ユング『心理学と錬金術』抜粋Ⅳ

ユング『心理学と錬金術』抜粋Ⅳ

エピローグ

錬金術者著述家たちの努力が、・・・・多くの象徴を産む原動力となった。・・・・それらの象徴材料こそ個体化過程に綿密な関係を有するものにほかならない。
●われわれは錬金術という現象を内面から、つまり心の観点から理解しようとするのである。ということは、一つの中心点から出発するということである。・・・・われわれがこの中心点で出会うのは、意識とは似ても似つかない、何百年の歴史の流れの中でも殆ど目立った変化を示さない、人間の心のあの部分なのである。そこでは二千年前の真理もなお今日の真理として、今なお色褪せることなく力強く脈打っている。そこにはまた、過去数千年に亘って同一であり続けてきた、そしてこの先数千年に亘って同一であり続けるであろうと想像される基本的な心的諸事実が見出される。近代といい現代といってもそこから眺めれば、先史の薄明に幕を開け、あらゆる世紀を貫いて遥かな未來に向かって進展して行く一大ドラマの、その一齣にすぎないかのように見える。ドラマとはすなわち「立ち昇る曙光aurora consurgens」人類の意識化のドラマである。
ファウストの死は時代に制約された必然の結果ではあるが、けっして申し分のない解答ではない。「結合」に続く誕生と変容は彼岸で、つまり無意識界で起こるのである。・・・・そしてこの問題はニーチェによって継承される。・・・・しかしニーチェは彼の超人を余りにも極端に此岸の人間に近づけすぎるという危険な挙に出た。その結果ニーチェは不可避的に反キリスト教ルサンチマンを舞台に登場させることになってしまった。・・・・このような倨傲は必然的に個の悲劇的崩壊を招来する。この崩壊がニーチェにおいていかにして、どれほど特徴的な形で、「精神的にも肉体的にも」起こったかは、誰しもよく知るところである。そしてニーチェに続く時代の人間たち、現代の人間たちは、彼の超人の個人主義に何を以て応じたであろうか。集合主義、集団組織、一切の既成のものを嘲笑する大衆の群れ──「精神的にも肉体的にも!」──これがその答えであった。一方には個性の窒息、他方には瀕死の傷に恢復も危ぶまれるキリスト教、これがわれわれの時代の偽らざる姿である。
ファウストは超人たらんとする盲目的衝動に駆り立てられてフィレモンとバウキスを殺してしまう。・・・・世界から信仰が失われ、旅人に身をやつしたユピテル(ゼウス)とメルクリウス(ヘルメス)のふたりの藭にもはや誰ひとり快く宿を貸そうとしなかったとき、この超人間的な客人たちを温かく迎え入れたのが、フィレモンとバウキスであった。そしてバウキスが自分たちに残されているたった一羽の鵞鳥を客人をもたなすために犠牲に供しようとしたとき、変容が起こる。神々は姿を顕し、質素な小屋は神殿に変じ、老人たちはこの聖なる場所に仕える永遠の宮守となったのである。
●文化の悲劇的崩壊、これこそ、客人を快くもてなす道を忘れた人類に神々が送り遣ったノアの大洪水に他ならなかった。
●膨張した意識は常に自己中心的で、自分自身の現在しか意識しない。過去から学ぶこともできなければ、現在の出来事を把握することもできず、いわんや未來を正しく見通すこともできない。・・・・意識膨張は逆説的に言えば意識の無意識化である。
●個々の人間が、心の内容をなすものの中には少なくとも自我という人格には属さず、心の非自我(ノン・エゴ)ともいうべき部分に帰属するものが存在するということに気づき始めれば、それだけでも私にはいくらか意味があるように思われる。
●われわれが過去の範例の数々に学びうる最大のものは、心は、それの意識への同化には極めて大きな危険を伴うところの諸内容を隠し持っている、もしくはそういう種類のものの影響下にあるという事実である。古の錬金術師たちは彼らの秘密を物質に投影した。ファウストの例もツァラトゥーストラの例もわれわれにこの秘密を自分の内に完全に同化してみたいという気を起こさせなかった。となるとおそらく残された道はただひとつ、自分が心そのものでありたいと言い張る意識の思い上がった要求をはねつけて、われわれの現在の理解手段を以てしては到底把握しえないようなある現実が心にそなわっていることを認める以外に手はないであろう。
●個体化Individuationという学術用語は、決して隈なく知り尽くされ解明し尽くされた事実を指しているわけではない。この語は、無意識中における求心的な人格形成過程という、いまだに非常に曖昧で研究を要する領域を表しているにすぎない。・・・・この過程は、人間の知的理解力ではこの先どれほど時間をかけて努力してみてもあるいは解きえないのではないかと思われるようなさまざまな謎を提示する。・・・・人間の知的理解力が究極的に見てその謎を解くのに適した手段であるかどうか、つまりこれは甚だ疑わしいのである。
錬金術師たちみずからが「書物を引き裂くべし、心の引き裂かれざるためなり」と言っている。尤も彼らはそういう一方で書物の研究を強く勧めてもいる。しかしおそらく理解への扉を開くものはむしろ体験であると思われる。
●体験の形態は個々人によって異なり、見極めがたいほど多岐多様であるが、しかし、錬金術の諸象徴が示しているように、そのめまぐるしい変化の収斂していくところに、世界中どこにも共通する特定の中心的諸類型が存在するのである。そしてこれらの類型こそ、もろもろの宗教が各自その絶対的真理を抽き出してくる原像に他ならない。
           ──池田紘一訳──

別件
 廊下で、去年教えていた生徒と鉢合わせをした。
――わぁ、先生! 先生の顔を見たら団子が食べたくなるゥ。