安藤礼二『折口信夫』ノート

安藤礼二折口信夫』ノート

第一章・第二章
○折口は自らの最後をすべてが消滅するゼロの地点に定める。・・・すべてをゼロにまで破壊し尽くし、その破滅の果てに新たなものの萌芽を見届けること。ゼロは新たなものの可能性を潜在的に孕んだ生成の場でもあった。
折口信夫の古代学の課題は、この二つの一元論(『大乗起信論』とレーニン唯物論と経験批判論』)「唯心論」的な世界と「唯物論」的な世界を、激しく矛盾するまま──レーニンが厳しく批判(「人間がいなくとも、心がなくとも世界は存在する」)したように、「折衷する」(キリスト教・仏教一元論)のではなく、──一つにつなぐことにある。霊魂は物質である。そのとき神は石となる。そうした事実を字義通りに認識し、表現しなければならない。
○折口はスサノヲ(出雲)の暴力とアマテラス(伊勢)の愛欲をともに認めてくれるような新たな神道の倫理を創り上げようとしていた。そこでは自然そのものが生ける神だった。自然は静的に理解されるものではなく、動的に生きられるものだった。他力ではなく自力で。
      ※この「生きられる」は可能? 受身? 自発か
 ●鈴木大拙「私には、神道に教義の体系があるとは思えない。神道はいまだ「宗教」ではない。  神道が宗教になるためには、教義を統一するものが現れるか、これまでの教義を破壊して  しまうか、つまり、「いままでの神道を亡ぼして了ふ」しかないのではないか。そこにはじめて真の「日本的神教」のようなものが成立するのではないか。」
○折口の晩年は、この問いに自分なりの答えを出すことに費やされていった。
 
第三章
○折口の言う「古代」とは、言語の「根(root)」を通してはじめて到達できる場所でもある。折口信夫言語学は、そのまま折口信夫の古代学となる。言語とは、その核となる部分(「語根」、「語幹(stem)」に古代が刻印されたものなのだ。
○現代ではほぼ固定されてしまった「語序」であるが、古語のある部分においてはより自由で、しばしばまったく逆であった場合も観察されている。「はだか」は「赤肌」が逆になったものだし、もがり(殯)の儀式は、元来「仮り喪」の儀式だったはずだ。
○折口は、「副詞」(折口信夫が語根の在り方に最も近いと考えたもの)表情の発生」において、具体と抽象、具体と象徴との間を揺れ動く歌になる以前の表現言語の有様を「流動言語」と名づけた。
○刹那的であり、ほとんど無意義に近づいたがゆえに逆に暗示に富むもの(「あな」「あは」)。それは神仏からの託宣に近い。
○原初の文法を再構築するという折口の試みを、時代錯誤的営為として片付けることは容易しい。しかし、彼は文法学者であるとともに釈迢空という名前をもった詩人でもあった。文法の起源(radical)への探求が詩の起源への探求ともなっている。時間と空間の隔たりを超えて、ただステファヌ・マラルメの営為だけが、詩と文法とをめぐる折口の言語学の可能性を解き明かしてくれる。
 ●「Bは多くの「縁語」を提供する。各語の頭にあって、あらゆる母音と結びつく。そして  ・・・・生産、分娩、多産、豊饒、膨張、湾曲・・・・ときには善意、祝福などにかかわ  る意味を完成する。」(マラルメ『英単語』)
 ●「(太陽の)一日の、そして一年の周期で繰り返される二重の運動、つまり、春における自  然の誕生、夏における生命の充実、秋におけるその死、そして冬における完全な消滅とい  う「季節」の変化と、一日のサイクルでの日の出、正午、日沒、夜という対応物、それが  〈神話〉の大いなる、そして常に変わらぬ主題なのです。神話の神々・英雄たちは、その  類似性によって互いに比較され、またしばしば光と闇の闘争を物語る主要な特徴のなかの  ただ一つの特徴において同一視され、現代の科学の目から見れば、一個の壮大にして純粋  なる演劇舞台上の俳優となるのです。その演劇の偉大さと純粋さのなかに、彼らはやがて  我々の眼から姿を消してゆくのです。自然の悲劇、それがこの演劇です。」(マラルメ『古  代の神々』)
○言葉は自然に解消され、自然は言葉に解消される。あるいは、言葉は自然に孕まれ、自然は言葉に孕まれる。
このような根源の世界を折口は古語のなかから見出してきた「妣が国」として定位する。そして、表現言語による〈フィクション〉としての祝祭を現実の舞台〈生命の劇場〉で行われるリアルな祝祭と重ね合わせる。折口が真に自立した思想家になるのは、その地点からである。
○現在のこの列島で話され、読まれている生きた言葉を百科全書的に網羅し、そこに意味として刻み込まれた歴史を明らかにする。つまり、言葉の集積として、失われてしまった古代の生活を再構築する。『辞林』に集まった金沢庄三郎、金田一京助折口信夫は『辞林』刊行後、それぞれ独自の道を歩みはじめる。しかし、いずれも似たような方法を用い、言葉が発生してくる根源の世界、日本語の「故郷」へとたどり着こうとしていた。・・・・
 自己の外部(朝鮮半島、大陸、アイヌ)と内部(日本古代)という対象の差異は存在するが、師である金沢庄三郎と弟子である金田一京助および折口信夫は、明らかに問題意識を共有していたのである。
○マックス・ミュラーの比較言語学=比較神話学によるインド=ヨーロッパ語族の「故郷」をめぐる探求がアーリア主義の悪夢を招いたように、金沢庄三郎の比較言語学=比較神話学によるアジア諸言語の未知なる語族の「故郷」をめぐる探求が大日本帝国の大陸進出とある部分まではパラレルであったことは事実である。しかし、ミュラーの学が西洋と東洋という自明の境界を解体してしまったように、金沢庄三郎の学も「日本」という自明の境界を解体してしまう。『日朝同祖論』を虚心坦懐に読み返してみれば、朝鮮半島にこそ列島では失われてしまった文化の古層が残されており、しかもその起源は大陸の高原、満州から蒙古へと広がる「高天原」──遊牧騎馬民族ツラン「故郷」でもある──にあると主張しているのは明かであるからだ。・・・神の子孫たちは・・・何度も降臨し、神の子孫たちに率いられた民族は・・・北から南へ・・・この列島では西から東へと移り住んだ。
