姉は『草枕』那美のモデル

2011/9/8

 前田利鎌『宗教的人間』のうち、岩波文庫にとられていないところを先に読んだ。その内容の話はいずれまたということにして、今日は
前田利鎌(とがま)の年譜とそれにもとづく秋月龍萊の解説の抜粋。

 〃 前田利鎌、明治31年熊本県玉名郡小天(おあま)村湯ノ村に前田案山子の(あんざんし)末子として生まる。三姉槌子は宮崎?天に嫁し、龍介、震作らを生む。
 湯ノ村には中江兆民や五高の教授ら遊ぶもの多く、夏目漱石も冬休み中滞在し、明治31年(利鎌2歳)の正月を前田家別墅で迎える。『草枕』はその湯ノ村を舞台にかり、利鎌の二姉卓子(つなこ)に女主人公那美を擬せ、温泉宿の老主人は父案山子の一面をなす、とも言われる。なお、実質的な育ての親であった卓子と利鎌は、のちに養子縁組をむすぶ。
 前田家は利鎌幼少のころ没落。父案山子は利鎌7歳のときに死去。
 10歳の時上京。姉卓子宅に同居。卓子不在時は宮崎?天方にあずけられる。また、母死去。故郷の一家は離散。
 16歳のとき、卓子に伴われて東京の漱石宅を訪問。以後しばしば夏目家に出入りする。
 一高入学後、大学卒業までは細川家から学資援助をうける。
 漱石逝去(大正五年。利鎌19歳)後も夏目家をおとずれ、小遣いのないときは未亡人の肩をもんで報酬を得たりする。〃
 大正11年(25歳)、東京高等工業高校臨時嘱託
 大正12年東京大震災時は上総竹岡に滞在。
 昭和5年、東京工大教授。
 昭和6年1月、腸チフスで急逝。34歳。
 遺骨は埼玉県野火止(のびどめ)平林寺新墓地に納められる。

 〃・・・漱石がもう少し長生きをして、著者のこの本を読んだとしたら・・・というようなことを空想するのは、ひとり筆者だけではあるまい。
・・・由来、東大哲学科には、学としての哲学の科学性を理由に、哲学本来の魂である「己事究明」の求道精神が時に希薄であった。一方、参禅者はまた「不立文字」の語をみずからの怠惰のカクレミノとして、体験の学的怠る憾みなしとしない。ここに本書が、今なおこの国の哲学界・宗教界を照らして輝くゆえんがある。〃──秋月龍萊──

 なお、利鎌を惜しんだ友人たちによって出版された『宗教的人間』の初版は300部だったそうだ。

別件
 先週の土曜日にヨッチャンが言った
──僕の試合はテレビじゃ見られんよ。
 は、あまりにもしゃれているので首を傾げていたが、たぶん以下のようなことだ。
 ヨッチャンは神戸に単身赴任しているパパに自分のデビュー戦を見て欲しかった。そこで、ヨッチャンにおかあさんが入れ知恵をしてあげた。
──電話でこう言ってみなさい。
 それが功を奏さず、あるいは言い出せず、せっかく覚えた殺し文句を前の家のお爺ちゃんにポツンと漏らした、、、のではなかろうか。