ユング『心理学と錬金術』(池田紘一訳)抜粋Ⅲ

第三部 錬金術における救済表象

・科学は衆知のごとく星辰を機縁として始まったものであるが、その際人類は星々のうちに自分たちの無意識の支配者、いわゆる「神々」を発見した。同様にまた獣帯の不思議な心理的性質をも発見したが、これはまさしく天に向かって投影された一つの体系的な性格学に他ならなかった。占星術錬金術に似た人類の原体験である。
・普通の雨水をたっぷり、少なくとも十シュテープヒェン〔三十から四十リットル〕用意し、それをガラス容器に入れてよく密封し少なくとも十日間保存せよ。すると沈殿物もしくは凝結物が底にたまるであろう。そこで上澄を注ぎ出し、球のようにまるい木製の容器に入れよ。それからその容器を真二つに切断し、容器の三分の一のところまで水を入れたまま、正午に、人目に立たぬ秘密の場所で太陽に晒せ。
 それが終わったら祝福を受けた葡萄酒を一滴、その水に落とせ。そうすればすぐさま水の表面に天地創造の第一日目のそれと同じような霧と深い闇が見られるであろう。続いて二滴を加えると闇の内から光が射してくるのが見えるであろう。それから七分三十秒毎に次から次へと第三番目の、第四番目の、第五番目の、そして第六番目の滴を落とせ。そしてそれ以上はもう落とすな。そうすれば汝の眼は水の面に次から次へと物の姿を認め、藭が六日間に亘って万物を創造したときのありさまを、すなわちあのようなことが、言語を絶する、そして私もまた言葉をもって語る術を知らないあのような秘密〔神秘〕が、どのようにして実現されたかを見るであろう。
          『アブタラ・ユラインの《ヒュレとコアヒェル》』より
・司祭が聖別の文句を唱えることによって聖変化を惹き起こし、かくしてパンと葡萄酒から成る被造物を、その物質的な不完全状態から救い出す。これはどこから見てもキリスト教的発想とはいえない。これはまさしく錬金術的発想である。・・・錬金術師の関心は、藭の恩寵による自己の救済にではなく、物質の闇からの藭の救済に向けられているのである。・・・錬金術師は確かに自己の救済への願望を懐いて作業(オプス)に取り組む。しかし彼らは、自分自身の救済は自分の作業(オプス)の成功如何にかかっているということ、すなわち自分が藭の魂を救済しうるかどうか、この一事にかかっているということをよく知っている。・・・救済されなくてはならないのは人間ではない、物質なのだ。
・「ひとつの書物は他の書物の門を開く」ボヌス『新しい高価な真珠』
・第一質量(プリマ・マテリア)は「己れみずからの根」として、真性の「プリンキピウム〔発端、根源〕である。それゆえここからパラケルススの考え、すなわち第一資料(プリマ・マテリア)は「インクレアトゥム〔increatum創造されざれしもの〕」であるという考えまではほんの一歩である。その著『アテネ人についての哲学』の中でパラケルススは、「「インクレアトゥム」というこの唯一無二の質量(unica materia)は一つの大いなる神秘であって、元素的性質を何らそなえていない、と語っている。
・旧約ミカ書第五章二節「その出づる事は古昔より永遠の日よりなり」・・・という文句は第一質量のことを言っている。同様にまた「アブラハムの生まれ出でぬ前より我は在るなり」もまた第一質量のことを言っている。
                       『賢者の水族館』
・近代とはまさしく、中世の落とし子であり、その産みの親を否認するわけにはいかないのである。
・原物質(ヒュレ)の中に火という核が隠されているように、海の暗い底には王の息子がいわば魂の脱け殻の状態で横たわっている。
・普通一般の人間であれば誰でも、自分の心の内奥に余りにも深く入りこむことには躊躇と抗いの気持を覚えるものであるが、この躊躇と抗いは究極的には地獄行きに対する不安である。  
・哲学者が地獄行きを行なうのは「救済者」としてなのである。「隠された火」は、海の冷たい水の内的対立物である。・・・この「隠された火」は紛れもなく孵化熱であって、これは、「瞑想」における己の内なる孵化」に見事に合致する。インドのヨーガにおいてもこれと同様の観念が見られる。タパスがそれで、これは己の内なる孵化に他ならない。〔tapasは通常、苦行と訳される〕タパスの目的は・・・変容と復活である。
