マドンナのいる日ははしゃぎまわって、まとわりついて、マドンナは仕事にならず、周りからの顰蹙を一身に集める。
──おい、気持ちは分かるけど、少しは落ち着け。お前ここに居られなくなるぞ。
──オレたちは最後まで一心同体じゃち約束したのに、オレを追い出す気か?
──そうじゃないけど、ここを出たら、どうやって生きて行かれる?
──生きられる!いままでも生きてきた。これからも生きていく!
──気合いだけやもんなぁ、お前は。
 ある日、とうとうマドンナがの我慢が限界を超えて、涙を浮かべながらチビを怒る。
──チビさん!あなたは他のひとといっしょにここで暮らしたいと本当に思っているの?
 自分のことだけじゃなく、他の人のことも考えようとは思わないの?わたし、チビさんが好きよ。大好きよ。でも、このままではあなたのお世話が出来なくなる!
 チビはしょげ込む。
 その夜、デカとノッポに告げる。
──これ以上あの人に迷惑をかけられん。それは分かっとる。ばってん、あの人を見たら心が踊りだして、口も体も止まらんようになる。オレ、ここを出て行く。
──ここを出て、どこに行くんか?
──前に、「も一度行ってみたい所」を言い合うたろう?そこに本当にも一度行って見る。
──行こう!
──行こう!
──お前たちも出て行くんか?カネはないから食べ物を恵んでもらいながら野宿して行く とぞ。
──行こう。オレたちは友だちやろもん。
──そうだ。同行三人。三人寄れば文殊の知恵。なんとかなるさ。
 その夜、爺さんたちは、マドンナが休憩しているはずの仮眠室のドア前に正座する。
(申し訳ありません。また迷惑をかけます。オレたちは出て行きます。でも、アナタのことは決して忘れません。有り難うございました。)
 ウトウトしていたマドンナは不思議な夢を見て目を覚ます。でも、動こうとはしない。
 三人はそおっと裏口から施設をしのび出る。所持金はゼロなのにウキウキして出て行く。
──やったぁ。オレたちは自由だぁ!
──自由だぁ!
──自由より尊いモノはない!
 ひとりの心優しい介護士が三人を窓から黙って見送っていることにも気づかずに。
 (楽しそうで良かったわね。なにも怒ってなんかいないのよ。いつでも帰っていらっしゃい。)



映画『消えていく物語──デカ・チビ・ノッポの冒険』覚え書き②

 たどり着いた所は小さな田舎町。ちょうど祭があっているらしく、どの家にも提灯の明かりがあり、人々は浴衣姿に着飾って夜店のあいだをそぞろ歩きしている。
 そこにちんどん屋が現れる。演奏している曲は『天然の美』
 そのちんどん屋のなかに「ウソやろ?」と(チビは)感じる美少女がいて、演奏はせずに小さな手振りで踊っている。(だれに演らせるかは、これから考えるが、吉永小百合だけはオミット。)男たちはみな酔ったようになってちんどん屋の後ろについていく。その先の丘の上に三角の大きなテントが張られている。
──あそこは昔、公会堂があったとこ。神武天皇が来らっしゃった時、総出でもたなしたとげな。もてなしすぎて飯がいっぱい余った。仕方がないのでその飯を積み上げたら塚になった。それがこの町の成り立ちたい。あの丘がこの町のシンボル。

 テント小屋に入るとピエロが長い竹の串に丸いあめ玉がついたものを無料で配っている。ただし、「ちょうだい!」と両手を差し出した人にしかあげない。子どもたちは遠慮なく「ちょうだい!」。遠慮している大人たちの後ろから三人が「ちょうだい!」まわりの大人たちも勇気を出して「ちょうだい!」
 三人はあめ玉をくわえて串を両手でクルクル回して愉しむ。

 あちこちで曲芸が披露されている。
 芸人たちのなかには紅毛碧眼も褐色の肌も混じって、さながら万博のよう。
 「ウォーッ!」
 曲芸が行われるたびにテントのなかに歓声が響き渡る。
 大きな鉄条網の球のなかでハーレーダビッドソンがぐるぐる回りをする。下からスロットルをいっぱいにすると、大音響が起こり単車の男は真っ逆さまになって円球を駆け巡る。
 「ウォーッ!」
 真っ白い肌をした豊満な女が肌もあらわな格好で怪しげな軽業を披露する。軽業をするたびにチビは飛び上がって観衆の後ろからユサユサ揺れる胸を見ようとする。
 生真面目な軽業師の父子もいる。寝転がった父親の足の裏を基点に空中回転をしてまた足の裏に着地しようとするがなかなかうまくいかないし、誰も見ていない。いや、その金髪の青年をじいっと見つめている女がひとりだけ居る。その目はもううっとりとなっている。
 テントの天井に張られている綱の先端にスカート姿の金髪の美少女が立つ。
──あれ、ちんどん屋の女の子やろもん。
──そうやが。あの女の子は金髪やったとか!
──黒髪の鬘をかぶっていたんだな。
 金髪の美少女はソロリソロリ綱を渡りはじめる。
 男たちはいっせいに少女の真下に集まって口をあんぐりとさせて真上を見上げる。
──あ!
──あ!
──ああ!
 バランスを失った美少女は綱から真っ逆さまに落ちる。と思ったらそこにトランポリンがあって、少女はポーンポーンと跳ねて観衆に手をふり愛嬌を振りまく。そのとき手を振りすぎて片方の可愛らしい乳房がポロッと出る。
「ウォーッ!」
 デカが手を合わせて拝んでいるのに気づいて、ノッポも慌てて手を擦り合わせる。チビはあんぐりと開いた口を閉じるのを忘れたまま。
──あそこは、金髪じゃないごたったな。
──うーん、よう見えんやった。
──所変われば色変わる。
──しばらくここに厄介になろうか。
──いいねぇ。そうしょお。美少女もおるし。
──うん。サーカス爺さんになろう。

