美浜日記 國分功一郎

『中動態の世界』を読み終えて、言葉が出なくなった事情を少しだけ書きます。
 「自由を追求することは自由意志を認めることではない。中動態を論ずるなかでわれわれは何度も自由意志あるいは意志の存在について否定的な見解を述べてきた。もしかしたらその論述は読者に〝自由〟に対する否定的な見解を抱かせたかもしれない。・・・・
 だが、自由意志を信仰することこそ、われわれが自由になる道をふさいでしまう・・・・。その信仰はありもしない純粋な始まりを信じることを強い、われわれが物事をありのままに認識することを妨げる。・・・
 ・・・中動態の哲学(≒スピノザの『エチカ』)は(※自由意志ではなく)自由を志向する。」
※終章は『白鯨』のメルヴィルの遺作『ビリー・バッド(主人公の名前)―未完―)』について。オペラにもなっているそうだ。ビリーは『白痴』を思い出させた。
 「われわれは完全に自由にはなれないし、完全に強制された状態に陥ることもない。・・・われわれは、ときおり、自由に近づき、ときおり、強制に近づく。・・・われわれはおそらく、自分たち自身を思考する際の様式を根本的に改める必要がある。それは容易ではない。しかし不可能でもない。・・・われわれは中動態の世界を生きているのだから。」
※「むすび」の最後に「当初の計画ではまったく予定されていなかった」ハンナ・アレントに言及し、「何か運命的なものすらを感じた。」と言う。
「一度でよいから実際に会ってお話をしてみたかった。〝ビリーもクラッガードもヴィアもわれわれそのものではないでしょうか?アレント先生には彼らのようなところはありませんか?〟――その際におうかがいしたかったことはただ一つこれである。」
 ※それはバルラハの『大洪水』を読んだ時のこの男の感想でもあった。
 池田先生に手紙を書いたので、そのコピーを送ります。
 書いたあとに思い出したことが二つ。
 ひとつはウナムーノのmono dialogos。『アベル・サンチェス』はまるで戯曲のような小説だった。
 あとひとつは学生時代の漱石が提出したという『老子の哲学』。そのなかで夏目金之助青年は「老子の哲学は一元論だ。」と意気軒昂に書く。「一元論に発展性はない。」――でも、二元論的芸術なんてあるんですか?
      ピュシス⇔中動態⇔自動詞(甦る・現る)⇔ノン・エゴ
 この世界は二元論を手に入れることによって文明が勃興し、拡がり、つながり、充実してきた。その芳醇な果実はいま世界各地でたわわに実っている。と同時に、封じ込めてきた「自然」からまがまがしい災厄が始まることを人々は恐れている。
 それでも言えることはひとつだけ。
 前に進むしかない。
 そんなことを考えています。
 
  やっと春っぽくなってきました。
 数年前から冬の寒さがひどくこたえるようになりましたので、暖かくなると、それだけで嬉しくなります。
 世間ではコロナ騒ぎがおさまりませんが、どこかの国の医者が言った通り、再来年頃にはインフルエンザの一種程度とみなされるようになるのでしょう。
 お元気のことと存じます。
 わたしは、リタイア後の一年は、これでもか、これでもか、という状態が続き、年があらたまって一息つくつもりでしたのに、今度は数冊の本との出会いがあって、実はいま言葉を失っています。
 浅野俊哉『スピノザ<触発の思考>』
 ジャン≒クレール・マルタンフェルメールスピノザ<永遠>の公式』
 大貫隆グノーシスの神話』
 福岡伸一『西田哲学を読む』
 國分功一郎『中動態の世界』
 國分功一郎はNHK「百分de名著」で知った若者で、その冊子はいまも机の正面に置かれています。
 グノーシスはずいぶん前から気になり続けていたものですが、今回やっとおぼろげながらイメージが湧いてきました。
 福岡伸一の『西田哲学』は、ひとことで言うなら「ピュシスの哲学」(そのことば自体が成り立ち得るものなのかどうか私には判然としませんが、それがいわゆる「哲学」と呼べるかどうかは別にして、私には近しいものです。と言っても、若い頃『善の研究』を読んだだけなのですが。)
 浅野俊哉は次のように述べています。
 「スピノザが見たのは次のような世界のあるようである。・・・何かと何かが出遇い、そこに前と異なる状態が現出する。・・・世界とはそれらが遭遇し、反発し合ったり、時にひとつに合わさって新たな存在や力を創出したりしながら、たえず変化を続けて止まらない生成の過程以外のものではない。」
――これって、福岡伸一の「動的平衡」そっくりじゃないか?
 「中動態」については、わたしは、日本語はもともと中動態的世界だったんじゃないかなと感じていました。そのいわば中和的状態が二度激しく揺さぶられて、いまのような日本語になった。――一度目は漢化によって、二度目は洋化によって――。そういうイメージでしたが、國分功一郎を読んでいると、実は、それは世界中で起きたことなのかもしれない、と感じつつ、先生の文章を思い出しました。
 ご無礼して書きます。
 「近代の敷居にたっていたファウストゲーテ)にとっての無意識の意識化は必然であった。しかし、・・・心のうちなる非自我(ノン・エゴ)・・・の意識への同化は極めて大きな危険をともなう。・・・けれども、・・・かかる非自我としての無意識の実在を知り、謙虚に受けとめることなしには心の全一性を回復することはできない。」
 「ファウストの下降は死と再生の旅。「冥府行」にほかならない。」
 12月、友人に誘われた宮崎県米良銀鏡神楽で大泣きに泣いてしまった体験はまさにそれでした。「よみがえる」とは「黄泉からかえる」ことだったと気づきました。
 その「よみがえる」は能動態でも受動態でもありません。
 西田幾多郎福岡伸一)のピュシス。
 スピノザ國分功一郎)の中動態。
 ユング池田紘一)の非自我。
 それらは、わたしには別々のものとは思えません。
 国分は後書きに書いています。
 「哲学は概念を扱う。哲学は漠然と真理を追究しているのではない。直面した問題に応答すべく概念を創造する――それが哲学の営みである。(真理とはおそらくこの営みの副産物として得られるものだ。)哲学にできるのはそのようなことであり、そのようなことでしかない。」
 「言ひおほせて何かある。」
 しかし、「言いおおせ」ようとしない者に「何か」(それは究極のところ言語化不能のことに思えますが)の手がかりはありません。――これはグノーシス的かもしれません。
 お彼岸を過ぎたら、今年も動き出すつもりです。
 足がかりは得られた感じがしますので、勇躍動き出します。どうせ自分にはたどり着けないところを目指しているのだと考えていますから、かえって気が楽です。(行けるところまで行けばいい。)  
 そして、小林秀雄の書くように「闇夜で何かにさわった」という感触がもし得られれば、それで十分です。
 その可能性はあります。わたしは自分を「めちゃくちゃに運のいい男」だと思い込んでいます。
 次回、お会いできる時が待ち遠しいです。
 奥様にもよろしくお伝え下さい。
                     3/19
                    我が家の態度のデカい精霊の誕生日に。