洲うた 3、4

洲うた〈3〉

 前のところを書いていて思いだしたことから始める。
 二十数年前、今の家のために地鎮祭をした時、近くの飯盛山の神主が来た。そして、まず地面に向かって「ウォーッ!」と吠えてから祝詞をあげた。面白かったので、あとで訊くと、「地の神様に目ざめてもらったのです」
 それが昔からの慣習なのか、彼が思いついたことかは知らない。(数年後にその神主とゆっくり話す機会があったが、フツウのお父さんだった。「あのとき訊ねればよかった」と思うのはいつもの後知恵)思いだしたのは大分の佐伯氏のことだった。サエキはサヤぐことからついた呼び名だという。彼らは大和人には通じない言葉を話していたのだそうだ。
 宮中の新年の祝い事のときは、わざわざ九州から呼び出されて、前庭で犬の遠吠えをした。それは別に差別とかではなく、宮廷人たちは既にその能力を喪った祝(ほ)ぎ方だったのだと思う。
 『洲うた』では天と地とにともに通じる言葉なので、「はっはぁー!」とした。

 一足早めの週末はあまりに寒くて一日中蟄居。録画していたものを見て過ごした。
 そのなかに満州皇弟溥傑とその妻のドキュメントがあった。
 溥傑の人格に興味が湧いた。たぶん並みの人間ではない。いや、ひょっとしたらいまの日本にはひとりもいない人格かも知れない。ただし、テレビに出てきた溥傑は日本語しか話さない。中国語ではどんなことを考えていたのか、もし満州語が話せたのだとしたら満州語ではどんなことを考えていたのか。(たぶん丸っきり別のことを考えていたはずだ)もっとも知りたいことを知る手がかりは見つからないままだろう。
 ただ、妻との深い結びつきは、溥傑には心を許せる人間が地球上に他には誰もいなかったという事情によるのではないかと感じた。時々そういう人間がいる。それでも人間は生きる。

 中薗英助の最晩年の本を思いだす。題名は忘れた。
 抗日戦を決意した父親から福澤諭吉に託された息子は右翼の大物に育てられる。消息不明になった父親のことを知るために、息子は「オレの子どもになれ」と言う養父の言葉を振り切って北に渡る。そこで父親が粛清されたことを知った息子はソ連国籍を取り、陸軍に入る。出世を遂げた息子はソ連軍の中将として祖国に乗り込み父親の復讐を果たす。
 癌で余命幾ばくもないという報せを受けて極東の病院を訪れた中薗英助に、キム中将は自分の一生をかいつまんで話したあと、「ああ、風呂に入って、浴衣を着て、冷たいビールをキューッとやりてぇなぁ。」と言ったあとは無言になったという。
 「キム」以外の実名が出てこないこの話をフィクションだと思ったことは一度もない。(山本七平が「ほんものの金日成だったと信じている人々がたくさんいる。」と紹介していた、陸軍士官学校二十三期生金光瑞は満州に渡って赤軍として戦ったあとスターリンによって粛清されたという。)キム中将の子どもたちは今もロシア人として生きているのかも知れない。が、たぶん、父親のことは何も知るまい。何一つ語らなかったはずだ。子どもたちだけでなく、妻にも。それでも人間は生きる。
 
 洋梨と並んで大好物の柿が何人もから届いた。今年は豊作なのかもしれない。
 毎朝自分で柿をむく度に、須賀敦子の『シゲちゃんの昇天』を思いだす。
 遊びに行ったときに柿をご馳走してくれて、「柿はこんなふうにしてむくものよ」とえくぼの出る掌で不器用な筆者に手本を見せてくれた友人。卒業後の進路希望を出さないのを不審に思って訊くと、「祈るだけの人生もいいんじゃないかしら」と言い、外界との接触を禁じている修道院にはいってしまった人。「今のうちに会っといて」という姉さんからの電話に急いで駆けつけた筆者にシゲちゃんは言う。「人生ってもの凄いものだったのね。あたしたちそんなこと何にも知らないで、胸を張って歩いていた。」
──人生ってもの凄いものだったのね。
  ……あたしたち、そんなこと何にも知らないで、胸を張って歩いていた。
 彼女の言葉はまるで音楽のように自分の中で繰り返し甦りつづける。
「……あたしたち、そんなこと何にも知らないで、胸を張って歩いていた。」
 

