水準器

水準器


夜よねむれ
  夜よねむれ
 

思い出はとっくに消えようとしている
喪われるものたちの記憶をひきとめてはいけない
天候の推移にも昼夜の交代にもかかわらず
いつも世界は光りにあふれていたのだから
小さい者たちへの呼びかけにみちて

明日というものをどうして知ってしまったのだろう
すべては今でしかないのに
時というものに自分を託すしかないと賭けに出てから
うべないつづけた一切のものを
あらかた彼処に遺したままで此処まで来た

氏傷宸竰チ守の杜や箱庭の冬にも
ともすれば生い出でる一本の草が
ぐるりとひと巡りしたあとの僕らの生命の証

論理をひき裂いて理だけにしろ
疑いは光を産もうとあえぐことを知らない
愛することを知っている者たちのみが
忘れ去られるに値する

迷ったまま辿りついた周辺を見回してみると
どうみても此処ははじまりの根もと
眠っていたのだ
枢要な事柄はどれもまた此処からはじまり直す

                             2011/01/15




  しじまのうた
                 
いや、もう語ってはならぬ
ことばはもう置いてゆけ
いや、もう残してはならぬ
ことばをただ音階とせよ
語るよりも
風がお前に教えたことを思い出せ
残すよりも
波から伝わったことを反芻せよ
お前は風
お前は波
いや、お前が単なる階調となったとき
夜はどこまでも深まり
緑はおのれに目覚め
せせらぎは慎みを忘れ
潮騒はとどろきに酔い
翅はりんと張りつめ
翼は力をみなぎらせ
世界は輝きをとりもどす

                             2011/02/05

  それは違う

それは違う
私は貪欲なのです
数えたり並べられたりするものではなく
まるっきりはっきりしない甘美なものを狙っているのです

それは違う
私は寡欲なのです
豊かなものも、気高いものも、厳かなものも欲してはおらず
ただコップ一杯の水を欲しがっているのです

それは違う
私は傲慢なのです
ほんとうに喉が渇ききったなら
水のにおいを嗅ぎつける能力が備わると本気で思いこんでいるのです

それは違う
私はただ忘れたいのです
最終的に覚えておきたいことなど一つもない
私はどれだけのことを忘れられるかに賭けているのです

いや、それも違う
私は焦っているのです
忘れてゆくにはもはや
時間が足りなくなってきているのではないかと焦りまくっているのです

ぜんぶ忘れないと見つけられないのです
忘れて/\忘れきったあとに残るものはなにか
線香花火の最後のチュンを
自分で見たいという衝動をおさえるだけで精一杯なのです

いや、それはぜんぜん違う
忘れようと焦ればあせるほど思い出すことが増えつづけて収拾がつかないのです
忘れることは思い出すことだったのかと混乱するばかりなのです

でも私は思いっきり横着なのです
よし、どんな生き方をとるにしてもきっと
その涯にたどりつけないはずはないと高をくくっているのです

思い出すことがなくなってすっからかんになったとき
そこに見えるものはなにか
やっぱり知りたくてしかたないのです

たとえそれがクモの巣にひっかかって干からびた虫のように
風化してゆく何かであるにしても
            2011/02/06
  おやすみ


あの娘は行ってしまったよ
とてもいい娘だったのにね
せめてこっそり見送ろうとターミナルに行ってみたけど
見つけることはできなかった

あの娘のことだからきっと
そこらに転がっている放置自転車にでものって
すいすいと隣町へこぎだしたんじゃないかな
身分証明書なんかてんであてにしない所があったからね

