洲うた 5・6

洲うた〈5〉

 これはもともと戯曲として構想していた。が、どう頭をひねっても舞台劇にもラジオドラマにもならない、ということを家族に話したら、「なら、映画にすればいいやん。」そうか、とプランを練り直したが、やはりひとつの形にする能力はいつまで経っても身につかないと分かった。ただラストシーンは映像になる。

 文中の、──部分は、もともとの構想では劇中劇だった。
 植民地の小学校で学芸会が催されることになる。子どもたちは自分たちで作ったお芝居をやろうと準備を進めるが、内容を知った校長から直前に上演を拒否される。子どもたちを励まし続けていた青年教師は子どもたちからの突き上げを受け、窮地に陥り、子どもたちに「自分たちだけででも上演しよう」と提案する。(「客なしで上演するのはただの自慰行為じゃないのか?」まだ『洲うた』が浮かぶ前、先生からそう言われて返答できなかったことがある──なぜそんな愚にもつかないことを付け加えるのかは、いずれ分かる)子どもたちはそれを受け入れる。
 つまり劇中劇は当時の小学生が書いたものなのです。現地の子どもたちと内地から来た子どもたちが、「自分たちの天皇伝説」を創り上演する。
 そのリーダーをウ・ユンスンとする。女性っぽい名だとは思うが、男の子である。
(生徒向けに「日本の誕生」という文章を書こうと思い立って、何度か試みたが結局ものにならなかった。生徒に伝えたかったことを一言にしてしまうなら「この国はあちこちからの難民たちの集合体として創られた。その言葉も文化も様々な人々がひとつにまとまるには天皇制という独創的な統治システムが必要だったんだよ」)
 この国の誕生と天皇制の誕生はシンクロしていた。
 では、その天皇制はいつできたのか?
 もちろん歴史的な日時は見当もつかない。ただ言えることは、ある人間が個を捨てて、つまり、家名や族名を捨てて、たんなる全体の名無しの長となった時、世界的にも摩訶不思議な、山本七平の考え方を敷衍するなら。「中心が空白」であるシステムができた。それが二千年ちかく続いているところを見ると、その発明は成功したのだと言っていい。
 その意味で、美濃部達吉の「天皇機関説」は、当時としてはすでに常識だったことを難しく言い表したにすぎない。なのに、それを政争の具にしようとした人々がある意味で成功したのは、ただ、「天皇という人間」を「機関」と呼んだというその一点に他の人々も違和感を覚えたからだったのではないか。ちょうど、マイナンバー制度が、「人間を数字化する」ことへの違和感からなかなか実現しなかったし、いまも反撥が収まらないように

 しかし、それ以上が書けない。「書けないのならファンタジーにしてしまえ!」

 本体の劇の登場人物は、その植民地の小学校に通っていた日本人。時は既に戦後。学徒出陣した彼らは命を長らえ本土で再会する。その場所は先生が?みながら話した通り東京とする。二人は台北一中から第一高等学校に進学し、生涯の交友をつづけた。
 「博多に上陸したあと、そいつと連絡がついて、とにかく出てこいと言うので東京に行った。そいつは隣とベニヤ板一枚で隔てられているだけのバラックに住んでいた。夜は隣の夫婦の睦言が筒抜けで聞こえてきた。」
 これからどうする気だと聞かれて先生は「大学に戻ろうかと思う」と返事をしたら「おまえはまだあそこが学問の府だと思っているのか?」と言い返えされたという。けっきょく先生は上陸した博多からやり直すことにした。(偉そうに言う。「おかげで先生は、陽子先生とオレに出会えたんですよ。良かったですね。」)
 後年、社会派の弁護士になっていた友人は永平寺に入ってしまう。「やめとけと言ったんだが・・・。」(さすがに、「おまえはまだあそこが宗教の府だと思っているのか」とは言えなかったらしい)ただしそのもと弁護士はプロの僧侶にはならなかった。

 そう呼ぶことを拒んでいたが、彼らにとっては台北こそが故郷。台湾独立論者へのシンパシーを隠そうとしなかった先生が「台湾に行ってくる」と出かけたとき、福岡の友人たちは「もう帰って来ないんじゃないか」と心配したという。
 ともあれ、台湾のことはまったくわからないので植民地は朝鮮に設定してみた。
 創作である青年教師とウ・ユンスンはこのファンタジーの最後にも一度登場するはずだ。
  