──お前は誰だ?
──キミだ。
──どこから来た?
──海の向こうから来た。
──オレたちもそうだ。海を渡ってここに来た。ここに暮らす者たちはみな海の向こうから 来た。
──お前たちに渡したいものを携えて来たから受け取れ。
──これは何だ?
──コメだ。これを地に播け。播いたらオレの教えるコトバを天と地に伝えろ。そうすれば 秋には黄色く稔る。
──美味いか?
──お前たちが今まで食ってきたものより遙かに美味い。
──そんな美味いものをどうしてオレたちに寄こす?
──オレは、父たちがなぜ滅んだか、やっと気づいた。この美味いものを他の人々に分かと うとしなかったからだ。そのために父たちはコメを奪われ、命を奪われ、その言葉はあの 地から消えてしまった。だからオレはお前たちにコメとコトバを分かつ。秋には稔った  ものの十分の一を戻せばいい。
──たった十分の一でいいのか?
──コメが稔れば、オレがけっして寡欲ではないことをお前たちは知る。
──よし。コトバも寄こせ!
──天よ。はっはぁー!
── はっはぁー!
── はっはぁー!
── はっはぁー!
──地よ。はっはぁー!
── はっはぁー!
── はっはぁー!
── はっはぁー!
──キミよ。たしかに受け取ったぞ。秋にはまた会おう! それまでお前はここから出ては ならぬ。朝晩の食料やその他の必要なものはオレたちの娘が運んでくる。お前はこの範囲 に居つづけよ。
──はっはぁー。
──はっはぁー。

洲うた〈4〉

 地球中を自転車などを使って自力で回ったという医師がテレビで話しているのをたまたま聞いた。
 チリの南の島に渡り、数人しか残っていない原住民に会ったときの感想を彼は次のように述べていた。
 「アフリカで誕生した人類は、その後、地球全体に広がっていった。が、そのパイオニアたちというのは、実はコロニーからはじき出されるたびに新たなフロンティアを求め続けるしかなかった弱い人たちだったのではないか。」
 (この男は安田徳太郎と似たようなことを考えている)
 安田徳太郎の『人類の歴史』を飯塚の古本屋で見つけたのは二十代の時だった。全部で何巻あったのか忘れたが、面白くてほとんど一気読みした。
 飯塚の古本屋の書棚は神田並みに充実していた。中には「あ、それは売れません。お客さんが、預かっといてくれと言って行かれたんです。もう十年以上前のことですけど。」オバちゃんはきっと質屋のような役割も勤めていたのに違いない。そうして、世話になった人たちが飯塚(つまりは炭坑)を離れる時、ドサッと本を置いていった。それを、何十年前の本かなどにはお構いなしに、定価の2〜3割の、神田よりはるかに安い値段で売ってくれた。

 安田徳太郎の書いていることは面白すぎた。
 「久留米はクメール人のコロニーだった。」
 別に何の典拠もなしに言い切る。
 「四国に上陸した日本人に原住民は、″おれたちはシュメレンクルだ″と言った。四国はシュメール人が開拓した土地だ。」それも何に書かれていたのか出典はなし。
 そのなかに、「日本人はレプチャ人の末裔だ。」という部分があった。
 安田徳太郎によると、ヒマラヤのチベットブータンの境目で、自分たちの習俗を守って生き残っているレプチャ人という少数民族がいる。写真で見るその人たちは、雲南の人々に似て、なんとも懐かしい顔立ちをしていた。(レプチャ語と日本語の比較表もあったが、そちらのほうは当時はやっていたタミール語同様、魅力を感じなかった。)
 「レプチャ人は争いを避けて移動しているうちにマライ半島にたどり着き、さらにインドシナから海に脱出するしかなくなかった。」その人々が海流に乗って、この列島にたどり着いたのが我々の祖先だという。
 満月の夜、彼らは外に出て、輪を作って歌いながら踊る。その盆踊りに似た風習を何とかというと書かれていた気がするのだが、思い出せない。ひょっとしたら我々と似た習俗の人々は既に他の人々と混ざりあって、その特徴は失われたかもしれない。
 ただ、レプチャ人に出会った日本人はみな安田徳太郎と似たような印象を持ったらしい。

