浅野俊哉

                スピノザ<触発の思考>         浅野俊哉
序 
 スピノザの思考の根幹にあるのは、たとえば「無媒介性」(あるいは弁証法/目的論の拒否)、「外部なき思考」(あるいは内在性)、「力」(あるいは力能/能力)、そして「触発」(変様)といった概念――これらはどれも一つの主題の変奏にほかならない。――などである。確固とした輪郭と実質を持つと想定されている概念が、じつは様々な諸力の組み合わせを通して構成される暫定的な構築物のひとつに過ぎないという認識も、当然そこに含まれる。さらに政治思想においては、反ユートピア的な現実主義という特徴も付け加わる。
 スピノザが見ていたのは次のような世界のありようである。
 何かと何かが出会い、そこに前と異なる状態が現出する。出会う対象は、人同士だけでなく、ものや情報、思想やイメージでもよいし、何らかの情動、欲望、あるいは力――権力であれ影響力であれ――でもよい。世界とは、それらが遭遇し、反発し合ったり、時にひとつに合わさって新たな存在や力を創出したりしながら、絶えず変化を続けて止まない生成の過程以外のものではない。ある変化が別の変化を生み、それらが凝集してひとつの大きな力を作り出すこともあれば、出会いによってひとつの関係性が解体され、ある部分が細かな捉えられない流れとなってシステムから漏出し、新たな変異を形作ることもある。それらの一切が、様態というひとつの同じ平面上で生起する。
 このような諸力の渦巻く場に起こる出来事のありようをスピノザは、触発=変様(アフェクチオ)と呼んだ。表題はそこから借りている。
1588~1679ホッブス英  『社会契約論』
1596~1650デカルト仏(仏→スウェデン)
1632~1677スピノザ猶(スペイン⇨~~~⇨オランダ)
1712~1778ルソー仏(墺→仏)
1724~1804カント 独
1749~1832ゲーテ
1753~1821ドゥ・メーストル仏
1770~1831ヘーゲル独(墺→独)
1804~1872フォイエルバッハ独            
  宗教にとっては神聖なもののみが真実である。哲学にとっては真実なるもののみが神聖である。 
1809~1847メンデルスゾーン
1818~1883マルクス猶(独→仏→英)
1844~1900ニーチェ独(プロイセン→スイス)
1856~1939フロイト独(墺→独→英)
1859~1941ベルグソン
1862~1954マイネッケ独
1868~1951アラン仏
1870~1945西田幾多郎 石川県河北郡森村(かほく市森)
1881~1963デボーリン猶(露)『マルクス主義の旗の下に』主宰
1883~1955オルテガ・イ・ガセット西班牙
1888~1985シュミット独   ナチスの桂冠学者
1897~1945三木清 兵庫県揖保郡平井村小神(たつの市揖西町
1899~1973シュトラウス猶(独→米)新保守主義
  ヘブライイズム⇔ヘレニズム
 「十字(架)。たとえそれがリベラリズムであっても、その前にひれ伏す理由はない。いかなる十字(架)よりも、ゲット  ーのほうがましだ。」
1900~1980フロム独(独→瑞西
1902~1983小林秀雄 神田区猿楽町
1903~1967アドルノ半猶(独→米→独)
 「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。」
1906~1995レヴィナス猶(リトアニア→仏)ユダヤ神学校長
1909~1997バーリン猶(ラトビア→英)
1933~     ネグリ
  ※しだいに戯曲のような様相を呈してくるので、抜き書きの仕方を変える。順序も一部変える。
第一章 触発の思考 <良心>の不在と偏在
                 ――morsus conscientiaeの行方――
浅野俊哉  レヴィナスは、例えば次のように述べる。
  「私を追ってくる痛み、という形をとって、他の人間が被っている痛みが私を傷つける。まるで初めから、 他の人間が私に訴えかけているかのように。まるで私が現世での私の痛みを嘆くより前に他者に対して責任を 負わなければならないかのように、その痛みが私を苛む。このことにこそ、痛みのうちにこそ、その「志向」 のうちにこそ、<善>へと通じる突破口があるのではなかろうか。
  責任とはあらゆる自由に先立ち、あらゆる意識/良心に先立ち、あらゆる現在にも先だって背負わされた債 務に、一切の理解に先立って、責を負うことである。」