美浜日記2

 二階の窓からひょっと庭の楓を見ると黄葉しはじめている。一部はすでに紅い。
 季節はたしかに前に進んでいる。

 何度目かの堂々巡りがまた出発点に戻った(それは、本人にとっては大団円とでも言いたいほどの出来事)気がするので、その報告です。

 三木成夫『南と北の生物学』(『海・呼吸・古代形象』所収)を読んで不思議な思いに捉われているので、それを伝えたい。でも「考え」を伝えることもなかなか出来かねている男に「思い」を伝えることが出来るのか?
 前もって言っておかねばならないこと。
 三木成夫を読むことを奨める気はない。『胎児の世界』を読みつつ、「どうして今までこれを読まなかったのだろう?」と思い続けていたのは事実だが、読み終わってみると「今、で良かった。」若い頃にもし読んでいたらきっと生き方を狂わせていた。なにごとにも「その時」がある。「その時」が違ったら、せっかくの出遭いも生きてこない。それに、著者自身が「自分の仕事は科学と文学の混合物だから、アカデミズムから受け容れられることはない。」と書いている。そして自分の先駆者として挙げているのがゲーテ
 かれのやっていたことは「系統発生学」と呼ぶらしい。その先駆けである三木の師小川鼎三はツチクジラの胎児の解剖に没頭していた。陸から海に戻った生き物のなかに生物進化の跡が如実に残されている。しかも小型とはいえクジラの胎児だから解剖しやすい。その体の(無数と言っていい)神経の一本一本を確かめ、それぞれの神経の関係を考える。
 その系統発生学の先駆者小川鼎三もまた人に知られることはなかった。

 60歳のころ、夜中にふいに夢が出てきて、その夢を言葉に替えるということが2〜3年続いた。その度に眠れなくなる。「またか。」理屈としては、母親が次第に衰えてきたことと自分の定年が近づいていたことの二つが重なった(あとで振り返って見ると)けっこうな精神的危機の時期だったのだと思う。
 そんなある夜、出てきたものが「わたしたちはコトバで考えつづけているわけではけっしてない。・・・コトバで考えているつもりのことは単なる自分に対しての説明や説得だ」と変換された時、「ああ、やっとこれで終わる。」と感じ『あとがきに代えて』と題をつけた。押しつけた『一反田』のことです。

 以後「黄金の10年」に至るまでのことはほとんど覚えていない。
 50年ちかく前、イトコの禅寺に頼み込んで卓球部の合宿をしたことがある。その時生徒に「去年の今頃は何をしていたか?」「一昨年の今頃は?」というのを逆戻りしながら書かせたことがあるが、ある生徒の小学校以前のところは「ただ夢中で生きていた」とあった。『一反田』以後の自分も、母親の死までただ夢中で生きていた。そんな気がする。──そしていま「われわれは何のために生きているのか?」に自分なりの結論を見つけた。「生きるためだ。」

 池田紘一先生のユングの講演を偶然聴いたのは去年だったか?(その時からの課題『赤の書』はまだ本棚にあるまま。ただ、先生の解説を読み直すと「要するにこれはユングの黙示録だな。」と思った。読む時はそれを確かめながらになるはず。ユングが文字を書くことで浮かび上がらせたかったものもまたきっと「言語以前」の何かだった。)その後、先生に手紙を書いているうちに、「マリア様は文字を持たなかった」という確信めいたものが生まれた。マリア様だけではない。ジーザスもシッダルタも。彼らは文字なしで生きた。考えが固定される文字というものを嫌悪していた。文字を使いこなす人間を忌み嫌っていた。「
 宗教とエロスを切り離したら何も分からなくなる」と思うようになったのは30代半ば。「虚無を包含していない宗教はただの約束事にすぎない」と考えるようになったのは60歳前後。それらがひとつのイメージに収斂され「オレの全身運動としての思考もやっとたどり着くべき場所にたどり着いた。」それは安堵感に近い。
 「あとは読み部に徹しよう。」

 そして今回怪我をして動けなくなったあと、堀江敏幸(かれには『ジョルジュ・ペロスの方へ』という小説とも言いがたい文章がある。そのなかでペロスを代弁する様に言う。「書くという行為にはさまざまな誤解がまとわりついている。あまりにも多くの人が、書くことには才能が必要だと思いこんでいる。しかし、それは全く違うと、ペロスはこれからも繰り返すだろう。書くことは「奇妙な隷属状態に反する」ことであり、問題は才能の有無とは別に、つねに螺旋を描いて、中心がぽっかりと空いているところに身を置きつづける勇気があるかどうかなのだ。」)の『その姿の消し方』(これもまたペロス以上に世に知られぬ人の跡を辿ろうとしたもの)に出遭い、国武拓『ヤノマミ』に出遭い、三木成夫に出遭った。それは自分にとっては僥倖としか感じられないことだった。──その僥倖はたぶん今も続いている。──オレはなんてマングリがいいんだろう?

 三木は『南と北の生物学』で言う。
 古代人が「こころ」と呼んでいたのは内臓のことだ。(心臓はその内臓のひとつ)。人間は脳で考え、内臓で思う。──50年前の人々はそれを「情念」と呼んで片づけていた。──(得心したときは「腑に落」ち、納得しがたい時は「はらわたが煮えくりかえ」る。)が、いま脳の理性ばかりが強調され、人間は次第に思わなくなってきた。それは人間が生物とは言いがたい別物化してきていることなのかも知れない。

 言語中枢とは別の所にある言語以前の「思い」。それがすべて生物の「食の相」と「性の相」を司る。
 植物も動物も別個に進化したのではない。「動物の腸の内側と外側とを(シャツの袖を腕まくりするように)裏返したら、植物の茎の形状と役割になる。」そしてさらに「科学と文学が混淆した」考えのなかで、植物の太陽指向と、ウナギや鮭の産卵場所への遡行と、鳥たちの地球規模の飛行をひとつのものと見なす。「かれらの中に何らかのセンサーや原始時計を探しても見つからない。太古以来かれらは宇宙の一部として進化し、いまも宇宙の運行に従っているだけなのだ。」
 そして、植物の胎内は宇宙だ、と言い切る。「動物の心臓にあたるのが太陽だ。」

 『一反田』以後、「正しいことよりももっと大切なことがある」思うようになった。いまも、その「大切なこと」が何なのかは分からないんだが、ひょっとしたらその大切なこととは「分からないこと」そのものなのかもしれない。そして、自分もその「分からない」ことの一部分であることへの憧憬のようなものが自分のなかに生まれてきている。そのことと、50代後半にイメージした「この宇宙の欠如した部分」とが重なってきた。──今回の報告を終わります。
 
 次の出発はまだまだあと。
 昨日、理学療法士が「先生に相談してみてください。許可がでたら、これからは少しずつ負荷をかけていくリハビリに移ります。」・・・そうか、まだとうぶんあの人に会えるのか。
 裏山には、ショウジョウではないが赤トンボ(タイリクアカネというらしい。)の群舞が見られるようになりました。
 夜は虫の声。                                    2018/08/22