 神々は高天原中央アジア)から朝鮮半島を経て、この列島にやって来たのである。・・・神々は、ただ一度だけこの列島に降臨したわけではない・・・「高天原からの神々の往来は陸続として絶えなかった。」
金田一は『ユーカラ概説』の結論部分にこう記している。
 ●「アイヌの口誦文学がすべて第一人称に出来ている不思議が長い間私の懸案で、人にも質し、物にも発  表してその解釈を待ち望んでいたのであったが、之を託宣(神が人に憑依して語らせた言葉)の形なの  ではないかと、一言解釈の曙光を最初に投じた人は折口信夫氏であった。」
○詩を外部から分析するのではなく、詩を内部から生きる。それが折口信夫の古代学の核心となっていくのである。
○折口のマレビトは、ホカヒビト(放浪する芸能民)とミコトモチ(天皇)という二つの極をもつものだった。柳田は、折口のマレビトがもつ二つの極、最上層と最下層を排除し、この列島に移り住んだ人々の中間層、定住して大規模な稲作のみに従事する「常民」という階級を自身の学の根幹に据えた。・・・実際のところ・・・劇的に変化していったのは、柳田の学のほうだった。

第四章
○祝祭のなかで、人は神となる。(柳田国男
 まとめてしまえばただ一言、そうした事態を分析し解明することだけが、折口信夫の学問全体を貫く主題であった。
○奥深い森のなかから聖なる樹木が切り出され、天上から神を招くための「標(しるし)」となる。空間の始まりにして空間の終わりでもある神の聖域が画定されたのだ。その「標」めがけて神が降臨してくるのは、変化の象徴である月が中天にかかる、時間の終わりにして時間の始まりでもある真夜中のことである。
 時間も空間もゼロに還り、そこに聖なるもの、すなわち神が出現する・・・
 神の言葉、神の動作を「真似」し、反復を重ねることから芸能が生まれる・・・
 芸能によって、人間は宇宙に開かれた存在となる。
○時間と空間は祝祭によって螺旋上に展開する。・・・「死」の世界に去った祖先たちは、祝祭によって「生」の只なかへ、未来の子供として甦ってくる。
吉本隆明は、南島にいまだ根強く残る「姉妹」と「兄弟」の間に結ばれる現実的かつ想像的な──ある意味で性的でさえある──強い絆に、国家(「古事記」)以前の共同体の統治原理たる「対幻想」を見出した。そのままでは逆立するしかない個人幻想と共同体幻想を・・・(その)「対」なる幻想が蝶番となって、一つにつなぐのである。(しかし、その死まで一冊にまとまることはなかった。)
天皇は神ではない。神と人との間をつなぐ「対」なる機能なのだ。
岡正雄柳田国男がおこした『民族』─南方熊楠も寄稿者の一人─編集者)の助手として(ミュンヘンで)『古日本の文化層』の完成を手伝ったスラヴィクは、同時期(1934)に刊行されたヘフラーの『ゲルマン人の秘密結社』を読んで驚愕する。岡が論じていた南島の男性秘密結社とヘフラーが紹介する古代ゲルマンの男性秘密結社の間に驚くべき類似が存在していたからである。・・・秘密結社のなかで行われる「密儀」を体現するのは、暴力と破壊の神、冥界の王にして放浪する死者たちを率いる神、すなわち、極東の列島であればスサノヲ、古代のゲルマンであればヴォータン(オーディン)である。・・・エリアーデは、魔術的な仮面祭祀を担い、現実の戦争をも担う秘密結社を組織する狂暴戦士たちによって、過去に存在した聖なる世界と現実に存在する俗なる世界が一つにむすばれ合う様をありありと幻視していた。始まりと終わりをもった一つの直線として流れる歴史の有限な時間は、円環を描き回帰する神話の永遠の時間によって断ち切られる。・・・ここに論じられているのは明らかに岡を経由して伝えられた折口のマレビト論であり、さらにこの後、マレビト論を基盤として折口が展開していく霊魂論にして天皇論『大嘗祭の本義』に描き出されたその核心に他ならない。

第五章
○芸能の民たちも天皇も・・・社会の最下層と最上層と方向はまったくの正反対ではあるが、ともに社会の外部へと排除されてきた。・・・あるいは柳田国男折口信夫のように、よく似てはいるが正反対の姿をもっている。
○神の霊魂(外来魂)と神の言葉は、折口のなかで表裏一体をなすものだった。ちょうど芸能の民たちと天皇が表裏一体であるように。
○詩という文学発生の起源も、天皇という権力発生の起源も、祝祭という場に出現するマレビトに集約される。折口のマレビト論は、文学論と権力論を一つに総合するものだった。
柳田国男が最終的にたどり着いた人間的かつ人格的な霊魂を一つに融合する「祖霊」に比して、森羅
万象あらゆるものに霊魂を賦与し生命を発生させる折口の「産霊」は、あまりにも非人間的かつ非人格的な存在だった。
柳田国男のうちで、フレイザーの『金枝論』とモースの『贈与論』が一つに総合されようとしていた。それは『日本の祭』の基本構造となっただけではなく、「大嘗祭の本義」として結晶する折口の天皇論の基本構造ともなったはずである。
柳田国男は雑誌『民族』に折口信夫が書き上げた「常世および「まれびと」」の掲載を拒否する。(編集者岡正志は柳田のもとを去る)
○古代の神々はすでに弑虐に遭っている。弑虐された古代の神々を、自らの身体を容器(やしろ)として現代に甦らせようとした一群の人々がおり、大学時代の折口はそうした人々の営為(天理教金光教。卒業後は大本教)に深い共感を寄せていた。折口の古代学とは、弑虐されてしまった古代の神々を復活させるための学だった。
○折口は・・・藭社神道教派神道民俗学を一つに総合することによって、この列島に住みついた人々の集団を、遠い過去から現在まで貫く、宗教発生にして文学発生の原理、すなわち〈野生の思考〉を抽出したのである。