  スピノザレヴィナスの思想的立場には、スピノザのコナトゥス(※努力、衝動、性向≒遠心力を伴った情 動?)に対する(レヴィナスの)誤解に基づく論難だけに原因を帰すことができない。甚だしい懸隔があるの は事実である。(※スピノザの言明≒<良心の呵責>は、神を運命の支配下に置くものであって、したがって、 実に背理のなかでも最大の背理というべきだ。)にもかかわらず、上のような叙述には。彼ら二人の倫理と問 題構成の間に、極めて精到に同定すべき「近接点」――準線に無限に接近しつつ交差寸前で変曲点を形成する 放物線のごとき――があることが、微かに垣間見える。
                       ※スピノザのキーワード≒「にもかかわらず」           
第二章  シュトラス <徳>をめぐる係争
 スピノザシュトラウスは、当初から、互いに強いベクトルで拮抗し合いながら、少なくともある一点(≒政治?)では交差してもいる。
シュトラウス  哲学と聖書は、人間の魂のドラマにおいて根本的に敵対し合う。・・・その、いまだに解決を みない先鋭的な対立こそ、西洋文明の活力の秘密だ。――啓蒙と啓示の対立――
                       「絶望が切望を生む」――シェイクスピア――
浅野俊哉  啓示宗教に対し、哲学の立場から仮借ない批判を加えたとされるスピノザはイエスに否定的だった わけでは決してない(「他の人間の完全性より卓抜していたので、神はモーゼにすら啓示しなかった事柄をイ エスに啓示した。イエスはモーゼのようにそれを〝戒律や規定〟として知覚したのではなく、〝十全に、永遠 の真理として〟知覚した。―言語としてではなくイエスのなかに生じた―)という点で、『アンチ・クリスト』 におけるニーチェのスタンスと類似している。
  「政治は、その時々の社会の物質的な諸条件――その中には社会を構成する成員の「欲望」も当然含まれる ――の変化に対応しつつ、成員の活動力の展開を保障するための一回的な政策選択の営みである。
  シュトラウスに欠けていたのは哲学に対する無理解ではなく、「現実」を巧妙に思考の外部に置く、政治へ の無理解だ。
  観念的な理想の実現には、ほとんど必然的に、社会の「均質性」が前提になる。高邁な理想を説く者は必ず 少数者を排除する。」
ベルグソン  スピノザが肯定しようとした対象(自己保存の欲求≒徳)は、何か微妙な、非常に軽く、ほとん ど空気のようなものであり、それに接近すると逃げ去り、それを遠くから眺めようとすれば、その他一切の大 事と思われる事柄にすら拘泥する気をなくすほどのものだ。
浅野  若い頃のアランもそうだった。
第三章<アドルノ>「ひとつの場所」あるいは反転する鏡像
浅野  アドルノは、おそらく人類の誕生とともにあったであろう本源的な傾向――世界の全体を統合的に把握 し、認識対象の合理的整序を止めない、人間の知的・文化的活動そのものが帯びる暴力性――の告発に専心し た。」
  「スピノザは、共同社会の目的は自由であると訴え、人々がそこに到達する道筋を包括的に追究するととも に、各々の個別的な差異を抹消することなしに諸々の個体の有する能動性を最大限に展開できる社会性とはい かなるものかという問いを一貫して考究していた」≒「全体性は虚偽である。」
  ━━〝否定〟を思考のモチーフにしたアドルノ
  ━━ニーチェに連なる〝肯定〟の思想スピノザ
スピノザ  各々の物が自己の存在に固執しようと努める努力は、その物の現実的本質にほかならない。
アドルノ  人間における個的生命の生存衝動として表出する自然(≒自己保存の欲求)が自らの限界まで展  開するとき、保持されるべき当の個体すら破壊するに至る。
 ※スピノザは「自己保存の欲求」はすべての生物が備えているものと考えた。「理性は自然に反する何事も要 求しない。」
アドルノ  啓蒙はおよそいかなる体系にも劣らず全体<主義>的である。」
ニーチェ  「同一性」は人間の基本的誤謬であり、妄想だ。一枚の葉が他の一枚とまったく同じだということ は断じてない。木の葉という概念はこうした個性的な多くの差異を恣意的に棄て去ることによって形成された。 そしてこの概念は、自然のうちにある様々な木の葉のなかに「木の葉そのもの」とでも言えるような原型が存 在しているかのような観念を呼び覚ます。
ヘーゲル  知は体系としてのみ現実的である。全体は自律的であり、諸部分はこの統一体の契機にすぎない。 ・・全体が部分の関係を形成する。・・真理は全体である。
アドルノ  全体性であると称する精神などというものは、二十世紀になってのし上がってきた単一政党となん ら変わりがない。・・アウシュヴィッツこそ、純粋な同一性という哲学素の現実体である。
