洲うた 7・8

洲うた〈7〉

 劇中劇の抜粋は終わったのだが、まだ本体の構想が出来上がらないので、一、二回まわり道をする。いわば幕間講談です。

 グループホームで不思議な夜を過ごして戻ってくると、テレビで明大卒の男の第2回目の一筆書き山行があっていた。去年利尻まで行ったので終わったのかと思いきや、さらに行程の長い山行を始めたのだという。その動機を単なる身過ぎ世過ぎのためとは思わない。
 どのくらい前だったか、京都で千日回峰を成し遂げて大阿闍梨になった方が、その数年後にもう一度千日回峰を行うというニュースを見たことがある。「回峰修行をしているとき仏様を身近に感じていた気がするのだが、こうしているとその気配が薄れてきて寂しい」
 四国八十八カ所をリュックを背負って何度も巡っている男を題材にしたテレビ番組を見た親族が驚いて家に連れ戻した。家族や親族と数ヶ月を過ごした男はまた出奔し巡礼地に戻った。その理由を本人に訊いても明確な答えは返って来なかっただろう。ただ歩いている方が心が落ち着くのだ。
 植村直己の奥さんは、「こういう人でしか無理だったろう」と思われる人だった。田中某の奥さんはどういう人なのかな。
 旅行家とか、登山家とか、冒険家とか呼ばれている人たちも、定住には向かない人たちなのかもしれない。どの時代にも、どの場所にも、そういう人たちが必ずいる。この超定住社会のなかでも、そのような一定の割合の男や女が居心地のわるさに耐えながら黙って生きている。
 
 この世界には母胎があった。
 その母胎の破れ目からわれわれはこの世にはじき出された。
 自分を排斥した母胎への恨みと、自分が産まれでた母胎へのあこがれの両極端の感情にさいまれながら人々はひたすら耐えてきた。たぶん今も。
 われわれの父祖はその母胎とこの世との境界の曖昧なマージナルで小さな空間、つまり「あはひ」を「草葉の陰」と呼んだ。「あはひ」こそ人々が己を生きるべき場所だった。
 時代とともに、どこもここもシマで区切られて息苦しさに耐えられなくなった人々も、ましてやオホヤケにからみとられて身動きできなくなった人々も、草葉の陰は行くところではなく、母胎に還れない人々にとってせめての還るべき場所だった。「おれたちは、以前あそこで、コトバを必要とせずに気持ちを通わせあって生きていたはずだ。」
 すべてが妄想である。
 しかし、草葉の蔭を希求した人々は、自分たちの生きている「いま」こそが妄想であってほしいと思わなかっただろうか?

 われわれが母胎にもどることは二度とない。が、還りたい。いつか還りたい。その還るべき場所がどこなのかも分からないままに還りたいと思うことの、なんという理不尽さ。
 そのわれわれを見捨てた母胎への愛憎がわれわれの感情のおおもとにある。
 いくらも読んだわけではないが旧約の世界から、高校時代に衝撃を受けた『オイディプス王』をはじめ、『ハムレット』や『マクベス』、『ロミオとジュリエット』さらにドイツの『ヴォツェク』やロシアの『ボリス・ゴドノフ』、さらにはフランスの『オンディーヌ』。この地にあっては、スサノオ伝説をはじめとして近世の近松の心中物や『八百屋お七』、そして近代の『なよたけ』にいたるまで、どこでも、いつでも人々はなぜか悲劇を必要とする。
 アリストテレスはそれを、人々はカタルシスを求めるのだと言ったそうだが、それは彼がすでに近代人だったことを証左するにすぎない。理由などないのだ。いや、理由など必要ないのだ。ちょうど、ブルース・チャトウィンシェトランドで目撃した、昂然と無精卵を温めつづけているアホウドリのように。
 チャトウィンに限らず人々は「理由のなさ」を観に行く。「理由のなさ」が原郷だからだ。人々は時にその原郷に触れていなくては不安なのだ。
 ただ、そのことを、運命、というコトバで括ってしまいたくない。
 「諦めたくない」
 その気持ちがここまでたどり着かせた。ただし、たどり着いた場所がどこなのか、皆目見当がつかないのだが。
 でも、ここがどこか分かったからといってそれが何の役にたつのか。われわれは途上にいる。せめてその途上が大いなる途上であることを。
 
 『源氏物語』のロシア語訳を独力で完成させたタチアナ・デリューシナの日記より
 「遊びにきた甥のミーシャに隠れんぼを教えた。ミーシャは物陰に隠れるなり、両目を  ふさいで「ぼくここだよ。ぼくここだよ。」と大きな声で鬼に教えるから、かくれんぼ  にならない」。

