天智帝に挽歌を献げた9人の女

2011/09/06

 昨日の「上野先生を囲む会」は、いつも通り愉快で、気がついたら4時間近くもわいわいやっていた。家に帰り着いたのは、ひさしぶりの午前様。でもそれで助かった。ジョッキを空にしたのはいいが、そのあと何度も、目の前の光景がフィルムに火が移った時のようになっていた。
 参加者はいつものメンバーのほかに、大濠の親分がつれてきた新任の女性。自分にはわからない会話ながら、堀北マキ(?)によく似ているのだそうだ。フム、たしかに可愛かった。親分お気に入りみたいだが、彼いわく、
──特定の女性ばかりを口説いたり追っかけたりしたら、それはセクハラになったりストーカーになったりする。しかし、オレはつねに2〜3人とはいわん女性を口説いたり追っかけたりしているから犯罪者にはならん。
 その、まだ「学生です」と言っても通りそうな新任女性が、「私、須恵に決まりかけていたんです。だからびっくりしました。」という。でも、彼女は大濠のほうが合っていたと思う。ついでに修猷の部会長氏が、「ひょっとしたら」と名告ると、「きゃあー」。そのご子息を教えているのだそうだ。
──夏の読書感想文がとても印象的でした。
──あいつ、なにを書いたのかなぁ。
 青森インターハイに参加した登山部は16位だったそうな。
──にわか仕立てのチームだったけど、よく健闘しました。
 が、そのこと以上に
──青森が大好きになった。ほんとうに素晴らしいところです。
 帰りの「日本海」の中で、買い込んだ『津軽』をちびちびやりながら読み継いでいった。
──何度読んでもいいですねぇ。
 読み終わったのは博多駅からの地下鉄のなかだった。
──涙がとまらんごとなってですな。前に坐っとう人は、「あのおじさん、なんごと泣きようとやろか」と思うたことでしょう。
 駅には奥さんが迎えにきてくれた。
──「どうしたとね?」と訊かれたときに、「2週間ぶりにお前に会えてうれしくなってな」とでも言いきったら大したもんでしたが、それだけの演技力はなかった。
 こんな男が部会長をつとめる間は声さえ掛けてくれたらまた参加したい。11月の伊勢神宮には上野先生の知り合いが案内係になってくれるそうで、「たぶん中の見学範囲がワンランクは確実にあがるはずです。」神宮皇學館の話でも盛り上がった。
 隣の席になった白川静についての先輩は、熊本出身だというので、冗談半分に訊くとホンモノの鶴とめ姫の血統だという。五條氏ほどではないにしても、細川氏よりはずっと前までたどれる。その鶴とめ姫の子孫は
──実は私、10年ほど須恵にいました。そのとき作詞した応援歌はたぶん今年の体育祭でも歌われるはずです。
 土曜日は自分のぶんのお弁当も頼んでいる。聞くものはその応援歌。見るものは特別出場する隣の幼稚園の鼓笛隊。
 思いだしたが、かく言うわたくしめも、『玄南寮のうた』という現代版寮歌を作り、面白がった当時の若者2人(作曲者とプロデューサー)はCDまでつくったのだが、完全無視されて終わった。
 親分の娘さんはいま大学生だそうだ。「研究発表を何していいかわからん」と父親にメールが届いた。父親は上野先生に「何かないか?」とメールを送った。そのアドバイスにもとづき、「万葉集柿本人麻呂を中心に編纂されたのではないか」ということを発表したら担当教授から「君、それを卒業論文のテーマにしてはどうか?」と言われ、お父さんの株が上がった。
──オイ、ありがとう。
 その上野先生はまた新しい本を書いている。
 万葉集のなかに、天智天皇への挽歌が九首でてくる。
──そのなかで、もっとも身分的には低かったと思われる額田王をはじめとして、それらの挽歌を一言でいうなら「わたしがいちばん愛されていた」という内容ばかりなんだけど、それらがどのように創られたのかを考えていくと、そこにはひとつの文学的統一性が浮かび上がってくるのです。
 ・・・どうやら彼はそこに、連歌的発想を感じ取っているらしい。
 三月には出版されるというから、また読まにゃなるまい。
──題名は何ですか?
──それがまだ決まっていません。
 学生を3名、助手を1名連れてきていた。そのうちの2名は昨年の11月にわれわれの面倒をみてくれた女の子だった。
──また会いましょうね。
 心からそう言って別れた。

別件
 昨夕、会場についてすぐ、「ナデシコはどうなった?」唐津出身だという女の子がすぐに、「ちょっと待ってください。」「勝ってます。1−0です。」その携帯の操作の速さ。
 11時すぎに店を出てみると、夜風がじつに気持ちよかった。いよいよ秋。