野見山暁治さんのことば

野見山暁治さんのことば

『画文集 目に見えるもの』(2011)より

1999以前


・ぼくは大正九年、福岡県嘉穂郡穂波村に生まれ、飯塚小学校、嘉穂中学と、かつての筑豊炭田のどまんなかに育った。・・・現在でも、手垢にまみれた何か人工的な自然が人間の側に捕りこまれ、さらに時間をかけて変化してゆくさまを、ぼくは追いかけているようだ。


・町はずれから坑夫たちの住家のすぐ近くまで、延々と娼婦街がつづいている。夜更けまで明るい灯がともって賑やかなので、ぼくはよくそこを通って家に帰った。
 あれはいかんなんぞとは教師も親も言わない。人間の欲望はかなりあけすけだったし、誰もがもっと切実に生きていた。


・ぼくにとって、絵とは心情を吐きだすもの、生身の自分を晒すことだった。


・戦争が終わってからは、おもに静物ばかりを描いた。・・・ぼくは今西(中通)さんに倣い、頭蓋骨を置いて人物とも生物ともつかぬあるモノ、つまり手がかりを目のまえに置いて本来のものを想起しながら、それを打ち消してゆくような試みをつづけた。・・・一本の樹があたりの空間を支配するその存在感よりも、幹や枝によって区切られる空間、いわば枝々の細かく点在する空間に目を向けはじめていた。


・その頃(フランスに渡った50年代前半)読んだバルビゾン派の本の中に「芸術は気晴らしではない」という画家自身の言葉があったのを覚えている。
 「全身全霊をあげての気晴らしだ」、とぼくはスケッチブックのはじに書きつけた。


・パリに住んでいたある夏、ベルギーに行く途中、汽車の窓に映る景色を見て、ぼくはたじろいだ。炭坑のまっただ中をつっ走っている。どういったらいいのか、母の胎内に還ってゆくような幻覚をおぼえた。


・(高田博厚から譲り受けたパリ郊外の丘陵にあるアトリエで)雲間からの光が無数の線になって丘にそそぐとき、一面の空にぎっしり粒子が詰まっているような緊張感がみなぎる。
 その頃からだろう。ぼくの思いは具体的なモノから離れ、次第に暗示的な傾向を帯びるようになった。


・ある日、パリのミュゼ・ギメ(東洋美術館)で中国の古い絵の写真を見た。この世にこんな絵があったのか。おかしな話だが、自分が東洋人でありながら、生まれて初めて出会う驚き。山水図と題されているが、これを風景と言おうと人間と言おうと一向に構わない。自然を誠実に追い求めた揚句、ついに象徴と化した不思議。
 しかし、これは・・・ぼくだけの体験ではないようだ。・・・日本から東洋の画集を取りよせては見入る滑稽さを、それから数年くりかえして、とうとう東洋の日本にぼくは戻ってきた。


・ぼくは兵隊から帰ってきたとき、パリから帰ってきたとき、″ああ、ぼくはもう、絵描きとしてはダメだな″というのが、いままでの生涯で二度ほどあったんです。


・ぼくは目の前に人を坐らせて、顔を写しとり、そのまま作品にする気にはならない。・・・もちろんデッサンをとるのは好きで何枚も試みるが、制作の場合はそれらデッサンのほうから逆に顔というものを引き出すようにしている。


・すべての景色は移ろうものだ。今ある形は束の間のことだ。


・ぼくはこのおだやかな海に心を許さない。デーモンとでも言おうか、爽やかになびく草花も、照りかえる浜辺の白い砂も、ことごとくデーモンの支配下だということを、ぼくは知らされた。(※90年代前半の記述)





2000以後


・描きたくて近づいたものより、遂に振り向こうとしなかったもののほうに、ある意味でその画家の本性が見出せるように思う。

・なにを描いたか、ということよりも、なにを描かなかった、ということのほ方が重要だ。軟らかい花、美しい羽を持つ鳥、着飾った女。わたしは生涯、そうしたモチーフに触発されて描くということはないだろう。
    

・見つめながら、あるいは思いつくままに手を動かしてゆく速断の緊張が絵を創っていくものだと思い込んで、今に至っている。その間断ない手の動きが、対象の表面に囚われないところまで切り込んでいったときに筆を措けばよい。
  「一瞬のかたち」


・ある年齢に達すれば、若輩の計り知れぬ境地を窮めるはずだが、いやぼくもそう思い込んでいたが、それは人間だけの妄想だ。どだい他の生き物に年齢の自覚はない。


・初めてものを見る驚きが瞬間的にも生じたり、もっと欲張ってその驚きが持続すれば最高だ。
「常に嬰児の如くあれ」。この言葉ほどぼくに強く訴えてくるものはない。


・描くということは、あらゆる細部にわたって、目で撫でまわすことなのだ。


・以前からうすうす感じていたことだが、巨大な何かが自然の奥で、息をひそめている様子だ。そのひそんでいる巨大なものを見つけだそうとして、ぼくは画面に向かっているのではないか。


・ぼくは油絵具と長いこと付き合いながら、いつも別れたいなという気持ちを抱きつづけている。・・・決して計画性のない奴に向いている画材ではなかったのだ。


・どうしてぼくは忘れっぽいんだろう。油絵具でさえ、筆をもつたびにその感触をまさぐるようなことがしばしばだ。    ──2004/4/6──


・色はてんでに少し主張しすぎるようだ。形はどんなに虚勢を張っても慎ましやかだ。・・・形は色を閉じこめようとする。色は形を無視して拡がろうとする。


・男はぼくの絵に戸惑う。・・・なまじ具体的なイメージがちらつくから困るのだ。
 しかし、女のひとはよく出来たもので、モチーフについてつまらぬ詮索はしない。


・どこかへ行くというのは、ものの形が移り変わることだ。その気配を内蔵しない画面はつまらない。


・おれより長生きするぞ、と百ちかい父が、かつてぼくの寿命を予言した。ぼくにはその真意がよく分かる。ほとんど眠って過ごしている人間にとっては、長く引っ張って生きつづけないと、起きている時間が他の人と合わなくなる勘定だ。


