結合し且つ分離するもの

I先生へ
 葉書を投函した次の日、お手紙を受け取りました。
 内容の一部が入れ違いになったようですが、ありがとうございました。ふかい満足感を得ることができました。わたしは若いころから、いい出会いに恵まれてきましたが、今回もまたそうです。しかもそれが64才になってからというのは、なんという贅沢な男なのだろうと、ちょっと怖いくらいです。
 教え子の方たちのために今もエネルギーを使っていらっしゃるとのこと。そこが大学と高校の大きな違いなのですね。私の仕事は、もっと手前──卒業生が、「オレは大人になった」と感じたところまで──で終わります。
 検査結果はいかがだったのでしょうか?
 気になりますが、今日は前回のつづきに限ろうと思います。

 読みおえて2週間ほど、自分が何を読んだのかも分からないままに過ごしておりましたが、やっと見えてきたものがありますので、それをご報告いたします。
 昨年でしたか、旅行中、列車のなかで、お酒でぼうっとなっていたとき、「カントの″物自体″は、藭を守るための概念なんだ」という考えがふっと湧いてきました。それっきりなのですが、当人はそれで何かが達成されたかのような──その「何か」は、たぶん単にそのときの「旅」なのだと思います──充足感がありました。
 今回もそれと似たようなことが浮かんできたのです。
 それはたぶん、先生のおっしゃる「予感」(すてきな言葉です!)みたいなものかもしれません。

 カソリック教会のなかには、偶像はともかくとして、それぞれの場所の土俗、あるいは公共性など、ほんらいのキリスト教とは別のものがずいぶん含まれているように思われます。十数年前、イギリスを歩いたとき、地方の町の教会に入れてもらって、その内部の不思議さに戸惑いましたが、「これは日本の公民館のようなものだな」と考えたら、アングリカン・チャーチの中途半端さに親しみを感じるようになりました。(わたし自身は仏教徒です。ただし、宗派仏教ではなく、神仏混淆の日本仏教徒のつもりです。)
 が、それ以上に、カトリシズムのなかにある社会性や政治性に我慢ならなくなった人々は、ただキリスト教のみを選択しようと教会を捨てました。そのとき、教会のなかにあった土俗的なものは社会に飛散し、そこで人々の気づかぬうちに根づいて育ちはじめました。その一方で教会内部でも、改革を急ぐなかで、ドグマ以外の非科学的なものは無視されるようになっていきます。
 ユングが、集合的無意識と呼んだのは、人々からも教会からも無視されていった、その(劣等な)土俗的なもののことではないでしょうか。
 個はアトム(あるいはニュークリア)ではなく、土俗的なもの(気体)が凝集して個々の粒子になったにすぎないものです。ある人は、日本語の「こころ」は、古事記の「ヲノコロ島」同様「凝る」から来ていると言います。わたしたちもそう思います。
──ニュークリアは無数のクォーツからなっています。そのクォーツも最終的な「個」ではないかもしれません。──しかし、「個」がすべての基準になると考えた人々にとって、古代からの茫洋模糊とした土俗は一瞥を投げかける気もおきないものでした。
 その茫洋模糊としたものを、目に見える形あるものにして、人々に気づかせることによって、もいちど存在場所を与える必要性が、ユング錬金術にのめりこませたのではないか。(もちろん彼の資質がもっとも大きい影響を及ぼしているにはちがいないでしょうが、なにか、使命感のようなものが彼を突き動かしている気配を感じます)いまわたしが考えているのはそういうことです。
 できうることならば、その集合的無意識を(それは謎であるとともに、破局をもたらすかもしれぬ危険性をはらんだものでもありまうが)も一度教会内に誘いこむことによって、社会的場に蔓延る動機をなくしたい。ましてや、根深く生長して地中のマグマと繋がることを避けたい。と同時に、そうすることによって教会をもいちど人々にとっての拠り所として生気あるものにしたい。
 ピュアなものはいつか餓死するしかありません。しかし、キリスト教を餓死させてはならないのです。そのためには、日本語でいえば「雑(ぞう)」にあたるものが必要なのです。ユングにとって錬金術グノーシスがその「雑(ぞう)」にあたるものでした。
 それはまた、小林秀雄が「いまの人に無常はわからない。常なるものを見失ったからだ」とタンカをきった「常なるもの」のイメージとも重なります。無常を高級なものとし、常なるものを低級なものと見なす輩に無常が分かるわけがない。
 「女はオレの成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行こうとしたオレの小癪な夢を一挙に破ってくれた」と言い放った人は、「無意識」という語を使わずに同じことを言っている気がします。それも「予感」なのかもしれません。
 横道にそれますが、(いまはそれを「すべる」というのだそうです)、若いころは「小林秀雄のいう″常なるもの″とは、つまるところ″無常といふこと″になる。これは逆説ではなくトートロジーだ」と思っていました。それが上のような考え方に変わったのは、ひとえに偏差値50前後の生徒たちと、わたしの書くものなど一顧だにしない配偶者のおかげです。(いまもわたしの書くものにはまったく触れようともしません。触れたらたぶん「この人は変になりよる」としか思わないでしょうから、そのほうがいいのです。)

