ユング『心理学と錬金術』(池田紘一訳)抜粋Ⅱ

第二部 個体化過程の夢象徴

・海は光り輝く表面の下に予想もできない深さを隠しているから、集合的無意識の象徴である。
・意識の無意識に対する反抗も蔑視も、ともに歴史的必然である。さもなくばそもそも意識は無意識から分化することはできなかったであろう。
・知性はすでに以前からデモーニッシュだった、
・エースは数字の1としては最低のカードであるが、価値の点では最高のカードでもある。クラブのエースはその十字の形によってキリスト教の象徴を暗示している。
・黄金(きん)が鋳造されて金貨になる。つまり、形を与えられ、模様をほどこされ、値段をつけられるということは、黄金(きん)の外観に通俗的性質を与える一因となっている。黄金(きん)を金貨にするということを心の問題にあてはめれば、ニーチェが『ツァラトゥーストラはかく語りき』の中で非難していること、つまり徳性に名前をつけることだと見て差し支えなかろう。心の本質は形を与えられ名前をつけられることによって、鋳造され値段をつけられた諸要素へと解消されてしまう。
・見栄えのしない雑多な状態にある「あるがままgegeben」[原義は与えられた]の人間が投げ捨てられるならば、それら雑多なものの統合も、つまり個我化も不可能になる。これは精神的な死である。
・太陽は今日でもなおわれわれに非常に近しく感じられる古代の象徴のひとつである。われわれは、初期のキリスト教徒たちが「昇る太陽」キリストとをなかなか区別できなかったということも、よく知っている。
・疑いもなくニーチェは、彼の悲劇的な病いの初期の段階でザグレウスの陰惨な運命が自分の身を襲ったのだということを知っていたのである。ディオニュソスは、あらゆる人間的特殊性を原初の心の動物的神性へと情熱的に溶解してしまう深淵なのだ。
 訳注 ザグレウス=オルペルス教でディオニュソスと同一視されている藭。ティタンに狙われ、いろいろなものに姿を変えながら逃れていたが、牡牛に身を変じたとき捕らえられ、八つ裂きにされて、食われる。
・なるほど人間の身体からは太古の蜥蜴の尾は消えてしまった。しかしその代わりに人間の心は人間を地上にしっかりと結びつけておく一本の鎖につながれている。
・錆がついてはじめて貨幣にも本当の価値が出てくるというタレスの逆説的注釈は一種の錬金術パラフレーズであって、その言わんとするところは結局のところ、影なくしては光は存在しない、不完全さなくしては心の全体性は存在しないということ以外の何ものでもない。生の完成のために必要なのは、終結的完全ではなく、持続的完全なので、そこには「苦の種」が、欠陥の悩みがなくてはならない。それなくしては前進も上昇もありえないからである。
・ゴムとゴムとの結合はそれゆえ一種の自家受精、メリクリウスの龍について始終言われるあの自家受精なのだ。このようなさまざまな暗示を綜合すれば、「哲学的人間」が何者であるかすぐに思い当たる。それはグノーシス派の言う両性具有の原人間すなわちアントロポロスであって、インドで言えばアートマンである。
・「個我」は、たとえばカントの物自体(Ding an sich)がそうであるように一個の限界概念であるにすぎない。
・「過去の人類の課題」(ニーチェ)をもう一度吟味してみることは、もしかしたら精神の健康に寄与することころあるかもしれない。
・「前キリスト教的」および「非キリスト教的」キリストというものが存在する。
・われわれは最後にいにしえの錬金術的叡智にもう一度心して耳を傾けてみようではないか。「最も自然にして完全なる業(オプス)は己れみずからの似姿を作り出すことである。」


別件
 「ジャクリーヌ・デュ・プレと並び称された」というチラシの文句に惹かれて、エカテリーナ・ワレフスカのチェロを聴いてきた。不思議なくらいCDで聴いたジャクリーヌ・デュ・プレの音に似ていた。
 あとひとつ、セザール・フランクを弾くというのにも興味を持ったが、こちらはやはりチェロでは無理がある。
 が、それ以外は大満足。楽器の音という範疇を超えた自然な音。自然界の音ではなく自然な音。名前を覚えていないドイツ人のことばに「バッハの野性と静けさ」というのがある。その「野性」と訳されたことばのイメージが掴めずにいたが、たぶんああいう音であり、ああいう静けさを指していたのだと思う。
 曲目のなかに、これもはじめて知った師匠のボロニーニが亡き父に献げたという曲があった。その演奏の間の会場の沈黙は忘れようがない。
 同窓会で、いっとき久住山麓で一人暮らしをしていたという男が「冬場はシーンのイーが聞こえてきそうなぐらい静かやった。」というので笑ったことがあるが、会場にはその「イー」さえなかった。
 音楽を聴きながら、じつは沈黙を聴いていたという不思議な体験。
 行ってよかった。
 彼女か師匠のボロニーニの「コル・ニドライ」をなんとかして聴く。
 あとひとつ、もうけたと感じたこと。
 ワレフスカの伴奏をした福原彰美のピアノがこのうえなく繊細で粒だっていて美しかった。C・フランクを聴いていてピアノの音のほうに耳を澄ませたのははじめてだった。
 ついでに言うと、終了後、すぐ近くにある独身時代から出入りしている喫茶店に入って一息いれたのだが、出ようとしたとき、入口近くの席でケーキを食べている若い女性が福原彰美に思えた。(いつも最後列で聴くから、顔まではわからない。)小さじに三分の一ずつぐらいすくって食べている。「さわっちゃいけない」と感じる女性をひさしぶりに見た。
 もうひとつ、会場に西陵の制服を5〜6人みかけた。後日オケの顧問に訊いてみると、やはり、「主催者が学生券を発行してくださったんです。」顧問がチェロを担当している生徒のために頼んだんだろう。この街はいいところだ。
 その会場でもらったチラシに、来年3月10日、福岡でミクローシュ・ペレー二なるチェリストの演奏会が決定したとある。まだ、場所も料金も未定。その文言を書き写す。
 昨年2012年3月、偶然YouTubeで知ったミクローシュ・ペレー二氏(チェロ)とアンドラーシュ・シフ氏(ピアノ)の演奏に衝撃を受け、どうしても生の演奏を聴きたくなり、ハンガリーにあるリスト音楽院のペレー二氏あてに「ぜひ福岡にもお越しいただけないでしょうか。長い間待ち望んでいらっしゃるファンの皆様のためにも」とお願いしました。
 動画を見るまでペレー二氏の存在自体をまったく知らなかったのですが、直感に突き動かされる衝動を抑えることはできませんでした。・・・・ペレー二氏の福岡での演奏を待ち続けていらっしゃった方々、そして昨年3月までの私のようにペレーニ氏の名前すら聞いたこともなかった方々とともに、この偉大なる音楽家と同じ時代に生きることができ、演奏を聴くことができる幸せに感謝し、至福の時間と感動を皆様方とともにわかちあいたいと思います。・・・・2014年の来日演奏が記念すべき日本初演となります。
 
 忘れずにチケットを手に入れねば。