・絵描きが「考える」ということは、画面に向かって手を動かすことだ、という気がする。


そのほか


・ぼくは自分の作品を人に見せたい。おそらく無人島に住んだら、ぼくは一枚の絵も描かないのではないか。
                  「アール・ブリュットの作家たち」

・ぼくは確信がないな。ぼくはいつでも確信がない。
─「戦争」が生んだ絵、奪った絵─

・ぼくはどこかで大人になるのを怖れている。


・パリを描いているうちに気が狂った男がいた。その男の絵を見て気が狂いそうになるほどパリに行きたくなった。  
                         
・どんなにかパリを憧れていた。ぼくだけではない。油絵を描く誰もが、遠いパリをおかしくなるくらいに思いつめていた。・・・。
 ついに還ってこなかった級友たちの生家を、戦後だいぶたってから訪ね歩いたことがあるが、その誰もが、フランスを見るまでは生きていたいと、日記に書き残していた。

・油絵を習いだしてから、ぼくが最初に買ったのは佐伯祐三の画集だ。駿河台の坂を下った通りすがりの古本屋で、陳列に恭しく飾ってあった黒い大きな画集。・・・。
 一枚一枚たんねんに頁をめくってゆくうちに、油絵具の肌ざわりというか、情念のようにほとばしる色彩が、悲しいくらいに迫ってきて、とうとう内ポケットに仕舞っている一切をはたいた。
 ずしりとした重さに、人生の大きな取引を済ませたような興奮をおぼえながら坂道を引き返していったことを思い出す。美術学校に入って半年ぐらいたっていたから、つまり半年前は九州の田舎で中学生だったのだから、ぼくにとっては初めて触れた絵画だし、フォービズムだった。
 世界のどこかに、こんなドラマの煮つまった一隅がある。早世した若者のように、分厚く頑丈な壁には怨嗟の声が泌みこんでいて、そこに住んでいる人々の沈黙やすすり泣きが、空を灰色に染めていた。
 屋根の上の赤い煙突から、時にはおそろしく狂暴な雄叫びが吐きだされ、ぽっかりとえぐられた窓や、あたりの青い鎧戸を打ち震わせてもいる。どこからも陽はささないが、木々も壁も道さえもそれ自体が淡い光を放って、隅々に巣食っている闇を浮きたたせている。
 もうぼくは手当たり次第、うすっぺらい卓袱台や椅子や、そこいらの風景を、ナイフにべっとりと原色の絵具をふくませて描きはじめた。

・どうして死にとりつかれるほどに画家は疲れはてたのだろう。そんなに疲れるまで絵を描きつづけたのだろう。パリはこの画家を、どこにも逃げられないように閉じこめてしまったのだ。視野を狭められた人間が見つめる一隅は、こよなく美しい。
 パンテオンを右にそれた古い界隈にぼくは住んでいたが、椎名(其二)さんはそこの広場を横切るたびに、ここは淋しいと呟いた。グランゾンムと刻まれたホテルが広場に面していて、その一室で佐伯祐三の幼い娘さんが、椎名さんの手にすがり、怖い怖いといって死んでいったという。
 あの部屋だったと杖の先で椎名さんは教えてくれるが、たくさんの窓がいつも白っぽく空を映しているだけだった。 『佐伯祐三のパリ』
              

・あれは。いちずにフランスをあこがれた当時の日本人が見たパリだ。(佐伯祐三の)メガネをかけると、わたしたちの造形意識にはない石の厚みや重さが、視界からうまい具合に消え、壁の心もとない亀裂や、はげかかったポスターのあせた彩りが浮かびあがってくる。           ─1998/9/3─


・もっと生きたいと老人が言う。「だって、若い頃は自分を孤独だと思っていた。しかし今は、宇宙のほうがもっと孤独だと思うようになった。これからだって、もっと分かることがあるかもしれないじゃないか。」

・二人の神父に向って椎名さんが、出てゆけ、と怒鳴っているのを聞いた。・・・この人たちは自分の教区に、気の毒なエトランゼが住んでいることを哀れにおもい、前々から救いの手をさしのべようとしていた。シイナ、あなたに私たちの善意がわかってくれたら。それを聞くとまた椎名さんはおこりだした。今すぐ出ていってくれれば、私にとってそれにまさる善意はない。二人が出ていったあとも椎名さんはおこっていた。坊主と教師ほどこの世の中に嘘つきはないのだ。                   『四百字のデッサン』


・森(有正)さんの生育は、私にはよく解らないがかなりに人為的な、観念で固めた世界だったのではないか。土台をしっかりと造り、その上に煉瓦を一枚一枚おいていって、高い建物を構築してゆくように、森さんは論理の塔を建てていったに違いない。そうして高いその部屋の窓から外を見渡した或る日、奇妙な建物を建てて棲んでいる男を見たのだ。この住人は煉瓦とは違った、つぎはぎだらけの棒ぎれで上へ上へと積み上げている。力学を無視したこの建物の素材は、森さんが今まで見たこともない「経験」ではなかったか。・・・どうも森さんは、椎名さんの世界へ一歩を踏みいれた時から、ゆるぎないバベルの塔が急にこわれて、どぎまぎしている印象を、私はその後の森さんの描いたものから受けるのだ。 『四百字のデッサン』