美浜日記1

 「黄金の十年」の二年目を、児島襄『平和の失速』から始めたのは(偶々とはいえ)大正解だった。
 もともと「大正期が近代史のヘソだ」とガンをつけてはいたが、これまでなかなか手を出せずにいた。
 明治43年 大逆事件韓国併合(1910)
明治44年 辛亥革命(1911)
 大正3年 第1次大戦勃発(1914)
 大正6年 ロシア革命(1917)
 大正7年 シベリア出兵(1918)
 大正8年 朝鮮3・1運動、中国5・4運動(1919 )
 大正12年 関東大震災(1923)
 大正14年 普選法、治安維持法(1925)
その間にドイツで大インフレが起こり、ナチスが結成され、中国共産党が結成される。(すべて、おさらいです。)

 欧州大戦直前の大隈(加藤高明外相)内閣は、日英同盟にもとづいてドイツに宣戦布告することをイギリスに同意させる。
 原敬はそれを「無名の帥」と切り捨てる。「そのあと外交、財政、経済の大問題が惹起する。」
 山県有朋はそれを、「火事場泥棒」式戦争は道義の否認にほかならず、「政治道徳と国民精神の荒廃」は必至だ、と書く。──これは国民国家のための戦争ではない。「加藤高明はまるで英人なり。」
 元老会議に出席した松方正義もまた「なにぶんにも不安の念に堪えず」と発言するが、加藤高明たちにとって元老たちはすでに「お飾り」でしかなかった。
 大隈内閣に入閣した尾崎行雄たちが、その方針の非道義性を指摘することはなく、その後の国際社会で日本がどういう位置に立つかという展望も持つこともなかった。
 米大統領ウィルソンは「米国は日独の紛争に関係をもたない」と声明するが、以後、将来の対日戦の研究に着手し、一方では日本研究のために大学の日本語科の授業料を無償化する。
 ※児島襄に『満州帝国』があるのを知った。二年目はまずそこまで進もう。(と言っても、『平和の失速』はまだ五巻残っているんだが)

 右まで入力したあとアキレス腱が切れた。
 入れ込んでいた気持ちも切れた。
 同級生には「なにかに追いかけられているよう」に見えていたらしい。
「黄金の⒑年」は、「銀色の9年」程度に。でも欲が深いから銀ならば⒕年に延長するか。

アメリカに宣戦布告する前に日本は石油を確保せねばならない。インドネシアの油田を確保する事は出来る。しかし、その石油を日本に運ぶ船団は次々に撃沈され、⒘年中に日本は戦争継続が不可能になるだろう。」
 昭和⒗年4月に作られた「総力戦研究所」一期生のよる机上演習の報告の骨子。
 平均年齢30代半ばの者たちの結論は、宣戦布告とパレンバン奇襲の順序が違った以外はほとんど的中した。

 総力戦研究所はイギリスの王立防衛大学を真似て人材育成のために設立され、各省庁に逸材を出すよう養成したが、カリキュラムもなにもないままに発足した。その苦肉の策が「総力戦机上演習」で、生徒たちに模擬内閣を作らせ、教官側が統帥部や参謀本部の役を演じて研究させた。
 その研究報告は昭和⒗年8月末、首相官邸で閣僚が揃った前で行われた。(どういうわけか辻信政もその場に居た)
 陸相東條英機は閣僚を代表して「机上の空論に過ぎない」と講評したが、そのとき自分が40数日後に当事者になるとは全く予想していなかったらしい。
 近衛が内閣を投げ出した時、企画院(この企画院というのが丸っきり分からない。最近若い学者が「明治憲法は、グウ・チョキ・パー同様にどの組織も主導権をとれない様になっていた」と書いている。東條英機も、東京裁判で自分たちの「謀議」について、明治憲法の欠陥に言及したという。)総裁だった鈴木貫太郎は「次はもう東久邇宮内閣しかない」と考えていたそうだが、木戸幸一が推したのは東條英機だった。「毒をもって毒を制す、だね。」と天皇は応じた。しかし、木戸日記には「万一の場合」皇室が国民の怨嗟の的になることだけは避けねばならないと書いていると『昭和⒗年夏の敗戦』の著者猪瀬直樹は言う。
 「歴史」というストーリーを書くのは(捏造するのは、と言いたいほど)そういう人物だ。
 読みながら、「この少壮(とも言えない卵の)エリートたちはその後どういう生き方をしたのだろう」と思い続けた。ーー教育期間は一年。研究所は三年で閉鎖されている。もう人材養成どころじゃなくなったのだ。ーー自分の関心はは常に人間に向かう。
 インターネットで知り得たことをまとめたのがA4のほうです。意外なほどこぢんまりとした生き方をしている。反米主義者から反戦主義者までで激論を交わした末に、彼らは日本の未来を見てしまった。以後の彼らは「余生」を生きたのだろうな、と感じる。ちょうど幕府の官僚たちが明治維新をそう生きたように。

 わたし自身はその後、三木成夫『胎児の世界』(新書の枠からはみ出した貴重な本)を読み、これから三木の最後の著作『海・呼吸・古代形象』を開く。(それが届くまでは児島襄『平和の失速』シベリア出兵篇を読んでいた。シベリアに諜報組織を作るよう命じられた石光眞光がその意図を訊くと「バイカル以東の鉄道を押さえ、緩衝国家を作る。」と説明を受ける。独露両国を敵に回すのかと考えた石光は「暁まで眠りにつくことが出来なかった。」)が、実際にはさらなる大国アメリカを敵に回すことになった。が、そうしなかった内閣が国内で持ちこたえられたかどうかには大きな「?」がつく。

今山物語8

 福岡は昨日は嵐、今日は菜種梅雨。
 博工国語教員たちへメッセージを届けた勢いでこれを書きます。
 昨日、録画していたNHK『神の数式』を見た。題名が気に入らなくて、見るかどうか迷っていたけど見て良かった。実に充実した内容でした。 
 この宇宙をひとつの数式で表そうとした男たちの物語は素人にも分かりやすく、あとに付けるメッセージに書いているその「限りなく本当にちかい嘘」に引き込まれてしまった。
 簡潔に言えば超弦理論についてのことです。(でも、超弦理論は糸口になるかもしれないけど、それだけでは解決にはつながらないんじゃないかなあ。)
 2013年に放送されたものの再放送で、アインシュタインやホーキングも登場。
 アインシュタインは自分の一般相対性理論を使って宇宙を数式化(たぶん「言語化」と同じこと?)できると考えたんだけど、式の分母に0が現れてしまった(んだったかな)。
 ホーキングは、「ブラックホールの底の底」とビッグバン以前の「始原の宇宙」の二つを一元化しようとしたけど、数式に∞が現れてしまうのを解決できなかった。
二〇世紀の物理学者たちはアインシュタインの予言したブラックホールの究極の場所がビッグバン以前の宇宙とそっくりであることに気づいたのだそうです。──その「そっくり」が彼らにとっては具体的にはどのように「そっくり」なのかは分からなかったけど。