前近代的な土俗宗教にしろ、超近代的な世界宗教にしろ、近代国民国家が国民を統治する原理として定めた「道徳」とだけはうまく折り合うことができない。土俗宗教も世界宗教も、それぞれ下と上から近代国民国家に抗い、近代国民国家を解体してしまおうとする。
唯一神教の教義を純粋化したイスラムの起源に、やはり憑依を見出していた井筒俊彦は、・・・おそらく最も深く折口信夫の古代学の可能性を読み解いた人間である。
 ●井筒によれば「・・・ムハンマドの言葉は・・・最後には語る人も聴く人も共に妖しい恍惚状態にひき  ずり込まれてしまう。・・・・そこに説かれているのはマホメットの教説ではない。マホメットではなく  て、マホメットに憑りうつった何者かの語る言葉なのである。その「何者か」の名をアッラーという。」
 この地点こそ折口信夫の古代学の出発点であり、到達点である。
○ラマルクは「獲得形質の遺伝」を進化の原理として唱えた。生命の体験した記憶はすべて生殖細胞に保存されているのである。
○『物質と記憶』に付された「第七版への序言」でベルグソンはこう述べている。・・・「物質とは「イメージ」の集合体である。・・・イメージは「もの」であるとともに「生命」であり、互いに連絡し、融合し、流動することを決してやめない。世界とは、そのような生きたイメージの総体を指す。・・・身体も大脳も、世界というイメージの全体から、人間という種に可能な範囲でイメージの一部分を切り取って個体化している。つまり、イメージの一部分を選択しているに過ぎないのだ。」
 ・・・ベルグソンは『物質と記憶』から10年という歳月をかけて、世界というイメージの総体のなかから「生命の飛躍」によってさまざまな種が生成されてくるヴィジョンを『創造的進化』(1907)としてまとめ上げた。その際ベルグソンに対して最も重要な示唆を与えたのがアメリカの古生物学者コープが刊行した最後の大著『有機的な進化の要因』であった。・・・おそらくそこに、ベルグソンの「イメージ」の進化論と、折口信夫の「間歇遺伝」の古代学に共有される一つの起源が存在している。
夢野久作は記憶(の遺伝)説の本質を「胎児の夢」と表現した。漱石は(「趣味の遺伝」)作中で、こう述べていた。「父母未生以前に受けた記憶と情緒が、長い時間を隔てて脳中に再現する。」(森田草平に宛てた書簡によれば、「趣味」とは男女の相愛を意味する。)ロミオがジュリエットと出会って「愛」の悲劇が生起するように、あるいはランスロットがエレ−ンと出会って「愛」の悲劇が生起するように。
     
第六章
○『日本書紀』では完全に傍系として取り扱われる「産霊(むすび)」の神(高御産霊魂、神産霊)を、天地を創造し、森羅万象あらゆるものに生命を与えて「生成」させる(自然を成り生(ま)せる)根源的な神としてはじめて見出してきたのは本居宣長であった。
 折口信夫は・・・本居宣長によって組織された極度に抽象的な「産霊」の神学を、「古代人の思考の基礎」(〈野性の思考〉)としてさらに読み替えていこうとしている。いわば「国学」の脱構築である。
○「異郷意識の進展」(1916)から、死の直前に悪戦苦闘の末かたちになった「民族史観における他界観念」(1952)に至るまで、折口信夫はただそのこと、つまり「他界」とそこに発生してくる「霊魂(たま)」の問題しか論じていない。
○折口のやや錯乱の域に近づいた語源探求によれば、(大阪)四天王寺聖霊会(しょうりょうえ)」で演じられる鳥も蝶も「たましひ」を体現するものである。折口の同性愛もまた、ある一面では、鳥や蝶へと変身してしまう小さな精霊たちのような存在への「愛」だったように思われてならない。
柳田国男の祖霊論、南方熊楠曼荼羅論、折口信夫の産霊論。(熊楠は一なる動物の生のサイクルと多なる植物の生のサイクルを繰り返す粘菌に、いわば生命の原型を見て、その流動する原初の物質から独自の「曼荼羅」を構想していった。)
折口信夫は「憑依」に対してある種の親近性をもっていた。・・・コカイン常用についても、そうした観点からあらためて考え直してみる必要がある。・・・折口は「陶酔」を体験として知っていたのである。
○マルセル・モースが『呪術論』で見出したマナ・・・とは、人間がそのなかで生きねばならない「言葉」という自然、すなわち象徴的な思考が成り立つたえの条件を提示し、その謎を解くための鍵となる。
 「言葉」をもち、「共同体」のなかに生まれ落ちた地点、つまり人間が自然から文化へと移行した「瞬間」から、人間は「意味の過剰」に取り憑かれることになった。・・・「マナ」とは、その言葉自体は意味論的に「ゼロ」の価値しかもたないがゆえに、逆に、人間が処理しなければならないあらゆる意味の過剰を引き受けることができる「純粋状態にある象徴」となった。・・・意味と生命、つまり、人間と世界の間には根源的な異和が存在しつづけている。「マナ」はその隔たりを埋めるのだ。
 世界のあらゆる場所で人間が神を迎えるために執り行っている現実の祝祭にして、言葉によって執り行われている表現という「フィクション」の祝祭。その二つの祝祭の交点に、折口信夫の営為もまた位置づけられる。
    ※ここに書かれている「マナ」を「天皇」と読み替えつつ読んだ。

第七章
○「故人岩野泡鳴氏が『悲痛の哲理』を書いたと前後してメレシコーフスキーの『背教者ユリアヌス──神々の死』が初めて翻訳せられた。此二つの書物の私に与えた感激は、人に伝へることが出来ないほどである。」(両書とも1910─M43─)
 『ホトトギス』増刊として刊行された島村苳三の訳(と思われるもの)
 ●「宇宙の万物は・・・・凡て皆、自然が結ぶ神の姿の夢である。」
  「(此の世界を)海に投げた漁師の網と思ふてもよい。水が網を充たす如く神は宇宙を充たす。網は動く、  されど網は水を保つことが能ぬ。宇宙も其の網の目に神を保つ事が能ぬ。・・・宇宙が動かねば神は顕は  れない。」
○神は万物を産出し続けている。そうであるならば「産出」という機能を身体のなかに秘めている女性の方が、明らかに男性よりも神と一体化することは容易であり、またふさわしいはずだ。・・・神により近いのは男性ではなく女性なのである。・・・第二次大戦後に書き上げられた「女帝考」の核心である。