 七年在籍していた大学の講義でいちばん心に残っているのは林達夫先生の『ルネッサンス論』だった。生活費を稼ぐために夜のアルバイトをしている間も、毎週その講義室に行くのが楽しみだった。「講義」と言ったが、そのすべてが横道の話。というか、第一回目は「去年、ルネッサンスを理解するにはバロックから入るほうが分かりやすいかと思って始めたんですが、終わりきれなかったので、その話を続けます。」
 だから一年間聞いた話は『バロック論』。先生はできの悪い学生相手に思いついたままに語るから、まとまった筋なぞ何もない。けれども、それぞれの部分のなんと生き生きとしていたことか。聞く方は浮き浮きしすぎていたから99%はきれいに忘れている。覚えているのは、さらなる横道の部分ぐらい。
 「ルネッサンス論の入り口としてのバロック論」はその年もまだ終った感じはしなかった。
 まどろこしくて著作集を読み通したつもりだが、先生が何を語ろうとしたのかは分からずじまいで、その著作集もいつの間にか本棚から消えている。

 去年、教科書の定番である山崎正和『水の東西』をまたもやることになって、「今年の目玉」(毎年同じことをやる気にはならない)を考えているうちに「そうだ。あれで行こう。」図書室に飛び込みガウディを探したが見つけられぬまま教室に飛び出さなければならなかった。「何を探していらっしゃったんですか?」「ガウディ!」
 生徒に教科書を読ませて、なんとか五十分保たせて戻ってみるとテーブルに写真集が置かれている。「ありがとぉねぇ。」
 次の時間「筆者が、〝バロック彫刻さながら〟、という表現をしたとき頭にあったのはこんな光景だったんじゃないかな。」とサグラダ・ファミリア大聖堂の写真を開くと生徒たちの目が一斉に集中する。(そっか!)

 教員になって得をしたと思うことがいくつもあるが、そのうちのひとつはこういう瞬間にある。
 最初の学校で「読めばわかる」はずのことが分からない生徒を前にして途方にくれた。言語的な理解は理解のうちに入らない生徒たちが言語をイメージ化するにはどうすればいいか、がその時の命題だった。悶々としたあげくに「漫画を書こう」と思った。「まず自分が漫画になる。それからコトバで漫画を書く。」それを繰り返しているうちに、実は、言語的な理解は理解のうちに入らないのは生徒たちだけでなく、自分自身もそうなのだと気づいた。

 西脇順三郎の『ギリシャ的叙情詩』をやる前は眠れない夜が続いた。
 「もうホンモノのマンガを描くしかない」
 黒板いっぱいにマンガを描き広げていく授業に生徒は大笑いしてくれた。それが、自分にとっては詩人へ接近する最短の道になった。「この人の詩は視覚的イメージが先行している」

 単純に見えながら複雑でひとつとして同じものはなく、ねじれて、曲がり、ゆがみながらも高みにのぼるもの。自然の美しさ、自然の崇高さとはそういうものだ。自然には真っ直ぐな線なんてない、ということを発見したのがバロック、だと林先生は言いたかったのではないか。
 翻ってみれば、人間性ほど、複雑で、ねじれ、曲がり、ゆがんでいるものはない。まっすぐにみせた人間性はただの人工物だ。しかし、人間は、それでも高みに向かおうとする。
 「人間」を発見したルネッサンスのなかから、自然をそのまま受け容れようとしたバロックが産まれた。ごくごく短い期間だけで、ヨーロッパはまたすぐ「人間」に戻ってしまったけれど。
 岡潔が「ヨーロッパ人はひとつひとつの細胞まで日本人とは違うような気がする」と言うとき、バッハをその「ヨーロッパ人」には含んではいなかったに違いない。
 バッハは、当時の人々にとってはたぶん奇妙な(異教的な)音楽だったのだ。
 ドイツの声楽家ドミニク・ヴェルナーのことば
 「日本人はキリスト教は信じていないかもしれないが、バッハは信じている。」

 スキーで山行をしたとき「空虚な充実感」(『白い散歩』)を感じたという辻まこと(庄司さやかにとってジネット・ヌヴーのLPが宝ものであるように、友人から教えられた『山からの絵本』は宝ものになっている。「宝もの」とは、見たり、聴いたり、読んだりすること以前に手で触りたくなるもののことです)には謎のようなことばがあった。「西洋人が〝ヒューマン〟と言うとき〝自然な〟と言っているように聞こえる。ただし、その〝自然〟は日本人の〝自然〟とはまったく趣が違うのだけれど」

 あの次の年、『ルネッサンス論』は本題のルネッサンスに入ったのだろうか。
 でも、たとえ本題に入ったとしても、ルネッサンスの政治性も語らずにはいられなかったろうから、あと何年続いたにしても、けっきょくあの講義は完結しなかったに違いない。
 「僕の墓碑銘は『舞台稽古に熱が入りすぎて本舞台の幕が上がらずじまいだった男』としてくれと頼んでいるんだ。」──なんという贅沢!
 