 その「ブラックホールの底の底」のイメージと、レヴィナスを読んでいて感じた(ほとんど視覚化させられた?自分の記憶では「見たくもないものを見させられた」)「ユダヤの神の位置」のイメージが重なってしまいまい、驚きでした。──「あぶらやま通信」で書きたかったことのひとつに「勘違いすることの貴重さ」がある。その構想がまとまらないうちにリタイア。その程度に読んでください。

 いま追いかけているのは、きっと、「ニヒリズムの復活」。終局的救いはそこにしかなさそうなのです。そのニヒリズムに近いのがユダヤ教であり、仏教であり、たぶんロシア正教であり、中国人が自分たちでも気づかずに信じている何か、のような気がしてきた。・・・キリスト教的神は人間がいなくなったら消えてしまう・・・。

 ここからは妄想であります。(これまでも十分に妄想的だったけど)
 いつか近い将来、ヨーロッパ人たちは、自分たちの世界観をぶち壊すそれらの「秘教」と正面から対決するときが来る。その対決自体は避けられそうにない。その対決が破局につながらないための唯一の手がかりは、その時にデモクラシィが生き残っていることだ。生き残るためにはデモクラシィは「血を血で洗う」ようなものでありつづけなければならない。けっしてママゴト化させてはならない。

 番組では、最初に「神の数式」にもっとも迫った男としてロシア人のブロンスタイン(ユダヤ人?)が紹介されていた。かれもまた数式に∞が無数に現れてきて挫折している。が、それとほとんど同時に、まだ30代でスターリンによって処刑された。
(ひょっとしたらスターリンという無神論者は当時唯一のブロンスタインの理解者だったのかもしれない。)
 それが見終わった感想でした。

ここからは土曜日に会った人たちへのメッセージ

 楽しい時間をくださった皆さんに礼状を書こうと思いつつ数日経過しました。
 ほんとうに有り難うございました。
 とくに嬉しかったのはI先生やF先生に再会できたことです。画像工学科の生徒が私のことを覚えてくれていたという報告も、とてもとても嬉しかった。
 私は「希望なんかなくても人間は生きていける」という信仰にちかい信念を絶対に手放す気のない男ですが、でも、希望はあるほうがいい。もうすぐ70歳になる子どものいない(ということは孫もいない)男の希望は次世代の人たちです。だから、是非また会いましょう。

 私の話はすぐよれて横道に行きますから、今日話したいことを、まず書いておきます。
1,「大人になる」って、どうなることなのか?
2,リアリズムが呼吸していないロマンに実現可能性はない。その「リアリズム」を日本語に言い換えるならば「野蛮さ」になるはずだ。
3,私のリアリズム。
4,今年のゴールデンウィークの自分の課題は勝手にでっち上げつつある『二〇世紀の俳句2017版』を完成させることです。完成したら、このアドレスに送りますから、K先生もF先生も、アクセスしてみてください。

 では、話の開始です。
 私は、中等教育の主目的は、次世代の子どもたちに大人になる準備をさせることだ、と思っています。でも、私自身が自分を「大人になりはじめたな」と感じたのは50代に入ってからです。その50代とは、親に対する慈しみの情がわき始めた頃でもあります。
 わずかなアルコールに酔った勢いで言った「血を吐く思いで書くこと」とは、自分の親のことです。心貧しく戦中・戦後を生き延びた彼らの希望は唯一「子ども」だったっと思っています。その子どもたちが、「希望」に値する生き方をしたかどうかははなはだ疑問です。ですから、彼らのことを書くことに耐えられる精神力が身につくのが先か、自分のことさえ忘れてしまうのが先か、まったく分かりませんが、これは「勝負?」です。

 私の自慢(たくさんたくさんあります。わいわいお喋りをしているうちにあっという間に4時間がたつ若い友人たちを持っていることもその自慢のひとつです)の一つは、教室で生徒に「今度の日曜に、私の尊敬している小説家が福岡に来て話をするそうだから聴きに行く。アラキ先生の尊敬している人ってどんなひとだろう、と思うものは来い」と黒板に時間と場所を書き、当日行ってみると、たしか6人の生徒が会場でウロウロしているのでびっくりしたことです。
 日野啓三です。

 私の学生時代はベトナムで戦争があっていました。沖縄の嘉手納基地からは米軍の長距離爆撃機が腹いっぱい爆弾を抱えてベトナムに飛び立っていました。(「見に行ってやる」と出かけたそのときの感想は生徒にも意識的に伝えるようにしていました。ベトナムから帰って来たのであろう、ジャンボ旅客機よりも遙かに大きく見える、爆弾の重みから解放されたB52がフワァーっと着陸する姿はただただ「カッコいい」としか感じませんでした。)
 そうか、なぜ沖縄に行きたくなったのか、その動機のひとつを思い出しました。「銀座というところで呑もう」という話になって出かけたカンターバーは客がいっぱいで、横に居たのは「ボブ」と名のった戦地を離れて東京で休暇を過ごしているまだ10代のあどけなさをたっぷりと残している兵士でした。「明日はまたベトナムに戻るから今夜は飲み明かすんだ。」カタコトの英語であれこれ話しているうちにボブがお酒をおごってくれました。サボテンから作られているというテキーラでした。それを一口のんで咳き込んでみせると大喜びしました。
 そのあとのことです。われわれが立ち上がって料金を払おうとすると、バーテンダーが奥に固まっている女の子たちに日本語で大きな声をかけました。「カノジョたちィー、こっちに来て話し相手になってあげてヨォ。この子たちはもうすぐ死ぬんだからサァ。」
 あの強烈な記憶がなにかをきっかけに甦ったのです。
 どの新聞を読んでも、どのラジオを聞いても、ベトナムで何が起こっているのかサッパリ分かりませんでした。(当時テレビは持ちませんでしたが、もしテレビで映像を見ていたら、なおのこと分からなくなったはずです。坂口安吾の「新聞で信用できるのは日付と棋譜しかない」という言葉に出遭って、何か分からないことが出てきたら「安吾ならどう考えたろう?」と思う様になりました。──付け加えます。読解力とは相手の言っていることは信用できるか出来ないかの判断能力のことです。──)
 その頃、かろうじてベトナムで起こっていることのイメージを与えてくれたのが開高健日野啓三でした。(忘れないために書いておきます。さいごに、機会を捉えては生徒に読ませていた日野啓三の文章を付け加えます)