──キミよ。この地はゆたかになった。コメが殖えただけでなくヒメミコたちも殖えた。もうこれ以上拓く土地がない。オレたちは相談した。この土地をヒメミコたちに託して、オレたち年寄りはもいちど海を渡って東に向かう。
──ついては、キミよ。キミもヒメミコたちをこの地に残して、オレたちの先頭に立て。お前はオレたちのキミなのだ。
──おうよ。オレはお前たちの先頭に立とう。
──分かっているとは思うが、キミよ。新たな上陸地にはすでに人々がいるかもしれない。その人々はコメやコトバのありがたさを理解せず、オレたちを拒もうとするかもしれない。そのときはキミよ。お前は矢面に立つことになる。
──おうよ。故地を棄てて海に乗り出し、名を棄ててこの地に根づく決心をしたときから、すでにその覚悟はできている。オレはお前たちのキミなのだ。
──キミよ。はっはぁー!
──キミよ。オレたちにも名を与えてくれ。ヒメミコの親はなんと呼ぶ?
──オミと名づける。お前たちはオレのオミだ。
──オレたちはキミのオミか。はっはぁー。
──ヒメミコたちを残していくにあたって、ここをツクシと名づけよう。オレたちの新しい故地の名だ。オレたちの故地、ヒメミコのシマ、ツクシのシマよ。はっはぁー。
──ツクシのシマよ。はっはぁー。
──ツクシのシマよ。はっはぁー。
──ツクシのシマよ。はっはぁー。


 今年を展望する新聞記事に「イスラムをまとった虚無主義の拡散に肌寒い思いをした一年だった」と書いた男がいる。耳触りのいい表現だ。でも、あなたは、それ以前から「近代主義をまとった虚無主義や自由をまとった虚無主義」がここに蔓延していることに肌寒い思いをしたことはなかったらしいですね。
 ハンナ・アーレントの師は欧州を覆っている「ヒューマニズムをまとった虚無主義」の前に沈黙した。そんな気がしてならない。
 フランスの誰だったか。「われわれは遠くのことを実感することができるのに、身近なことには現実感を覚えない」と言った人がいる。たぶんわれわれはそう作られている、と思っていた。が、そうではないらしいと山本七平『聖書の旅』(まだ読み終わっていない。どうやら年越しになる。いや、そうしたい。)を読んでいるうちに思いはじめた。
 始原の人は身近なことだけを感じていた。遠くへの興味なぞ持たなかった。その遠くのことを実感しはじめた人々が、いまわれわれがユダヤと呼んでいる人々、だったのではないか? だとするならば、われわれもまたその子孫なのだ。
 
 たまたまクリスマス・イブの日に。
2015/12/24
洲うた〈6〉


 暮れの旅から帰ってきた。
 家に帰りついた同行者からメールが届いた。
 「今年も、更新と再生の儀式をやり遂げた気がする。」
 そうであるならば、来年も再来年も、体力と気力がつづくかぎり、この旅をつづけよう。

 岡山駅で落ち合い、後楽園の荒手茶寮で昼食をとった。世話をしてくださった美しい人の娘さんはこの春ポーランド語科を受験するのだという。「高校の先生から是非と勧められたのだそうですが、日本でポーランド語を学べるところはその大学しかないのだそうで、、。」わずかの酒ですでにいい気持ちになっていた合計一九三歳はせめてもの御礼にと「フレェー、フレェー、い、つ、き。」のシュプレヒコールを送って駅にもどった。あとは朗報を待つのみ。

 若狭諦應寺の石仏と銀杏観音には我を忘れた。タクシーの運転手さんに撮ってもらった写真をあとで見ると、観音の前にいる男は完全な痴呆老人でしかない。
 旭川からきた男はポツリと「これは百済だ。」と言う。たしかにそこは、若狭から飛鳥までつづく百済道の始まりに思えた。
 「せっかくですから円成寺にも行ってください」という運転手さんにしたがって出遭った松は、神様を通り越した生命そのものに見えた。
 生命そのものとは何か? 切山のエゴの木地蔵もそうだったが触らずにはいられなくなる何ものか。