ニーチェ  我々を前進させる認識というものはすべて同一化(同等でないもの、類似のものの同一化)の認識 であって、これは本質的に非論理的だ。・・我々は諸特性の担い手として本質というものを生み出し、諸特性 の原因として抽象物を生み出す。・・そのようにして限界づけられた「樹木」という統一性は、現実には存在 しない。
浅野  〝すべての色は、光によって可視的となる。光なしには、いかなる色も存在できず、相互に区別もでき ない〟という命題があったとして、これは、〝すべての色は、究極的には光に解消される〟という命題と同一 ではない。・・そこでは多様性は否定されるのではなくて、むしろ多様性の存在は命題が成立するための条件 である。
  (スピノザにとって)「なにかが在る」ということは、その個々の存立ではなく、「在る」という事態そのも のを成立させている動的な力能と捉えられる。・・「原子や分子間の凝集エネルギーがなければ、この宇宙のす べての物質は自らの形態を存立させ得ない」という言明と類比できるように。
 自己原因の本性から「無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じなければならない」ことを証明していくス ピノザの実体論は、そのもとに依存する諸事物すなわち様態の等質性や等価性をいささかも意味せず、ただ単 に、世界がこのように「在る」こと、そしてそれがどこまでも多様で豊かな仕方――「人間」的な観点からす ればしばしば残酷なあり方――でしか存在することができないということ、そうした事態の基盤となる条件を 示している。
  「全体には外部などない」というスピノザの立場は、私たちが飽くことなく生産しつづける「全体性」とい う思考を解体させる契機となるとすら主張できる。
  アドルノ同様、スピノザの立場に立っても「全体性は虚偽」である。
  同様に、「真」や「一」、あるいは「存在」とか「事物」といった超越的名辞を私たちは形成してしまうが、 それらは「人間身体が限定されたものであるため、自らのうちの一定数の表象像しか同時に判然と形成するこ とができないということから生ずる。」
  スピノザによれば、どの一箇の様態をとっても、定義上、自律的な存在というものはない。「人間身体は、 自らを維持するために極めて多くの他の物体を要し、これらの物体からいわば絶えず更新される」
 「人間の精神も自然の一部分である」
  スピノザにおいては、意識は、「合目的性の錯覚、自由意志の錯覚、神学的錯覚という三重の錯覚の上に構 成される」
浅野  世界は、人間的な観点からすると甚だ異例なことに満ちている。「管理」や「統合化」をはみ出す存 在の充満と横溢の契機がそれである。それに正当な位置と表現を与えるところに、スピノザの思想の破壊力(※ と「喜び」)がある。
ニーチェ  生とは本質的に、傷つけ、暴力を振るい、搾取し、破壊するものとして働く。
 人間が存在に固執する力は限定されており、外部の諸原因の力によって無限に凌駕される。
浅野  スピノザ的な様態的世界観においては、暴力こそ自然の本質である。
  ・・・世界は、そこに存在するすべての存在物が、解体に曝されつつ一定の秩序形成をするプロセスであり 続ける。
  スピノザはそれに対して、断罪も、その外に救済の展望を求めることもせず、――力がこの世界の生成原理 であるということを――あるがままに承認しつつ、にもかかわらず人間が能動的な生を構築し得る契機を探ろ うとしている。それは絶望ではない。
  「哲学の主題。それは、哲学によって偶然的なものとして<無視して差し支えない量>へと貶められてしま った諸性質だ。」
第四章<ネグり>絶対的民主主義
 国家の廃絶と歴史の終焉⇔スピノザという爆雷
ルソー  真の民主主義はこれまでも存在しなかったし、これからも存在しないだろう。代議制という仕組みは 民主主義の堕落形態でしかない。
ネグり  コモンの再生産≒マルチチュード(群衆≒多数性)によって運営され、組織され、指揮される生産的 かつ政治的な力の組織化≒絶対的民主主義
スピノザ  共同社会状態の目的は、生活と平和と安全にほかならない。(≒残酷な平和)
  野蛮人であれ文明人であれ、至るところで互いに関係を結び、何らかの共同社会状態を形成すること≒人間 の必然的(≒受動的)な衝動に基づく営み。
    理性は自然に反する何事も教えない。・・人間は、理性より感情によって導かれる。
    国家は改廃可能な「機械」や「装置」ではなく、人間の相互的な情動という力学から産出される「効果」である。