 講演が始まる前に紙が配られ、司会者が「あとで回収します。日野さんに質問のある方はそれに書いてください。」というので事情を書いて「高校生たちに何かアドバイスをしていただけませんか?」と書きました。(制服を着て会場にいる高校生は、ほかには修猶館と筑女だったと記憶しています)講演が終わったあと司会者がそれを読み上げ「日野さん、いかがですか?」と水を向けると「難しい注文だなぁ。」と言いつつ、世界中にあった通過儀礼の話をし始めました。「軍国主義の時代に育った僕たちの場合それが徴兵検査だった。それに合格したとき僕たちは〝大人になった〟と感じた。それは誇らしくあった反面、戦争に行く義務を強要されたことでもあったから身震いするような思いもした。いまの日本にはその通過儀礼に相当するものがない。だったら君たちは自分で自分のための通過儀礼を創りなさい。」
 日野さんのことばを自分なりに補足すると、「自分の生き方を誰からも強要されることない自由な時代とは実はどうしようもないほど生きづらい時代なんだ。だからその覚悟を持つところから始めなさい。」ということでしょう。それは、ベトナム戦争の取材から生き延び、帰ってきた日本で自分の寿命を意識しはじめた日野さんの次世代への率直かつ誠実な尊いメッセージだったと思っています。

 人間はほんとうに大人になる必要があるのかどうか。ひょっとしたらニンゲンという生き物は唯一自分たちを大人にならずに済むようにした生き物なのかもしれません。─(それが文明化の隠された目的だったのかもしれない)としたら中等教育はなんのためにあるのか?いまの私にはもはや皆目わかりません。分かりませんし、私はすでにそれを分かろうとすることを放棄しました。なぜなら60を過ぎてからの私は加速度を増しながら思春期に邁進しているからです。それは「希望」ではなく「願い」であるように感じています。その思春期は通過点にすぎず、目指されているのはきっとそのずっと先の「父母未生のとき」──なんじゃないかなぁ。
 50歳の子ども、60歳の子ども、70歳の子どもが生き生きと生活している社会が自由な社会だ、という考え方を否定する気持ちは、これから「75歳のチンピラ」を目指している私には毛頭ありません。ただ、それは「自分の生き方の責任をひとに押しつけない子ども」のはずです。

 2の話に移ります。
 この一年間はひたすら、徳富蘇峰が「日本人の自画像」と呼んだものを読み続けました。(さっそくですが、徳富蘇峰を「右翼だ」からと無視したら、たぶんこの国は見えません)2月末にどっと寝込んだのはきっと体だけでなく心も頭も自分の能力を超えたからだったろうと思っています。それから回復していま思うことは、「日本にリアリズムがあったのは西南戦争までだ。以後の日清戦争日露戦争もママゴトに過ぎない」ということです。(それは「気が重たい」などというものではなく布団から起き上がりたくなる思いでした。)もちろんまた気力が戻ってきたら続きを読むつもりですが、シベリア出兵も日中戦争も日米戦争もママゴトでした。敗戦後、日本はかろうじてリアリズムを取り戻しました。しかしそれは在日米軍の存在抜きにはあり得ないリアリズムでした。
 でも、きっと今、世界中で熱心にそのママゴトが行われているのです。いい年をした大人たち、超一流大学を卒業した大人たちががママゴトに熱中しているのです。だって、ママゴトのほうが熱中しやすいもの。リアルなことなんて面白くもなんともありません。(ちなみに、生徒たちに「こんなことを言う引退した先生がいるよ」と紹介してみてください。かれらは大喜びすると思います。)
 そのママゴトに熱中している国のなかには、世界を滅亡させるに足る量の核兵器をいつでも使用可能にしている国が幾つもあります。
 「ほんとは怖い○○」という本が流行ったのは、そんなに以前ではありません。
 そういう本が売れ始めた頃、すでにその社会はママゴト化していたのです。だってもともとの子どもたちはその童話に息づいている危険を感知するから「怖いもの見たさ」に駆られて読んでいたのです。読んで眠れなくなっていたのです。私の場合は嫌悪感が先だって子どもの頃は絵本をほとんど読みませんでした。私の最初の読書体験は漫画から始まります。──上の「危険」を、野蛮ともリアルとも読み替えてみてください。そして「ママゴト」をロマンと読み替えてみてください。わたしの乱暴な考えがほの見えるかもしれません。ロマンを生きたものにするためにリアリズムは決して欠かせないものなのです。
 2,のところで「ロマンの実現性」と書きましたが、訂正します。実現していないものは私の考えるロマンに相当しません。それはただの絵空事です。現実性が息づいているロマン。それが言葉の矛盾である限りにおいてロマンはあります。その現実性が「危険性」であり「野蛮さ」なのです。見たくも聞きたくも臭いを嗅ぎたくもない血なまぐさくキナ臭く耳を塞ぎたくなる現実性なのです。
 徳富蘇峰は自分の書く日本の近代史を「自画像」と呼びました。そんな「自画像」にいちばん近い絵を描いたのがレンブラントだと思っています。数年前に何十年ぶりかで会った学生時代からの友人が「絵を見て涙が出たのはレンブラントの自画像だけだ。」と言いました。(この男ははいまもオレの友だちだ。)
 坂口安吾はそれらのことを「シンデレラ」や「赤頭巾」を材料に書きました。(たしか「文学の故郷」という文章です)そのこと自体はべつに坂口安吾から教えられなくとも分かっていたつもりです。ただ、安吾を「この人はほんとうに偉い人だった」と感じたのは、「文学の故郷は絶望である」と書いたそのあとに「だが、大人の仕事は故郷に帰ることではない」と付け加えていたからです。正直に言います。わたしはレンブラントの自画像には感情を忘れて見入りましたが、安吾の文章のその一節に出遭ったときは泣きました。ひとりでこっそりと泣きました。
 その部分に共感したからでしょう、檀一雄安吾忌に「狼のぱくぱく食われる赤頭巾」と詠んでいます。