いや隣町を目指したりなんかしなかった
あの娘には右とか左とか
前とか後ろとかいう感覚がなかった気がする
でも上とか下とかはあったかもね
不思議な娘だった

世界は広い
どこまでもつづいている
だからぼくらはその内側にいるっていうのはちょっと違っているんじゃないかな
あの娘がそう教えてくれた

だれもがあの娘を受け入れてるつもりでいて
それなのに
だれもあの娘から受け入れられていた記憶がない
ほんとうに自由な娘だったんだ
喜びとか悲しみとかからも

ぼくはだれにも言わなかったけど
もちろん本人に言おうなんて願いもしなかったけど

あの娘が好きだった

これからもぼくは生きていくよ
あんな可愛い娘にまた会えるなんてけっして期待しない

あの娘はだれのものにもならない
どこに行っても
どんな時でも
でもきっとあの娘は生きている
ひょっとしたら今もぼくを見つめている

さよなら
ぼくの夢
おやすみ
ぼくの祈り

ぼくはあの娘が好きだった

                   2011/02/21

  ぽかん

君がまたくしゅんとやった
水気がぼくの顔にかかった
もちろん気がつかなかったふりをするけど
君のくしゅんが好き

なにか言おうとしてもごもご
ごにょごにょもぐもぐしているうちに
けっきょく黙ってしまう
君のもごもごが好き

ふたりっきりで何もしないでいるときがいちばん楽しい
ただぽつんとしているって最高だと思う
ぼくと君のぽつんが好き
地球のうえのぽつんが好き

ぽかんと浮かんだ風船を
ぽかんと口をあけて見ている横にいたら
ぼくの目もぽかんとなって
頭も胸もぽかん

人は君が何を考えているのかわからないと言う
ぼくは君が何を考えているのかと考えたことがない

人は君が時代からずれていると言う
ぼくは君には生まれてくる時代がなかったような気がする

人は君には現実感覚が欠けているという
ぼくは君を現実から守ってやりたい

ことばが真実だったことは一度もない
時代は世界を内蔵していない
現実なんて大きらいだ
それがもし純粋な事実なら意味なんかもともと含んでいない

真実はくしゅん
真実はもごもご
真実はぽつん
真実はぽかん

ふたりだけのぽかん
               2011/02/24



   えーてる

えーてる
君と出会ってもういったいどのくらいの時間がたったのだろう
ほんの数日のような気もするし
何百年もすぎたような気もする
でもきっとたくさんの時間がたったのだ
なぜなら
その間ぼくたちは生活をしたのだから

えーてる
ぼくは君を愛してしまった
えーてる
だから君は死んじゃいけない

だってもうぼくの99パーセントは君で
君の99パーセントはぼくだ

喪失感を口にする人たちは生活を知らない子どもだ
生活しはじめたら自分のなかの何かなどではなく
自分そのものがものすごい速度で喪われていく
その音に包まれてしまったらいっそ爽快な感動すらある

その芥のなかからよみがえり続けるものを
ぼくたちは「わたし」と呼ぶ
この世界は無数の芥と無数の「わたし」でできている

轟音とともにすべてを喪ったあとに
ぼくたちはたったひとつのすべてになった

よみがえったぼく
よみがえった君

よみがえり続けるぼくたち
出会い続けるぼくたち

ぼくたちは生活を知っている子ども
いや
えーてる
ぼくたちは生活しか知らない子どものままでいよう

                         2011/03/02
  明け方の刹那の夢

ケーキ職人を目指して修行中の少年の日記には、
レシピや
職場での会話や
親方の言葉や
自分を叱りはげます自身のことばや、
その日学んだこと、
失敗したこと、
浮かんだアイディアがいっぱい詰まっている。

自分のケーキをつくり、
自分の店をもつ。
そのためなら苦しいことなんか何ひとつない。

日記には言葉だけでなく、
ケーキの形や色、
構えたい店の厨房、
ファサードの絵が細かく丁寧に、
いかにも食べたそうに、
いかにも働きやすそうに、
いかにも入りたそうに描かれている。

その日記はときどき
「ぼくにはケーキしかつくれない」ということばで締めくくられる。
その誇らしそうなことば

「ぼくにはケーキしかつくれない」

そのことばが書かれる回数が次第にふえてくるに従って、
レシピや
会話や
親方のことばや、
学んだこと、
失敗したこと、
アイディアや、
絵が減っていく。
そして、いつのまにか
ただ「ぼくにはケーキしかつくれない」
の一行だけが書かれるようになった。

「ボクにはケーキしかつくれない」

毎日同じことばだけが書きこまれる。
それから、
日記がただの空白になってからしばらくして、
かれが海兵隊に入ったという噂を聞いた気がする。
それからまたたくさんの時間がたって、
そんな菓子職人見習いがいたことをみんなが忘れてしまったころ
かれが太平洋の島で死んだらしいと教えてくれたのは誰だったろうか。
ぼくはその話を100%信じたけど、
すべてはただもうろうとしている。
なぜならぼくが実際にみたのは、いや、見たような気がするのは、
「ボクにはケーキしかつくれない」と書かれたノートだけだからだ。
そのあとは空白のノート。
何枚めくっても空白のノート。
   2011/04/06


          

              













夏のおわりに 

あるくひと

何十年前になるのだろう
わたしの前では、甲子園で準優勝した高校の野球部が
ユニフォーム姿で千羽鶴を捧げようとしていた。
その光景の正面にある建造物の残骸は
わたしたちの文明の遺構にしか見えなかった。