    人間が自然の一部でないように(≒理性によって)存在することは不可能だ。・・人間は必然的に常に受動 に隷属し、自然の共通の秩序に従い、服従し、自然の要求に適応に自らを適応させる。
  生身の人間が形作る現実の社会では、愛は人々を持続的に結びつける力としては脆弱すぎる。(民主主義≒ 民衆の活動力の展開を永続的に保障する制度的仕組み)
第五章 <バーリン>二つの自由
バーリン  「積極的自由」(≒能動的自由≒自分自身の意志行為の道具たろうとする「自由」)は、種族、民族、 教会、国家といった「社会全体」の目標に個人の自我を従属させることすら「自由」の名のもとに正当化する 危険性を孕んでいる。
    自己実現を求める学説(≒ヘーゲル主義者)は、「特定の原理ないし理想との完全な自己同一化」に帰結し、「具体的で経験的な自我」を抑圧するメカニズムに簡単に転化する。・・ビスマルクスピノザの賞賛者だった。
スピノザ  国家は自由のために存在する。 
  真の意味で自由なのは実体━この世界を成立させている力能≒神━のみであり、人間を含むすべての個物は、 様態という形で、その実体の力に依存しつつ自らの存在を維持している。
   ※自由意志の否定⇔自由の肯定
浅野  スピノザが批判しているのは、自由の問いを抽象的な理論上の決定の問題へと移行させてしまう姿勢だ。
    人間に自由意志がないとするならば、人間に選択肢を選び取ることは理論上は不可能だ、が、現実に人々は必ず(自己保存の本能に従って)選択を行う。自己保存の努力(≒コナトゥス≒衝動・欲望)はあらゆる個物の本質であり、それが常に/すでに発動されている状態こそが現実の事態だ。
スピノザ  この世界のすべての存在は、存在し、活動する能力を一定の仕方で表現した様態にほかならない。  自然のなかには、それより有力でより強力なものはないような個物は存在しない。
  各々のものが単独で、あるいは他のものとある事をなし、なそうと努める能力ないし努力(≒コナトゥス) は、ものの与えられた現実的本質(≒自由)にほかならない。
  自由は、自由な決意に存するのではなく、自由な必然性(≒受動性)に存する。
  人間は、理性によるよりも盲目的な欲望によって導かれる。人間の自然力・自然権は、理性によってではな く、人間を活動へ駆りたて、自己保存の努力をさせる各々の衝動によって規定されなければならない。      浅野  スピノザの理性は、単独的かつ一回的な営みでしかありえない。
スピノザ  それは、喩えるならば、様々な欲望と感情、無数の諸力の渦巻く荒海の中で、目的地を目指して無  事に船を航海させるべく船団の指揮を執る船乗りに要求されるような、メーティス(智恵の女神)的な能力 としての理性である。                          
スピノザ 存在し・作用する人間の能力は、他の個物によってのみ決定される。
    理性に導かれる人間は、自己自身にのみ従う孤独の中においてよりも、共同の決定に従って生活する共同の中において、一層自由である。
フロム  「~からの自由」を獲得した近代人は、あらたな不安、すなわち孤独の不安のあまり、そこから逃避 しようとする傾向を持ってしまう。                                                       
  彼はその個人的自我の統合を犠牲にして、新しく儚い安定(=束縛)を見出す。
浅野  イメージするならば、一方には、自由の内包する問題を、明確化すると同時に単純化もした結果、現実 的な自由の位相の変化に追従することが困難になり、出口が判然としない状態になっている思想的袋小路があ る。他方には、そのような地平など意に介さず、息のできる空間を求め、まるでモグラや蛇のように縦横に動 き回り、離合集散し、新しい集合の組み合わせを試す無数の存在がある。様々な支配を掻い潜り、自らの感性 や想像力、思考や欲望の限界を押し広げつつ、自己を通して表現される様々な能力の拡張と解放に余念のない 人々。あるいは、網の目のように張り巡らされたネットワークを目もくらむ速度で移動しながら、・・物質  的とも精神的とも規定しがたい新たな経験の領野を切り開くことを止めない夥しい数の人々や集団も。
  そのような存在は、どのような意味で自由なのか、そして自由でないのか。おそらく、そのような問いの傍 らに、スピノザによる「能力としての自由」論がある。

第六章  <シュミット>不純な決断
シュミット  スピノザの学説は、共同体に対する感情や歴史といった結びつきに縛られていないアウトサイ   ダーの教義である。