○古代の天皇とは宗教的な力をもった女性だったのである。やがてそれが宗教的な権威をもつ女性と、政治的な権威をもつ女性の兄弟にあたる男性という「対(ペア)」に分かれた。
○(折口は)天皇大嘗祭(沖縄では王の姉妹が行う「御新下(おあらたお)り」)の「真床襲衾(まどこおふすま)」のなかで・・・女性へと変身し・・・神と交わる(のを幻視した。)
 神と交わるとは、(祖先であり、神でもある聖なる獣を殺し)喰うことでもあった。(喰うことによって、神と人間たちの)差異はすべて消滅してしまう。
中上健次は・・・『紀州・木の国・根の国物語』の「伊勢」と題された章で、折口信夫の『死者の書』を引き合いに出しながら、こう述べていた――
 ●「天皇」を廃絶する方法は、この日本において一つもない。ただ、かつての南北朝がそうであったよう  に、「天皇」を今一つ産み出す方法はあると思う。・・・闇の中から呼(おら)ぶ声に導かれて、目を覚ま  し氷粒の涙を浮かべているのは誰か、と思った。私は、そんな『死者の書』をその神社の森を見て、読  んでいた。
折口信夫が見出した天皇がもつ最大の二重性といえば、ミコトモチとしての天皇の裏面にはホカヒビトとしての芸能民がいる、ということである。「王者」と「乞食」が、表裏一体の関係にあったのだ。厳密に言えば、折口信夫がまず考察の対象としたのは、実は「乞食」の方である。「乞食」たちが行っている「霊魂」を取り扱う表現技術の分析から、「王者」が行っている即位儀礼の謎が明かされていったのだ。

第八章
○自分たちの祖先であり神でもある聖なる生贄を、祖先であり神でもある存在のために捧げた祝祭の最中に殺戮し、共食する。・・・生贄の破壊は、生贄のなかに宿っている霊魂、生命の根源にある力を解放することでもある。解放された霊魂は、人間のみならず、森羅万象あらゆるものの生命を更新し、再生させる。
○「文学洋式の発生」でまず論じられるのが、大嘗祭の際に天皇に捧げるために謡われる「風俗歌(ふぞくうた)」の問題である。「風俗歌」の根幹には古代の「地名」およびその「地名」に対しての深い信仰がある。・・・土地の名のなかには、人々がその土地に至るまでの、あるいはその土地に住みついた後の時間と空間の諸相、すなわち歴史が、一つに折り畳まれていたのだ。
○もともと「枕」とは、神霊が一時的に寓(よ)るための神聖な場所を意味していた。「枕詞」とは、Life Index(生命指標)すなわち霊魂によって発動される土地の名、もしくは土地そのものとなった霊魂、あるいはその土地の名の先触れとして、原初の「音」のようにして存在する何ものかだった。
○『万葉集』とは、子のような枕詞、霊的な言葉、あるいは霊魂そのものとしての言葉が各所にちりばめられた霊的な書物だった。だから、折口信夫にとって『万葉集』として集大成された霊的な歌を残した「万葉ビト」の生活を復元するためにまず参照されなければならなかったのが、土地の名、その古代からの由来が語られた『風土記』であった。・・・枕詞、すなわち過去の記憶が、目の前の土地の名、すなわち現在の記憶として反復されながら一つに溶け合い、そこから次なる言葉、未来の詩語、未知なる記憶が導き出されてくる。歌とはそのようにして発生してくるものだった。・・・歌とともに「発生」は繰り返され、過去と現在の記憶が一つに溶け合い、そこから新たな表現が生み落とされる。
「一度発生した原因は、ある状態の発生した後も終熄するものではない。発生は、あるものを発生させるのを目的としてゐるのではなく、自ら一つの傾向を保って唯進んで行くのだから、ある状態の発生したことが、其力の休止、或は移動といふことにはならぬ訳である。だから、其力は発生させたものを、その発生した形において、更なる発生を促すと共に、ある発生をさせたと同じ方向に、やはり動いてもゐる。だから発生の終へた後にも、おなじ原理は存してゐて、既に在る状態をも、相変わらず起し、促してゐる。(「声音と文学と」のなか、「短歌の発生」冒頭)
国学を志す者は、古代に残された「意(こころ)と事(こと)と言(ことば)」が集約された「古語」を深く研究するとともに、その「古語」に新たな生命を吹き込むような歌を詠み続けなければならない。篤胤も歌を詠み、「古語」を解釈しつづけた。その地点に折口信夫の学と釈迢空の歌が位置づけ直されなければならない。
○『古事記』は中世になるまで「私」の領域に孤立し、そこに付された「序」以外に成立を語るものはなかった。・・・
 『古事記』が「序」に登場させた天皇は天武である。『日本書紀』の最後が天武・持統朝で終わることを考えれば、『古事記』の「序」を編纂した者たちが『日本書紀』に対抗して、それとは異なった世界観を表現するものとして『古事記』を位置づけようとしていたことが分かる。・・・宣長は中世的かつ神仏習合的伝統のなかから『古事記』を再発見していった。・・・宣長は、相互に矛盾する「多」なる歴史の母型ではなく、純粋な「一」としてそこから屹立してくる神話としての物語を選んだのだ。
宣長は言う。(『古事記伝』四之巻)「命(ミコト)」というのは「御言」のことである。だからこそ「命以(ミコトモチ)」というのは、「命(ミコト)を承はりて負持(おひもつ)こころ」を意味するのだ、と。これ以降『古事記伝』は「命以」のシステムを強調して、反復してゆく。天地のはじまりに神々が生まれ、その天なる神々から「国を修り固めよ」とはじめての命令を受けたイザナギイザナミが「神」から「命」になる。
宣長は『古事記』冒頭の一節を選ぶ。──「天地初発之時 於高天原成神名 天之御中主神 次 高御産巣日神 次 神産巣日神 此三柱神者 並独神成坐而 隠身也」。そして、こう読み下す──「あめつちのはじめのとき たかまがはらになりませるかみのみなは あめのみなかぬしのかみ つぎに たかみむすぶのかみ つぎに かみぶすびのかみ このみばしらのかみは みな ひとりがみなりまして みみをかくしたまひき」(『古事記伝』三之巻)