3,長くなりすぎましたので、あとは手短にします。
 K先生がすこぶる付きに有能であることは参加者全員異議ないと思います。しかしK先生がいなくなったあとの博工国語科に私は不安を感じていません。(職員室のことは分かりませんが)
 わたしも実は自分で自分を「有能だ」と思っていました。(ほんとうは、どうしようもないほど無能だったのですが)ただし、もし私がもうひとり職員室にいたらその学校は機能不全に陥るだろうということも分かっていました。組織とはそういうものです。それは私のけっこう悲しいリアリズムでした。
 だれが、どこで、どういう役割を果たしているのか、相当に優秀なリーダーでもそれを把握ことは出来ないと思います。その組織が生きている以上、その組成員(学校なら生徒も含みます)ひとりひとりが「有能」なのです。

 そのこととは別に、もし、もうひとりの私の存在に気づいたら、私は即座にその場から離れるでしょう。私に限らず、自分を見せつけられることに10秒以上耐えられる人って滅多にいるはずがない。
 
 つたない手紙はこのへんまでとします。
 今週末、友人たちと新潟・佐渡に3泊4日で出かけます。目的地はいくつもありますが、そのうちのひとつは鶴岡(山形県?)カソリック教会の黒い聖母です。ポーランドから寄贈されたのだそうです。
 その聖母の肌がなぜ黒いのかについては諸説あるようですが、私は印刷物ではじめてそれを見たとき、ただ「美しい」と思いました。それが日本にあるなんて、カソリックにとってはいまも世界はひとつの家族なんですね。
 その鶴岡の天主堂で何を感じるのかは、いっさいの予感を抑えきって向かいます。

 最初に書いた日野啓三さんの文章を紹介します。
 日野さんが福岡の高校生たちに「自分で自分の通過儀礼を創りなさい」と直接言ってくれたあとに書かれたものです。

 ※済みません。申し訳ないのですが、パソコンのなかをいくら探しても日野さんの文章がでてきません。たしか『変わらないもの』という題名だったと思うのですが。
 ので、今日は日野さんの文章を探しているときに(へぇ、オレはこんな文章を書いていたのか)と感じた「こくごのとも」がニンマリしそうなものを下につけます。


 小論文講座 

 作文をにがてな生徒がなんとなく好きだ。
 小学校のとき作文の宿題がでて、いっしょうけんめい書いて出したら、先生がみんなの前で読んでくれた。読み終わってから先生が言った。「みなさんは、この作文をどう思いますか? これは嘘です。小学生がこんなことを考えるはずはありません。みなさん、作文に嘘を書いてはいけません。」・・・・・そのときの先生の声まで、まだはっきり覚えている。〈大人ちゃこげんもんなとやな〉
 以後、作文はいっさい書かなかった。小学校のときだけでなく、中学に入っても、高校生になっても・・・・。文章だけでなく、自分の考えを人に伝えようとすることじたいが苦手になった。だから、思ったことを言える友達ができたのは、ものすごい幸運に恵まれたとしか思えないし、その延長として、いつのまにか、こうして文章を書くようになった自分が不思議でしかたがない。

 自分の考えていることを他人にわかってもらうということは、何とむずかしいことか。「いや、別にオレは、先生ごと、ややこしい作文ぎらいじゃないと。ただ、考えるとが面倒臭いだけなと。だいいち、普段は何も考えてとらん。」という者もいるかもしれない。でもね、実はね、そういう君もちゃーんと考えているんだよ。ただ、それを言葉に換えようとしていないだけなのだ。
 「いやいや、--人間は言葉なしに考えることはできない--と前に習うた。」と思い出した者もいるかもしれない。でも、それは間違い。勘違い。大違い。人間は言葉なしでも考えることができるのです。というか、その人にとってもっとも大切なことは、決して言葉を使って考えてなんかいないから。ただ、「オレは何を考えていたのかな?」と自分に説明するためには言葉にしてみるしかないだけなのだ。しかし、我々にとってもっとも大切なことは、言葉では言いあらわせないないこと、理屈では説明できないことだと、この国語教師は思っている。説明がつくことなんて、本当はその人にとって大したことではないのかもしれない。
 「自分は何も考えていない」「自分自身の考え方とかまだない」と思っている君も、本当はちゃんと考えを持っているし、自分なりのものの見かたを持っている。その「見かた」や「見えかた」を難しい言葉に直すと「世界観」と言います。でも本当は少しも難しいことではない。君が世界観をもっていなかったら怖くて道も歩けないし、鳥は自由に空を飛べないし、魚は水中を泳げないし、木は根を生やしたり枝を伸ばしたり出来るはずがない。生きとし生きるもの(生きているものすべて)は世界観を持っている。(いや世界観は言葉で出来ているんだ、という人たちも居るけれど、ほんとかなあ?)ただ、それらを言語化するのが面倒臭いだけだ。いや、それどころか、すべてを言語化しよう(言葉になおそう)とか思ったら気が狂いそうになる。私も君たちも十分に賢いから、決してそんなバカなことをしようとはしない。

 学生時代に、日本語を勉強してから腕試しに日本にきた夫婦の案内役をやらされたことがあった。おっかなびっくり引き受けたけど、やりはじめてみたら何ということもなくて、ふたりとも実に達者な日本語の使い手だった。その夫婦と渓谷に行ったとき、ご主人が、「美しい岩だ。」というと、奥さんが、「いや、あれは大きな石よ。」と言う。「ちいさな岩だ」「大きな石よ」と言い合っているうちに、夫婦喧嘩になってしまった。そして、「どっちが正しいか、日本人のお前が判定しろ。」
 「石でも岩でもどっちでもいいんだ。日本人はそんなことで、いちいち夫婦喧嘩なんかしない。」
 前置きばかりが長くなってしまった。けれど、「石と岩のちがいを説明せよ。」なんて課題を与えられたら、まず、やる気をなすくだろうな。「岡と丘と山はどう違うのか。」という課題だったら、「ほんとうにそれを考えたいのなら、お前が自分で考えれ。自分は考える気がないのならオレたちへの課題にするな。」とだけ書いて提出するかもしれない。