ちょうどそれを保存するか取り壊すかでもめているときだったかもしれない。
そのままでは危険だからなのだという。
一瞬にして人びとが消えていった場所に残されたものを
一瞬にして破壊された街で生き延びた人びとが危険だという。

くずれおちるものの象徴はくずれるにまかせろ

保存論も取り壊し論も不謹慎に思えた。

その博物館で中学の教科書で知ったジャコメッティにであった。
それは教科書の写真よりももっと小さく、もっと細かった。
──Life's but a walking shadow.
しかし
鋼をねじあげたように勁いジャコメッティの人は実体だった。
かれは移動しようとしていた。
どちらに行こうとしているのかを知っているようには感じなかったが
わたしの目の前に人間がいた。
その人はあるこうとしていた。

わたしたちがわたしを自分の占有物にしようとしたとき何が指のあいだからこぼれ落ちたのか。
わたしたちが家をかまえたことで触われなくなったものは何か。
まじわりを結ぶさなかに分からないふりをしていたことは何か。
わが子を抱きしめるよろこびとひきかえに何をさしだしたのか。
そもそもわたしたちは何を願って陸にあがろうとしたのだろう。

そう
いつか語られねばならない。
わたしたちが魚類だったときのことを
                             2011/05/08


 シングル・ナイト


 表題は、ロバート・マクナマラ『Fog of War』からとった。


?朝をまつ呪詞


昭和十九年「批評」三・四月合併号目次
中島敦について・・・中村光夫 明治の精神・・・西村孝次 
鴎外の歴史文学・・・吉田健一 (詩)霧島高原・・・平野仁啓
西行・・・堀田善衛 堀田君の応召を送る序・・・山本健吉  
(詩)水のほとり・・・堀田善衛

前年十一月号「石田波郷君の応召を送る文」で
 君が大東亜の戦野に・・・・銃を取ってゐる間、私は再び俳句に就て語るまい。
と書いた山本健吉の編輯後記
「読者諸氏へ」
 今般、文芸雑誌の整理統合に依って、「批評」もこれまでのやうな形で出せないことになった。従って、今月号を最後として、もはや一般小売り書店には出ないことになる。

昭和二十年一月
ガリ版刷りの新「批評」が出るも二月号で消える
発行所 東京都牛込区払方町三四 吉田方


この国が戦争に負けて以来
ぼくたちは自由になった

歴史からも
国家からも
親からも
自分のことばからさえ

記憶と憧憬が交雑し
過去は闇に塗りこめられ
未来は光に漂白されて
自分と現在だけが残る

がほんとうにそうだろうか
それは戦後だけのことなのだろうか

時間はジグザグに進んでいく
──進んでいるのか?
ぼくたちはギザギザに進んでいく
──進んでいいのか?

なつかしい気配はたしかにもうすぐそこまで来ているのに

2012/一/30



?夜をまつ呪詞

       なたね梅雨の前触れかと思われた雨がとつぜん雪に変わった夜に


菜の花が雨にいっそう輝きをました光りを列車から見たその日
風の音はやんだようだ
雨音はまだつづいている
置き時計の針が外界の物音と静寂をすべて吸いこんでゆく

たぶん何百日目かの目ざめた夜

午前二時
時はすでに過ぎた
 もう誰も帰ってこ
ない
 残された時間は
ない
 空白はどこにも
ない
 時間は存在では
ない

いつ始まったかわからない時間と
いつ終わるのかわからない時間のさなかで
カミが過ぎってゆくのをカミに気づかれないよう密やかに待ちつづける夜
これからも滞ることなく繰り返される祭り

──質量とは動きにくさをあらわす数量である

祭りに質量はない
だから祭りは現実的である
存在に資料はない
だから存在は失われようがない

存在とはひとつの状況だ
ぼくらもひとつの状況だ
存在のなかの状況と状況
状況のなかの存在と存在

だが
遅れてこなかった「人間」がこれまでにひとりでもいたか!?