・どこにも太陽の光がない。闇の中に夕暮れの色が焼きつくようだ。屋根の上に並んだ赤く小さな煙突、虚空に吐きだされる薄い煙。古びた壁はいっそう古く、時代にまみれて、きらびやかだ。
 こんなにも人恋しく、煤けた巷がどこかにある。ぼくは夢中だった。・・・ 自分の好きな色を、思いっきり塗り込めばよい。描きたいものを、目の前にひきずり出せばよい。パリの煙突も壁もここにはないが、ぼくは手当たり次第、ストーブや古椅子をモチーフにした。
 描きつづけているうちに、同じような感性の絵描きがいることに気づいた。素足の女たちの、裸だか衣をつけているのか、歩いたあとに血と涙が滴っているような「信仰の悲しみ」という絵。関根正二という二十歳で死んだ男の放つ、暗い美しさ。


 美術学校の先生たちが描く裸婦は、光をうけて大きく立っていて、これは西洋につながる憧れがのぞく。萬鉄五郎の裸婦は、着物を?ぎとられたぼくの姉や母の姿だ。・・・ぼくは画集の一枚一枚をばらばらにほぐして、アトリエの床に並べ、それからというもの、這いつくばるようにして日々をすごした。
                        「ぼくの絵画鑑賞」


・いつだったかNHKの日曜美術館に二人して、ユトリロの番組に出たことがある。モンマルトルで娼婦と一夜を明かしたときの白々した朝の界隈を、リハーサルで宇佐見(英治)さんはゆっくりゆっくり喋った。
 そこのくだりは止めていただきたい、と担当の人はさえぎり、娼婦という言葉はこの番組では困る、本番ではつかわないでほしいと釘をさした。
 あんなにも烈しい反発の表情を宇佐見さんが見せたのは初めてだ。一瞬、スタジオから出ていこうとドアの方を見たように思う。そんな決意の目だった。自分の発言を拒む理由がどこにあるか。わたしは娼婦を尊敬しているのです。
 相手は困惑し、いささかたじろいだ。いいでしょう、しかしその言葉は一回だけに。やがて本番のとき、宇佐見さんはただの一回、娼婦のお方、とゆっくり呼んだ。               「長い日々を──宇佐見英治」


・(坂本善三)は、ものを描くのと同じくらい、ものを消すことにも固執していたのではないか。          ─1997/10/7─


・美しいものを創りだす人間の孤独は、誰も盗み見することができない。
                        ドガ─1998/1/6─

・世界のある都市なり、あるいは一先駆者からの発進に共鳴すると、またたくまに地球上に拡がり、ひたすら画一化に向かう。
 いつごろからか芸術を手放すことに、ぼくたちは懸命になっていたと気づく。・・・知らずにぼくたちはモードを創りはじめていたのだ。
                         ─1998/1/7─
・ふつうぼくらがモノを見るとき、色だけが抽出されることはまずない。カラー写真なんかを見ると、やけに色がついているなと、むしろ気になるくらいだ。
                      ─1999『忘れ得ぬ風景』─   
・絵画とは、どんなに広大で緊密な宇宙をも、小さなキャンパスに宿らせる術だ。                   ─1999/10『忘れ得ぬ風景』─

・人間の管理からはずれた犬をノラ犬だとさげすむのは、人間の思いあがりだよ。生きものはすべてノラなんだ。         ─1999/12─


セザンヌグレコの申し子であることをわたしはつきとめた。胎内の蒼穹という言い方はおかしいが、設定された空間にすべての事象がひしめいているために、相互の距離がちぢまり、むしろ手狭さのせいで、なまなましく息づいている。無限でない空が、逆に与えられただけの広さを保っていて、信頼できる。
                         ─1999/11/22─

・ぼくは(グレコの)トレドの怨念じみた陰翳の凝結にのめりこむ反面、(雪舟の)天橋立の縹渺とした気配にも圧倒される。    ─2000/5/25─


・確固としたモノの在りようを金山(康喜)は嫌う。在ると思うから在るので、本当は無いんや、と言った。・・・こっちがモノを見ているときだけモノは在るんや。・・・具象と仮象とのはざまに揺れながら、冷ややかにモノそのものに近づこうとする。しかし、近づくにつれて、あれほど情緒を嫌ったにもかかわらず、画面に哀しさが滲んでくるのは、作者自身は気づいていたはずだ。
・どこで筆を止めても、それなりの未完成として出来上がっている。と金山(康喜)は描きかけのぼくの絵のことを言う。それはいいことじゃないぜ。
                         ─2000/9─

・若いときは若いエネルギーをみなぎらせて、他の若者の仕草を真似ていただけのことだ。                   ─2001/7/16─


・ぼくが入学して間もなく赴任してきた図画の先生は、ふんわかとした表情で、絵は省略なり、と難しいことを言い出される。・・・それは″自然″紙の上に移し替える工夫だ。そのままでは無理なので、自然の魂みたいなものを?みだして、小さい画面の中に、いわば宇宙大に嵌めこむ、という術なんだ。・・・中学生には見当もつかなかったが、教育というものは初級も中級もない、いきなり神髄から入る者だということを、ぼくはそれ以後、胆に銘じている。
                        2001「るうゑ通信」

・瞼を閉じてしまった船越保武さんの顔。それは見事だったろう。・・・船越さんをわたしは先生と呼ぶ。・・・ぼくは先生じゃない。照れくさそうだった。それじゃ学生? 先生は小首をかしげた。じゃ、年とった学生? これは嬉しそうだった。そうだ、ぼくは年とった学生なんだよ。 ─2002/2/8─
                           

日本画は型だから、とその道の画家が言った。日本画は装飾です、と別の画家が教えてくれた。そう言われるとわかりやすい。型というからには、幾つもの世代を越えて完成した、つまり伝統というものだろう。季節の移り変わりに耐えて熟成した酒の芳香みたいなものが心にツンときた。これは存続させるだけで精いっぱいかもしれんな。・・・あえて月並みなモチーフを選んで、月並みでない絵にすること、難しいよなあ。・・・ぼくにとって日本画は依然としてエトランゼのままだ。   ─2002/4─


