後藤利雄

後藤利雄(山形大学。専門は万葉集。)「邪馬台国と秦王国」

○倭 また騰黄神獣有り、その色は黄、状は狐のごとく、背上に両角竜翼有り、・・・日本国に出づ、寿三千歳、黄帝得てこれに乗り、遂に六合(くに)を周旋す。・・・―― 『雲笈七籤』巻一百「軒轅本紀」――
○燕地 楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国となる。歳時をもって来たりて献見す云。――『前漢書』巻二十八下、地理誌。――
○燕 蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。――『山海経』――
○倭 周の成王のとき倭人鬯(ちよう)草を献ず。――『古今沿革地図』、『論衡』後漢・王充――
※ 鬯(ちよう)草=鬱金草=熱帯アジア原産。種子島琉球・台湾に自生。(牧野富太郎

 紀元前十一世紀ごろから、すでに倭人は、大陸との交渉を持っていた。・・しかし「倭国」ではなくて、あくまでも「倭人」である。・・「倭国」と称し得るような連合体は、まだなかった。
 ・・沖縄方言が、日本語から分離したのは、約二千年前と、言語年代学は推定している。しかし沖縄になぜ日本語が根を下ろしたかについては、誰も推測をしていない。歴史時代に入ってからの沖縄は、日本よりも中国との関係が深い。人種的にもかなりの混血を経ており、倭人ばなれした風貌も目につく。にも拘わらず、日本語の方言が話されているのは何故か。
 それはかつて沖縄が日本の主役であった時代があったからだと、私は考える。歴史以前に大陸と交渉を持ったのは、他ならぬ沖縄の人たちだった。魏志倭人伝にも対馬壱岐(一大≒一支)の島民が,舟に乗って南北に交流することが記されているが、何時の時代も、島々の人々は、そうしなければ生きてはいけない。周王朝が鬯草を欲しがっているという話を聞けば、それを献上して見返りの品を手に入れる。舟行に馴れた人ならば,誰しもが為すところであろう。
 その結果、沖縄には、大陸文化が、どの地よりも早く投影し、全倭人の先達となり、主役を務めるようになった。
○濊、狛、倭、韓、万里にして朝献す。――『漢書東夷伝―― 
建武中元二年、倭奴国、奉貢して朝賀す。――同『漢書東夷伝――
 紀元一世紀ごろは、主役の座も脇役の座も、九州に明け渡していた。
 沖縄の主導権(は)いきなり北九州の奴に移ったものではなかろう。・・九州南端の人々が、沖縄人に代わって主導権を握った時代があったろう。・・
 (九州南端の人々の)誇り高さが、三世紀において、邪馬台国に隷属することを肯んじさせなかったものと思う。そして武力や権力の点では、それを席巻できる程の力を持った邪馬台国の側でも、その存立を許容し、敢えて侵略ようとしなかった。

※後藤利雄「邪馬台国≒南九州説」要約。
 倭は沖縄に始まり、以後北漸して九州に到った。「倭国大乱」終息後、平和的な連合国家を形成した邪馬台国の影響は伊予・周防、つまり四国・中国地方にまで拡がっていった。
 ・・(大和政権の呼ぶ「熊襲」や「隼人」こそが「倭人」だった。)・・大隅、薩摩、それから日向の一部の人達は、「夷人雑類」の烙印を押されることによって、「犬吠え」をさせられたりして長期間忍従を余儀なくされた。そして彼らが真実の日本人であったことの証明は,実に十七世紀初頭の関ヶ原の合戦を、はたまた十九世紀の明治維新を待たなければならなかったのである。

※拙考。
 ワタクシは沖縄以前(有史以前)にも「倭」の先祖がいたと考えています。それは中国が「南人」と総称した人々。場所でいうなら、雲南やさらにその西(いまのブータン)やインドシナの山岳部や沿岸部など周辺にいた人々。
 さらに、これはほとんど(だったら愉快なんだけどなあ)なんだが、漢人と同化することを拒否しつつ彼の地で一定の力を維持し続けた、鄧小平や李登輝蔡英文はどうなのだろう?)など「客家」と呼ばれている人たちにも、血縁に近いものを感じる。

