洲うた1/ 2

 『洲うた』〈Ⅰ〉     二〇一五・十一・八

   板垣正夫先生の思い出に




 暗闇を裂して甲高い声が響く。

──はっはぁー!。
  世をしろしめす天よ、われらに喉うるおす水を、はっはぁー!。生きとし生けるものの 命をつなぐ水を、はっはぁー!。
  はっはぁー!。

 おびただしい兵馬の音と喊声。

──キミ。このコメとお前のコトバを携えて、すぐにここを発て。もう、ここは支えきれぬ。 お前は海に出て東に向かえ。波の向こうには、おだやかな日射しととおだやかな眼差しの 人々のいる島があると聞く。そこに上陸したら、カマやコモやクマという土地を尋ねよ。 その土地の人々はきっとお前を受け入れてくれる。受け入れてくれたら、まず、お前のコ トバをその地に伝えよ。そしてその地にコメを播け。それから天にもコトバを届けろ。そ してイモウトを見つけろ。そうすればオレたちもその地で生きる。
  お前が旅発つまでオレたちは、ここをふさぐ。が、すべてはそれで終わる。さらばキミ。 せめてあとひと声、キミの声を聞かせてくれ。そうすればオレたちは安心して敵の刃。コ メも天地に届くコトバも持たぬ、あの時代遅れのやつらの刃と立ち向かえる。
  さあ、あとひと声!
──はっはぁー!。
──ようし。すべてはそれでよし。発て!
──さらばじゃ、おじ。さらばじゃ、おば。オレはかならずまだ見ぬ島にたどり着く。そし て、お前たちの心を地に播き育てる。お前たちの願いを天に届ける。かならずだ。 

  二〇一五・十一・六神戸
 兵庫県立美術館に行ってきた。
 クレーの絵はどう考えても異常だ。異常さを捨てなかったから、本人は正常でいられた。
 自分がバラバラにならないうちに見終わろうと、急ぎ足で回ったが、「これは果たして絵なのか?」という思いが、見る絵が増えるたびに増していく。
 「もし絵じゃないとするなら。いまオレの見ているものは何だ?」
 くたくたになって会場を出ようとしたときふと思った。「オレはクレーの黙示録を見ていたのかもしれない。」
 最後の会場にあった『鳥=島』という絵をも一度見てから出ようと後戻りしてびっくりした。「色があった!」
 会場を出て図録をめくった時も、「もし、一枚くれるというなら、これが欲しい」と感じた、ただひとつ「習作」となっていた『ショスハルデンホルツ』を見て、「こんなに色だらけじゃなかった!」とすぐに閉じた。デジカメの映像はすべての色を平等に浮き上がらせてしまうから閉口するけれど、理由はそれだけじゃない。自分はそこにいわゆる色とは違う何かを見ていた。
 色って色彩なのではなく質なのではないか?  
 もしそう訊ねたら、あるいはクレーは「やっと気づいたのか。」と言うかも知れない。
 そんな妄想が沸いたのは、「抽象化するとはW&B化することなんじゃないか」と考え始めたことと関連があるのかも知れないし、ないのかも知れない。いや、きっとそんな想念が脳内でシナプスの連結を変えていたらしい。そんな気がしてきた。

 冒頭のファンタジーは、学生時代はじめて韓国に行ったとき、ソウルを抜け出した公州(コンジュ)の宿で寝転がっていたときに浮かんだもの。それに、社会人になってから思いついたカタカナ表記の名詞を付け加えた。
 ソウルのお爺さんは片言の「ウリマル」を話す若者に熱っぽく日本人教育を授けたあと、急に声を潜めて言う。
「ところで、オレたちの間では、天皇(チョノ)にはオレたちと同じ血が流れているという根強い噂があるんだが、お前はどう思う?」
「そう思う。」
「やっぱりそうか!」
 でも、も少し正確に言うと、その「血」はもっと東北から韓半島を経由してわれわれの島にまで繋がったのだと思っているのだけれど。

 「カミ、カメ、カマ、キミ、キメ、キモ、クマ、クメ、クモ、コマ、コメ、コモ。」
 それらを勝手にKM語と呼んでいる。その中の「カマ」「クマ」「コモ」は自分が育った土地の地名や字名でもある。遠い父祖たちはその音に霊力を感じていたに違いない。名詞だけじゃなく、「噛む」「咬む」、「組む」「酌む」「汲む」、「混む」「籠む」などの動詞もKM語に加えるほうが自然なのではなかろうか。共通するイメージは「生殖」。

 公州(コンジュ)で浮かんだ『洲うた』を形にしたいと願いはじめてからたぶん二〇年ほどたつ。が、もう諦めた。その後のことがあれこれ重なりあってどうしても一つのものにはならない。そのかわり、形なんかどうでもいいから書き連ねようと思い至った。おつきあい下されば幸甚。そのままクシャクシャになって屑籠に直行しても一向にかまわない。
洲うた〈2〉