 レプチャ人もきっと来ただろう。殷の遺民も来ただろう。のちには棄民された人々もおおくこの島に上陸したはずだ。われわれはその子孫なのだ。
 マンモスを追って(いや、バッファローに寄生していた北米のネイティブのように、マンモスと行動をともにして)暮らしていた人々が、地球温暖化によって、マンモスと帰る道の両方を失ったのがこの島で最初に暮らし始めた人々だ、という説が大好きだ。(なんという間抜けでけなげな先祖であることか。マンモスを失った人々は海岸に出て貝を食べ始めた。貝殻をいちいち石で割って肉を食う面倒さに閉口した彼らは、火を通すことで簡略化できるのを発見した。世界でもっとも年代が古い、火を当てた跡が残っている土器は、たぶんまだ、この列島から見つかったもののままのはずだ。今のところ、世界で最初に調理をした証拠を持っている人々はこの島のネイティブらしい。──焼き肉は調理と考えない、とするならば、の話だが。──)が、その後も間宮海峡から樺太を経由したり、べーリング海峡から千島列島を経由して南下した人々(北方民族の衣裳を見たとき、アイヌの人々の文様とそっくりなのに驚いたことがある)だけでなく、日本海対馬海峡やシナ海や南方の海上の道を経てきたり、東からも海を越えて。人々は、それぞれのファザーズに率いられ、細々と、しかし切れ目なくこの島に上陸した。導き手もなしに海に出た人々の心細さはいかばかりだったろう? 

 文革のとき誰も信じられなくなって、友人とふたりで貨物船に潜り込んだ高校生は名を何と言ったか?「横浜の土を踏んだとき感動したよ。ここが自分の生きていく場所だと思った。だから一日に皿を千枚洗っても少しも辛くはなかった。」

 有史以前のみならず有史後もその動きは断続的に続く。十九世紀から二十世紀にかけてのこの国の歴史を語るのに、その視点を抜かしては何も見えてはくるまい。さらに、これからのこの社会についての展望と準備についても、「今までとは違う」と考えるべき根拠は何もない。


──キミよ。十分の一のコメを持ってきたぞ。お前はなんと賢いのだ。持ってきた量はお前 が分かった量の倍もある。
──それは良かった。お前はこの量の十倍を手にしたのだな。
──そうだ。この十倍もの美味い食糧を手に入れることができた。その二割を残して来年地 に播く。独り占めにはしない。オレたちも、お前がしたのと同じように人々にコメを分け 与える。この冬は休んでいる暇がない。新しい土地を拓かねばならん。その時はまた地に ことばをかけてくれ。
──もちろんだ。
──オレも十分の一持ってきた。
──オレも十分の一持ってきた。
──オレたちもお前に贈り物を届けにきたから受け取れ。美しい美しい贈り物だ。
 (赤児の泣き叫ぶ声)
──おう。なんという素晴らしい贈り物よ。オレが分かったものに百倍するものを届けてく れた。
──この子たちの母親をなんと呼ぼうか?
──イモウトと呼ぶ。オレの分身のことだ。
──この子たちはなんと呼ぶ?
──おなごはヒメ、おとこはミコ。
──ヒメ・ミコか。
──お前とオレたちのヒメミコだ。
──そうだ。オレとお前たちのヒメミコだ。
──ヒメミコよ、はっはぁー!
──ヒメミコよ、はっはぁー!
──キミよ。土を耕すことはもうオレたちに任せろ。お前はひたすらオレたちやヒメミコの ために祈れ。
──そうだ。コメを殖やそう。
──そうよ。ヒメミコを殖やそう。
──見よ。お前のイモウトたちは希望で目も体も輝いている。
──オレたちはコメを殖やす。お前はヒメミコを殖やせ。
──おう、これ以上の贈り物はない。オレはみなを平等に愛する。
──ついてはオレたちで考えたことがある。それを受け入れろ。
──何だ?
──お前はもう名を捨てろ。名を捨ててオレたち全体の長となれ。オレたち全体そのものに なれ。
──名は惜しまない。その覚悟は海に乗り出すときに既にした。オレはヒメミコとことば以 外無一物の長となろう。オレはこれからお前たちのために祈り続けるキミだ!
(イモウトたちの声もまじって)
──キミよ。はっはぁー!
──キミよ。はっはぁー!
──キミよ。はっはぁー!
2015/12/15
追記 
 昨日で一年生の授業がおわった。渡された宿題プリントを配布したあとに「はい、これは私からのクリスマス・プレゼント。」レイ・ブラッドベリ『霧笛』を配った。
──どれでもやりたいものからやりなさい。
 職員室に帰りかけると女子生徒が追いかけてきた。
──先生、変なことを質問してもいいですか? もし世界中の人から愛されている人がいたとし たら、その人はしあわせだと思いますか?
──いやぁ、その人は世界一孤独な人なのかもしれないな。
──やっぱり。・・・『霧笛』を読んだら、そんなことを考えたんです。ありがとうございました。