ユング『心理学と錬金術』(池田紘一訳)抜粋Ⅰ

ユング『心理学と錬金術』(池田紘一訳)抜粋Ⅰ

第一部「錬金術に見られる宗教心理学的問題」

・西洋人は個々ばらばらの事物しか見ようとせず、あらゆる存在の深奥に横たわる根源に対しては無自覚である。これに対して東洋の人間にあっては、そのような個々の事物の集積としての世界は、いやその自我でさえも、夢のごときものとして体験される。東洋人は本質的に根源に根を下ろしている。根源的なものが彼らを惹きつける力は非常に強く、そのため現実世界に対する彼らの関係はわれわれ西洋人にはしばしば理解しかねるほど極端に相対化されている。
・東洋人の精神態度に接し、これを理解しようと努めるならば、ある種の疑念の起こってくるのを如何ともし難いであろう。良心に疚しさを感じない者は強引に決断を下し、無知の勇を揮って「世界の審判者」ぶるのもよかろう。私自身は疑問という貴重な贈物をの方を大切にしたい。というのも疑いこそ、測りがたい現象をその測りがたい姿そのままに眺めてみることを可能にしてくれるものに他ならないからである。
・もし最大の価値(キリスト)と最大の無価値(罪)とが心の外にあるとすれば、心は空(から)である。心には深遠にして最高のものが欠けていることになる。東洋的精神態度のあり方はこれとは逆である。すべての最高にして深遠なるものは(先験的な)主観の中にある。・・・逆に西洋人にあっては個我の価値は零地点まで降下してしまっている。
・心は決して「単なる・・・にすぎない」ものであるはずはなく、神性への関係を意識することを許される存在としての尊厳をそなえている。
・心の藭に対する関係は、眼の太陽に対する関係のごときものである。眼が太陽の光を認めるように、心は藭を認めるのだ。
・今日われわれの世界に起こっている大事件の数々、人間によって目論まれ生み出されたこれら大事件のうちに息づいているのは、キリスト教ではなく、原初のままの赤裸々な異教精神である。・・・・キリスト教文化は驚くほど広範囲にわたって空虚であることが判明した。キリスト教文化は表面に塗られたワニスにすぎなかったのだ。
・私は「心を藭化している」という非難をうけた。とんでもない話である。心を藭化したのは私ではなく、藭自身なのだ(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。
・科学は科学以上のものではあり得ない。科学においては、科学的な信仰告白や、これに類する「形容矛盾」は存在しない。われわれは元型(アーキタイプ)が究極のところ何に源を持っているか全然知らない。それは心の起源を知らないのとまったく同様である。経験科学としての心理学の権限の及ぶ範囲は、心の内に見出された類型が比較研究を行ってみた結果、充分な正当性をもってたとえば「藭の像」と名づけられうるかどうか、これを確認するというところまでである。
・未熟な悟性の持主が、一旦信仰表現に含まれている背理(マリアの処女懐胎など)を、真面目ではあるが無能な思索の対象にしようとして思いつくや、たちまちのうちに偶像崇拝者さながらの笑い声をたて、神秘的教義がそなえている誰の目にも明らかな「馬鹿馬鹿しさ」をあげつらうだろう。フランス啓蒙主義以来、事態は悪化の一途を辿った。なぜなら、どんな背理にも堪えられないちっぽけな悟性が一度目を醒ましたからには、もはやいかなる説教もそれを抑えつけることはできないからである。 そこに新たな課題が生ずる。・・・・背理的真理の深さについてせめて予感なりとも持ちうる人々を増やすという課題がそれである。
・心理学にとっては、宗教的諸形象は個我を指し示すものであるが、これに反して神学にとっては、個我は神学自身の中心的表象を指し示すものである。ということはつまり、心理学の個我は神学からは結局「キリストの寓喩」として理解されるだろうということを意味している。このような対立は確かに双方にとって苛立たしいものである。しかし残念ながらこれ以外に途はないのである。
・「キリストの象徴」は心理学にとって最も重要なものであるが、それはこの象徴がブッダの姿と並んで、個我の最も発展・分化した象徴であるかも知れぬという限りにおいてである。
・個我はただ単に不明確であるというばかりでなく、背理的な意味で明確さの性格をも、それどころか一回性という性格をも持っているのである。おそらくこの点に、歴史上の人物を創始者とするキリスト教や仏教やイスラム教のような宗教がなぜ世界的宗教になったかの理由の一つがあると思われる。
