旅のとちゅう

経過報告

 今回の旅行についてはいまだ「経過監察」中。つまり、ICU?に入っている状態。布団にはいって目を閉じたら、見た光景がまざまざと甦ったりする。もちろん後半の岩手・宮城二日間の話。もともとニブいほうなんで、まだジワジワと進行中なのです。
 どうにも文章にはなりそうにはないと手書きをあきらめてブツ切れの活字にします。
 
 三陸沿岸では、ちょうど三月からJRが代行バスを走らせはじめていた。最終日はそれにのって、大船渡・陸前高田気仙沼南三陸町をまわった。もとの線路の一部ではバス道路にする工事がはじまっていたが、大半の路線は一般道路を通る。それなのに停留所はわざわざ駅の近くに作り直している。駅舎がのこっているところは一カ所もなく、プラットホームの一部があるだけ、それさえなくて、ただ「ここに駅がありました」というだけのところもある。なのに、バスは意地のようにもとの駅前に入ってゆく。たぶん鉄路が敷かれることはもうないだろうが。
 壊滅的ということばがある。が、壊滅というものをはじめて目にした。
 町がなくなっている。ガレキの撤去が終わりかけていたからいよいよ何にもなかった。
 陸前高田には、なんにもないところに、例の一本松がまだ鉄骨にかこまれたままだったが立っていた。沿岸部とは思えないほど広い範囲に、(だから大きな町ができたのだろうが)ほかにはなんにもなかった。
 歌津では、見あげるようなところにただコンクリートの高架橋の残骸だけが立っていた。それでも、どこからともなく現れた乗客が、崖下の停留所で一時間に一本の代行バスを待っている。
 壊滅したまま無人になってしまう集落がいくつもあるだろうと思う。もともとが限界集落だったところもあるはずだ。
 しかし、志津川では、建物の基礎コンクリートのほかにはなんにもないところに「志津川商店街」という矢印つきの手書きの小さな看板がもとの道路沿いにあって、その矢印を追ってゆくとずうっと先の奥にプレハブで何軒かの食堂などが営業をはじめていた。

 「もし当事者たちが、もとの場所にもと通りに家を建て直し、もと通りに町を作り直そうと考えるんなら、それでいいじゃないか。」
 ひとことで云うなら、いま考えていることはそういうことです。
 もちろん、「もう二度とあそこには住みたくない」という人たちもいるだろうし、その人たちが裏切り者呼ばわりされる筋合いはまったくない。しかし、「もとのままに再建しよう」と考えるとき、人間はいちばんエネルギーが湧いてくるんじゃないかな? 再建には、そんな情熱が必要なのかもしれない。「じゃあお前も家を建て直すか?」ということになると、自分はどこかの老人ホームを探すだろうが。「もう良か。」
 ただ、ついでに云うと、津波への恐怖感は現地にいたときより遥かに離れた今のほうが大きい気がする。
 「千年後のことまで考えにいれてなんになる?百年後のことは孫たちに任せておけばいい。孫がここの土地を捨てるなら捨てればいい。20メートルの津波に耐えられる鉄筋コンクリート4階建て屋上付きに建て替えたければそうすればいい。オレたちはこれまで通りの家を建て、これまで通りの町を再現する。」
 この考え方はオプチュニズムなのではなく、ニヒリズムなんだと思う。われわれの生活(でっかくいえば、われわれの文明)を支えてきたのは、そういうニヒリズムだったのではないか。「もいちど生活を取り戻す」ということ、いや、生活するということじたいがそういうことなんだ。そういうニヒリズムがこれからもわれわれを支えていくたいせつなたいせつな考え方なんじゃないか・・・。いま考えているのはそういうことです。
 もっとショートカットするなら、そしてそれが、なおさら心を重たくしているんだけど、いま自分がイメージしているニヒリズムと、もともとのヒューマニズムというのは双生児みたいなものだったんじゃないか。(一卵性なのか二卵性なのかまではまだ考えがいたっていないけれど。一卵性だったらスゴいな。)

 経過報告ですから、明日にはべつなことを考えているかもしれない。その点はご容赦。
 もどってきて「もうオレのやることは終わった。」と体が軽くなっていたのに(それもホントなんだ)、学校から「四月からも」と電話がはいったら、ふたつ返事で引き受けていた。自分には子どもがいないせいもあるんだろうが、もう高校生と顔を合わせるのはただただ恐怖。でも、ふわふわと出かけていくことになる。 3/27