・ジオットの絵にひかれたのは、こういうことだったのか。わたしはようやく納得がいった、ふかい慈愛に満ちながら、この渺とした静けさには、生きたものの気配がない。死の側から見つめた生きとし生ける命の美しさだ。
                           ─2002/7─

・ぼくらの祖先は大昔、洞窟にいっぱい絵を描いた。彼らはその折りにオープニングを開き、みんなを洞窟に案内して、絵を見せびらかしただろうか。
                           ─2003/9─

・(田中幸人の)お通夜に出る。
 洋子さんと抱き合って泣いた。泣くひとを抱きとめる胸をぼくは持っているのか。悲しみをわかつ心を持っているのか。かつてパリで妻を亡くしたとき、椎名(其二)老人はこう言った。これからは悲しむ人の中に入っていってあげるんだよ、きみはその資格を持ったのだから。      ─2004/3/28─


・殆どの絵描き仲間や先輩が死んだ。しかし人間は追憶で生きるものじゃない。
  ─2004/7/12─

・ここ(角館)を以前に訪ねてから何年たったろう。ぼくが生きてゆくのに大きな影響を与えた椎名老人がこの町で生れ育っている。ただそれだけのことだが、この町を知りたいという思いが強い。        ─2004/7/17─

・絵を描くのに、プロもアマもない。プロの画家なんて呼ばれる絵描きにロクな奴はいない。ぼくが尊敬する画家は、偉大な素人。
 京都から送ってくるカードはいつも村上華岳だ。うっとりする。
                            ─2005/1/1─
村上華岳は、・・・古代中国のあの宇宙感を西洋の立体画法でみつめ、ある様式を生み出そうと焦っていたような気がする。 『絵そらごとノート』


秋野不矩、女学生のようなおばあちゃんだった。・・・
 先生の美術館を作りたいと(天竜)市長が、かきくどくのを、秋野さんは諭していた。市のお金をそんなことに使ってはいけません。
 その同意をぼくに求められたので、ぼくもむきになって市長に反対した。
                          ─2005/1/22─ 

・(唐津湾沿いのアトリエの)テラスの下へおりたら、つくしが点々と生えている。可愛いよな。花が咲いても、蝶々がとんでも、海が青くなっても、月が冴えても、そう感じないのに、つくしが生えると、どういうわけか季節を、ほのぼのと覚える。
 これを玉子とじにして食べるとうまい。味のオンチが、どうしてだろう。これだけを、うまいと感じるのだろう。         ─2005/2/20─
    

・しかし口惜しい。今から六十五年前、つまり戦争で焼ける前の沖縄。こうい
う風雅な土地があるのかと目を輝かしたものだ。人々のゆったりした身のこなしも美しかった。                  ─2005/12/5─


・美しさは本当は、むごいものかもしれない。     ─2005/6/21─


・なるべく明るい色をとの注文に、ぼくは太陽の色を知りたいと思ったが、とてもまともに目を向けられない。           ─2005/10/2─


・モンマルトルを描いた画家だと、みんな思い込んでいるが、ユトリロは本当にただ目の前の景色を描いただけだ。         ─2005/10/10─

ユトリロは、華の都を描きはしなかったが、だからといってパリの裏町を描いたわけではない。ユトリロは、自分の生涯住みついたごく小さな界隈だけを見つめて死んだのだ。
 ・・・私はこの画家をヘタクソだと言い、素人だとも言った。たしかにこれほど筆遣いの不なれな画家も少ない。しかし、このたどたどしさを誰が持ちうるか。                     『絵そらごとノート』


黒田清輝夫人の優雅、和田英作の執念、坂本繁二郎の情念。こういう先達と触れ合ったぼくの話を皆、はやしたてる。その気になって、自分でも本当だか作り話だか分からなくなる。             ─2006/1/11─


・再び弁当を作って写生に出る。セザンヌのサンビクトワールみたいな山を昨日、道に迷って見つけたのだ。
 イーゼルを立てて間近に見ると、華岳の描く山のようでもある。どっちにも見えるはずだ。彼らは真実を捉えている。       ─2006/3/24──


・被写体を目前に据えておくことは、視覚的な視覚的な現象の追求には欠かせないだろうが、もうひとつ奥へ入ってその実体を探ろうとするとき邪魔になることが多い。私は、だからある時点から、目の前のそうしたものを遠ざける。


・前田さんから、たてつづけに手紙が届く。・・・読みづらい。暇をみては判読。それが終わらないうちに次の便。
 本人に苦情を言ったが、読めなくても構わんという。ひとは何かに向かい、あるいは誰かに心のたけを語って、明日につなぐのだろう。
                          ─2006/3/29─

・ぼくはケチだから、ほとんど物を忘れるということがない。物にはココロが在ると信じている。                 ─2006/4/9─


・(パリで)大方の外人は、並べたぼくの作品を、北斎の子孫と合点しているらしい。・・・色彩なのか、構成なのか、深く知りたい気もするし、そんなことを聞いても何にもならん思いもある。         ─2006/5/11─


・たしかにぼくたちは約束された造形の範疇から、少しでもはみ出さないように、遠慮しながら描いている。            ─2006/5/15─


セザンヌピサロの二人展。・・・
 観客はイヤホーンを耳に当てて、解説に夢中だ。とうとうこんな時代。言葉が多すぎる。言葉をみんなが頼りにしすぎる。絵を聞いてどうする。・・・絵は解説や知識の一切を拒む。             ─2006/5/17─


・去年の今ごろからずっと尻をたたかれている童話本。・・・ぼくの中では、むらむらと盛りあがってきたアイデアがあるが、少しでも口にすると、途端に壊れそうで、だんまりと決め込む。          ─2006/6/13─