ぼくらの祭りを祀るとき
時なき時を祀る夜
空白の時の祭り

シングル・ナイト
                  2011/2/28
   眞実のむこう

        昔人は宿る場所を確保できず仕方なしに旅寝をしたのではない。
        彼らは草を枕とするために旅に出たのだ。


もう十何年かまえになる。
篠栗駅からタクシーに乗ったとき、
八木山がところどころ色づきはじめているのに気づいた。
──もうすぐ花見の季節ですね。
初老の運転手さんが応じた。
──はい。今年も桜が咲き始めるとが待ち遠しいですなあ。若い頃はなんとも思わんやったとが、なんででしょうかなあ?
ほんとですねと笑った。
あのときは、
「若い頃はなんとも思わんやったとが」に共感して笑ったのだと思っていた。
それはそのとおりだったのだが、いまは感じ方が変わった。
ほんとうはあのとき、
「なんででしょうかなあ?」に包まれていたのだ。
われわれも、われわれの世界も、その
なんででしょうかなあ?にすべて含まれている。
運転手さんはきっと、なにも意識せずにそのことを客に教えてくれていた。


       *


傷宸ノは過去がない。
 記憶をもたない。
 他者を知らない。
「存在」という有限なものとは無縁だから傷宸ネのだ。


       *


勘三郎の法界坊をテレビで見た。
見ながら転げまわって笑った。
笑っているうちに声をあげて泣いていた。
あの徹底的な娯楽劇の、あけっぴろげとしか言いようのない哄笑のなかに
人生に必要なものがすべて綯いまぜになっている。


       *


それがほんとうに眞實なら
意味はすでにすべて析出されている。


        *


ビューヒナーアルバン・ベルクのボツェックをも一度見たい。
いや、これからの節目節目で見たい。
節目がまだ来るのかどうかも、
その節目が来たときにそれを節目だとわかるかどうかもわからないけど。

見たくも聞きたくもなく、
触りかけたら鳥肌がたちそうなのに、どっぷりと漬かりこんで、
呼吸する場所をいつも探りあてるのに馴れてしまった、
たったひとつきりの現実。
     2012/09/15



水準器 最終章


  無数の始まりと無数の終わり



始まりは無数にあった。
たぶん今もある。
無数にある。

無数の始まりの大半は始まりのままに消滅し、
有数の始まりは他の始まりと衝突し合体し、
また分離し、また消滅してゆく。

それでも始まり続けるものがある。

始まりの始まり。
無数の始まりの始まり。

始まることは独立することだ。
始まることは関連することだ。

始まりきれなかった無数の始まり。
我々もいつか、始まりかけているものと融合する。
いまも始まりかけているものが無数にある。
ただもう始まりきれずにいる。
もし終わりがあるのだとするならばそれは、無数の始まりかけているものたちが
始まりきれないままになることであるはずだ。

遠い始まりにもとづいたものが、自分がもとは始まりだったことを忘却することによって、夥しく地上や地下や空中や海中に増殖してゆく、

その忘却の果てになにかがある。
なにかがひとつだけある
気がする。

いや、違う。

始まりは無数にあった。
終わりも無数にある。

無数の始まりかけて始まりきれないでいることも、
無数の終わりかけて終わりきれないでいることも、
無数の始まりと無数の終わりのただ中にある。
そして、
無数の始まりきれぬものと終わりきれぬものとが影も音もなく究極へと進む。

                          2014/02/28
  またなるはじめに



はじめに理があった。
理しかなかった。
音はなかった。
熱もなかった。
理だけがあったときこの世界は静謐だった。

あるとき、その理が破れた。
いったん破れたものは次々に破れ、
破れめからはあり得ないものがあらわになってきた。
すべてはそこから始まる。
そしていま我々はその破れを見つめている。

──消去点の奥になにかが潜んでいた気配がある。

無数の消去点のうちのどれが自分のよって来たところだったのか。
終わってしまったら破れはすべて閉じられるのか?
我々は破れめに目を凝らし、溜息をつく。

──もう戻れない。

けれども、
妹よ、
弟よ、
あせることはない。
還りたいと願う必要はないのだ。
後れそうだと自分を鞭打つな。
自分にいま以上の負荷を加えるな。
自分をけっしてないがしろにするな。
なぜならすべてはいまここで起こりかけていることなのだから。

この世界はいまも破れつづけている。
そしていつか、
我々自身が破れそのものになる時が来る。
きっと来る。

その破れはまたすみやかに修復される。
音もなく、
熱もなく、
影もなく、
なんの跡かたを残すこともなく。

──すべての破れが修復されるのはいつのことか、、、。

そのときが来たらまた会おう。
なろうことなら、
こんどこそ独りと独りと独りになって。
                          2014/03/19

以上『水準器』









あとがきにかえて


●結局のところわれわれは、自分のことばでなくしては何ごとも理解できないのかもしれない。そのひとのことばのままに理解しているつもりでいることは、ただ暗記しているだけなのだ。
 そのひとのことばを忘れはじめたときが理解しはじめる契機となる。忘れることが出来ない者に眞の理解者は現れない。
 完全に忘れていたことが甦ったとき、それはもう自分のことばなのだ。