 宣長にとって『古事記』という聖なる書物の可能性は、この一節に尽きている。そして宣長は、文字通りこの一節を自ら読む──生命を失い、単なる死んだ文字の連なりとなってしまった「古語」に息を吹き込み、その「古語」が生きていた時間と空間に甦らせる──ことからはじめたのである。
※安藤はこの宣長のように「読むこと」が批評そのものなのだと言っている。
宣長が行ったのは「古語」がいまだ生命を保っている巨大な聖なる書物を解釈し、「古語」の発生、すなわち神々の発生を、自らの言葉で表現し直すことだった。・・・宣長はまず「神」をこう定義する。「迦微(かみ)」とは、自然の森羅万象に浸透し、活動を続けている力のことをいう。神とは自然の力そのものである。・・・宣長は霊魂と物質の間に差異を設けない。神々を含めた自然はすべて「産霊」の力で生成され、分解される。破壊され、再構築される。・・・スピノザが『エチカ』で述べた神即自然とほとんど等しい「神」の概念を、宣長は『古事記伝』のはじまりの部分ですでに提示し終えている。・・・宣長は『古事記』冒頭に描き出された造化三神からの神々の発生を、ほとんど胎生学的な言葉で記していく。「国土(くに)の初(はじめ)と神の初(はじめ)との形状(ありさま)を次第(つぎつぎ)に配り当て負せ奉りしものなり。」
○(南方熊楠の)「曼荼羅」は粘菌のような生態をもち、「産霊」は苔にして黴のような生態をもち、いずれも自らのなかに宇宙を宿し、自らのなかから宇宙を生成させるのである。
○(平田)篤胤は『古事記』や『日本書紀』、各種の『祝詞』などに残された神話の断片をコラージュし、一つの総合的な神話として編集し直した「古史」を創り上げる。宣長の解釈(批評)が篤胤の創作につながっていったのである。折口が繰り返し、限りない信愛の情を込めて自身の学の先達として位置づけているのは、宣長ではなく篤胤の方である。
○「窟(いはや)」は女神の子宮・女神の「胎」そのものであった。『出雲風土記』に描き出された加賀の「窟」は、加賀の「潜戸(くけど)」として現在でも、誰もが訪れることができる。しかもそこには、生と死をそれぞれ象徴する二つの「窟」が存在していた。一つは・・・女神の出産に結びついた「新潜戸」。もう一つは・・・この世に生まれることなく死んでいった子どもたちの「霊」を祀るようになった「旧潜戸」である。・・・ハーンは、出雲の「窟」に、死者たちの霊が集う海の彼方のもう一つ別の世界を幻視し、・・・「In the   Cave of the children's Ghost 」を書き上げ『知られぬ日本の面影』に収録する・・・柳田(国男)が  大正九年(1920)に刊行した『赤子筭の話』のなかにハーンの名前は出てこない。しかし、柳田がその  最終章、この世に生まれなかった子どもたちの霊が「石」として象られた「賽の河原」を論じた一節「我々は皆、形を母胎に仮(か)ると同時に、魂を里の境の淋しい石原から得たのである」は明らかに、ラフカディオ・ハーンから受け取ったバトンを折口信夫に受け渡していると思われる。
○異形の身体をもち、それゆえ周囲に壊滅的な暴力をまき散らす荒ぶる死者。その死者に光り輝く新たな身体を与え、神として復活させることを可能にする(水の)少女。・・・『死者の書』は、病みに包まれた洞窟に始まり、光へとひらかれた曼荼羅で終わる物語だった。
○『万葉集』が編纂されるにあたって大きな役割を果たしたと推定される「近代人」大伴家持・・・。
○折口は未開と文明の狭間に立って、未開から文明を見、文明から未開を見たのである。
○折口は「万葉びとの生活」の冒頭で『出雲風土記』に見出される「出雲びと」オオクニヌシを論じた後、こう続けている。
 『出雲風土記』は記紀神話以前を垣間見せてくれるが、『播磨国風土記』には、さらにそれ以前、神学以前の断片からなるオオクニヌシの「不統一」な面影が残されている──。
○折口はこうまとめるのだ。・・・・「出雲びと」は半島系であり、「出石びと」は大陸系である、と。
○『播磨国風土記』には、柳田国男の故郷も含まれていた。・・・・この列島の境界に、古来から祀られていた正体不明の神々、石神、荒神、客神などを論じた柳田の『石神問答』は、かたちを替えた『播磨国風土記』の注釈だったのかもしれない。
○『常陸国風土記』では、「土窟(つちむろ)」を掘ってその穴に住み、「狼の性(さが)、梟の情(こころ)」をもつ異形の「荒ぶる賊」たち、國栖(くず)、土蜘蛛、八束脛(やつかはぎ)、佐伯などの生態が描き出されていた。おそらくは列島の先住民として存在した狩猟採集民の集団であろう。少なくとも柳田や折口はそう解釈した。
 その戦闘的な先住民の集団がいまだに跋扈する、この東の「常世の国」──巻頭の「総記」にそう記されている──を支配したのが、やはり放浪を運命づけられた荒ぶる英雄、ヤマトタケルの「天皇」であった。・・・ヤマトタケルは『常陸国風土記』では一貫して「天皇」と呼ばれ、・・・住民はその支配に服していたのである。そうした東の「常世の国」、野性の地において・・・開かれる男女の宴では「歌」がやりとりされ・・・いわゆる「歌垣」のことである。
斎藤茂吉にとって歌とは、なによりも見ること(実相観入)によって生まれるものだった。・・・しかし、折口信夫釈迢空にとっては違うのである。歌とはまず聞こえてくるものだった。

〈列島論〉
○明治四二年(1909)に刊行された『後狩詞記』(椎葉村)、翌四三年(1910)に刊行された『石神問答』と『遠野物語』という連結する三つの著作で、柳田国男はたった一人の力で「民俗学」という新たな学問を創り上げてしまった。・・・連続するこの三つの著作は、いずれも同一の主題をもっている。ここで確認するまでもなく「山人」・・・すなわちいまだ「遊動性」を失うことのなかった人々である。・・・柳田は「未開」の可能性を発見し、それとともに「遊動民」の可能性を発見したのである。