終戦と共にフォビスムを捨てたこと。パリに住んでキュビックへの憧れが消え、自分なりに立体を感じたこと。やがて西欧人の秩序とは異なる東洋古代の空間性に気づく。それらことごとく、ぼくの触感による経過。
                          ─2006/6/14─

・稗田(一穂・日本画家)という人は根っからの絵描きで、それ以外なんにもない。・・・油絵を描いてみたいと思ったことはありませんか、と山根(基世)さんが矛先を向けたら、あんな、にちゃにちゃ筆にくっつくのは気持ちが悪いと言った。                   ─2006/10/22─


・ヨーロッパの秀れた絵には人間の智恵というか、頭脳があったが、東洋の絵は、頭がからっぽの見事さがある。
 新たに新装なった(台北 故旧)博物館。范寛、郭熙、唐季。いずれも、この世のものとも思えぬ恐ろしい世界、・・・こんな作品が生まれる世の中、ぼくらと全く違った人間が棲んでいたはずだ。      ─2007/1/10─


・絵描きというのは職業じゃない。好きなことをして暮らそうというのは道楽だ。                        ─2007/1─


・絵を描くのが楽しくなってきたんじゃないですか、と(加島蘒造が)ぼくに聞く。そうだ、とぼくは答えたが、描くのが辛くなってきたのでは、と聞かれたら、やはり、そうだ、と答えたに違いない。     ─2007/8/7─


・中谷(泰)さんは、ぼくの描くモロモロが地面に足が着いていないといって口惜しがる。優しい皮肉屋だった。          ─2007/11/19─


・絵では、決まった位置に目鼻を入れないのに、どうして文章では当たり前のところに目鼻を入れるのかと、(妹の)りえが言う。   ─2008/4/30─


・「常に嬰児のごとくあれ」という言葉を時おり私は反芻するが、生まれて初めてモノを見る嬰児の驚きを、いったん大人になってしまった者の眼が獲得するのは容易なことではない。 『絵そらごとノート』


・ぼくはわりと色数の少ない画面が好きだ。青だけの色調、おもに黄色による色分け、時には沈んだ赤の交差。それらは暗室に一瞬、光が灯ったときのような、物がその実用性の一切を失くして、等価値に浮かび上がり、乾いた、すべてがこちらに向かっているような、そんな空間・・・


・あるものではなくて、あり得るもの、それが表現なんだ・・・
                         『一本の線』

・誰かの視線を意識すると、人はあえて無造作にふるまう。この顔の造形は、自分の制作ではないと言いたいんだな。そのくせ、モデルを見て写生すると、自分に似せた顔を描く。 『絵そらごとノート』

・中学生の終わりごろ、町の展覧会に自画像を出したことがある。・・・図画の先生が私の丹精こめた〈顔〉を見て、いい男に描いているな、女学生が惚れるぞ、とからかった。これは自画像に対する見事な批評だ。・・・人は隠さなければならない所だけをさらけ出している、といったような意味のことをヴァレリィが書いていたのを思いだす。 『絵そらごとノート』


・近頃は、葉っぱのそよぎがおそろしく美しいと思うことがある。そう思うとわたしはフォルムを見失う。 『絵そらごとノート』


・自分の家、見馴れた佇まい、いつものカミさん。なんの変哲もないモチーフの絵を、何枚も何枚も見てゆくうちに、北欧の薄い光に沈んだ哀しさが滲む。いや時の流れに曝された命というか。
   ハンマースホイ─2008/11/21─

・〈ムンク〉展。ノルウェーのほの暗い風土にうごめく人間模様。絵は描くものだ。オレは塗っていた。              ─2007/10/5─


セザンヌには体質のいやらしさがない。偏執的なものが洗い落とされると、神様の作品みたいでものたりない。晩年の薄く塗られたセザンヌの、ある完成を見た画面よりも、何度も何度も形を追いかけて、盛り上がった初期の作品のほうにひかれる。                 『一本の線』

・どうやら印象派というのは、自然の視覚から抜け出そうとする気運がかなり高まっていたようだ。私は迂闊にも今頃になってそのことに気がついた。
                        『絵そらごとノート』
・それにしてもこんな嘘っぱちの絵があるだろうか。ここまで来るなら、もう自然のものにこだわらなくてもいいんじゃないか思う一方で、セザンヌは自然の制約を楯にしなければ、こうも斬り込んでゆけなかったのではないかという気もする。 『絵そらごとノート』

セザンヌのレアリザシオン、解りやすくいえば画面に粘土細工みたいなサンビクトワールの山をこしらえて、それに大きさと空間の拡がりを与えた。
                          ─2005/6/3─


・(グレコの)トレドを描いた風景画は、ぼくに生き物の内臓の不気味さで迫ってくる。あの暗い背景は、夜の景色ではなくて、むしろ時間の外にある永劫の闇のようだ。 『一本の線』


・自分以外の、ある存在を認めるというようなことは、滅多にあることではなく、もしそれを認めなくてはならないとすれば、それは大変に恐ろしいことのように思われる。それは今までの私の絵の常識というものを、ぶち壊してしまうことになるのだ。そのときグレコのトレド風景は「風景」ではなく、「絵」というものを私に突きつけた。         『絵そらごとノート』


・ある日、わたしは画廊で、色のタッチだけで埋まっている大きな絵を見た。なにが描かれているのか、まるっきり分からないが、なんのてらいもないためにそれはたゆたゆとして美しかった。・・・このモネの絵を見たあとで、次に見せつけられた現代のスターたちの、発明や発見や叫び声は、いかにも小さく、みみっちいものだった。 『絵そらごとノート』