●稀に、実に稀に、解釈というフィルターを通さずにそのひとのことばがダイレクトでスウっとこちらの体に入ってくるということが起こる。その時はなにも考えていない。そのことについてこざかしく云々するのは止めよう。
 人生の途中で牧師になったイトコの返事はしゃれていた。「神さまを見つけたんじゃない。神さまがオレたちを見つけてくださったんだ。」

バロック一神教から逸脱している。
 バッハの音楽は教会から独立している。

エストニアアルヴォ・ペルトの賛美歌は声明に聞こえる。
 チュルリョーニスのリトアニア民謡にメロディという言葉はそぐわない。
 周辺にはきっと、ドレミファではない音階やリズムがまだ生きているのにちがいない。

●庄司さやかと諸々のジーニアスたちとの決定的な違いはほとんど日本と諸外国との文化の違いにある。ジーニアスたちが己の個性をアピールしようと腐心しているあいだ彼女は己を音楽のためのファンクションとなす努力を重ねた。その「ファンクション」は「巫女(ふじょ)」と言い換えていい。庄司さやかの音というものはない。たぶん庄司さやかのリズムというものもない。ただバッハの音、ベートーヴェンのリズムだけがある。

●この世界はリズムで作られている。そのリズムがいわゆる盆踊りの太鼓のようなものになったとき、この世界は死んでゆく。「自由」の本義とはそのようなものだ。
 エリィ・フォールの「芸術が宗教を救った」をそう拡大解釈することは十分可能なのではないか?
少なくともグレン・グールドは音楽を救った。

●「頭がよくなりたかったらカシオーリを聴きなさい」と教えているんだが、真に受けて実行した生徒はまだ見あたらない。国語教師の影響力はその程度らしい。

●時間ぬきでは存在を語れないとするならば、存在もまたゾルレンである。ザインは消滅する。

●時間性を帯びない存在はない。存在に拠らない時間はない。純粋の存在はない。純粋の時間もない。純粋の自由、純粋の意志もまた。

●「ヒューマニズムは人工物である」。
 人間が先か、人間性が先か?
 ハイデガーの真骨頂は逆説性にある。しかし、彼自身がその逆説性を見失い正統性を標榜したとき周りに災厄がおよんだ。
 映画『ハンナ・アーレント』を見た。予想外によくできた映画だった。
 しかし、アーレントハイデガーに会いにいき、謝罪を求める場面がある。パウル・ツェランはそうしても、アーレントは決してそんなことはしない。彼女は傲岸なまでの誇りを失うことがなかった。あのときハイデガーはすでに彼女にとって庇護すべき対象だったのではないか?


ジャコメッティの日記より

○私は今、12歳だった頃とほぼ同じ地点にいるように思う。ただあの頃はすべてが容易に思われていたが、今はすべてが困難に、ほとんど不可能に思われる。
○真実がときとして幽霊のように姿をあらわす。私はもう少しでつかまえられそうだと思う。それからまた私はそれを見失ってしまう。だから私は再びはじめなければならない。 
○こころみる。それがすべてだ。
○けさは七時まで仕事をした。そして幾つかのことを発見した。昨日まではまったく違っていた。今日こそ真実に近づくことができるだろう。
○今日はずいぶん進歩した。しかし、まだ全部が嘘だ。見えている顔はこんなものではない。明日こそは少しは正しく描くことができるだろう。
 早く朝になればよい!!