 京都に向かう鈍行列車が小浜線の青郷(あおのごう)という駅にとまった。
 その帰属が明確ではない曖昧な空間である「あはひ」に対して「あを」はまだ未成のものを指す。白馬の節会の「あをうま」の「あを」も通説のように色をあらわすのではなく、白馬とは子馬でもなく成熟馬でもない、まだ交尾を経験していない成体の馬のことではなかったかと考えている。その「あを」が空間的に用いられるときは「まだシマたりえていない場所」
 「あはひ」と「あを」に共通するのは、まだ名づけられていない空間やもの、ということになる気がする。その最大のものが黄泉の国であり、最小のものが草葉の陰。ただし、黄泉の国がこの世とつながっているのに対して、草葉の陰はこの世のなかにあるのだが。
 青郷はもともとどんな空間だったのだろう。

 翌日の午前中は宿近くの天竜寺まで歩いた。
 敷地内に竹林がある。明るい朝の日射しを受ける孟宗竹の肌はこの世ならぬ光を帯びている。そしてその奥は見えない。
 「( I'm )suffering.」という声がすぐ近くで聞こえたので見ると、韓国系と思われる女の子が美しい眉をしかめている。竹林に目を戻しても一度見るともう姿が消えていたから、きっとパートナーを促して出てしまったのだろう。あの光景を「気持ちわるい」と感じる感性の持ち主はもうこの国の若者にも珍しいかもしれない。が、その光景こそ「街道をゆく」の画家のコトバを借りるなら「ワッチはここで死にます」と言いたくなる、もっとも安心できる幽明の境なのだ。
 あとで、「しまった。写真を撮っとけばよかった。」と思ったが、そういう頭の働きがあのときは停止していたのだ。それに、あの早朝の光はたぶん写真では撮れない。かといって、それを描ききった絵を見たこともない。

 最終日の目的地は神戸のモランディ展。
 もう画集を見すぎているから、急ぎ足で大好きな水彩画を目指した。
 画集を見ているうちに気づいたことをふたつ報告する。間違えて白黒コピーしたモランディの風景画を見て、「なんだ、これは坂本繁二郎じゃないか」。もしそう言ったら坂本繁二郎はわぁーわぁー言い出してその話を遮っただろう。そのモランディの風景画にはセザンヌそっくりのものがある。が、それも面と向かってそう言われたモランディは相手の口を抑えるどころか喉を絞めようとしたはずだ。
 それでもモランディはモランディ。
 最初に教えてくれた洲之内徹は「かたちの画家」と呼んでいたが、モランディに関心があったのは影だと思う。その影の前景のかたちは影を画いたあとにただ残ったものにすぎない。そんな気がする。 
 「鉛筆画がいちばん良かった」
 そうか。でも、またモランディが嫌がるかもしれないけど、あの鉛筆画はクレーを思い出す。

 一時「文明の衝突」というコトバが流行った。あるいは今起こっていることもそれで説明して済ませようとする人々がいるのかもしれない。が、衝突しなかったら融合は起きない。衝突し、融合し、分裂し、また衝突・融合・分裂を繰り返すことでわれわれの世界は成り立っている。もちろんわれわれ自身もその途上にある。
 ソリッド・ステート的な存在なぞどこにもありやしない。ましてやこの世界を説明し解決するひとつの方程式なぞどこにもあるわけがない。

 
 (男たちの怒号と歓声)
──ついに来たぞ! 
──見よ。あの愛らしい土地を!
──キミよ。あそここそわれわれが目指してきた土地だ!あそこにコメをまこうぞ。コメを みのらせて人々に分け与えようぞ。
──おうよ。やっとたどり着いた。が、オミたちよ。ここに至るまでにはどれだけの血を 流さねばならなかったことか。オレたちはもう老いた。もうあそこで死のう。
──おうよ。あそこで死のう、キミよ。コメを刈り取るのはヒメミコたちの仕事だ。
──イモウトたちにも会いたいが、それももうかなうまい。オレたちはあまりにも遠くに来 てしまった。
  オミたちよ。オレは最後に上陸したところをクマと名づける。そしてこの愛らしい土地 をアキツと名づける。これで、ツクシよりアキツへの道でオレたちの旅は終わる。ヒメミ コたちはいつか、このアキツよりツクシへ還るであろう。
──クマのミチよ。はっはぁー。
──アキツのシマよ。はっはぁー。
──ツクシのシマよ。はっはぁー。
──わがイモウトたちよ。はっはぁー。
──われらがヒメミコたちよ。はっはぁー。


 植民地の小学生が創ったファンタジーはここで終わる。
2015/12/31