仏教では終局にリセットが用意されている

2014/02/07
 北川透さんから『KYO』が送られてきた。内容もさることながら「読まれることを期待していない─ひとり雑誌─」なんて最高の贅沢だ。その贅沢につき合わせていただくことにした。読み終わったらその都度、いまの学校の国語科準備室の本棚に置きみやげにしていくつもり。いつか誰かが手にするかな?しないかな?でも、高校時代にアイルランドのシングを知ったのは職員室の真上にある隠れ家に誰かが置いていった本のお陰だった。
 ガロは夏休み、冬休み、そして春休み。こちらが休暇になるのを見計らったかのようにピンチになる。父親もそうだった。なんで分かるのかな?
 今回はこちらの対応が早かったから、入院まではせずにすみそう。
 医者は「いま生きていることじたい奇蹟みたいなもんです。」と言う。ふん、なにをヌかす。それはガロに限ったことじゃない。アンタもオレも草木や虫に至るまでみな奇蹟みたいなもんじゃないか。
 深夜放送で「生命の誕生」という特番があっていたので録画。
 映像はきれいだったが、こちらが見たかった「生命の誕生」の部分はちょろまかしてすぐに生物の進化。「なんだ」期待はずれもいいとこだった。
 「ひとつの生命がこれほど多様に進化したのです。」
 やっぱりそう考えるのか。
 オレはまったくそうは思わない。
 原始地球では多様な環境のなかで多様な疑似生命が誕生した。それらの疑似生命たちは特定環境の融合や消滅に併せて融合したり死滅したりしていった。だから、生き残った生命は、インフルエンザ・ウィルスからわれわれ人類にいたるまですべて、ハイブリット生命体なんだ。
 「生命は宇宙からきた」説であれ、地球で誕生した説であれ、あの人たちは「最初は一だった」という発想から脱けだせない。いや根本的には脱けだす気がないんだと思う。
 STAP細胞についての「あなた方は生物学400年の歴史を愚弄している」という見解についても「やっぱりそうか。」
 あの人たちの科学の教義は不可逆性にある。細胞をリセットさせることはその教義に反した異端的行為そのものだった。「科学」はキリスト教学の代替物だと言う西洋人に何人も出会ったように記憶している。名前も出てきたが怪しいので誤魔化す。その人たちの言いたかったことが少し見えてきた。「始まりはそれ以上分化できない一」それを逆戻りさせて初期化するなんて。オゾマしい。
 しかし、われわれにとっては、成熟の最終段階に初期化がある。仏は始まりなのではなく終局の全だ。その全とは純粋な可能態のことだ。だからわれわれは次のジェネレーションでは虫にも花にもあることができる。(選択できないのは残念だけど、楽しみにとっておこう。学生時代に入った飯場みたいなところで会った福島県季節労働者が言ってた。「出かけるまえに仕込んできたから、正月に帰ってときは会えるべぇ。今度は男かな?女かな?」)
 仏は単なる理念ではない。存在なのです。
 そういう風土に育った女の子が、とんでもないことを成し遂げた。
 「瀕死の状態においこまれた細胞はリセットすることで生きのびようとする」
 具わっていたすべての個性をみずから喪失させることで可能性のみになる。
 これは仏教だけの話じゃないぞ。
 でも、靖国藭?風の話はまた別の機会に残しておく。

追加
 ガロはまたもや無事生還。
 さっきは階段の下に来た気配がしたので外に連れ出すと、オシッコとウンコをした。「お父さんならきっとボクの気持を分かってくれる。」なんという奇蹟的な義理の親子。