ホッブス  国家とは強力な実力によって持続的に抑止された内乱状態に過ぎない。・・・自然状態のままでは  自己保存を果たせない原始的個人が恐怖のうちに集まり、最強の権力の下に斉一的に服従する合意が成立す  ることによってコモンウェルスとしての国家が成立する。
浅野  ホッブスによれば国家は、民衆の上に立つ主権的権力の頂点であるだけでなく、地上における神の至高  の代理人として捉える必要があるが、シュミットはこのレヴィアタン(≒国家)を、神話的存在であると同  時に神・人間・獣・機械の統一体であるとし、「人間の考え得るあらゆる全体性のなかで最も全体的な全体」    と、その包括性・相対性を高く評価する。
シュミット  十八世紀の絶対主義国家においてレヴィアタンは外面上最も高度な実現をみたが、同時にこの時  期に、外面と内面の区別(内面≒信仰の留保)によってその命運は尽きた。
   近代国家理論のすべての簡潔な意味内容は、世俗化した神学概念である。
スピノザ  心の中で神を崇拝することも、内的な敬虔それ自体も、他人に譲り渡すことができない個人の権利  である。
浅野  スピノザから大きな影響を受けたゲーテメンデルスゾーン
シュミット  真理ではなく権威が法を作る。
ドゥ・メーストル  一切の政体は、それが確立されるならば、善である。
シュミット  スピノザの体系は、デカルトホッブスによって示された近代の抽象的合理性、すなわち機械論  的世界観に対する・・最初の哲学的反動である。
スピノザ  法および自己保存の力によって確立されたこの社会を国家と呼び、国家の権能によって保護される  者を国民と名付ける。・・法が破られないのは、理性と人間の共通感情によって支えられる場合のみである。    ・・国家の目的は、実のところ自由である。
シュミット  性悪説マキャヴェッリホッブス、ボシュエ、フィヒテ、ドゥ・メーストル、ドノソ・コルテ  ス、イボリット・テーヌ、ヘーゲル
         性善説自由主義アナキズム・理想主義。
浅野  スピノザは、ある意味でシュミットよりも現実主義的な側面があった。(かれは)性善説をはっきりと  退け、(その代わりに)「(諸々の相異なる欲望に満ちた)市民的人格」という多数の諸力の規定を受けた主権者  を置こうとしている。 ・・決定の中身を吟味する仕組みと決定権をセットで考慮する構想である。
スピノザ  国民があたかも獣のように導かれてただ隷属することしか知らない国家は、国家というよりは荒野  と呼ばれて当然である。
浅野  デカルト≒主客二元論≒精神と身体はまったく別途の二実体。
    スピノザ≒身体と精神は同一の変状の二側面に過ぎない。

第七章 <三木清> ある「理想的公民」の軌跡
浅野  三木清は、十九歳の時に西田幾多郎の『善の研究』を読んで「踊躍歓喜」し、彼のもとで学ぶことを決 心する。・・・しかし、その西田哲学への陶酔と時を同じくして、彼が心を動かされた思想家がスピノザだっ たことはあまり注目されていない。
三木清  哲学には明晰さのほかに「深さ」という、その哲学の「創作性」を示す次元が存在し、・・・スピノ ザの『エチカ』には、この「不思議な深さ」があった。
デボーリン  ヘーゲルマルクスもある意味ではスピノザの思考の「展開と深化」に過ぎない。
浅野  近衛文麿内閣のブレーンになった三木清には「転向」などという仰々しいものではなく、一本の「筋の 通った思考」≒近代日本、特に大正から昭和初期にかけての知識階層と民衆が幅広く共有していた――そし  て私たちもそおこから逃れているとは決して言えない――思考フレーム≒「よりよき国家の建設のためのよ  りよき公民」≒最も「健全な思考」、を見いだすことができる。
スピノザ  人間的な諸活動を笑わず、嘆かず、また呪咀することなく、理解する。(『政治論』冒頭)
三木清  スピノザは実体を無限として規定したが、このとき無限という語はその否定的な前綴にもかかわらず 全く肯定的な概念であった。
浅野  スピノザ≒否定を介さない存在の能動性を肯定し、様態間の多様な触発関係の中から生じる生産的な作 用の結果として共同性を基礎づけつつ、倫理的な契機を構築していく。
  ヘーゲル≒それはまだ「精神」ではない、それはまだ十分に「主体」ではない、それには依然として「目的」 が、「歴史」が欠けている・・という形で、個々の存在が表現する一回的な価値を、否定的一契機の位にまで 押し下げて、それを包含する「より高次」の、弁証法的な意味における「精神」の側に奪回する形で倫理性と 公共性を確立する。
三木清  個性の問題の核心は、「偶然性」と見られる特殊がいかにして「必然的意義」を獲得可能か?