 中身はまったくなく、輪郭さえ浮かんでこない次回の戯曲の題名だけは決めた。
『雲雀よ!』・・・一直線に高みへとのぼろうとするものよ。
                 2016/01/02
〈洲うた〉8

 十二月の新聞に訃報(アジアのどこかで客死)が載っていたベネディクト・アンダーソンに「 Human grows up by growing back」という言葉がある。インドネシア独立運動に生涯を賭けた男の名を後世に残したくて書かれたと思える文章だったが、その人の名は失念してしまった。が、その人だけではない、われわれは記憶のなかだけにいる。

 後輩夫婦から「永久食券」を支給されていた頃、(なにしろ一月に一週間だけ働いて生活していた頃は金がなかった。あるときは仕事場に行く交通費がないことに気づき、何駅か歩いて彼らのアパートにたどり着き、腹一杯食わせてもらった上に交通費を借りて一ヶ月分の生活費を稼ぎに出かけた)「何者にもなりたくない」と思い続けていたのは、どんな気持ちからだったのか、いまはよく分からない。
 ただ、その後、社会に出る前にいくつかのクレドをたてたことはよく覚えている。
1,最後までチンピラのままで生きていく。
   教員になってからは仕事柄大人のふりをして生きてきた。(たぶんバレてはいたのだろう   が、大人のふりをしている教員はゴロゴロいたから特に目立っていたとも感じない)が、   うまうまと退職金と年金を手に入れたとたんに、また真一文字にチンピラへ逆戻りしてい   るかのようで自分で驚いている。いや、四十年のブランクを一気に取り戻そうとしている    かのようなここ数年だった。
2,頭のいいヤツらが一日で考えることを、二十年三十年かけて考える。
3,表面で泳ぎまわらない。深く静かに潜行する。
4,公言を真に受けない。私語にだけ耳を傾ける。
5,オレはいつでも地べたで寝きる(眠ることが出来る)・・・これはずうっと心の支えだった だもう下ろす。
 それに「福岡に帰って教員になります」と言いにいったときの先生のことばを付け加える。(十項目ぐらいあったはずだが、覚えているのは数項目のみ。たとえば、「生徒にはお前のエッセンスだけを与えろ。あとは生徒が自分で考える。」「誰も分かってくれなくてもいいと覚悟するのはいい。しかし、発言することを忘れるな。」あとは「晩婚の勧め」ぐらいかな)
6,どんどん読め。どんどん読んでどんどん忘れろ。
 それに教員になってから自分に言い聞かせていたこと。
「オレは朱に染まっても赤くはならない」
 思い返してみると、この男は基本的にその時のままいまも生きている。

 二十代半ば、ふらっと友人のアパートに行ったら本人はいなかった。そりゃそうだ。もう友人たちは社会人になっていたのだから、平日の昼間にいるはずがない。そのアパートでごろごろしているうちに「いまなら書ける」と思い立ち、座り机の前で胡座をかいて書き始めた。そのよる友人は帰ってこなかったので明け方には書き上げていた。一晩中座りつづけて、やたらと腰が痛かったのを覚えている。あとで題名を『ムヅョウ』としたのがそれだ。
 書き上げたあと、いくつかの思いが湧いた。
 「これで当分はなにも書かずにすむ」自分のなかにあるものをやっと吐き出せた気がした。
 「もうオレは変わりようがないな。」それは諦念とも自信ともつかぬ思いだった。
 「だったら帰ろう」
 しかし、帰ってきてみると、それまで開架図書館にいたのが突然閉架図書館に移ったような戸惑いがあった。焦って、ただただ読みまくるしかなかった。先生から言われるまでもなく、どんどん読んでどんどん忘れた。しかし結果的に、手元まで到達する情報量が極端に少なかったために、自分から情報を探索せざるを得なかったことが「いつも何かを考えずにはいられない」男には幸いした気がする。
 読書とは著者や登場人物との対話だ。生身の人間との対話はそうそう出来るものではない。しかし、読書という対話のTPOはまったくこちら側に任されている。そこでどれだけの恩人に出会えたことか。(その恩人たちの名前さえ大半は覚えていないが)
 これからもきっと新たな人に出会ったり、また再会したりできるだろう。しかし、どんなに努力しても(もう努力する気力もずいぶん失せたが)その数はこの世界の数百億万分のいくつかに過ぎないだろうし、知った出来事に至っては数兆分のいくつかにしかなるまい。
 でも、この頃、それでいいんだと思うようになった。そのほうが正しい。
 たいしたことも知らないまま出口にさしかかるなぞ、なんと豪宕(ごうとう)なことか、そのほうが正しいとほっとし始めた。「最後まで贅沢三昧をし続けるぞ。」
 