錬金術は、地表を支配しているキリスト教に対して、いわば地下水をなしているのである。錬金術キリスト教に対する関係は、夢の意識に対する関係のごときものであって、夢が意識の葛藤を補償し、融和的作用を及ぼすのと同じように、錬金術は、キリスト教の緊張せる対立が露呈せしめたあの裂け目を埋めようと努める。
・メルクリウスの蛇、つまり己れ自身を生み、かつまた破壊する龍、
 ※訳注 ローマ神話の神(ギリシャ神話のヘルメス)。
錬金術の根本思想は遡れば劫初の水テホム、龍の姿をした万有の母なるティアマットに、従ってまたマルドゥク神話の神々の争いにおいて男性的な父性世界によって征服された母性的原初世界に源を持っている。
 ※訳注 古代バビロニア天地創造神話によれば混沌の象徴にして万有の母、龍の姿をした海の化身ティアマットは、神々との闘いにおいて、英雄マルドゥクに打ち負かされ、マルドゥクティアマットの屍体を二つに引き裂いて天と地を造った。
・藭の人間化は、父性世界の男性原理が母性世界の女性原理に接近しようとしたことの現れであるように思われるのである。そして男性原理の接近に気づいた母性社会は、その意を迎えて父性世界に同化しようという気になったのである。これは紛れもなく、二つの世界のあからさまな葛藤を融和せしめ補償するための橋渡しの試みを意味していた。
 読者諸賢は私の説明の仕方にグノーシス派的神話の響きがあるというので腹を立てないでいただきたい。なんとなれば、われわれが今ここで問題にしている心理学的領域は、他ならぬグノーシスの源泉なのであるから。キリスト教の象徴が伝えようとしているのはグノーシスであり、無意識の補償作用の意味するところはいよいよもってグノーシスに他ならないのである。
・意識の本質は区別することである。意識は、それが意識であるためには、諸対立を分け隔てなければならない。しかも自然ニ反シテ(・・・・・・)そうしなければならない。
・目的にいたる道は最初は混沌としていて見究め難い。・・・・道は真っ直ぐではなく、一見したところ環を描いているように見える。しかし事態が一層はっきりしてくると、この道は実は螺旋状(・・・)をなしていたのだということが判る。
・われわれは、宗教的信仰の主張するところは真理であるかない(・・・・・・・・・)かという、根本的には不毛な問いに余りにも長い間こだわりすぎてきたのだ。
・心の医者は、・・・・「幸福をもたらす罪」とでも呼ぶべきものが存在することを知っている。心の医者は、われわれは幸福を取り逃がすことがあるだけでなく、それなくしては人間がその全体性に達することのできない決定的な罪をもとりにがすことがあるということを知っている。なぜなら全体性とは藭の恵みのごときものであって、・・・・自律的に立ち現れてくるところのもの、したがって、その生成をただ待ちうけるという以外にないところのものだからである。
・患者に必要なのは「行為による自己の正当化」なのである。・・・・「信仰」は時として経験の欠如を代理するものにすぎない。(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)
錬金術師たちは自嘲の気持を込めて、「曖昧なことを説明するに、一層曖昧なことを以って」という言葉を造りだした。
キリスト教の中心諸表象は、古代ギリシャ・ローマの諸宗教が時代遅れとなった時期に人間心理の法則に従って発展せざるをえなかった(・・・・・・・・・)あのグノーシス哲学に、その源を持っている。グノーシス哲学は無意識の個体化過程の諸象徴を知覚するところに成り立つものであるが、無意識の個体化過程が生ずるのはいつも決まって、人間の生を支配している集合的な上位表象の数々がその支配力を失う時なのである。・対立の問題は作業の経過にともなって最終的には諸対立の一致へ、聖婚つまり「化学の結婚」という元型的形態における諸対立の結合へと通じているのであって、ここに錬金術の眼目があるからである。この結婚において、男性的なものと女性的なもの(陰と陽)という形態をとった最高の対立が溶け合って、もはやいかなる対立をも含まない、それゆえ不滅である統一物となる。

別件
 近所の2〜3歳の女の子が、玄関に出てインターフォンを押すという遊びを覚えた。
 そとに出てはつま先立ちしてボタンをなんども押す。
 家の中からカーテンをあけて、女の子そっくりのお母さんが顔を出した。