中沢弘基 生命の起源

2014/08/08

GFへ
 
 また台風が近づいている。こんどのは相当に大きい。
 コースは太平洋を北上したあと四国から中国地方を横断して日本海に抜けるという。20数年前怖ろしい台風を経験したことのある者として、進路上のことが気になる。
 よく雨が降る。
 いまのところに引っ越して以来、こんなに雨が降り、こんなに涼しい夏ははじめてに思う。
 町暮らしが長くなっても米作民族のDNAは生き残っていて、毎年のように日照りなら日照りで、長雨なら長雨で、「今年の作柄は、、、」と心配する。寒サノ夏ハオロオロ歩キ、、。
 夏休みも3週間たった。
 貯まったものを送ります。
 あれこれあるけど、目玉は中沢弘基『生命の起源』(講談社現代新書)。大興奮でした。
 無機畑の実学にながく携わったのち60ぐらいから「青春の夢」に取り組んだというだけでも羨ましいが、その仕事が世界最先端なのに驚く。著者は「取り掛かるのが遅きに失した」と言っているけど、たぶん違う。自分で選んだというわけじゃない「回り道」が実は総合化が可能になるのに必要な大道だった気がする。
 本人の言う通り「人生は志と運だ」。
 運がよかったんですよ、あなたは。
 もちろんその運をたぐり寄せるために志を忘れず、努力と準備を怠らなかったあなたは偉い。 
 あとがきに著者自身が書いている通り、″異説″と映るかもしれないけれど「正論」だ。というか、「正論」がやっと現れた。
 その出発点は「タンパク質や核酸は非生物的に合成された」と考えるしかない点にある。なぜ?
 なしか?WHY?なし?WHY?
 「遺伝子が出来る前に遺伝子的形質を帯びた個が現れた、と考えるしかない」
 ではそれらのメカニズムは?
 興味が湧いた人は読んで下さい。あの920円はベラ安です。

 こちらに故宮博物館展がくるというのでちょっぴり予習をした。
 狙いは、野見山暁治さんが「この世のものとも思えぬ恐ろしい世界」と評した茫寛、郭熙、李唐。「こんな世界が生まれる世の中には、ぼくらと全く違う人間が棲んでいたはずだ」
 ものの本によると、彼らは「気」を描こうとしたのだとある。そういうことだろう。しかし、そう書いている人物はその「気」を勘違いしている。
 「仏界入易く、魔界入難し」と言ったのは一休だったか。
 北宋の画家たちの「気」とは、その仏界以前の魔界のことだ。
 普通「魔界=気」は現実の背後に隠れている。
 野見山さんは「サン・ヴィクトワール山には何かが潜んでいるようで怖い」と言う。「サン・ヴィクトワールを正視できる人が僕には不思議だ」と言ったのは誰だったか?その日本人も同じコトを感じたのだと思っている。
 茫寛たちの絵には──じつはそれらを「絵」と呼ぶことじたいに何か抵抗があるのだが──その隠れているはずのものが歴然と露わになっている。北宋の仏たちの超然とした表情になにか違和感を覚えてきたが、「わかった。」

 なんらかの形で生徒に読ませたくなって、梶井基次郎桜の樹の下には』をパソコンで打った。打ちながら「なぁんだ。吉野弘の″I was born″はこの高校生向けバージョンだったんだ」と気づいた。が、今日の話は別のこと。
 『桜の樹の下には』の最後の一節は次の通り。
「今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴を開いている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めそうな気がする」。
 梶井基次郎は偉いやっちゃ。
 たぶんその大半はまだドレミファも理解していない村人たちとは、「理」以前の──「仏界」とは「理の世界」です。──世界をどっぷりと蓄えた場所で生きつづけている人たちのことだ。いわば、かげろうとその根本においては同じ生き方をしている人々。桜同様に屍体の上で、先祖の養分をじゅうぶんい吸いながら、そしていつか自分も子孫の養分になるのを当たり前のことだと知ってる、仏界と魔界の混淆した世界で生きている人──イサベラ・バードの言う「野蛮人」──たち。それに比べたら「インテリ」のなんという薄っぺらさ。梶井基次郎にはそれがホントウに解っていたらしい。
 「いまの人たちに無常はわからない。常なるものを見失ったからである」

 「遺伝子」ができる前に勝手に自己(個)増殖をはじめた雑多な胞子的物質がいる。

 その増殖システムがわれわれの知っている遺伝子になるためには、システムの受け渡しミス(あるいは受け取りミス)が必要だった。そののち100%の純粋な増殖ではない増殖システムが形質化された時が遺伝子の誕生だ。
 以後その「生物」は進化を開始する。

 宇宙の進化。
 地球の進化。
 物質の進化。
 生物の進化。
 それらの進化を「複雑化」と読みかえたとき全体像が見えてくる。
 中沢さんの言っていることは、そういうことなんじゃないかな。
 複雑化はなぜ起こり続けたのか?
 「エントロピーを減少させるためだ。」
 この考えに従えば、宇宙創成期ののビッグバンも説明可能になる。
 それらには何かの意志が関わっていたのではない。ただの当たり前の現象からすべてがはじまった必然の連続にすぎない。ただし、たぶん生命は銀河系では地球にしか存在しないという。
 「地球という宇宙を想定しよう」
 必然×偶然×必然、の産物。生命。
 エントロピーを減少させる複雑化の先にあるものは「希薄化」だ。いまわれわれの世界はその途上にある。
 「この人の言っていることは正しい」
 ただの第一勘だけど。その第一勘以外に頼れるものが何かあるか?
 いいんだ。ここまで来ればもういい。

追記
 ネット上で「無常といふこと」にウンチクを傾けているブログにであった。いまどきの予備校の授業をみているようで、それなりに面白かった。が、その最後に、「高校生には難しすぎるから教科書からははずすのに賛成だ」
 ニャロめ。
 あなた方「大人」よりは偏差値50の高校生のほうがスーッと読む。難したがるのはあんたら「常なるもの」を見失いドツボにはまったサシヅメインテリの性癖に過ぎない。「いまの人たちには分からない」ワカラネェダロナァ。
 あなた方「大人」よりは、「これじゃトートロジーじゃねぇか。」と感じた50年前の半熟高校生のほうがまだずっとマシだった。
──なにを言うか。言語化できないあいだは分かったことにはならない!
 そうねぇ。でもね、言語化するあいだに脱け落ちてしまうもののほうが大事だというのは良くあることなのよ。論理という日の前に出たら揮発してしまうもの。紫外線にあたったら褪めてしまうもの。いや視線にさらされただけでこの世から消えるものだってある。「常なるもの」とは言語化を拒むもののことだとは思いませんか?思わない?そうですかぁ。
 「歴史化され得ないもの」の眞實を喪ってはならない。喪ったらわたしたちは人間でさえなくなる。営々と探しているのはその沈黙を守るためのことば。
 さて、また次の堂々巡りを始めるか。