折口信夫の「古代学」は、柳田の「民俗学」がその起源にもっていた可能性を極限まで追求したものである。換言するならば、折口の「古代学」は柳田の「民俗学」がなければ、かたちを整えることはなかった。
○「熱い社会」である資本主義社会に巻き込まれ、疲弊し、荒廃した地方の農村を建て直すために、自然主義文学の導入者にして詩人であった松岡国男は文学を棄てて農政学を選んだ。それとともに柳田家に養子に入り、柳田国男となった。柳田国男が農政宇者として、あるいは官僚、もしくは柳田自身の言葉を借りれば「政治家」として実現を目指したのは、一軒一軒の農家を・・・中規模の自作農家・・・として自立させることであった。
○柳田は(椎葉で)、水田で稲作を行う平地ではなく、斜面で畑作(焼畑農業)を行う山地において、土地はすべて共有されるとともに、公平に分割され、生み出された富は均等に分配されていることを知る。「此山村には、富の均分といふが如き社会主義の理想が実行せられたのであります。『ユートピア』の実現で、一の奇蹟であります。併し実際住民は必しも高き理想に促されて之を実施したのではありませぬ。全く彼等の土地に対する思想が、平地に於ける我々の思想と異って居るため、何等の面倒もなく、斯る分割方法が行はるゝのであります。」
柳田国男にとって学問の神髄は、真理の探求などにあるのではなく、社会に資する所にあったのではないか。自ら興した民俗学も、普通の人々の生活と心を守ることに貢献できなければ、その存在価値はない。魂さえ(極端に言えば、自分の魂さえ)救えたらそれでいい折口信夫との決定的な違いがそこにあるのかもしれない。
 柳田が一国民俗学を主唱したのは、普遍性の追求が普通の人々の個性を消し去る危険を察知したからではなかったのか。
柳田国男は、列島に、文明にいまだ飼い慣らされることのない「未開」を発見したのだ。・・・・柳田が注目していたのは近代社会と未開社会、「熱い社会」と「冷たい社会」が接触し、その衝撃が「痕跡」として残された境界の地である。境界の地には未開の「地名」が残され、二つの社会の闘争を物語る記念碑である「石」が立てられていた。
白川静によれば、中国南方の境界に埋められた呪器にある「形」が漢字の祖形だという。「音は後からつけられた。」文字の起こりは「呪」にあった。
○雑誌「民族」の実質的な編集長であり、折口の「常世及び「まれびと」」をその手に受け取り、柳田との板挟みになった当事者でもあった岡正夫は、当時の貴重な回想とともに、柳田の民俗学と折口の古代学の相違について、次のように述べている。
 ●柳田の書いたものは外国語に訳しにくいが、折口の書いたもの、その独特な発想や語彙は、案外外国語に  訳しやすかった。折口の古代学・・・の深層に、一つの論理の体系が隠されていたのではないのか、と。
○「とてむ」である動物を殺して喰うことは、その霊魂を自らの内に活かすことである。そのとき死は生に転換する。そうした転換が可能であるためには、霊魂は人間と動物、あるいは人間と森羅万象に共有されている何ものかでなければならない。折口は、神は「霊(たま)」であるという。おそらくこのとき、折口は、柳田の「祖霊」のさらに根源に存在し、「祖霊」を成り立たせている力を直接その手につかまえようとしていた。その力は人間を動物に、あるいは人間を森羅万象に変身させることを可能にする。あらゆるものが混じり合う。経済も政治も、あるいは哲学も文学も、そうした地平からはじまる。もちろんその変身の力は両義的なものであるだろう。最良のものを破壊し、最悪のものを構築してしまうかもしれない。しかしわれわれの内なる「未開」が教えてくれるのは、そうした力がいまだに生きていて、さまざまなものを産み出し続けているという事実なのだ。
○トーテミズムが可能になるためには、人間と動物、人間と動物と植物と鉱物、すなわち人間を含め森羅万象あらゆるものに相通じるような生命原理が存在しなければならない。折口信夫は、それこそが「マナ」であるという──。
柳田国男民俗学折口信夫の古代学が探求の対象としたのは、国家や帝国を相対化してしまう、そ(日本帝国主義が殲滅した台湾の霧社セデック族)のような(「霊魂にして神」と「祖先の掟」をもとに「宗教生活の原初形態」を生きていた)人々の集団である。そうした共同体のユートピア──それは、他部族との絶え間ない闘争を成立の条件とするが──を生きる人間は、自然にひらかれ、自然を孕む。神的な存在にひらかれ、神的な存在を孕む。折口の古代学の未来は、そのような共同体、そのような人間を、新たな地平で再興することにかかっている。

〈スサノヲとディオニュソス──折口信夫西脇順三郎
折口信夫は、西脇順三郎の博士学位請求論文である『古代文学序説』(全集第八巻)の副査を担当した。・・・・折口がやや年長ではあるが、ほぼ同時代に生まれ、研究者であると同時に表現者でもあった二人は、この時(1949)ともに慶應義塾大学の教授を務める同僚であった。二人の邂逅は、まったくの偶然である。しかし、おそらくは近代日本文学史上の、あるいは世界文学史上の、必然でもあった。近代を条件とし、なおかつ近代を乗り越えていこうとする表現が、この二人によって、日本語というマイナーな言語の世界ではじめて十全なかたちで可能になったのだ。世界の諸地域が相互に密接な関係をもった巨大な一つの球(グローブ)として実現されつつある今、マイナーであることこそがメジャーを揺り動かす。