 『古事記』を素直に読めば、後藤利雄の言う「最初の倭人」の分派は北漸後に東漸し、大和に到達することに成功した。半島や大陸との交渉が密だった北部西部沿岸を除いて、九州には大和に対して「われわれが本家だ」という記憶が生き続けていた。
 平家や足利尊氏南朝を生き延びさせたのは、その人々の記憶だったし、後藤の言う、近世や近代の「西日本の逆襲」もまた彼らのその血のたぎり抜きには考えられない。
 九州・四国に限らず、裏日本にも、東北にも、この列島には「別の歴史」を生きた人々が大勢存在する。それらの人々を糾合するためには極めて単純なイデオローグが要求された、んじゃないかな。
 それは、たとえば「スペインなんて国はどこにもなかった。いまもないのかも知れない」と教えられたイスパニアが統一を図るためにはカソリシズムを必要としたのと同様のことに思えるし、中国にいたってはまだその途上に見える。近代に至るまで数百の国に分かれていたというドイツで何が起こったのかは、これから見ていきます。
 ※読んでいてびっくりしたことの報告。
 後藤利雄が措定した「邪馬台国への道」は、この1~2年に読んだ「近世の宣教師たちが長崎・大分間を往還したルート」を実際にあるいて措定した男(書名も著者も覚えていない。)の考えとまったく同じだった。両者が互いに相手の仕事を知っていたはずはない。それぞれが自分の興味に従って別々に、まったく同じ「道」を発見したことになる。

後藤利雄(山形大学。専門は万葉集。)「邪馬台国と秦王国」

○倭 また騰黄神獣有り、その色は黄、状は狐のごとく、背上に両角竜翼有り、・・・日本国に出づ、寿三千歳、黄帝得てこれに乗り、遂に六合(くに)を周旋す。・・・―― 『雲笈七籤』巻一百「軒轅本紀」――
○燕地 楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国となる。歳時をもって来たりて献見す云。――『前漢書』巻二十八下、地理誌。――
○燕 蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。――『山海経』――
○倭 周の成王のとき倭人鬯(ちよう)草を献ず。――『古今沿革地図』、『論衡』後漢・王充――
※ 鬯(ちよう)草=鬱金草=熱帯アジア原産。種子島琉球・台湾に自生。(牧野富太郎

 紀元前十一世紀ごろから、すでに倭人は、大陸との交渉を持っていた。・・しかし「倭国」ではなくて、あくまでも「倭人」である。・・「倭国」と称し得るような連合体は、まだなかった。
 ・・沖縄方言が、日本語から分離したのは、約二千年前と、言語年代学は推定している。しかし沖縄になぜ日本語が根を下ろしたかについては、誰も推測をしていない。歴史時代に入ってからの沖縄は、日本よりも中国との関係が深い。人種的にもかなりの混血を経ており、倭人ばなれした風貌も目につく。にも拘わらず、日本語の方言が話されているのは何故か。
 それはかつて沖縄が日本の主役であった時代があったからだと、私は考える。歴史以前に大陸と交渉を持ったのは、他ならぬ沖縄の人たちだった。魏志倭人伝にも対馬壱岐(一大≒一支)の島民が,舟に乗って南北に交流することが記されているが、何時の時代も、島々の人々は、そうしなければ生きてはいけない。周王朝が鬯草を欲しがっているという話を聞けば、それを献上して見返りの品を手に入れる。舟行に馴れた人ならば,誰しもが為すところであろう。
 その結果、沖縄には、大陸文化が、どの地よりも早く投影し、全倭人の先達となり、主役を務めるようになった。
○濊、狛、倭、韓、万里にして朝献す。――『漢書東夷伝―― 
建武中元二年、倭奴国、奉貢して朝賀す。――同『漢書東夷伝――
 紀元一世紀ごろは、主役の座も脇役の座も、九州に明け渡していた。
 沖縄の主導権(は)いきなり北九州の奴に移ったものではなかろう。・・九州南端の人々が、沖縄人に代わって主導権を握った時代があったろう。・・
 (九州南端の人々の)誇り高さが、三世紀において、邪馬台国に隷属することを肯んじさせなかったものと思う。そして武力や権力の点では、それを席巻できる程の力を持った邪馬台国の側でも、その存立を許容し、敢えて侵略ようとしなかった。

※後藤利雄「邪馬台国≒南九州説」要約。
 倭は沖縄に始まり、以後北漸して九州に到った。「倭国大乱」終息後、平和的な連合国家を形成した邪馬台国の影響は伊予・周防、つまり四国・中国地方にまで拡がっていった。
 ・・(大和政権の呼ぶ「熊襲」や「隼人」こそが「倭人」だった。)・・大隅、薩摩、それから日向の一部の人達は、「夷人雑類」の烙印を押されることによって、「犬吠え」をさせられたりして長期間忍従を余儀なくされた。そして彼らが真実の日本人であったことの証明は,実に十七世紀初頭の関ヶ原の合戦を、はたまた十九世紀の明治維新を待たなければならなかったのである。