──矢内原伊作訳──










  第一夜

ISへ
 『夢十夜』へのご招待ありがとうございました。おかげで昨年の夏以来ひさしぶりで漱石に再会できました。
 実は私はたぶん、61歳にしてはじめて『草枕』を読みました。若いころ読んでいたのかもしれませんが、ほんとうに読んだと言える読みかたをしたのは、昨年がはじめてでした。そう自信を持って言えるのは、漱石観がまったく変わったからです。
 それまで私は、「漱石は小説家には向かない資質の人だったんじゃないか」と考えていました。でも、違いました。かれこそ小説家になるために生まれてきた人でした。
 私は、『猫』も『坊ちゃん』も知らず、高校の教科書でびっくりして突然『こころ』を読み、それからいわゆる前期三部作を読みました。そしてそのままショートカットして『明暗』にたどりついていたのです。それらの小説には息苦しさを覚えました。「こんなものを書いていたら血を吐くのは当たり前だ」と感じました。なにか肝心なものが欠けている気がしたのです。それを今の私の言葉に直すなら、「人間として生まれてきてよかった」と感じる何かですが、もちろんそのころは分かりませんでした。
 あとのことになりますが、『明暗』の構想を練っていたころの漱石の日記に、「こんなことをしていたら気が狂いそうだ。」という意味の記述を見つけ、やっぱりそうだったのか、と思いました。しかし、『明暗』を放棄する気なぞまったくなかったでしょう。漱石は命を削って小説を書いた人なのです。小説家には向かない資質だったんじゃないかという感想には、そういう意味もこもっています。小説というのは、も少しアバウトなところのある人が書くものだという気がするのです。──いまは、漱石は『明暗』を書こうとして気が狂いそうになったのではなく、自分を保つためにはあの小説を書くしかなかったんだ、と感じていますが。
 しかし、『草枕』はちがっていました。自由で軽快で生命感に満ちています。人間だけでなく、鳥も植物もです。というか、そのことじたいがあの小説の大きなテーマである気がします。漱石の小説で最高の傑作は『草枕』です。まだ読んでいないもののほうが多いのですが、なんの躊躇もなく、そう断言します。それどころか、そのように感じた自分に誇りさえ覚えます。『草枕』は日本人が生んだ世界最高峰の文学、いや音楽だと思います。
 なのに、その後の漱石は、どうして窮屈な小説を書きはじめたのでしょうか? 
 それは多分、『草枕』的小説には近代的結構が欠けている、と自分で思ったからだと思います。富岡鉄齋が自分を画家として認めたがらなかったように、漱石は『草枕』の自分を小説家として認めたくなかったのです。なぜならそれは、南画的世界からわずかに足を出しただけの小説でしたから──以前にも話した気がするのですが、漱石に課せられた国家的使命は、日本文学を近代化することでした。かれは忠実にその使命を果たそうとしました。かれほどの人でも、文明開化を経て、欧米列強に追いつけ、の時代の要請から逃れることはできませんでした。それが、明治という時代なのだと思われます。
 しかし、一神教の世界に生まれた人たちには相当する個人を核とする世界意識は、アニミズム多神教の世界の人びとにとってはあまりにも不自然です。かれの小説の登場人物たちに生活感が乏しくなるのは当然でした。「覚えていてください。私たちはこのように生きてきたのです。」と『こころ』の先生は書き遺しました。しかし、明治の日本人は、けっしてあのように生きはしなかったのです。

 第一話での時間のことでしたね。女が死んでから花が咲くまで、いったいどのくらいの時間が経ったのか。──あなたは、まだ百年は経っていないと考えました。私は、百年経ったのだと考えました。そのちがいは、あの小説をどうみるか、のちがいによるのだと思います。あれは近代的な小説ではないのです。近代小説以前の小説だからあんなに魅力的なのです。近代以前では、時間は伸縮します。時間は折り畳まれて、ほぼ永劫が一点に重層されさえします。小林秀雄が、「現代人には無常ということがわからない。常なるものが分からないからだ」と言った「常なるもの」の一例がその「時間」なのです。時計的時間はほんとうの時間ではなく、ただの機械のための時間です。生命感とは無縁のものです。
 勢いで、近代以前は時間が伸縮し折り畳まれて重なる、と書きましたが、たぶん今、人々は改めてそう考えはじめているのではありませんか? そう考えないと解決のつかないことに、今、人類は遭遇しはじめているように見受けられます。
 あの時計的にはほんのわずかの時間が実は百年だったのです。「私」は、そのことに気づきました。気づいたとき、たぶん「私」はすでに意識だけになっていて、時計的時間式にいうならば、かれの姿はもう私たちには見えなくなっていたでしょう。──第一話はそういう「夢」です。
 学生時代に、死刑になる前の数分に考えたことが全編であるアメリカの小説を読んだことがあります。(たしか映画化もされたはずですが、もう題名が出てきません)あるいは、三年生にはこの四月、「邯鄲一炊の夢」を読ませました。生徒は、最後の段落に至って、「なん? 夢やったと!?」と騒然となりました。しかし、第一夜には、そういうオチはありません。ないから、実は、21世紀に通用する新しさ、原初的であるからこそ生命感を失わないものがあるのだと思います。ありえないことですが、もしジョイスヴァージニア・ウルフが『夢十夜』や『草枕』を読んでいたら、と想像するのはとても愉しいことです。
 今回のお誘いに感謝します。
 『夢十夜』を読んでいるうちに、とんでもなく重要なことに気づきました。
 漱石の最高の小説は『草枕』です。しかし、かれの最高傑作は、たぶん小説ではありません。国家的使命として、また一方で生計の糧として書かれた小説以外のものに、漱石のもっとも優れた作品があるはずです。
 私は、自分のこういうヤマカンに自分を賭けてきました。今回もそうします。退職後は、かれの小説以外のものをじっくり読みます。そこには、「人間として」だけでなく、「日本人として」うまれたことの幸運を喜ぶものが、きっとたくさんあります。そんな宝の山に気づかせてくれたことに、あらためて感謝して、今日は終わります。
2010.4.29