○二人の学としての代表作が、それぞれ『古代文学序説』(西脇)および『古代研究』(折口)と題されているのは偶然ではない。西脇も折口も古代の祭祀に「詩」の発生を見るとともに、その発生状態にある瑞々しい「詩」を自身の表現として生きようとした。西脇の第一詩集『Ambarvalia』と折口の第一歌集『海やまのあひだ』は、その核となる部分に死と再生の儀式、豊饒をもたらすための祝祭が秘められていた。古語を復活させ、翻訳を大胆に取り入れ、古代世界と近代世界を、互いに矛盾するがままに一つに重なり合わせる独創的な詩法を、それぞれ『超現実主義』(西脇)および『詩語としての日本語』(折口)としてまとめ、実践していったのだ。そして、『古代文学序説』と『古代研究』の成果をもとにして、ほぼ同時期に、二人にとっての極北と断言してもかまわない定義不能な作品、『旅人かへらず』(1947)と『死者の書』(1943)を刊行した。
 西脇も折口も、・・・「古代」に見出された、それぞれの自画像とでも称すべき存在もまた・・・良く似たものであった。・・・『Ambarvalia』(1933)に描き出されたディオニュソスと・・・『近代悲傷集』(1952)に描き出されたスサノヲと。両者の詩作を代表する二冊の詩集のみならず、西脇にとってディオニュソスは学の根幹にして「詩」そのものの化身だった。折口にとってのスサノヲも、また。

〈言語と呪術──折口信夫井筒俊彦
〈二つの『死者の書』──ポーとマラルメ平田篤胤折口信夫
○死去の年に発表された「俳句と近代詩」には、次のような一節がある。──「たとへば雪──雪が降ってゐる。其を手に握って、きゅっと握りしめると、水になって手の股から消えてしまふ。其が短歌の詩らしい点だったのです」。ただ一瞬だけ、「神」の語が「音楽として人の胸に沁む」とともにゼロへと消滅してしまう詩。折口信夫が最後に見出した短歌の「消滅」、短歌の「無」は、「超自然主義」の帰結として「詩の消滅」を説いた西脇や、「無」の詩法を説いたマラルメとも響き合う。おそらくそこは、近代という時代が可能にした詩的表現が臨界を迎える地点でもある。
西脇順三郎は、言語の「感性的機能」を意識的に働かせることによって超現実に至ろうとした。ポエジーは日常の経験が破られたところから発生してくるのである。
     ※西脇順三郎言語学概論』⇒井筒俊彦『言語と呪術』(英文)
      折口信夫『言語情緒論』⇒吉本隆明『言語にとって美とは何か』
○吉本による言語芸術の発生史において理論的な支柱になっているのは、一貫して折口信夫の営為なのである。
井筒俊彦の『言語と呪術』を読み、いち早く評価したのは、(イヴィ=ストロースに「構造」という概念を啓示した)ロマーン・ヤーコブソンだった。ヤーコブソンの評価により、井筒にはロックフェラー財団から二年間の海外留学を可能にする資金が提供された。
○言語には、明確な意味を担う核である「デノテーション=言明」と、その「デノテーション」の核のまわりを暈のように、あるいはオーロラの光のように取り巻いている「なにものか」がある。井筒は、その漠然として曖昧な「なにものか」──原初的な幼児の純粋欲望にして純粋感情であり、原初的な社会のアニミスティクにして呪術的な霊的物質でもある(「なにものか」の記憶)──をコノテーション(Conotation=含意)とした。言語はデノテーション(言明)とコノテーション(含意)からなり、〈意味〉にとって重要なものは「デノテーション」ではなく、「コノテーション」の方なのだ。
○「現実世界」とは言語による産物なのである。晩年の井筒が「言語アラヤ識」という概念で表現しようとした問題の萌芽を、すでにここに見てとることができる。「文法」(※世界観と読み替えてみた)こそが、意味を創出するのだ。
○現実が〈意味〉を規定するのではなく、〈意味〉が現実を変革するのだ。・・・『言語と呪術』をまとめつつあった井筒俊彦にとって、守護聖人の役割を果たしたのは、言葉こそがさまざまな存在を創出すると喝破した『鏡の国のアリス』のハンプティ・ダンプティだった。
○『マホメット』の最終章、井筒は、ムハンマドの〈意味〉の革命にして現実の革命の帰結、「政治と宗教とが渾然たる一体をなす新しい共同体」創出にあたって、ムハンマドが宣言したという印象的な言葉をこう記している。
 「今や異教時代は完全に終りを告げた。従って、異教時代の一切の「血」の負目も貸借関係も、その他諸般の権利義務も、今や全く清算されてしまったのである。また同様に、一切の階級的特権も消滅した。地位と血筋を誇ることはもはや何人にも許されない。諸君は全てアダムの後裔として平等であって、もし諸君の間に優劣の差があるとすれば、それは敬神の念の深さにのみ依って決まるのである。」
○ポー(最晩年)の「アルンハイムの領地」も折口の『死者の書』も、ともにエジプトの『死者の書』への密やかなオマージュが込められているように感じられる。身体的な死を、死後の世界での霊的な再生へと変成させる「秘儀伝授(イニシエーション)」のために物語が紡がれているのだ、と。
○物質(Matter)と霊魂(Spirit)は、相互に分割することができないものなのだ。(平田)篤胤もポーも、地球が虚空に禹𥶡だ一つの球(globe)であると認識された宇宙時代を、自らの問題としてはじめて生きた表現者だった。宇宙という物理的かつ精神的な「不可分な全体(individuality)」を、徹底的に思考した唯物論的な神秘家だった。
○「ポーの怪奇小説」が、エジプト神話およびインド神話と交錯する地点で(マラルメの)『イジチュール』は可能になった。自らの「エジプト学」に専心すると語っているのはマラルメ自身である。
○イジチュールは、鏡の前で、偶然を必然に変えるための賽を振る。その「遊戯」の頂点で、イジチュールは毒を仰いで死ぬ。──「私自身が、始まりにして終わりではないのか」・・・マラルメの『イジチュール』、すなわちヨーロッパの『死者の書』が辿り着いた表現の極北である。
 平田篤胤の『霊の眞柱』とエドガー・アラン・ポーの『ユリイカ』からはじまり、ステファン・マラルメの「イジチュール」と折口信夫の『死者の書』で一つの絶頂を迎える文学空間。
○ポーは答える。・・・神は、宇宙創造を永遠に繰り返す。・・・極「私的」(われわれの心臓の鼓動)にして極「神」的(神の心臓の鼓動)でもある「心臓」の鼓動は、マラルメの「イジチュール」でも、全編にわたって鳴り響いていた。