  ヘーゲル≒真に個性的なるものは、普遍と特殊の内面的結合によって生まれる。
 (盧溝橋後)大事件はすでに起こっている。すべての好悪を超えてすでに起こっている。・・この大事件にど のような意味を賦与するかが問題である。
マイネッケ  国家権力が道徳と結びつく際の「危うさ」
ヘーゲル  世界歴史は幸福の土地ではない。歴史における幸福な時期は空白のページである。 
三木清  人は、ヘーゲルの歴史哲学においての如く、理念の展開の道具に過ぎぬのではない。 
浅野  三木は、大正の教養主義の影響をまともに受けた理想主義者だった。
  その歩みそのものが、逆説的にも、彼の生きた時代を超えて現在に連綿と続いている「国家の呪縛」と「政 治の抹消」という不可視の封鎖(バリケード)の所在をありありと浮かび上がらせている。
   カントの信仰≒脆弱な懐疑によって否定されてしまうことのない堅固な確信、道徳的世界の実在。
   スピノザ≒西洋近代思想史の「臨界点」に属している思想家。
まとめ――いつも通り、自分に引き寄せて――ピッピの思い出に。
 以前に報告したことの繰り返しから。
 ――存在とは状況だ。宇宙も、物質も、生命も、もちろんわれわれも、有り様がちがうだけで状況であることに変わりはない。
 いま考えていること。
 ――自分も宇宙も状況なのだから、いま自分が生きていて、いずれ死ぬにしても、やはり状況でありつづける。(これは、ピッピへの報告です。)
 十年ほど前に『神ぬきの救済』という文章を書いた。
 「科学(無神主義)のことばで人間を救う」神ぬきの神学が、つまりは西洋の近代哲学の眼目だったんだなと思うに至ったから。学生時代にのめり込んだフッサールも、教員になりたての頃に読んだカントも、神を語らずに読者に神の存在を感じ取らせようとしていた。
 ウィトゲンシュタインの「語り得ぬことについては沈黙せねばならない」も、「神様の領域のことは神様に任せよう」という意味に思える。
  一方、スピノザは、個別の「理性」や「魂」や「理念」や「人間性」を救う哲学ではなく、矛盾した欲望や感情の塊である人間たち――自分に引き寄せたら、そこにこそ高貴さが漂う――をまるごと掬いとり得る人倫学(かれは神を語ることを躊躇しない。だから「哲学」ではなく、「神学」。しかし、その内容の大半は「人間」について。)を立ち上げようと格闘した・・んじゃないかな。そうしようとすると、人間の棲む社会とは何かを考えざるを得なくなっていき、かれの関心は政治に移っていく。
 その著書を直接読んだことはないけれど、きっとそれらは体系づけられることなく終わっているはず。体系づけようとしたらはみ出すもの。――それらを浅野俊彦は「ノイズ」と名づけていた。――それがスピノザにとって重要なことだった。最重要なことだった。
 不完全なものだけが可能性を持っている。不完全なもの、不完全なことだけが持続性を持っている。この宇宙も、この世界も、そして、きっとこの社会も、不完全だからあり続けている。(逆接を弄しているつもりはまったくない。)そのもっとも身近で象徴的なもの(こと?)が生命、なのだ(つまり不完全なものだけが活きている。)、と思うようになった自分は、たぶんもう確信犯です。――自分に引きつけると、そうなる。その自分とは「いまの自分」ではなく、もっと「深い自分」のような感じがするのだが。――

 それにしても、浅野俊哉が浮き彫りにするスピノザとワタクシメのイメージしている西田幾多郎はあまりにもよく似ている。ちょうどそれは、われわれの言葉の「うら」が「裏面」と「表面」と「内側」と「自分自身」と、さらに「なんとなく」の意味も持っているようなものか。