ゴッホの作品について、ゴッホという実在の人物が、チューブから柔らかい絵具を出して、キャンバスの上に作りあげていったその結晶とは思えないでいる。
 ・・・ゴッホのデッサンを初めて知ったのは、いつ頃だったか。あの短い線のうねりを、私は壁の一部のようには懼れない。ただひたすら好きだ。・・・ゴッホのデッサンには私たちと同じ人間が描いたもの、寒い道のうえに紙を置いて、あくことなく目に見えるものを追っかけた独りの人間がそこに居る。
 このようなデッサンを私は描きたい、というよりは、このようにキャンバスに向かっていないときにおいてもエカキでありたいと私は願う。
『絵そらごとノート』

ゴッホは偉大なる素人だとある講演でぶったら、観衆から叱られたことがある。                        ─2005/9/18─


・シュール・レアリスト(エルンスト)は、すべてのものを空気のないところで風化させ、やがて無機物に還元させて、まるで標本のように私たちの前にさらけだす。月の栄養で育ったみたいな植物が手前に描かれているが、ここに昼間はない。すべての物象が永劫に眠りつづけている。
 ・・・あのとき、会場に並べられた一枚一枚の自分の絵を、もう若くないエルンストが、うずくまるようにして眺めていた。人手に渡ってしまった自分の過去を、くぼんだ両の目で確かめている。この画家の姿を、私はやはり標本のように遠くから眺めた。 『絵そらごとノート』

・パリは戦争の余波で疲れ切っていた。・・・エルンストはピカソの贋物をつくり、そっと画商の持っていったという話がある。画商からの問い合わせをうけたピカソは、本物だと答え、後日、エルンストに連絡して、きみはぼくのサインを使ってよろしい、とこの若い画家への敬意と友情を示した。
『絵そらごとノート』

北斎は私たちの風土や祖先を、標本にしてしまった日本でただ一人のシュール・レアリストだ。 『絵そらごとノート』


・戦後、私の近所に住んでいる精神科医の医者のところに遊びに行ったら、彼はピカソマチスの絵の色刷りを机のうえに並べて見せながら、ピカソは性的コンプレックスの強い人だが、マチスは性に対して珍しいくらい正常な人だ、という説明をしてくれた。           
 ・・・マチスの頭の中では、絵は具体的に出来上がってしまっているのかもしれない。私は自分で絵を描きながら、いったいどんな絵が出来上がるのか、全く見当がつかぬ所作を繰り返している。 
 ・・・精神科医の医者はマチスの「女体」と言ったが、女体といって人間臭はマチスの「裸婦」のどこにもない。・・・しかし、そこにはある黙劇のような、表情をかくした所作がある。・・・マチスが三十歳頃から今にいたるまで私を惹きつけていたものは、よく解らないが「絵画」だったのだ。それは文学的な情緒を完全に排除した色と形だけの世界だった。 
『絵そらごとノート』

・あんなにも美しい女が描ける男が羨ましい。・・・女のなにを見ているのか。女を通してなにを察知するのか。わたしには、ピカソのどの絵にも、性の交わりの歓喜と安逸と翳りがモロに感じられて仕様がない。
・わたしはミラノの古い教会だったか、荒れた場所に置かれている大画面を見た。暗いなかで両サイドから照らし出された〈ゲルニカ〉にはなにか洞窟の匂いが漂っていた。 『絵そらごとノート』


デュフィの絵は、汽車の窓から眺める景色に似ている。田園や海辺の香りが漂ってくるが、実体はどこにもないのだ。 『絵そらごとノート』


・ルオーには、人を赤ん坊の昔にまで引き込むような郷愁と静寂の強さがある。レジェには、美女も花も工場で作り出すような、造形の図太さがある。ピカソは、軍艦でも海でも一枚のハンカチから取り出してみせる手品師の鮮やかさがあろう。デュフィがよき時代の産物だとすれば、ロルジュは戦後の空白の所産だ。彼らはそれぞれの手段で人を引きずり込む。(ジャック)ヴィヨンはわたしたちに呼びかけない。彼はいった何だろう。・・・彼は、・・・自分の表現したいものはこれだという強い欲求や意識が「判らない」といった造形の深奥に触れた豊かな情感に包まれているのではないだろうか。音楽に対するわたしの無感動な放心のありようとそっくりなのだ。 『絵そらごとノート』


・ボナールの絵は、それを鑑賞するわたしたちとの間に距離をもたない。画面のなかのもっとも手前の方にわたしたちは座らせられるのだ。
『絵そらごとノート』

・芸術家というものは、成就しないものに向かってまっしぐらに生きている。
                 ─クリスト─『絵そらごとノート』      
ロダンの見る目と同じになったら、ロダンの仕事が凡庸に見えてくるはずだ。
『絵そらごとノート』

・キャンバスに残された形は、描いた人間の生成を感じさせるが、木彫には自然の意図、鋳金には生の燃焼がただよう。    『遠ざかる景色』

・わたしは色を塗りあげながら、この他愛のない色が生きるためには、どうしたらよいのかと腐心する。優美とはゆかないにしても、どうやらわたしはイブから出発しているようだ。 『絵そらごとノート』


・絵とか詩は環境のなかで発芽するものではなく、突如として人間に襲いかかり、その人間の意志も何もかも踏みにじって振りまわす、一種の病根のような気がする。とり憑かれたおおかたの若者が、ある時期をすぎるとその病根が癒えて、さっぱりと詩魂から解放される。 『遠ざかる景色』


・色彩を排除したこの陰翳の視界〈ボタ山〉は、わたしにとって、たんに風景というものではない。この石塊の上を這いずり、遂にこの身長まで育った、かけがいのない胎内だ。
 やがて、わたしはこの土地を離れたが、目に映るどのような環境の中にも、知らずに、この黒ずんだ原型を当て嵌めようとしてきた。・・・この風景は人間がつくり、風化という自然の試練を得たのち再び人間が壊しにかかっている。
                  1984/4『絵そらごとノート』

