私家版 井月抄
私家版
井 月 抄
岩波文庫『井月句集』からの抜粋
原本は歳時記構成になっている。
春
用のなき雪のたヾ降る余寒かな
定まらぬ空に気のせく弥生かな
春風や碁盤の上の置き手紙
春雨や心のまゝのひぢ枕
手がはりに持つ家づとや春の月
淡雪や橋の袂(たもと)の瀬田の茶屋
曙は常にもあれど春の富士
春の野や酢味噌にあはぬ草の無(なし)
誉められて泪(なみだ)隠すや二日灸
手を少しよごす栄耀(ええう)や潮干狩
恋猫の又してもなく月夜かな
乙鳥(つばくら)や小路(こうじ)名多き京の町
また来ると思へど雁の名残かな
梅が香や栞(しほり)して置く湖月抄(こげつせう)
草餅や自慢はせねど梅の花
了簡の外(ほか)の梅見る連(つれ)もがな
梅が香や流行り出したる白博多 白い博多帯
数ならぬ身も招かれて花の宿
鯛料(れう)る腕の白さよ花の宿
仮橋や柳に近き家斗(ばか)り
名のつかぬうちぞめでたし春の草
桃さくや片荷(かたに)ゆるみし孕馬(はらみうま)
よき草のなれも数なり蕗の薹
根を包む紙を貰ふや花菫
松風を押へて藤の盛りかな
春の気のゆるみをしめる鼓(つづみ)かな
夏
明易き夜(よ)を身の上談(はな)しかな
五月雨や古家とき売る町外れ とき売る=更地にして売る
子を産(うま)ば猫もくねるか五月晴れ くねる=ませる
白雨(ゆふだち)の限(かぎり)や虹の美しき
小家とも云はず寄りつく清水かな
うるさしと猫の居ぬ間を昼寝かな
祇園会や捨てられし子の美しき
山の端の月や鵜舟の片明かり
打水や汚れし石をまた洗ふ
石臼も手を借りられて一夜鮓(いちやずし)
冷汁(ひやじる)や祢宜(ねぎ)に振舞ふ午時(ひる)餉(かれひ)
月は夜(よ)に後るゝ峰や時鳥(ほととぎす)
辛崎の一夜の雨や杜宇(ほととぎす)
客あれと思ふ日もあり初松魚(かつお)
えだ振(ぶり)も木ぶりも云はぬ牡丹かな
是がその江戸紫や燕子花(かきつばた)
秋
名月や院へ召さるゝ白拍子
七夕の夜は常ならず夜這(よば)ひ星
鶏の耳そば立てる鳴子(なるこ)かな
新米や塩打つて焼く魚の味
新蕎麦に味噌も大根(だいこ)も誉められし
酔醒(ゑひざめ)や夜明に近き雁の声
子供等も羽づくろひして行く乙鳥(つばめ)
山雀(やまがら)や愚(おろか)は人に多かりき
虫鳴くや嵯峨に宿借るよしもなき
鶏頭やおのれひとりの秋ならず
鍬を取る人の薄着や柿紅葉
鉄漿親(かねおや)をきめて春待つ娘かな 鉄漿=おはぐろ
冬
?(さかばた)や近道もなし年の暮
?=さかばやし=さかぼうき=杉だま
雪の日や無尽済(すみ)ての送船(おくりぶね)
何がなとこゝろ遣ひや雪の宿
麁相(そそう)でもしたやうに降(ふる)霰哉
それと見る魚(うを)かげもがな薄氷
埋火(うづみび)や何を願ひの独りごと
若後家のあたりに酔うて年忘れ
水仙や雪ともつかぬものが降(ふる)
新年
年々や家路忘れて花の春
雪ながら梅は開くや去年(こぞ)今年(ことし)
今日までは罪も作らず三ケ日
犬ころの雪ふみ分(わけ)てはつ日かげ
夜深しとおもふ間もなき雑?(ざふに)かな
七草の宵や薺(なづな)のもらひ風呂
翠簾(みす)近に置て勅(ちよく)待つ若菜かな