 あのアパートの朝の人恋しさはいまでも生々しく甦る。ほんとうに山椒魚みたいにひとりぽっちだった。その時に思ったことをあとひとつ付け加えてしめくくる。
「もし、まだ何か書くことがあるとしたら、それは〝天皇制〟だ。」 
 『洲うた』はその『ムヅョウ』に直結しているんだと、書いているうちに気づいた。(何という粘り腰。執念。なんと長い潜行)
 もう水面上に浮かび上がってもよかろう。ただし、チンピラのままで。

 三学期開始直前、「いまなら読めるはずだ」と、長らくサスペンデッドになっていた山本七平『洪思翊(コウ・シヨク)中将の処刑』を読みはじめたら、その夜のうちに読み終わった。
 創氏改名をする意思をまったく持ち合わせていなかった人。後輩から独立運動の中核となることを期待されながら大日本帝国陸軍中将にまで昇進した人。山下大将の信望厚く、フィリピン捕虜収容所の統括を任された人。それを咎められて戦犯となった時、裁判で一言も発しないまま、平生と少しも変わらぬ態度で絞首台へと歩んでいった人。個人的感情や希望をめったに表に出さない中将から、雨のジャングルでの野営中に「お茶を飲みたい」と所望された副官がうれしくなって当番兵の若瀬上等兵に思わず「ワカセ、お茶をワカセ!」と命じたら笑ってくれた人。
 四書五経をそらんじていたという洪中将を「自分の決断への忠誠を貫いた」人間だと山本七平は考える。儒教の徒は他の宗教の信徒とちがって徒党をくむことがない。士はつねに個なのだ。
 その彼が処刑直前、捕虜となったとき聖書をもっていたという理由からにわか教誨師にさせられたもと日本兵に『詩篇五一』を朗読するよう依頼する。たぶん洪中将はそこをそらんじていたに違いない。
 その詩篇のことば。
 「ああわが神よ ねがわくは汝の仁慈(いつくしみ)によりて
  われをあわれみ
  なんじの憐憫(あわれみ)の多きによりて
  わがもろもろの愆(とが)をけしたまえ。
  わが不義をことごとく洗い去り
  われをわが罪より清めたまえ。
  われはわが愆(とが)を知る
  わが罪はつねにわが前にあり。
  ・・・」
終わりちかくには次のようなことばがあった。
 「汝は祭物(そなえもの)をこのみたまわず
  もし然(しか)らずんばわれこれを捧げん。
  汝また燔祭(はんさい)を悦(この)みたまわず
  神のもとめたもう祭物(そなえもの)はくだけたる霊魂(たましい)なり。
  神よ 汝は砕けたる悔いし心を軽しめたまうまじ
  ・・・」
 わが悔いによって砕かれた霊魂(たましい)を、そのまますべて神に托そうとする激しい心。
 その激しさは日本の哲学者の「絶対矛盾的」という表現を想起させる。先生だったらそれも、「詩語」だった、と言うかもしれないが。

  ──われわれの火葬は死者の「自己」を解消するためにおこなわれる。
    われわれの霊魂は火が近づいただけで一瞬のうちに気化し、
    全体に帰一する──

 読み終わったあと、なにをしたらいいのか分からなくておもてに出た。
 外は目を凝らしても何も見えない夜であることが救いだった。
 夜の今津湾の対岸にたくさんの灯りが見えるのはいっそうの救いだった。
 ケストナー飛ぶ教室』の終章の少年の感慨を思い出した。
 「あの数え切れない灯りひとつひとつの下に、ひとつひとつの生活がある。」

 踏ん切りがつかないから「あとがき」に引用されている『南陽洪氏世譜』の『思翊(サヨック)』の項を、ハングルのところだけ日本語にしながら書き写す。( 、 。を付け加える)
「高宗己丑(一八八九)三月四日ニ生マレ十五歳ニシテ大韓帝国陸軍武官学校ニ入学シ、日本陸軍中央幼年学校、日本陸軍士官学校日本陸軍大学ヲ卒業後、関東軍司令部、興亜院調査官(華中連絡部)、北支派遣軍旅団長等ヲ歴任、陸軍中将ニ至ル。世界第二次大戦時兵站部司令官(兵站総監)トシテ比島(ぴりぴん)戦線ニ在任時指揮下ノ捕虜収容所部下ノ過誤ノ責任ヲトリ、日本敗戦時、戦犯裁判デ戦犯トシテ丙戌(一九四六)年九月二十六日ニ比島デ卒シタ。祖国独立闘士ノ家族ヲ地下的後援シ、韓民族日本化政策デアル創氏改名ニ絶対不応スル等ガ認定サレ、当時解放サレタ祖国デ挙族的救命運動ガ展開サレ、日本東京デ美軍司令官ニ陳情書ヲ提出シタガ不如意。墓ハ安城邑飛鳳山麓・・・」
2016/01/07