 『しまうた』という題名を思いついたのはだいぶ前になる。が、どの字を当てるかで相当に迷った。
 「島」は「シマ」のうちのほんの一部に過ぎないのではないかと思うようになったのは、暮れの旅行中だったとは覚えているのだけれど、どこに行った時かは忘れた。ただ内陸のあちこちに「シマ」という地名や字名があるのに気づいたのだ。シマだけではない、△シマや△ヤマという地名は、地形とは関係なしに日本中のあちこちにある。
 「シマ」は本来囲われた一定範囲の土地を表していたのではないか。つまり、ヤーさん用語の「シマ」や「縄張り」がもともとの意味なのだ。
 シマは「標(しめ)」や「注連」で外部から区切られて「占め」られている空間を指す。
 博多の中洲には明治の初めまで芝居小屋が軒を並べていたという。もし相撲興行が行われていたら、それも中洲であったろう。その空間では、身分や社会的ステイタスは通用しない。官権力もそこには及ばない祝祭の空間が、博多のど真ん中の、川で隔てられた場所(洲)にあった。
 島はその「標」や「注連」にあたるのが水だというだけのことではないのか。
 福岡の宗像大社奥の院は沖の島だという。沖の島はもっとも神聖な場所とされ人の立ち入りが許されず、いまも隔離されている。大分の宇佐神宮のご神体も海だったように記憶している。
 「シマ」が外側から隔離された空間であるのに対して、「ヤマ」は中心から広がっている空間を指す。高さには大した意味はない。
 育った炭坑町では、炭坑をヤマと呼んでいた。ボタ山があるからヤマだったのではない。地中へと下りていく拡がりの中心だったからヤマだったのだ。その炭坑(やま)には戦時中官憲に追われた多くの赤がかった人々が逃げ込み資本家たちの庇護を受けた。炭坑(やま)は治外法権の地でもあった。
 中心が明示されていれば平地にも「ヤマ」は存在する。島の中に山があるのに何の不思議もない。その山がその島の中心なのだ。各地の祭礼の山車や山もまた、ここで言うヤマに含まれるし、出来事の「やま」もまた同前。
 「取りつく島がない」のシマも、「山を迎えた」や「山をこえた」のヤマも、譬喩なのではなく、それが本来の意味なのだ。(刑事用語であるらしいヤマ(事件)にも本来の意味が色濃く残っている)
 古語の「止む」や「已む」は停止を表すのではなく消去点の存在を示している気がする。その消去点、つまり中心に到達した所が山の頂であり、それによって遡及が「止む」。
 この福岡には、山や島のほかにも、シメ(志免)やヤメ(八女)という土地がある。それらもまた地形とは別の何ごとかを示しているのかもしれない。(別の話になるが、五年前通っていた須恵は学校で習った須恵器の産地だから、当時は最先端文化を支えていた土地ということになる。その須恵は自分には「裔(すえ)」と聞こえる)

 われわれは、ヤマ(消去点であり始原でもある中心)からの広がりにそれぞれのシマ(テリトリー)を作って生きてきた。ヤマなしに祈りはなく、シマなしに生活の糧は得られなかった。そのヤマとシマによって祝祭と日常の空間が形作られる。
 ヤマにもシマにも属さない空間(隙間)がヒマ。それらの境界が曖昧な空間をアハヒと呼んだのだと思うが、それはまたいずれ考えることになると思う。
 後づけながら「洲うた」と命名した理由だ。
 ここまで書いてふと思ったこと。
 クマ、シマ、ヤマ、は同系列の語。クマノ、シマノ、ヤマノという地名も同系列。(クマノだけが突出しているのは、その後の政治的理由からだろう)シマヤマという地名があったのも思いだした。宗像大社の沖の島は「海の正倉院」とも呼ばれているが、地名は正倉院を遙かに超える規模の歴史記憶遺産なのだ。


風と波の音。そしてせせらぎの音。

――はっはぁー! 地をしろしめすカミガミよ。
 われこの地を踏めり。われこの地を踏めり。はっはぁー!
 今日よりわれはこの地に臥す。今日よりわれはこの地を耕す。今日よりこの地に豊かな稔 りを下さらんことを。はっはぁー
  なゆるな、はっはぁー! かつゆな、はっはぁー! われをば受け容れ、われをば抱き くれよかし。
  はっはぁー!


 言葉と祈りは同義語だった。
 高校生向けに書いた『文学とはなにか』にそう書いたはずだ。名より前に祈りがあった。――そういう気がしてならない。――白川静もどこかに似たようなことを書いていたはずだ。「音声言語より前に印刻があった。」
 名は変わる。幾度も変わる。場所により、時により、角度により、あるときは幾つもの名を持つ。(生徒にTPOを説明するとき、自分のなかでOccasionという言葉が根付いていないのに気づいた。ということは「場」という日本語もまだ自分のものにはなっていない)人もまた本来は幾つもの名を持つ。ひとつの名しか持たない現代はなんとも貧弱な時代だ。しかし、祈りはもともとからひとつ。
 ひとつの祈りがさまざまに変容していく。そのひとつの祈りを「はっはぁー!」とした。