※拙考。
 ワタクシは沖縄以前(有史以前)にも「倭」の先祖がいたと考えています。それは中国が「南人」と総称した人々。場所でいうなら、雲南やさらにその西(いまのブータン)やインドシナの山岳部や沿岸部など周辺にいた人々。
 さらに、これはほとんど(だったら愉快なんだけどなあ)なんだが、漢人と同化することを拒否しつつ彼の地で一定の力を維持し続けた、鄧小平や李登輝蔡英文はどうなのだろう?)など「客家」と呼ばれている人たちにも、血縁に近いものを感じる。

 『古事記』を素直に読めば、後藤利雄の言う「最初の倭人」の分派は北漸後に東漸し、大和に到達することに成功した。半島や大陸との交渉が密だった北部西部沿岸を除いて、九州には大和に対して「われわれが本家だ」という記憶が生き続けていた。
 平家や足利尊氏南朝を生き延びさせたのは、その人々の記憶だったし、後藤の言う、近世や近代の「西日本の逆襲」もまた彼らのその血のたぎり抜きには考えられない。
 九州・四国に限らず、裏日本にも、東北にも、この列島には「別の歴史」を生きた人々が大勢存在する。それらの人々を糾合するためには極めて単純なイデオローグが要求された、んじゃないかな。
 それは、たとえば「スペインなんて国はどこにもなかった。いまもないのかも知れない」と教えられたイスパニアが統一を図るためにはカソリシズムを必要としたのと同様のことに思えるし、中国にいたってはまだその途上に見える。近代に至るまで数百の国に分かれていたというドイツで何が起こったのかは、これから見ていきます。
 ※読んでいてびっくりしたことの報告。
 後藤利雄が措定した「邪馬台国への道」は、この1~2年に読んだ「近世の宣教師たちが長崎・大分間を往還したルート」を実際にあるいて措定した男(書名も著者も覚えていない。)の考えとまったく同じだった。両者が互いに相手の仕事を知っていたはずはない。それぞれが自分の興味に従って別々に、まったく同じ「道」を発見したことになる。

後藤利雄(山形大学。専門は万葉集。)「邪馬台国と秦王国」

○倭 また騰黄神獣有り、その色は黄、状は狐のごとく、背上に両角竜翼有り、・・・日本国に出づ、寿三千歳、黄帝得てこれに乗り、遂に六合(くに)を周旋す。・・・―― 『雲笈七籤』巻一百「軒轅本紀」――
○燕地 楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国となる。歳時をもって来たりて献見す云。――『前漢書』巻二十八下、地理誌。――
○燕 蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。――『山海経』――
○倭 周の成王のとき倭人鬯(ちよう)草を献ず。――『古今沿革地図』、『論衡』後漢・王充――
※ 鬯(ちよう)草=鬱金草=熱帯アジア原産。種子島琉球・台湾に自生。(牧野富太郎

 紀元前十一世紀ごろから、すでに倭人は、大陸との交渉を持っていた。・・しかし「倭国」ではなくて、あくまでも「倭人」である。・・「倭国」と称し得るような連合体は、まだなかった。
 ・・沖縄方言が、日本語から分離したのは、約二千年前と、言語年代学は推定している。しかし沖縄になぜ日本語が根を下ろしたかについては、誰も推測をしていない。歴史時代に入ってからの沖縄は、日本よりも中国との関係が深い。人種的にもかなりの混血を経ており、倭人ばなれした風貌も目につく。にも拘わらず、日本語の方言が話されているのは何故か。
 それはかつて沖縄が日本の主役であった時代があったからだと、私は考える。歴史以前に大陸と交渉を持ったのは、他ならぬ沖縄の人たちだった。魏志倭人伝にも対馬壱岐(一大≒一支)の島民が,舟に乗って南北に交流することが記されているが、何時の時代も、島々の人々は、そうしなければ生きてはいけない。周王朝が鬯草を欲しがっているという話を聞けば、それを献上して見返りの品を手に入れる。舟行に馴れた人ならば,誰しもが為すところであろう。
 その結果、沖縄には、大陸文化が、どの地よりも早く投影し、全倭人の先達となり、主役を務めるようになった。
○濊、狛、倭、韓、万里にして朝献す。――『漢書東夷伝―― 
建武中元二年、倭奴国、奉貢して朝賀す。――同『漢書東夷伝――
 紀元一世紀ごろは、主役の座も脇役の座も、九州に明け渡していた。
 沖縄の主導権(は)いきなり北九州の奴に移ったものではなかろう。・・九州南端の人々が、沖縄人に代わって主導権を握った時代があったろう。・・
 (九州南端の人々の)誇り高さが、三世紀において、邪馬台国に隷属することを肯んじさせなかったものと思う。そして武力や権力の点では、それを席巻できる程の力を持った邪馬台国の側でも、その存立を許容し、敢えて侵略ようとしなかった。

