今西錦司『生物の世界』

           今西錦司『生物の世界』
※「生体と物体」とか「空間と時間」のような二項分立では、この世界を語ることはできない、ことの  説明の部分。
「空間的即時間的であるということがこの世界の構成原理である以上、その存在が構造的即機能的でなければならないのは何も生物に限られたわけではなくて、構造に即した活動はこれすべて機能であるということにすれば、それはやはり無生物的存在だって要請されるべきであろう。
 そうすればこの構造機能の相即ということが、もやは単なる生物もしくは生体存立の原理にとどまることなくして、それがすなわちこの世界を形成するあらゆるものの存在原理であり、万物存立の原理であるということになって、この世界は空間的即時間的な世界であるとともにまた構造的即機能的な世界であるとさえいい得るのである。」
「無生物的構造が生物的構造に変わり、無生物的機能が生物的機能に変わるということが無生物から生物への進化であった。」
「人間、動物、植物、無生物はすべてこれこの世界の構成要素であり、同じ存立原理によってこの世界に存在するものであるということができる。」
          ※「環境」という概念の導入
「この空間的時間的な世界において、すべてのものにみずからを維持し、現状を持続しようとする傾向のあることは、それはいわばこの世界に備わった空間的性格のしからしめるところに違いない。しかるにこの世界に備わった時間的性格というものが、これに抗して万物を流転せしめようとする。この現実の世界が生者必滅となるゆえんである。生者必滅ではあっても未だこの世界から生物が影をひそめ、混沌とした星雲のような状態にこの世界がなったりしていないということは、この空間的時間的な世界というものがすなわち構造的機能的な世界であり、未だその構造を維持するための機能があり、その機能を維持するための構造があるからである。」
「生物は環境をはなれては存在し得ない。その意味では生物とはそれ自身で存在し得る、あるいはそれ自身で完結された独立体系ではなくて、環境をも包括したところの一つの体系を考えることによって、はじめてそこに生物というものの具体的な存在のあり方が理解されるような存在であるということである。環境から取り出し環境を考慮の外においた生物はまだ具体的な生物ではないのである。そしてここでやはりも一度いっておかねばならないと思うことは、こうした外界あるいは環境というものがすでに存在していてそこに生物が発生してきたのではないということである。環境といえどもやはり生物とともにもと一つのものから生成発展してきたこの世界の一部分であり、その意味において生物と環境とはもともと同質のものでなければならぬ。・・・・環境なくして生物の存在が考えられないとともにまた生物の存在を予想せずして環境の問題を考えることもできないといったものが、すなわちわれわれの世界でなければならないのである。 」
「生活するものにとって主観と客観とか、あるいは自己と外界とかいった二元的な区別はもともとわれわれの考えるほどに重要性をもたないのではなかろうか。」     
「生活の場という意味は・・・それはどこまでも生物そのものの継続であり、生物的な延長をその内容としなければならないのである。・・・・生物とその生活の場としての環境とを一つにしたようなものが、それがほんとうの生物なのであり、またそれが生物というものの成立している体系なのである。」
「食物というもの〈は〉実は生物体の延長であ〈った。〉」
「一つ一つの細胞現象や消化器官の活動などは、(だから)われわれに遺伝された植物的な〈無意識な〉現象、植物的な性質ということもできる。」
「生物はすべて生成発展したものである。分裂前の卵細胞といえどもそれが主体的存在であったからこそ主体的存在としてわれわれが発展し得たのである。」
「われわれの身体さえ自由につくり自由に変えることができないという点では、これを環境の延長とみなすこともできるであろう。生物の中に環境的性質が存在し、環境の中に生物的性質が存在するということは、生物と環境が別々の存在ではなくて、もとは一つのものから分化発展した、一つの体系に属していることを意味する。」

       「環境」⇒「構造」⇒「社会」」※概念の明確化
 「われわれだって体温の調節は意識作用じゃない。・・・それはわれわれにおける植物的性質であるともいえる。」
「この世界が流転し、混沌化しないで、そこに構造があるということは、つまりこの世界を形成しているいろいろなものの間に一種の平衡が保たれているということを意味するのではななかろうか。・・・しかし平衡といっても、・・・ただちに静止とは考えたくないのである。それは均衡のとれた働き合い、すなわち交互作用の一つの状態と考えたいのである。」
「われわれの世界というものは根本的に不平等な世界であり、不平等はわれわれの世界が担っている一つの宿命的性格であるともいえる。・・・・しかし私はこの不平等さのゆえに、かくも多種類の生物がこの地球上に繁栄し得ているのだといいたいのである。」