 言葉で説明するのがいちばん厄介なのは、たぶん「自分」だ。「身長170センチ。体重60㌔。17歳。」と書いても、たぶん自分を説明した気がしない。「高校生。野球部員。外野手。ベンチウォーマー。」「家族5人。住所、福岡市西区今宿、、。」いくら書いても、それは、「ある男子高校生」の姿をなぞっているだけで、自分自身にはたどりつかない。で、先生からも「なんや、これだけか? もっと考えれ。自分を見つめてみろ。」と怒られる。もともと嫌だったことだから、ムカつく。ウザい。ダルい。「オレはオレやからよかろうもん!」      
                              (次回につづく)                                       
 小論文講座〈Ⅱ〉 

前回の話
 われわれにとって最も大切なことは、言葉では言い表せないことなのではないか。たとえば、自分にとってたったひとりの「自分」を説明しろ、と言われても、「オレはオレやからよかろうもん!」と、つい言いたくなってしまう。

 そう「オレはオレ」「岩は岩」「石は石」なのだ。それが一番正確な言い方なのだ。
 と同時に、それでは何を説明したことにもならない。つまり、「説明する」とは、限りなくウソをつくことにちかいのだ。私たちは、「できるだけ本当にちかいウソをつく」ことを「説明する」と呼んでいる。
 ウソが嫌いな人は、ふつう黙っている。黙ったままでいることで、自分を、自分の誠実さを守ろうとしている。そして、ぺらぺらしゃべっている人を胡散臭(うさんくさ)く――どことなく疑わしく――感じている。
 もし、「何も言わなくても自分のことを分かってくれる」友達だちや家族がいたら、どんなにいいだろう。そんな先生がいたら毎日の学校が楽しいのに。――ほんとうにそうだろうか?――もし、「何も言わないのにオレの考えていることがわかる先生」がいたら、それこそウザくて、もう学校になんか行きたくなくなるんじゃないかな。
 ウソをつくぐらいなら黙っているほうがましだ、と思っている君も、実は、薄くて邪魔にならない程度のオブラートのようなウソにつつまれているから、安心して日常生活をおくっていられる。そのことを大人は「演じる」と言う。
 人間はみな「自分」を演じているのだと思う。その演技がまだ不自然な間は未成年。「自分」を自然に演じられるようになった者を大人と呼ぶ。
 こんなことを書いている61歳の教員も、別に生れつき教員だったわけではない。27歳のときに教員になって、なった以上はと、一生懸命「センセイ」を演じてきた気がする。一生懸命センセイをやりながら、心のどこかで、それ以外の「ほんとうの自分」がありそうな気がしていた。でも、あるとき気がついた。AさんやBさん、C君やD君がそれぞれ見ている「自分」は全部ほんとうの「オレ」なのだ。それらを全部ひっくるめたものが、「ほんとうのオレ」なのだ。
 「半端なウソやらつきたくない」と思っている人も、「だれも分かってくれんでもいい、オレはオレたい」と思っている人も、実はそういう「自分」を演じていることに変わりはない。
 じゃあ、その自分。人が見ている自分。先生が思っている自分、社会が期待している自分ってどういう人間なんだろう?
 ものごとは全部、同時進行ですすむ。同時進行だから、ひとつひとつが全て100パーセントなんてことは最初からありえない。
 けっして、100パーセントを求めるな。60パーセントで十分だ。60パーセントだけ自分の考えをまとめよう。(言葉にしよう)それができたら大成功だ。その考えのまた60パーセントぶんだけ人に説明できから大成功。0.60×0.60=0.36パーセント説明できたら大々成功なのだ。
 さあ、今日も「小論文」

追記

 最近思うこと。

 日本語でものを考えるときに必要なもののひとつは、「口ごもる能力」であるようだ。口ごもることによって、われわれは考えるための時間稼ぎをしている。その「時間をかけて考える」ことが大切なのだ。考えることに時間をかけない「頭のいい人」たちとは、できるだけ疎遠(そえん)にしていたい。じっさい、口ごもることがにがてな人は考える能力じたいが劣る気がする。
 もともとの日本語の論理は西洋の論理とはずいぶん様子がちがっている。「たゆたふ論理」「やすらふ論理」(「たゆたふ」「やすらふ」の意味がわからない君は古語辞典をひきなさい。)で昔の日本人はものを考えていた。日本人が西洋流の直線的論理でものを考えるようになって以来、この国ではロクなことしか起こってはいないんじゃないかな。
          

 今日の追加です。

 クリア・ファイルをめくっているうちに芥川賞を受賞した直後に朝吹真理子が新聞に寄稿した(日付は2011、2,15)『書くこと──静かなる梱包』と題された文章が出てきました。
──「言葉」を用いてつくりあげたものが何であるのか、どういう「意味」を持つのか、そうした問いは、書き手に問われてもわからないことのように思う。(私は)署名をし終えたら、後は何も言わず、そっと世界に差し送りたい。
 その中に「敬愛しているアーティストのアトリエをたずねた」話が出てきます。「作品を無言でつくりつづけることが最も厳しい選択であると思い知った。そして真のエレガンスというのは野蛮さをおおいに孕むものであることも」
(いったい誰だろう?)
 あれこれネット検索しているうちにYouTubeで「きっとこの人だ」と思う人物に出会いました。
 マニュエル・ゲッチング
 その音楽を聴いていると、ところどころ意識的に滞ります。「こんな音楽があったのか。」
 私が60を過ぎてやっと気づきかけていることに、彼女はごく若くして気づいているらしい。
 驚きでした。
 でも彼女に限らず、もう小説を読むことはないんじゃないかな。加速度がついてからは信じがたいほどに「忙し」くなっているのです。



最近知った男(だと思う)の俳句を付け加える。──このスゴいヤツはどこのどいつだ?

