生命とは状況である

GFへ
 昨年の夏、あれこれあれこれ考えつづけたことに、また続きができたので、報告。いちおう哲学史的な話です。
 昨年話したのは、デカルトからはじまったいわゆる近代哲学で、カント、フッサールハイデッガーに何が受け継がれていったのか、ということ(だったつもり)だった。それを一言でいうなら「神ぬきでの人間の救済」ということになりそうな気がした。
 といっても、自分が読んだものは、それぞれ一冊ずつで、それも遙か昔のことだから、思いっきりいい加減な話なのだが、外野席からのほうがよく見えるという場合もある。(土手からならもっとよく見えるかもしれない。)
 人間に人間らしさをもたらしている理性を人間ほんらいのものかと点検しつつ、そうでない(純粋に人間そのもののものでない)ものをタマネギの皮むきにように省いていくと、なにも残らない。人間にはもともとは理性がそなわっていない。カントの『純粋理性批判』はそこで終わっている。もちろんわれわれには理性がある。しかしそれが、もともとから具わっているものではないとしたら、われわれの理性はどこからやってきたのか。
 フッサールは『キリスト教の本質』で、われわれがキリスト教本来のものと思いこんでいるものから、人間の手垢のついた政治的なものを次々に引き剥がしていく。引き剥がし、引き剥がししていくと、・・・「キリスト教という宗教の本質」がなくなる。なくなったその箇所に、まるで生まれたばかりのような輝く神の赤子の産声が聞こえてくる。──かのようだった。──40数年まえのイメージだ。(「この人は偉いひとだ。」)
 なんにもないはずのところに見えるもの。それを「現れ」と呼ぶ。たんなる現れ。しかしそれは、「存在」よりももっと確実なものかもしれない。いまだによく分からないながら、現象学をそんな風に捉えている。
 ハイデッガーにとって、カントの「理性」にあたるものが「自由意志」だった。その、アプリオリにあるべきもの。なければ人間が人間でなくなるもの。が、それを強調すればするほど、その自由意志のよって来るところを無視できなくなる。木田元ハイデッガーの挫折をそのように説明する。
 カントにおいては光輝であった人間の限界、フッサールにおいては救いであった人間の無力、それがハイデッガーにおいてはただの挫折に陥る。
 そこらへんまでが一年まえの話だったと思います。
 今年の3月くらいだったか、「宇宙にある4種類の力」という言葉に出会って、数えてみた話はすぐに報告した。
 1,重力 2,電磁気力 3,熱力 ・・・そこで行き詰まって理科の教員に訊いた。すでに3がまちがっている、という。「熱は他の力の現れにすぎないのです」。わっ、その表現のしかたに感動する! というと「そう言っていただけると嬉しいです。」じゃ、残りのふたつのエネルギーとは何かと訊くと、「強い力と弱い力。」。そうとしか言いようがないのだという。
 他の力の現れ、表現、現象。それらはすべて「何がしか」のあらわれ、なのだ。
 ところが、福岡伸一は、「生命には部品がない」という。つまり、「生命とは、なにかの現れではない」と言っていることになる。
 生命現象なるものはない。ただ、生命という状況がある。われわれもまた、状況なのだ。
 ことばの力、とは、こういうものだと先住民は思う。

別件
 明日はわが母親94歳の誕生日。
 数日前、埼玉の姉から電話がかかってきた。
――まだ、あんたのこと覚えとるね?
 かろうじて、息子だとはわかる。しかし、たぶんもう、「息子とは何か」は分かっていない。
 別件の別件になるが、先週だったか、寝床のなかでとんでもないことを思い出した。
 4月に「自分の親の介護に専念するしかなく」なって退職した方がいる。最初っからなにか懐かしい人だった。・・・・「彼女は小学校のときの同級生だ」旧姓はhさんという。まともに口をきいたことはないが(なにせベビーブーム世代だから、同級生は500人以上いる。)子どもの時の顔がくっきりと浮かんできた。・・・・たぶん向こうは気づいていたんじゃないかな。でも、知らんぷりをしてくれていたのだろう。
 じつはもうひとり、知り合いの妹の子どもではないかと感じる若い女性がいる。こちらの方はもう余計なことは言うまい。
 そっか。Kさんが亡くなったことは報告したかな? しずかな最期だったそうです。