                          ※棲み分け⇒同位社会
「無益な摩擦を避け、よりよき平衡状態を求めようというのが、生物のもった基本的性格の一つの現れでなければならない・・・相容れない傾向をもったもの同士が相集まってそこに彼ら同士の社会をつくるようになれば、またこの二つの社会はその地域内を棲み分けることによって、相対立しながらしかも両立することを許されるに至るであろう。・・・・相対立し、したがって棲み分けせざるを得ないような社会のことを私は生物の同位社会と名づけたのである。」
 「同位社会というのは生物の個々の社会の寄り集まりからなる一つの構造であり、ひとつの共同社会である。それを構成するおのおのの社会はお互いに相対立し相容れないものではあるが、しかしお互いは他の存在を待ち、他をみずからの外郭とすることによってはじめてお互いの平衡を保ち、それによってみずからの社会としての機構を完うしているという意味において、それらは互いに相補的であるとさえいい得るであろう。」
「食うものと食われるものとの分業によって、ここに一つの同位複合社会ができたのである。」

※「相似と相異」⇒「環境」⇒「構造」⇒「棲み分け」⇒「同位複合社会」⇒「歴史(≒時間)」
「この世界を成り立たせているいろいろなものが、お互いに無関係なでたらめな存在ではなくて、それらはすべてこの世界という一つの大きな、全体的な体系の構成要素である。この世界はこれらの構成要素から成り立った一つの構造を持った世界である。」
「全体は部分なくしては成立せず、部分はまた全体なくしては成立しないような全体と部分との関係を持しつつ生成発展していくところに、生きた生物があり、生物の生長が認められる。このような全体と部分との、いわば自己同一的な構造を持つものであるゆえに、異物個体の全体性はつねにその主体性となって表現せられるのである。」
「個体はすなわち世界の中心である。・・・これに対して種はその部分としての個体間に一般に分化が認められない。個体が種の中に含まれているといえるとともに、どの個体の中にも同じように種が含まれている。どの個体からでも種はつくられて行く可能性がある。個体はすなわち種であり種はすなわち個体である。種は個体に対してかならずしも優位を占めるものではない。・・・・生物の種社会は一般にはその個体間に分化ないしは分業のみられぬ社会である。単なる個体の拡がりにすぎぬ平面的な社会である。それだけでは体系的に完結性をもたぬ一つの未発展の社会にすぎない。」
                                                          
「いわゆる全体社会は何回も変革に遭っては、また新しく建て直されてきたのである。・・・・しかるにこの社会の支配階級が倒れたとき社会がそのまま萎縮してしまわないで、どこからか新しいものが出てきて、これに代わるべき支配階級を建設して行くということは一体何を意味するえあろうか。ここにわれわれはこの生物の世界における生物全体社会の社会組織的な完結性というものを認めざるを得ないとともに、また一つの階級としての同位複合社会は、なおそれ自身としては完結性を持たないものであると考えざるを得ない一つの根拠がある。・・・・ただ再生といっても分化の認められぬ種社会のようなものの場合には、単なる個体の増殖ということによってその目的が達せられるであろうが、同位社会や同位複合社会の場合には、そこにはもはや新種の形成ということが必要とされてくるであろう。・・・・全体社会の再生こそは生物社会におけるもっとも大きな創造性の発現でなければならぬ。」
「哺乳類の先祖というものは、どこから出て来たものでもない、実は爬虫類の時代にはすでにその爬虫類の社会自身のうちに胚胎されていたものと考えざるを得ないのである。」
「環境の主体化はつねに主体の環境化であった。身体の環境化であった。・・・作られたものとしての環境が逆に生物を作ったともいえる。」
「進化は必然の自由によってもたらされたものではなくて、偶然の不自由に由来する。」
「変異ということそれ自身もまた主体の環境化であり、環境の主体化でなければならぬ。・・・・はじめから360度の変異などということはあり得ない。」
「もと一つのものから生成発展したこの世界という体系・・・はけっしてでたらめなものではなかった。体系に秩序があるように、その発展にも秩序があった。・・・この方向づけは一々の生物に、いやこの世界という体系に内在する自己完結性のしからしめたものではなかったか。・・・この自己完結性こそは主体の根源でもあり、全体性の根源でもあり、歴史の根底にあって歴史を超越し、創造の根底にあって創造を超越した何ものかである。」
「滅び行く者もまた世界に触れている。・・・自然淘汰はかならずしも種の起源という問題とは直接に結びついていない。」