  おとぎ話
GFへ

 日本に、仏教という文明がおしよせてきたとき、(為政者たちは別として)、人びとは、それまで胎内で暮らしてきたかのような安住の小世界から突然、空という外界に引きずりだされてしまいました。それはあまりにも広く、明るすぎて頼りどころのない空間でした。彼らは、すでに前世だったとしか思えない仏教到来以前の小宇宙をなつかしみ、いつかまたそこに還るときがくるのを待つ、という形で仏教を受け入れました。「この世」とは、ただ一時的な呪わしい世界だったのです。
 19世紀に至り、日本は再度、西洋文明を受け入れました。が、前回のような混乱は起こりませんでした。なぜなら、「この世」は仮構にすぎないという観念は当たり前のことになっており、ただその仮構の部分が様変わりしたに過ぎなかったからです。しかし、西洋からやってきた「この世」はすでに区劃されていました。日本がその中に参劃するには、今度は「日本」という小宇宙を捨てるしかありませんでした。その新しい「この世」は、仏教を受け入れたとき祖先が感じた以上に呪わしい世界だったろうと想像できます。
 20世紀の日本浪漫派と呼ばれた人たち(といっても、安田與重郎しか知らないんですが)の夢見たのは、そのミクロ・コスモスとしての日本だったのです。それがすでにロマンにすぎない夢物語であることくらい、彼らにとっても自明のことでした。しかし、それが夢でなくなるときが、もし来るとしたらそれは、近代日本が自壊するときなのです。これは、いわゆる「敗北の美学」などとは全く無縁の心性です。彼らは、「この世」が自壊するロマンを追い求めたのです。そのとき、「日本」というミクロ・コスモスが再度現成するかもしれないという暗くて切実なロマンに駆られたのです。ちょうど、彼らの祖先が、この世での死が草葉の陰という小宇宙に還る契機となることを期待したように。
 草葉の陰のような小国。それは何というおとぎ話なのでしょう。(そして敗戦後の現実は当然のごとく、彼らの夢とは正反対の方向に進んでいきました。)しかし、そう考えた彼らにとって、天皇制はミクロ・コスモスを支える貴重な仕組みだったはずです。そして、その点だけは、今も日本が日本である唯一の根拠たりえているのかもしれません。「国体」は護持されたのでした。
 実は、ここまで考えたとき、ヨーロッパで起こったことも同じパタンではなかったのか、と思い始めました。ファシストたちが夢見た(そして日本より上手に、しかも強引にそれを実現しかけたために、より大きな惨禍をもたらした)同質の人びとだけによる世界とは、文明化以前のミクロ・コスモスをもう一度取りもどそうとする精神主義的な運動だと思われたからこそ、ドイツだけでなく、イギリスにもフランスにもイタリアにも、そしてアメリカ大陸にまで共感者が広がったのでしょう。さらに、反ファシスト的であった人で、今も人びとから敬愛されている人物は誰だろうと考えたとき、現在の、あらゆる場所にジャンクヤードが出現しはじめている趨勢には、いつかまた揺り戻しが起こりそうな気がしてきます。あるいは、すでに起こりはじめているのかもしれません。
 われわれの中には、文明に対する、普遍主義に対する、根深い怨念と同時に、抑えがたい憧憬があります。なぜなら、その向こうには自由が見えているからです。その一方、みんながみんな一緒になれたら、どんなに楽かわかりません。が、同時に、家族とか、祖先とか、故郷とか、共同体とかいう言葉でしか言い表すことができなくなった、われわれを見捨てたミクロ・コスモスへの呪詛とそれでも思い切れない憧憬もまた、われわれの中にいまも踞っているのではないでしょうか。               
                            2010,1,30