・エカキをやめたらどうだ。今西(中通)さんは自分のふんまんを、目のまえの人にぶちまけるより術がないようであった。そうして熱のために起きられない日が多くなった。・・・
 今西さんは蒲団からむりやり起きあがっては白い石膏の首を描きはじめた。人間の顔はいやらしいといいながら、その石膏像はどのようにキュービックに面を断ちきられていても、人間の女の肖像のようであった。何枚描いてもそれは生な女だった。               
・戦争が終わり、戦火で焼けただれた福岡の街に、四国から引っ越してきた今西中通さんは、私の今までの仕事を無残にやっつけた。今西さんはシュール・レアリズムの心情をキュービックな画法で作りあげていて、私にはおよそ無縁の、ワケの解らない絵であった。今西さんは暇さえあればスケッチブックを持って外を歩いた。デッサンは、セザンヌそっくりだった。今西さんのそれらの絵を通して、私はグレコに熱中するようになった。・・・雲がかげって風景の一部に影が出来たとき、ほんとうに美しいとおもうことがあるだろう。それなら自分でその影を落とせばよいのだよ。私は在るがままの風景から、在り得る風景に飛躍した。今西さんが亡くなられた年、私は上京した。
『四百字のデッサン』

・ノミヤマは同級だよな。酔っぱらうと駒井(哲郎)は大きな声で親愛の情を示す。・・・
 ダレ? 駒井は私の顔をたしかめると抱きつく。お前の絵、だれよりもいいぞ。本当にそう思うか、ほかの奴のをよく見たのか。見なくったって解っている、お前のが一番いいよ。どうして? ノミヤマだからさ。わたしは急に泣きたくなる。長いあいだ胸につかえていた駒井への気後れみたいなものが一気に解けて、私は懸命に、もたれかかってくる体を、信頼を、友情を受けとめる。この一瞬のために、いつも素知らぬ顔をして二人は通り過ごしているようだ。
 自分の装幀した本が出来上がると駒井は、本当に素知らぬ顔をして私にくれる。・・・駒井の装幀は目立たぬ神経の美しさがあって、版画とは違った空間のしめつけ方がまた趣をかえている。最後に私が受け取った包みは駒井自身が書いた本だった。・・・これは著者から直接渡されたものではない。駒井が亡くなった一ヶ月後にその本は出来上がったものだ。 『四百字のデッサン』


・絵とは何か。ぼくは中学の一年生だったが、どんな色を使うにも、どんな線を引くにも、(鳥飼)先生はつねにそう問いかけておられたように思う。
 ・・・そのあまりにも漠としたものに向かって先生は一途で、一途なあまりもてあまして、その問いをぼくにバトンタッチされたらしい。
 ・・・貧乏ぐらしの長いパリ生活をおえ、四十歳を過ぎて帰ってきたぼくを、玄関で見おろすなり、あまり苦労しておらんようじゃな、と例のうそぶくような笑声をたてられた。


・中学一年生の秋に、ぼくは油絵具を買ってもらい、べたべた色を塗っては喜んでいた。こんな面白いことをして生涯すごせたらと、ある日、図画教師に美術学校に行きたいという思いを打ち明けたところ、それなら好き勝手に描いてはいてはダメ、明日から木炭で石膏を写生しろ、と意外なことを言われた。
 好き勝手に描くのが、絵じゃないか。そういう了見だから、夢中になっておれたのだ。ぼくは目の前が暗くなった。 「芸大入試はどうあるべきか」
                     

・(受験のため上京後)決められたモチーフと、それによる技法の画一化は耐えがたかった。中学の先生はのびのびと描かせてくれていた。・・・
 なんとか影をつけずに、山の量感、壺の立体感は出せないものかと、中学の美術部ではそれぞれが腐心していた。


・入試のはじまる最後の週・・・その間に描いたデッサンを助手が序列順に並べ、小林先生の批評を仰ぐ。小林萬吾という先生は美校の教授だ。
 はじめに並んだ四、五枚の作品とその生徒たちの顔を先生は確かめ、かなり有力であると確約のVサインを目でおくり、次のブロックには、来年は入るだろうと励ました。・・・
 序列のおしまいあたりで小林先生はぼくの絵の前で足をとめ、これは誰が描いたのかと尋ねた。どういう教師につき、どういう教わり方をしたのか? 先生は根ほり葉ほり尋ねたあげく、みんなは立体を描こうとしているが、石膏像の重さを描いているのはこの絵だけだ、と一同を見渡した。
 小林先生はぼくの名前を聞き、さらにその文字までを確かめたのだ。ずらりと並んでいる作品をとびこえて、その年の入試にうかったのは、その瞬間に決まったことではなかったのか。           『一本の線』
 

・美術学校の帰り、池袋駅に着いたときは、日が暮れていた。十二月だから早くに暗くなる。乗り換えの武蔵野線の方へ歩いてゆくと、異様な人だかりだ。
 壁に張られた紙いっぱいに、墨も滴らんばかりに大きな文字で、日本のアメリカに対する宣戦布告。すでに敵の戦艦を何隻か撃沈、目下交戦中という。もはや抜き差しならぬ状況。
 わけもなくぼくは震えだし、電車に乗っても震えは止まらず、椎名町から斜めに暗い雑草のなかを走った。
 アトリエでは妹のマドが、割り当てられた一日分の僅かな食菜を鍋に入れて、いつものように夕食の用意をしていた。壁に貼り付いた恐ろしい現状をまだ知らないらしい。ぼくは一気に吐きだした。
 生まれてこのかた、キナ臭い戦争のにおいを嗅がされながら、ぼくは育っている。それは次第に黒い霧みたいに垂れ込めてきて、この先、どうにもならない危機を孕んでいるように思われた。
 予期せぬことではなかったし、この先、黒い不安に脅えながらずっと暮らすくらいなら、いっそどこかで決着をといった期待をしないでもなかった。
 あの雑草の夜道は、果てしなく続いているように思われた。なにか大事にしていたものを見失ってはいけないといった焦燥、一気に闇が立ちこめて、あたりの景色をかき消してしまいそうな恐怖。ぼくがおぼつかないながら、自分というものを自覚しはじめた二十歳の冬のことだ。  
・・・日々、日本の戦況はわるくなり、落第前のかつての同級生たちはすでに戦場へ駆り出されている。ぼくはもうアトリエで動かなくなり、目の前にいる妹を、ただ描き続けた。           「ぼくが二十歳のとき」