  2015/12/03



洲うた〈2〉

 『しまうた』という題名を思いついたのはだいぶ前になる。が、どの字を当てるかで相当に迷った。
 「島」は「シマ」のうちのほんの一部に過ぎないのではないかと思うようになったのは、暮れの旅行中だったとは覚えているのだけれど、どこに行った時かは忘れた。ただ内陸のあちこちに「シマ」という地名や字名があるのに気づいたのだ。シマだけではない、△シマや△ヤマという地名は、地形とは関係なしに日本中のあちこちにある。
 「シマ」は本来囲われた一定範囲の土地を表していたのではないか。つまり、ヤーさん用語の「シマ」がもともとの意味なのだ。
 シマは「標(しめ)」や「注連」で外部から区切られて「占め」られている空間を指す。
(「標(しめ)」や「注連」は、のちの「縄張り」に直結している) 博多の中洲には明治の初めまで芝居小屋が軒を並べていたという。もし相撲興行が行われていたら、それも中洲であったろう。つまりその空間では、身分や社会的ステイタスは通用しない。官権力もそこには及ばない祝祭の空間が博多のど真ん中の川で隔てられた場所にあった。
 島はその「標」や「注連」にあたるのが水だというだけのことではないのか。
 福岡の宗像大社奥の院は沖の島だという。沖の島はもっとも神聖な場所とされ人の立ち入りが許されず、いまも隔離されている。大分の宇佐神宮のご神体も海だったように記憶している。
 「シマ」が外側から隔離された空間であるのに対して、「ヤマ」は中心から広がっている空間を指す。高さには大した意味はない。
 育った炭坑町では、炭坑をヤマと呼んでいた。ボタ山があるからヤマだったのではない。地中へと下りていく空間だったからヤマだったのだ。その炭坑(やま)には戦時中官憲に追われた多くの赤がかった人々が逃げ込み資本家たちの庇護を受けた。炭坑(やま)は治外法権の地でもあった。
 中心が明示されていれば平地にも「ヤマ」は存在する。島の中に山があるのに何の不思議もない。その山がその島の中心なのだ。各地の祭礼の山車や山もまた、ここで言うヤマに含まれるし、出来事の「やま」もまた同前。
 「取りつく島がない」のシマも、「山を迎えた」や「山をこえた」のヤマも、譬喩なのではなく、それが本来の意味なのだ。(刑事用語であるらしいヤマにも本来の意味が色濃く残っている)
 古語の「止む」や「已む」は停止を表すのではなく消去点の存在を示している気がする。その消去点、つまり中心に到達した所が山の頂であり、それによって遡及が「止む」。
 この福岡には、山や島のほかにも、シメ(志免)やヤメ(八女)という土地がある。それらもまた地形とは別の何事かを示しているのかもしれない。(別の話になるが、五年前通っていた須恵は学校で習った須恵器の産地だから、当時は最先端文化を支えていた土地ということになる。その須恵は自分には「裔(すえ)」と聞こえる)

 われわれは、ヤマからの広がりにそれぞれのシマを作って生きてきた。ヤマなしに祈りはなく、シマなしに生活の糧は得られなかった。そのヤマとシマによって祝祭と日常の空間が形作られる。
 後づけながら「洲うた」と命名した理由だ。
 ここまで書いてふと思ったこと。
 クマ、シマ、ヤマ、は同系列の語。クマノ、シマノ、ヤマノという地名も同系列。(クマノだけが突出しているのは、その後の政治的理由からだろう)シマヤマという地名があったのも思いだした。宗像大社の沖の島は「海の正倉院」とも呼ばれているが、地名は正倉院を遙かに超える規模の歴史記憶遺産なのだ。


風と波の音。そしてせせらぎの音。

――はっはぁー! 地をしろしめすカミガミよ。
  われこの地を踏めり。われこの地を踏めり。はっはぁー!
  今日よりわれはこの地に臥す。今日よりわれはこの地を耕す。今日よりこの地に豊かな稔りを下さらんことを。はっはぁー
  なゆるな、はっはぁー! かつゆな、はっはぁー! われをば受け容れ、われをば抱きくれよかし。
  はっはぁー!



 言葉と祈りは同義語だった。
 高校生向けに書いた『文学とはなにか』にそう書いたはずだ。名より前に祈りがあった。――そういう気がしてならない。――白川静もどこかに似たようなことを書いていたはずだ。「音声言語より前に印刻があった。」
 名は変わる。幾度も変わる。場所により、時により、角度により、あるときは幾つもの名を持つ。(生徒にTPOを説明するとき、自分のなかでOccasionという言葉が根付いていないのに気づいた。ということは「場」という日本語もまだ自分のものにはなっていない)人もまた本来は幾つもの名を持つ。ひとつの名しか持たない現代はなんとも貧弱な時代だ。しかし、祈りはもともとからひとつ。
 ひとつの祈りがさまざまに変容していく。そのひとつの祈りを「はっはぁー!」とした。

  2015/12/03