※後藤利雄「邪馬台国≒南九州説」要約。
 倭は沖縄に始まり、以後北漸して九州に到った。「倭国大乱」終息後、平和的な連合国家を形成した邪馬台国の影響は伊予・周防、つまり四国・中国地方にまで拡がっていった。
 ・・(大和政権の呼ぶ「熊襲」や「隼人」こそが「倭人」だった。)・・大隅、薩摩、それから日向の一部の人達は、「夷人雑類」の烙印を押されることによって、「犬吠え」をさせられたりして長期間忍従を余儀なくされた。そして彼らが真実の日本人であったことの証明は,実に十七世紀初頭の関ヶ原の合戦を、はたまた十九世紀の明治維新を待たなければならなかったのである。

※拙考。
 ワタクシは沖縄以前(有史以前)にも「倭」の先祖がいたと考えています。それは中国が「南人」と総称した人々。場所でいうなら、雲南やさらにその西(いまのブータン)やインドシナの山岳部や沿岸部など周辺にいた人々。
 さらに、これはほとんど(だったら愉快なんだけどなあ)なんだが、漢人と同化することを拒否しつつ彼の地で一定の力を維持し続けた、鄧小平や李登輝蔡英文はどうなのだろう?)など「客家」と呼ばれている人たちにも、血縁に近いものを感じる。

 『古事記』を素直に読めば、後藤利雄の言う「最初の倭人」の分派は北漸後に東漸し、大和に到達することに成功した。半島や大陸との交渉が密だった北部西部沿岸を除いて、九州には大和に対して「われわれが本家だ」という記憶が生き続けていた。
 平家や足利尊氏南朝を生き延びさせたのは、その人々の記憶だったし、後藤の言う、近世や近代の「西日本の逆襲」もまた彼らのその血のたぎり抜きには考えられない。
 九州・四国に限らず、裏日本にも、東北にも、この列島には「別の歴史」を生きた人々が大勢存在する。それらの人々を糾合するためには極めて単純なイデオローグが要求された、んじゃないかな。
 それは、たとえば「スペインなんて国はどこにもなかった。いまもないのかも知れない」と教えられたイスパニアが統一を図るためにはカソリシズムを必要としたのと同様のことに思えるし、中国にいたってはまだその途上に見える。近代に至るまで数百の国に分かれていたというドイツで何が起こったのかは、これから見ていきます。
 ※読んでいてびっくりしたことの報告。
 後藤利雄が措定した「邪馬台国への道」は、この1~2年に読んだ「近世の宣教師たちが長崎・大分間を往還したルート」を実際にあるいて措定した男(書名も著者も覚えていない。)の考えとまったく同じだった。両者が互いに相手の仕事を知っていたはずはない。それぞれが自分の興味に従って別々に、まったく同じ「道」を発見したことになる。

後藤利雄(山形大学。専門は万葉集。)「邪馬台国と秦王国」

○倭 また騰黄神獣有り、その色は黄、状は狐のごとく、背上に両角竜翼有り、・・・日本国に出づ、寿三千歳、黄帝得てこれに乗り、遂に六合(くに)を周旋す。・・・―― 『雲笈七籤』巻一百「軒轅本紀」――
○燕地 楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国となる。歳時をもって来たりて献見す云。――『前漢書』巻二十八下、地理誌。――
○燕 蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。――『山海経』――
○倭 周の成王のとき倭人鬯(ちよう)草を献ず。――『古今沿革地図』、『論衡』後漢・王充――
※ 鬯(ちよう)草=鬱金草=熱帯アジア原産。種子島琉球・台湾に自生。(牧野富太郎