・二十二歳の秋に連れてゆかれた曠野を忘れることができない。行く手にソ連領の丘が連なり、生をここまでで断ち切るように、視界を塞いでいた。背後に拡がる広大な中国の原野は寒い霧の彼方に掻き消されている。丘の切りたった崖には、いくつもの穴ぼこが黒い影を落としていて、その中から銃眼が常に、ぼくたちの動きに合わせて作動していた。ぼくたちはここで死ぬ。生涯の終焉として設定された風景は、もはや風景というものではない。
 二十四歳の夏、きらびやかな夜空を見た。一面、煌々と照り映えて、アメリカの飛行機がその中を旋回し、はるか下に福岡の街が黒々と横たわる。きらきらと降ってくる爆弾に、そのたび、もんどりうって火の手があがる。この焔の中に父も母もいることを忘れてぼくは見惚れた。
                        「被災地を歩く」

・フジタは従軍画家のボスとして、戦意高揚の先頭に立ったはずだが、作品は反戦的、というより、むしろ人間の生を呪詛するような暗さにおおわれている。
 ・・・フジタはぼくらの誰よりも日本人だった。老いてくるにつれて日本を恋しがった。しかし──戦争画を描いた自分を故国は受け入れてはくれないだろう。それは確信に近く、遂にフランス国籍を取得した。それだけに日本と向かい合っていたように思う。  
               「ぼくの知っているフジタ──藤田嗣治

・残していった手記や手紙には、周囲の人々への思い遣りが溢れていて、その一途さに戸惑いすら覚える。こんな時代があったのだと思い起こすほどに、今の世は人間相互の信頼を失くしていることに気づく。ついこの間までの他者へのなに気ない気遣いが、こんなにも貴重になったのかと、今更のように知らされる。                   無言館「永劫に生きる証言」


・(満州陸軍病院で明日をも知れぬ日々をベッドで送っていたころを回想して)死ぬのはそう難しいことではない。・・・生きるのもそう難しいことではないらしい。朝起きるようにぼくは生きてきた。・・・        『一本の線』


・生きて還った香月さんは、小さいアトリエに籠って、自分のシベリヤを描き綴ることに、終生をついやした。それは空白の日記を埋める作業だったのだろう。             「香月泰男──アトリエの中のシベリヤ」 


・なにか確かなもの。生きる拠りどころといってはおかしいが、これ以外にはあり得ないという手応えを得られるもの。ぼくはそういう形を?みたかった。信頼できる一本の線を引きたかった。・・・正確さだけが信頼できる。白い紙の上に線を引きながら、これはデッサンといえるかどうか、ぼくは不安でならなかった。・・・醸し出す空間も情緒もなければ、これはやはりただの線だ。・・・ぼくは誰かに罵られたくなっていた。このまま続けるのが不安でならない。東京に行こうと決心したのは、(門司の)セメント工場を見おろしていたある日だ。                     『一本の線』


・あの頃のことを思いだすと、なにか今のこの世の中とまるで違う、例えば〈昔〉という言葉で取り出せるような、ある隔絶した風景の中に、人は住んでいた。・・・くどいかもしれんが、そういう〈昔〉がついこの間まであった。               「麻生三郎──「ひとり」が描かれた頃」


・人生は舞台だと思いこんでいた。しかし、本当は楽屋裏だったんだと八十をすぎてやっと気がついた。  『いつも今日』


・いつの間にか骸骨ふうの顔立ちになっている。・・・亡くなったカミさんが見たら、こんな爺さんと笑うだろう。
 しかし、実のところこの面付きになるのを、ぼくは今まで待っていたのかもしれない。こうなってからがぼくの人生なんだ。そういう気がする。世の中の人が、こんな爺さんなんかはと、放り出したところから、人間は出発すると、ようやく気付いた。                 ─2007/1─


・逝ってしまった男のことはめんめんと述べているのに、女のことについては殆ど触れていない。それは追悼といった、ある訣別の思いがなく、秘やかな、ぼくだけのものだ。
 しかし、年を経るごとに哀しさが増して、その折々の、彼女を包んだ風景が、繰り返し繰り返し目の前に拡がってくる。
 あの風景はもう無い。歳月が人を変えるように、あたりの景色も、まるっきり変わってしまった。
 今になってみると何のことはない。交尾の季節に体を突きあげられて、あんなにも血まなこになっていたような気がしてならん。物語めいた色んな作り話を、まことしやかに取りつくろって来ただけのことだ。
 自分で取りつくろったというよりも、神がうまく運んでくれたような気がする。年老いた男たちはその季節が還ってこないのを、やたらと淋しがるが、ぼくはむしろ神が仕掛けた罠に捕らえられた日々が忌々しい。
 時おり夢を見る。・・・そもそも交尾というのは神のいたずらで、成就することない、いわばイリュージョンなのではないか。夢の中で追いかけてさえ逃げる。・・・
 結構だ。このまま生きつづければいい。生、そのものがイリュージョンだと、今は思うようになった。                             2011『異郷の陽だまり』あとがき