郷恋しましてや祖母の蓬餅       『玉子酒』不詳
黄水仙優しき日々のありしこと 同
街角によく似た人や春兆す 同
風鈴を買いて新たな風を待つ 同
雨になり首かしげたる案山子かな 同
独り分冷えたるを食う根深汁 同

今山物語7

 ホーキングの宇宙観にふれたときに思い出したことなんだけど、この話は書いたことがあったかなぁ。
 同じ頃、「原始人類」にも興味を持っていた。
 南アフリカ出身で、若い頃の恩人だったヴァン・デル・ポストのどこまでが現実かわからないようなアフリカの話に惹かれていたことも影響していたのだと思う。
 たとえば、『カラハリの失われた世界』に出てくるネイティブ、ブッシュマンのことわざ。
   「人間は、自分が知っていると思っている以上のことを知っている。」
 ──それが正しい。夢野久作ドグラ・マグラ』の主題もそれだった。(学校で知り合い、のちに河合の名物教師になった男から「ドグラ・マグラを読んだか?」と訊かれたことがある。「うん。」「最後まで読んだか?」「うん。」「ふーん。ドグラ・マグラを最後まで読んでまだ普通でいれらる男はアラキさんでやっと二人目だ。」本人は頭がおかしくなりそうになって途中で投げ出したのだそうだ。)──
 ヴァン・デル・ポストのお婆ちゃんは、自分が開拓した土地を息子に譲って、さらに奥地の開拓に孫を連れて出ていった。その時、忙しいお婆ちゃんに代わってヴァン・デル・ポストを育ててくれたのがブッシュマンだったので、しぜんにブッシュマンのことばも覚えたという。なお、お婆ちゃんは、そこの開拓が済むと孫に譲り、自分はさらに奥地に現地の従業員たちを連れて入っていったとあった。

 すでに人類の祖先はサルとの分岐点にまで遡ることができるようになっていて、「一千万年以上前の人類の化石を発見した」と発表した学者もいるらしい。
 その過程で、南アフリカ最南端の洞窟から2種類の人類の化石が同時に見つかった。
 1種類は草食系。もう1種類は肉食系。
 男子校だから、生徒にその話をして、「それを、2種類の人類が協力して生きていたんだと考えた学者たちもいるけれど、私はそうは思わない。・・・どう思っていると思う?」と質問したら、「草食系は肉食系から食べられていた。」
 うん。そうだね。草食系は肉食系のエサだったと考えるほうが自然だな。
 ところで、われわれは、どちらの子孫だと思う?草食系?肉食系?
 生徒は黙っている。
 じつは草食系なんだ。自分の奥歯を確かめてごらん。ひらたいでしょ?ひらたい歯は草をすりつぶすための歯だ。われわれは牛やシマウマと同じ歯をもっている。草食系人類のほうが生存競争に勝ったんだ。
 生徒がなんとなくほっとしたような顔になる──というのはたぶん創作。

 肉食系人類のエサだったほうは草の根(いまで言う根菜類)を食うことで生き延び、繁栄を遂げた。それなら無尽蔵にあるし、葉っぱよりは栄養価が高いし、競争相手もほとんど居ない。(イノシシは根菜類に目がない。山小屋の庭は毎年のように掘りくり返されている。)
 
 ヴァン・デル・ポストによると、ブッシュマンの男たちは狩りをする。というか狩りしかしない。男たちが出て行ったあと女たちは棒きれを持って出かけ、木の実や根菜を集めて子どもたちと男たちの帰りを待っている。そして、たいていは手ぶらで帰ってきた男たちと食事をする。
 じゃあ男たちは女たちに寄生しているだけかというと、そうではない。かれらはカラハリ砂漠を、担いでいける範囲の簡素な生活用具だけをもって移動しながら生活している。そして或る地点にくると、男はストロー状のものを地面に挿して根気よく吸いつづける。すると筒の先から水が湧き出てくる。「今日はここにしよう」
 生きていくうえで最も必要不可欠なものを探り出し、家族に与えるのは男の役目。
 ──人間は、自分が知っていると思っている以上のことを知っている。──
 
 もちろん我々は牙も持っているから、肉食系と草食系のハイブリッド体、雑食系ということになる。両者は交配が可能な範囲の違いでしかなかったことになる。その違いを「文化」と呼ぶかどうかは、ほとんど好みの問題なんじゃないかな。
                                  2018/01/30

今山物語6

 やっと越知彦四郎の碑を見つけた。
田中健之『靖国に祀られざる人々』のなかに、玄洋社が東公園に建てた福岡の変の供養塔は現在、平尾霊園に移されているとあったので、ひょっとしたらと行ってみた。駅から歩くこと一時間半。谷間の霊園の一画にその「特別区」があった。
 その当時たまたま警察に奉職していたために同志の越知彦四郎を斬首した篠原藤三郎は直後に辞職し、報奨金5円を石工に渡して碑を作らせ、そのまま西南の役に参加しようとして捕縛された。役後釈放された篠原は中国に渡り、さいごは朝鮮で死亡したらしい。その間、帰郷することはなかったのだろうと想像している。
 付け加えると、玄洋社頭山満たちは萩の乱に参加しようとして逮捕され、西南の役が終わるまでは獄中にあった。
 もともとは「灯籠のような形」のものだったと書かれているから、碑の上の白い四角部分は移転したときに付け加えたのだろうと思う。
 刻まれている歌は篠原藤三郎、
  散る花としれど嵐のなかりせば春の盛を友と競はん
 越知彦四郎の辞世
咲かで散る花のためしにならふ身はいつか誠の実を結ぶらん
 に呼応したのだろう。

 『靖国に祀られざる人々』には、印象的な人物や話がいくつも出てくる。

 中野正剛の葬儀に東条英機が花輪を贈ろうとしたとき、緒方竹虎が「どこに置いてもいいのなら受け取る」と返答したところ、花輪は届かなかった。

 三島由紀夫の「少年期の感情教育の師」だったという蓮田善明は応召し、敗戦を迎えたジョホールバルで連隊長を射殺したあと自殺したとある。

 昭和13年に刊行されて以来130万部売れたという広島の人杉本五郎大義』で多くの部分が伏せ字になっていた17章には次のようなことが書かれていた。「かくして今次の戦争は帝国主義戦争にして、亡国の戦と人謂はんに、何人がこれ抗弁しうるものぞ」
 その前に引用されている『大義』の一節。
「汝、我を見んと欲せば尊皇に生きよ。」
 その「尊皇」を「世界」に置き換えたら、そのままハイデガーになる、気がする。
 近代とは、多くの人々が、自分の「生えた場所」から引っこ抜かれて別の場所で生きることを強要された時代だった。カミュが書こうとした通り「裸」だったかれらは自分が根を生やすべき土壌を性急に求めた。そういう時代だったんだな。

 大隈重信は、爆弾を投げつけたあと自殺した来島恒喜の命日には毎年花を届けたそうだ。

 秩父困民党事件から脱出後、変名して北海道に渡った井上伝蔵は野付で高浜某と出遭い、その娘と結婚し、子ももうけた。かれは死期が迫ったとき初めて家族に本名と自分の履歴を明かした。妻は内縁の夫との婚姻届けを、つれ合いの死後に提出したそうだ。
 井出孫六が『秩父困民党の群像』という本を書いているのを知ったので、読んでみる。
『アトラス伝説』以来。