 調査捕鯨中止に関する緊急アピール

私たちは、日本国民の生命を守るために重大な決心をしました。日本政府は今年の南氷洋調査捕鯨を中止するよう関係諸関諸氏に通達しました。私たちもまたそれを承諾したことを世界に報告します。しかし、それは「鯨を守れ」と叫ぶ人々の意見に賛同したからでは決してありません。
 他国の人々が自分たちの飼育している牛や豚や羊に愛情を注いでいる以上に、我々は鯨への畏敬の念を持ち続けてきました。なぜなら、その偉大な体躯はそれだけで我々に大いなるものの存在を知らしめてくれていましたし、かれらの家族への細やかな愛情は、私たちにけっして忘れてはならないことを教えつづけてくれていたからです。さらに、鯨は私たちにとっては有史以前からの、飢えを避けさせてくれる貴重な自然からの贈り物であっただけでなく、その体は髭や骨にいたるまで楽器や操り人形などの私たちの民族的誇りである独自文化を成り立たせてくれていました。鯨は私たちにとっては友人などではない。私たち以上の偉大な存在なのです。
 しかし、私たちは南氷洋調査捕鯨を中止します。日本の芸術家には、まがい物を代用してでも、その献身的な努力でこれまで同様の成果をあげることを期待するしかありません。
 日本には古来より、海辺の人々、平野部の人々、川辺で暮らす人々、山で暮らす人々、それぞれの独特の文化があり、現在に至るまでそれを守ってきたことは私たちにとっての誇りでした。そのなかで、海に生きる人々にとっての捕鯨は、彼らの伝統文化のシンボルでした。そのシンボルを守ることができなかった日本政府の無力を、私たちは批難しません。
 私たちは、捕鯨に反対する人々の暴力の前に膝を屈することを選びます。なぜなら、自分たちの文化を守るためとはいえ、捕鯨に携わる人々が生命の危険にさらせれているのを座視するべきではないと判断したからです。
 私たちの決断に快哉を叫んでいる人々に申し上げたい。
 自分たちの考えに絶対的自信をもっている場合は、自分たちから見て不正を働いている人々には暴力を行使してもよいという考え方に、日本は異論を唱えてきたことを確かに記憶しておいて欲しいのです。その異議申し立て自体を取り下げたわけではないことを私たちは明確に表明します。ましてや、世界中がひとつの文化に統一されるべきだという考え方には、痛切な歴史的反省をこめて、断固反論します。
 この世界には、多様な人々、多様な文化が存在します。その多様さこそが豊かさの源泉なのです。私たちには幾つもの異なった人生観や価値観が必要です。その多様さが地球上の次の世代を救うと私たちは信じて疑いません。だから日本は、自分たちと異なる考えをもった周辺の人々とも共存するために、時には屈辱に耐えながらでも友好を維持しようと努力しています。その忍耐を私たちは誇りに思っています。
 文明国にあって、野蛮さは排除できない場合でも隠蔽されるべきだ、という考え方には、私たちもそうあろうとしてきたし、これからもその意志は変わりません。心を痛める他国の野蛮な行動、それも人々に対する野蛮な行動に対しても、私たちは暴力を行使せずにこの半世紀以上を経てきました。そのことへの賛否は当然あるでしょうし、批判を甘んじて受ける覚悟はあります。が、同時に、すべての野蛮さを暴力的に押さえつけるようとすることは、私たちの文明を内部から衰退させる重大な危険を伴っているのを忘れるべきではありません。野蛮さをすべて抜き去ろうとすることは、自分たちの文明を去勢しようとすることにほかならないからです。それでもいい、という意見も当然あろうと思われます。しかし、私たちはそんな未来を見たくありません。

 この文明を守るためには、他者の存在を認める必要が絶対的にあるのだということを、私たちは再度訴えます。

 最後になりますが、この国には自然を尊ぶ古代からの風習があります。動植物のみならず、山や川や岩や草木にいたるまで、われわれにとっては遠い父祖の思い出とつながっている存在です。そのことを「子供じみている」と笑う人々がいることは承知しています。しかし、遠い思い出が現在の文明を支えていることを、われわれはすべての人々のために忘れません。一方、不幸にして、工業化を急ぐあまり、自然を汚染し、人々にまで健康被害が及んだ苦い経験を我々はもっています。その反省と教訓から、日本は環境汚染を防ぐための、また環境を復活させるための高い科学技術力を養ってきました。今後、世界のどこであっても、環境汚染を未然にふせぐために、あるいは環境や自然を快復させるために我々の知識と技術を必要とするところがあれば、われわれはその要請に従って自ら出かけてゆく用意があることをここに表明します。
 今回の日本の捕鯨中止の決断が意味することを、世界の人々が自分たち自身の問題として考えてくださることを祈ってやみません。
2011/03/04