「存在」は存在し得ない?

2014/01/05

 年末、信州から「自分の有限性を自覚した人間だけが未来を獲得する」についての返信メールが届いていたのに、年が明けてから気づいた。
 もともと上のことばは、ハイデガーのことばを著者が翻案したものをさらに生徒用にGG語訳したんだが、それに対して信州からの便りには何かの解説書が引用してある。それもまた解説書の著者の翻案だろう。
 以下のとおり。

 生の有限性の自覚は、時間とは何かという問に大いに関係する。
ハイデガ−は時間の存在に自己という事が係わっていると考えている。逆に言えば、この自己が存在しなければ、時間はない。

 もし人が無限に生きていけるとしたら、過去も未来も問題にならない。
単語として存在するが、時間の流れとして感覚出来るか、だ。
人生の有限性という意識、何時か終わるという意識が 、自分の過去(人類の歴史も含め)に痛烈な反省(時に後悔)という出来事を生じさせる。(無限に生きていけるなら、やり直しが何回も出来るから、この反省は生じない)更に、未来には取り返しのつかない失敗をしないように細心の努力をする。(無限に生きていけるなら、何度も挑戦できるので、この努力は生じない)

 この強烈な時間(過去・未来)に対する自覚(意識)は、自らの有限性から起こる。
 喩えは悪いが、時間をお金としてみる。有限量のお金を持つ者と、無限量のお金を持つ者との違いだ。前者はお金の使い方に注意を払うが、後者にはそれがない。

 では、時間に流れと言う感覚が生じたのは何故か?とハイデガ−は問うてくる。
 最近、実は今日の事だが、ハイデガ−の考えに成る程と思った。記憶がやや曖昧になっているが、その解説書によれば、「もう・・」「まだ・・」と言う事が理由らしい。
 楽しいことなどに夢中になっている時は、「もう、こんな時間」となる。時間の流れが速いと感じる瞬間だ。苦しい事などに我慢している時は、「まだ、こんな時間」となる。時間の流れが遅いと感じる瞬間だ。この速い遅いの感覚が流れという実在感になる。

 ここで何が起こっているかと言えば、自己を忘れているか、自己を否応なく意識させられているか、である。つまり、自己を意識スルしないかが時間の流れという感覚になる、と言う事だ。この流れの感覚が無ければ、時間は単に時刻を意味するだけになる。

 上のメールを読んで最初に思ったのは、「ハイデガーらしくない」。ハイデガーは道学者ではなく論理の魔術師だ。しかし、論理の魔術師にしては上の論理はフツウすぎる。ハイデガーなら、学徒たちを(あるいは先学者たちを)アッと言わせる論理を仕掛けているはずだ。
 ともあれ、「時間って何だ?」
 なんだか変なことになってきた。
 ホワイトヘッドは、「自然の法則などは存在しない。ただ自然についての暫定的な習慣があるだけだ。」と言った。
「時間とは人間の慣習的な概念に過ぎない。」
 たぶんハイデガーにとっては、時間というものが「ある」とか「ない」という言い方自体が意味をなさない。「時間」はザイン(Sien)ではなくゾルレン(Sollen)である。「時間の存在」という表現自体が逆説でなければならない。『存在と時間』は「存在対時間」について語られたもの、だとするなら面白い。(面白くなってきたぞ。)
──時間ぬきで(純粋な)存在を語ることができるか?
 あの人ならきっとそう問いかけたはずだ。
 もし時間ぬきでは存在を語れないとするならば、存在もまたゾルレンである、、、、。ザインが消滅する。
 GG流に考えると、理屈はそうなる。哲学が理屈であるとするならば、ではあるが。
 上のことが当たっているかどうかはまるっきり知らない。でも、論理の魔術にはなっている(と思う)。
 そんなことを考えはじめた日、旭川から『虫の眼アニ眼』に夢中になってるというメールが届いたので、アマゾンで注文しようとしたら、「そろそろ熊野純彦存在と時間』を買いませんか?」という案内が出てきた。なんというタイミングのよさ。気持悪いくらい。でも、やっぱりそういう時機なんだと観念して注文した。ただし、第一巻のみ。読み進められるものかどうかはまだ分からない。今回もまた行き当たりばったり。(まだ、その前に『資本論を読む』がある)
 『存在と時間』が未完に終わった理由を、木田元は『「存在と時間」の構築』(岩波現代文庫)で、スリラー小説仕立てで解いている。(その展開はコロンボなみに面白いから、興味のある人にはお勧めです)
 が、この(GG流)展開は、哲学者自身が「存在は論理的に存在しない」という自分が掘った陥穽にはまったことなる。それを避けようとすると、「時間は存在ではない」という自分の築いたデッドロックが待ちかまえている。先に進めようがなかったろう。これはアポリアなのではなく、業師が自分の業にはまっただけなのだ。
 もしその陥穽やデッドロックを解消しようとしたら、上の「論理の魔術」は拍子抜けするほど当たり前の結論にたどりつく。
──存在は時間を内包し、時間は存在を内包している。
 その先には、自己存在と時間の一体化、時間と歴史の一元化、自己と歴史の一体化(つまり、ザインとゾルレンの一元化)が待っていた。これは論理の破綻だ。(「お前の論理のほうが最初から破綻している」という声が聞こえてきそう)──若き日の夏目金之助卒業論文で「一元論には発展性がない」と断じた。──しかし、眞の哲学はその水平線の向こう側にある。水平線の向こうは文学だ。『草枕』は一元論的世界の光に満ちている。
 ユングの「集団的無意識」は、「無意識の物質化」なのだと感じるが、それはもう科学ではなく「文学」なのではないか。が、ハイデガーユングとちがって詩人たり得ていない、小人であった。
 たぶん、哲学者は構想の最初から、最後のどんでん返しを設定していたはずで、それが「自由意志」なんだと思うのだが、迷論珍説はこれくらいにしておく。

 ともあれ『存在と時間』半島への橋頭堡ができたから、建国記念日を期して上陸作戦を敢行するか。
 いい冬籠もりになりそうですなぁ。