・もし仮に、錬金術師たちが、彼の無意識内容を具体的にはっきりと捉えることができていたとしたなら、彼は自分がキリストの代わりをしているということに気づかざるをえなかったであろう。
錬金術本来の基本諸表象を構成しているのは異教思想、特にグノーシス思想に淵源をもつ諸思想である。そしてグノーシス主義の源泉は断じてキリスト教ではない。むしろキリスト教グノーシス主義に受容同化されたと言うべきである。
・ライムンドゥス・ルルス(1235〜1315年)覚え書き
  ダヴィデの裔イエス・キリストが、アダムの違犯のゆえに罪に堕ちた人類を解き放ち救い出さんとして人間の本性をみずからの内にとりいれたように、われらが術においても、あるものによって不当にも汚されているところのものが、そのあるものに対立するあるものによってその汚辱から分離され、洗われ、解き放たれなければならない。
・コリマス文書のような(一世紀のものと考えられる)非常に早い時期のテクストの場合は、キリスト教の影響はまったく考えられない。にもかかわらずコリマス文書には再生の神秘のあらゆる特徴がそなわっているのである。もちろんそこで死者を復活させるのは救済者ではなく「聖なる水」、ラテン語著述者のいわゆる「永遠なる水」である。
・ヘルメス
 「世界の終末において天と地とは必ず結合されなければならない。これ〔天と地との結合されたもの〕がすなわち哲学の言葉である。」
・フィラレテス
 「「われら」が水銀の中には火と燃える硫黄ないしは「硫黄の火」が含まれている。この火は「霊の精子」である。われらが処女はこれをみずからの内に吸収する。」・・・この処女はメリクリウスに他ならない。
・本物の化学が王者の術〔錬金術〕の種々雑多な実験や思弁、その暗中模索の試みの数々と袂を分かってしまった後には、いわば脱け殻のように象徴だけが残った。そこには何ひとつ実体がないように思われた。しかしそれにもかかわらずこれらの象徴には依然としてどこか人を魅了するところがあって、程度に差はあれ、これに心を捉えられる人は跡を絶たなかった。錬金術の場合のようにこれほどにも豊富な象徴が産み出されるには常にそれ相応の充分な理由というものが存在するのであって、決して単なる気まぐれや空想の戯れにその成立を帰してはならない。少なくともそこには心の本質の一部が表現されているのである。
・藭のひとり児であるというキリストの唯一性は一角獣のよって比喩的に表現されるが、同じような意味合いで聖ニールスは修道僧の大胆不敵な自立精神をこの寓喩を用いて表現している。「彼は一角獣、すなわち自立せる生きものなり」
・ピキネルスは言っている。「確かなことは、藭はこの上なく恐ろしい存在であったが、至福の処女マリアの胎内に入った後、穏やかな、完全に馴らされた者としてこの世に姿を現したということである」
・私がここに一角獣象徴の数々を並べた意図は、異教的自然哲学、グノーシス主義錬金術、そして錬金術の世界観に深甚な影響を及ぼしたキリスト教教会の伝統、これら相互の間に見られる極めて深く絡み合い縺れ合った諸関係の一断面を例示するということ以上のものではない。これらの実例を通じて読者が、錬金術がどの程度まで宗教的・哲学的な、もしくは「神秘的」な運動であったかを理解していただけるなら、これに優るよろこびはない。この運動が頂点を極めたのはゲーテの宗教的世界観の形勢においてであったと言って差し支えあるまい。そしてそれは『ファースト』となってわれわれの前に現れたのであった。

「エピローグ」はもう抜粋しません。
そのかわり、そのうち全文のコピーを郵送します。

別件
 バニーの家に「環浄」の札がかかって数ヶ月。玄関前の改装がはじまった。小さな庭だったところを掘り返して、車をもう一台駐められるようセメントで固めるらしい。
 代替わりしたんだから若い新しい住人の使いやすいようにするのは当然。でも、このところ、バニーの姿を見かけず、声も聞こえないのが気にかかる。