 実は少しまえ、グノーシスのことを知りたくて本を漁った時期があります。
 昔話になりますが、高校の教科書に「ユダヤ教が普遍化してキリスト教になった」ととれる記述がありました。一民族固有の宗教だったものが、多くの民族が信仰するものになったということは分かりました。しかし、その過程でユダヤ教がどう変質していったのかがさっぱり分かりません。
 大人になって、そのユダヤ教キリスト教のあいだにはなにかミッシング・リンクがあるのではないかと、グノーシスに目をつけたのですが、読んでもまったく分からず、そのことは断念していました。(その後、エリィ・フォールが『美術史』で「セム人は去勢されねばならなかった」と言っているのに出会い、そうか、ユダヤ教を去勢したのがキリスト教なのか、と思っています)
 今回、そのグノーシスへの言及が繰り返し出てくるうえに、どうやらそれも錬金術と同様の分野に入ると考えていることに驚きました。ミッシング・リンクが見つかれば一挙に解決するかのように考えていたから分からなかったのです。前回書きましたように、触媒だったと考えれば、それも大地に足を踏ん張った人々の無意識のなかで起こったことだと考えれば何かが見えてくるかもしれません。またエネルギーが湧いてきました。

 定年でやめた学校に「自分はクリスチャンだ」と態度をはっきりさせている男がいました。先ほど書きましたようにわたしは仏教徒ですが、かれとは安心して話ができました。あるとき「日本が英語圏になってもオレはクリスチャンにはならん」というと、ニコッとして「そんな人がいちばん危ないんですよ」というので笑いました。
 ならない理由は、最初の方で書きましたように、わたしという個の成分は、この
土地の風土そのものだと思っているからです。わたしという個はこの風土が半凝結した、いわば中間生成物だと思います。ですからそれはいつかまた風土へと溶解していくでしょう。わたしはそんな土壌で育ちました。(わたしは、神道のはじまりは地霊信仰だったのだと思います。ユング黒死病などの死者数よりも人為によって死んだ者の方が遙かに多いと言っていますが、わたしたちの先祖がもっとも怖れたのは自然──地の霊──でした。)
 もちろん風は外国からも吹いてきて、わたしの組成は徐々に変化しているはずですが、その変化は、当人にとっては心地よいもので、不思議に動揺はおきません。
 なにごとが起ころうとも、わたしたちはまたいつか何かに帰一する。そういうイメージです。しかし、帰一したあとにあるのは「無」です。あとは何もありません。わたしたちにとっては安心できるそんなイメージも、西の人々にとっては受け容れられないおぞましい考えだと思います。
 「結び且つ解く、結合し且つ分離する、解き且つ結ぶ、分離し且つ結合する。」
 そういう永劫の作用、永劫の変成という動的なものがきっと必要なのです。そして、そういう風にあたることはなんと快いことなののでしょう。
 あとひとつのわたしがキリスト教徒にはならない理由は、わたしにはジーザス・クライストという人格を感じとるセンサーが欠けています。ですからそれは単なる知識でしかありません。ただこのごろ、百億人以上はいたはずの人類のなかに、聖母マリアのようなことを体験しなければならなかったひとがひとりぐらいいてもいいんじゃないか、とは思うようになりました。──これはたぶん、「土俗」のほうにふくまれる感覚なのでしょう。

 まったく偶然なのですが、先週、大濠公園能楽堂で『オイディプス王』をみました。そういうことをやっている同年輩のひとが福岡にいるのです。
 赤ん坊のときに殺された筈の嫡子オイディプスに起こったことは、アポロンを祀るために必要なことだったのでしょう。オイディプスはいわばアポロンに献げられた生け贄です。
 非嫡子として錬金術、殺された筈の嫡子としてのグノーシスユングのなかにはそんなイメージがあったのかもしれません。

 『人間心理と宗教』を半分くらい読みました。
 そのなかに、グノーシスの「キリストは復活するまでのあいだに冥府ないしは地獄に降り、そこに堕ちていまだ救われない人々のたましいに藭の栄光を示した」という(註)をみてびっくりしました。「もう仏教じゃないか、これは。」
 あと一カ所ユング自身の引用がありました。
 「人間はかつて犯したこともない罪から救われることは出来ない」
 「劣等感に苛まれている人々」を原罪の呪縛から解き放つこと。「バッハの野性」とは、その「原罪をともなわないキリスト教」なのかもしれません。(あるドイツの声楽者は「日本人はキリスト教は信じていないかもしれないけれど、バッハは信じている」と語っていました。)しかし、それは同時に「救われようがなく」なることでもあります。
 ずいぶんまえになりますが、音楽評論家吉田秀和が、「ドイツに行ったとき図書館で読んだ当時の新聞に、″ベートーベンは自分たちは救われないということに救いを見出している″という批評をみつけた。あのころはそんな音楽批評もあった。」と書いていました。
 それを「逆説だ」と解釈したとたんに、たぶん、産まれかけていた何かの姿が見えなくなる。そんな機微をユングは語ろうとしていたのではないでしょうか。

 長くなりました。
 『結合の神秘』はいつか、いま頭にあるようなことをいったん忘れてしまったころに手にします。忘れるのは、わたしの得意中の得意です。
 「またおいで」というお言葉、たいへんうれしうございます。
 ただ、学期中は、なにか頭のなかでずうっと続いているものがありますので、次回は夏休みに入ってからお邪魔させていただこうと考えています。ひょっとしたらその前にまたお手紙を押しつけることになるかもしれません。そのときは宜しくお願いいたします。
                     2013/04/28

別件
 GW入りして、単身赴任中だった前の家のお父さんの顔をひさしぶりで見た。
──よっちゃんがうれしそうやったよ。
 朝9時半ごろ出かけようとしたら、メリィがまたお父さんと散歩に出かけている。朝の散歩はウチのチビたちと同じ時刻にすませているのに。
 山小屋に行ったときのピッピやガロと同じだ。
「お父さんになら、わがままを言ってもきっと受け入れてくれる。」そう信じ込んでせかされると拒絶できなくなる。
──お父さんが帰ってきて、いちばんうれしいとはメリィやね。