 紀元前十一世紀ごろから、すでに倭人は、大陸との交渉を持っていた。・・しかし「倭国」ではなくて、あくまでも「倭人」である。・・「倭国」と称し得るような連合体は、まだなかった。
 ・・沖縄方言が、日本語から分離したのは、約二千年前と、言語年代学は推定している。しかし沖縄になぜ日本語が根を下ろしたかについては、誰も推測をしていない。歴史時代に入ってからの沖縄は、日本よりも中国との関係が深い。人種的にもかなりの混血を経ており、倭人ばなれした風貌も目につく。にも拘わらず、日本語の方言が話されているのは何故か。
 それはかつて沖縄が日本の主役であった時代があったからだと、私は考える。歴史以前に大陸と交渉を持ったのは、他ならぬ沖縄の人たちだった。魏志倭人伝にも対馬壱岐(一大≒一支)の島民が,舟に乗って南北に交流することが記されているが、何時の時代も、島々の人々は、そうしなければ生きてはいけない。周王朝が鬯草を欲しがっているという話を聞けば、それを献上して見返りの品を手に入れる。舟行に馴れた人ならば,誰しもが為すところであろう。
 その結果、沖縄には、大陸文化が、どの地よりも早く投影し、全倭人の先達となり、主役を務めるようになった。
○濊、狛、倭、韓、万里にして朝献す。――『漢書東夷伝―― 
建武中元二年、倭奴国、奉貢して朝賀す。――同『漢書東夷伝――
 紀元一世紀ごろは、主役の座も脇役の座も、九州に明け渡していた。
 沖縄の主導権(は)いきなり北九州の奴に移ったものではなかろう。・・九州南端の人々が、沖縄人に代わって主導権を握った時代があったろう。・・
 (九州南端の人々の)誇り高さが、三世紀において、邪馬台国に隷属することを肯んじさせなかったものと思う。そして武力や権力の点では、それを席巻できる程の力を持った邪馬台国の側でも、その存立を許容し、敢えて侵略ようとしなかった。

※後藤利雄「邪馬台国≒南九州説」要約。
 倭は沖縄に始まり、以後北漸して九州に到った。「倭国大乱」終息後、平和的な連合国家を形成した邪馬台国の影響は伊予・周防、つまり四国・中国地方にまで拡がっていった。
 ・・(大和政権の呼ぶ「熊襲」や「隼人」こそが「倭人」だった。)・・大隅、薩摩、それから日向の一部の人達は、「夷人雑類」の烙印を押されることによって、「犬吠え」をさせられたりして長期間忍従を余儀なくされた。そして彼らが真実の日本人であったことの証明は,実に十七世紀初頭の関ヶ原の合戦を、はたまた十九世紀の明治維新を待たなければならなかったのである。

※拙考。
 ワタクシは沖縄以前(有史以前)にも「倭」の先祖がいたと考えています。それは中国が「南人」と総称した人々。場所でいうなら、雲南やさらにその西(いまのブータン)やインドシナの山岳部や沿岸部など周辺にいた人々。
 さらに、これはほとんど(だったら愉快なんだけどなあ)なんだが、漢人と同化することを拒否しつつ彼の地で一定の力を維持し続けた、鄧小平や李登輝蔡英文はどうなのだろう?)など「客家」と呼ばれている人たちにも、血縁に近いものを感じる。

 『古事記』を素直に読めば、後藤利雄の言う「最初の倭人」の分派は北漸後に東漸し、大和に到達することに成功した。半島や大陸との交渉が密だった北部西部沿岸を除いて、九州には大和に対して「われわれが本家だ」という記憶が生き続けていた。
 平家や足利尊氏南朝を生き延びさせたのは、その人々の記憶だったし、後藤の言う、近世や近代の「西日本の逆襲」もまた彼らのその血のたぎり抜きには考えられない。
 九州・四国に限らず、裏日本にも、東北にも、この列島には「別の歴史」を生きた人々が大勢存在する。それらの人々を糾合するためには極めて単純なイデオローグが要求された、んじゃないかな。
 それは、たとえば「スペインなんて国はどこにもなかった。いまもないのかも知れない」と教えられたイスパニアが統一を図るためにはカソリシズムを必要としたのと同様のことに思えるし、中国にいたってはまだその途上に見える。近代に至るまで数百の国に分かれていたというドイツで何が起こったのかは、これから見ていきます。
 ※読んでいてびっくりしたことの報告。
 後藤利雄が措定した「邪馬台国への道」は、この1~2年に読んだ「近世の宣教師たちが長崎・大分間を往還したルート」を実際にあるいて措定した男(書名も著者も覚えていない。)の考えとまったく同じだった。両者が互いに相手の仕事を知っていたはずはない。それぞれが自分の興味に従って別々に、まったく同じ「道」を発見したことになる。