○篤胤は、宣長の提出した汎神論的な「神」の概念に一神教的な「神」の概念を融合し、生命の内在的な論理がそのまま宇宙という超越的な論理とつながる回路を、日本思想史上はじめて設けることに成功した。それはポーが『ユリイカ』で担うことになった役割と等しい。
マラルメも折口もともに「滅亡」という観点から「言葉」を考え抜いていった。・・・詩というジャンル、文学というフィクションの「滅亡」を・・・そのためには、なによりも「批評」が必要となる。自然に生まれ出てくる「詩」を、意識的な「批評」として行き直すこと。その時、詩と批評とは渾然一体となり、批評自体も根本的な変容を蒙るはずである。「〈批評〉というものが・・・〈詩(ポエジー)〉にほとんど比肩するのは・・・森羅万象あるいは宇宙といったものを目指すことによってのみである」。マラルメは、来たるべき「書物」の原型とも言える『ディヴァガシオン』(「彷徨する」とともに狂人の「つぶやき」を意味する)に、そう記す。
○「私」をスサノヲになぞらえた詩篇の一篇を折口はこう閉じている。「物皆を滅亡(つくし)の力 我に出で来よ」と。滅亡こそが生成の母胎となるのだ。
 

 もう遠い昔のことのように思えるが、相当に重たい本を担ぎながら徒歩旅行を続けたのだから、そのノメりこみかたは半端ではなかったことになる。ただしその間、当たり前と言えば当たり前のことだけど、「何かが違う」と感じ続けていた。その違和感がなければ読みつづけるエネルギーは出て来なかったろう。
 まず第一に、折口信夫が考えていたという「一神教神道」である「神教」がまるっきりピンと来ない。その教義の内容にかかわらず、ひとつのものを創りあげる過程で現実社会に起こることは、「伊勢」を頂点に神道をピラミッド化した明治政府の暴力性となんら変わるまい。
 ご先祖様以来、われわれが生きてきた世界は汎神的世界だ。だから「仏」という新興宗教が輸入されても(それを輸入した為政者の意図とは関係なく)人々はすんなりと受け容れた。
 或いは、折口信夫を初めとする東西の人々が希求したらしい「普遍」にも馴染めない。普遍の希求は当然の成り行きとしてひとつのものへの収斂を目指し、統一化を強いる。しかし、われわれの魂はその統一化からはみ出たもとの場所に在り続ける。その場所はこれからも周辺と呼ばれるはずだ。周辺を喪った世界をイメージするだけでもおぞましい。
 たぶん真実はいつもバラバラの状態であるものなのだ。統一されたものは真実ではなく、ただの観念にすぎない、ということに折口信夫が気づいていなかったはずがない。しかし折口は絶対不可能なことを絶対不可能であるからこそやろうとした。そうしている間だけかろうじて「真実」にさわっている感触を得られたからだ。しかしそこからデカダンへは、一本道のはずだ。安藤の書く「激しく矛盾するまま・・・一つにつなぐ」とは、そういう消息を言おうとしているのだと思われる。
 「真実」はなにも特別のものではない。われわれの日常には数限りない真実が、めまいが起きそうなほどあらわになっている。柳田国男南方熊楠にあり、(あるいは、西脇順三郎井筒俊彦にもあり)折口信夫に決定的に欠けていたのはその日常だったのではないか。
 『日本の祭』を読み継いでいたいたとき浮かんできた柳田國男の「祭」は日常という身体のなかにある胞のようなイメージだった。われわれの「祝祭」もまた、気が遠くなるほど延々と続きそうな、ナマの真実に満ちた日常に支えられて、ある。
 「超自然」とか「超現実」というのは、日常を超えたものを指しているのだろうが、ここでは日常が沈着している。その「日常の沈着」に資しているもの一つが俳句だ。「だから日本はダメなんだ」と絶望する人はかってに絶望すればいい。オレは「真理」よりは「日常」を選ぶ。ヤマカンだが、西脇順三郎には俳句がある。折口にはない。今度図書館に行って調べてくる。
 中沢新一がどこかで発言していたように、われわれは「も一度、鎮守の杜からやり直す」ほうがいいのかもしれない。──それもまた既に「不可能」な領域に属することなのかも知れないが。──
 が、こんなふうに感想文を書いていると、ハンナ・アーレントが『人間の条件』でだったか、『全体主義の起源』でだったか、「論文で描けることには限度がある。それ以上のことは小説に待つしかない」と言っていたことの意味に触れたような気がする。その小説とは日本で一時期もてはやされた「全体小説」とはまるで趣の違うものだとは思うのだが、あるいは既に書かれているのか、あるいはこれから現れるのか。
 もう小説をよむのが面倒くさくなってきたので見当もつかないが、なんとなく、そういう意味での「小説」がどこかで書かれつつあるのではないかという気がする。万葉集新古今集がそうであったように、この時代の精華として。

 安藤が紹介する折口信夫の「ことば」に関しても違和感が伴う。
 地名にわれわれの古代の記憶が刻まれている、ことは同意見だ。この国では、地名や字こそ人々のアルカディアなのだ。前期神道の起こりは必ずそこにある。
 しかし、「あは」や「あな」に限らず、今われわれが使っている「ふうん」や「ううん」や「むむむ」まで、それらは「聖なる起源」とは対蹠的な、というより、より貴重な「唯一のわれわれの日常」を支えてくれている。我が家のチビたちの「ワン」や「キューキュー」や鳥の鳴き声を人間の「ことば」と区別しようという発想が自分にはない。
 ただ、その生きものの声がはじめて分節された瞬間に立ち合いたいという願いは若い頃からあった。折口信夫への関心はそこにあったのだと改めて思わせてくれると同時に、自分を再認識させ、際だたせてくれた遙かに年若い安藤礼二には感謝。

 でも、しっかり感謝したあとは、すっかり忘れてまた、ふらふらとあてもなく歩きだすこととする。目的地の決まっているものを旅とはいえないように、方向の定まったものを人生とは呼べまい。