五つの物語

 
      五つの物語
 
 
<1>   あると

 体がすっと持ち上げられた。
 これまで経験したことのない高さになったが、ちっとも怖くなかった。
 あたかい胸に抱かれて喜びでいっぱいになったとき、
 彼女は母親のことも兄弟のことも、すべて忘れていた。
 少年は子犬をあるとと名づけた。
 「あると!」
 そう呼ばれただけで幸福になりすぎて体がふるえ、
 あるとは少年のもとに駆けつけた。
 抱きかかえられたあるとは、も一度幸福を味わいたくて体をばたつかせ、
 下ろされると、わざと少年から離れて、名前を呼ばれるのを待った。
 「あると!」
  聞き終わらないうちにあるとは少年に突進した。
 至福の毎日が過ぎ、あるとは少年を追い越して大人になった。
 ある日の散歩の途中、あるとは一匹の美々しい犬を見かけるともう走り出していた。
 「待て!」という少年の声は耳に入らなかった。
 あるとは五匹のかわいらしい子どもを産んだ。
 子どもたちから乳を吸われているとき、
 あるとは喜びで恍惚となりそうだった。
 お腹が空くと町に出て、
 口を動かしている人間の前にお座りしてシッポを振った。
 辛抱強くシッポを振っていれば、人間は苦笑して食べ物を分けてくれた。
 魚屋や肉屋は、店じまいのときに残りものを投げてくれた。
 出産場所に選んだ神社の床下は、あるとと子どもたちとの楽園だった。
 そこを侵そうとするものが現れたとき、
 あるとは歯をむいて威嚇し、追い払った。
 乳離れを迎えた子どもたちを、ランは町に連れていった。
 子どもたちが人間に抱きかかえられて行くのを、
 あるとはうっとりとしながら見送った。
 充実した日々を過ごしているうちに、あるとは老いていった。
 雄犬はあるとに近づかなくなった。
 シッポを振っても食べ物をくれる人間が減った。
 あるとはやせていった。
 でも、あるとは落胆しなかった。
 それほどお腹が空くこともなくなっていた。
 子どもたちとの楽園だった神社の床下でまどろむときがいちばん安心できた。
 そこであるとは夢をみていた。
 夢をみているときあるとはしあわせだったが、
 それが何の夢なのかはわからなかった。
 
 ある日、喉のかわきをおぼえて床下から外に出ると、やせこけたた犬と目が合った。
 飢えた犬のなかには、死肉の味を覚えたものがいることをあるとは知っていた。
 それでも、べつに怖いとは感じなかった。
 ただ一瞬立ち止まったとき急に喉が熱くなった。
 
 「こらっ!」
 太い声が聞こえると、喉の熱さが消えた。
 
 「かわいそうに」
 大きな手が体を抱きあげようとしているのが分かった。
 
 そのとき彼女は自分が「あると」であるのを思い出した。
 満ち足りた気持ちが体のすみずみにまで行きわたった。
                                                   2016/11/04
                    
 


        〈二〉
タカ女(じよ)とキビョウエ
 
北の国にタカという美しい娘がいた。
母を早くに亡くしたので、タカは父と弟のためにかいがいしく働いていた。
タカの家は武家だった。
父と弟は戦場にいることが多かった。
戦場から戻ってくると、弟は姉に甘えてばかりいた。
戦場では並の男以上の働きをしているというのがタカには信じられなかった。
家事を仕切ることと父や弟の無事を祈ることがタカの日常だった。
 
ある日、郎党(ろうとう)が息を切らせて駆け込んできた。
父と弟の訃報だった。
「父上のみならず弟までか?」
「ははぁ。」
「何故(なにゆえ)? 何故じゃ!」
タカの髪は総毛立(そうけだ)ち、眼(まなこ)は真っ赤になり、目尻は切れ、顔中に真っ黒い剛毛が生えた。
以後、戦(いくさ)があるたびにタカは、父や弟の代わりに甲冑(かつちゆう)で身を固めて出陣した。
まっ黒い髭(ひげ)の奥で真っ赤な眼がらんらんと光っているタカの顔を見ると、敵は恐れをなして逃げた。
北の国は連戦連勝であった。
鬼女タカの名は諸国に知れ渡った。
 
南の国にキビョウエという心優しい男がいた。
父を早くに亡くしていたので、キビョウエは母や姉のために家長としての義務を忘れることがなかった。
キビョウエの家は武家であった。
ある時、臨月を迎えようとしている姉を気づかいながら、キビョウエは戦場に赴いた。
長い長い戦いは勝利し、意気揚々と戻ってみると、町は敵の伏兵に焼かれ、母も姉も殺されていた。
「なんと酷(むご)いことを!」
その時赤子(あかご)の激しい泣き声が聞こえた。
姉の子であった。
キビョウエが抱きかかえた赤子(あかご)はすぐにキビョウエの胸をさぐった。
お腹をすかせていたのだった。
赤子のなすままにさせていると、キビョウエの胸がみるみる膨らみ乳がほとばしり出た。吸いたいだけ乳を吸って満足した赤子はキビョウエの胸ですやすやと眠りはじめた。
一部始終を見ていた郎党たちは畏れおののき、キビョウエを敬った。
以後、戦いのたびに、郎党のみならず南の国の兵卒は「キビョウエさまを守れ」と結束した。
どんな難敵が襲って来ようとも、兵卒は一歩も退こうとはしなくなった。
南の国は連戦連勝であった。
母男キビョウエの名は天下に知れ渡った。
 
ついに北の国と南の国が雌雄を決する時がきた。
北の国の兵卒に勝利を疑う者はひとりもなく、タカ女(じよ)を先頭に進軍した。
南の国のすべての兵卒は奇蹟の母キビョウエの守護を信じ、粛々と合戦場に展開した。
「かかれぇ!」
将の号令一下、北の兵卒は南に突撃を開始した。
南の兵卒はキビョウエの周りに集結した。
ところが、猛(たけ)り狂ったキビョウエの馬は、味方を蹴散らして真一文字にタカ女に向かってって行った。
タカ女の馬もまたキビョウエのみが敵であるかのように他には目もくれず走った。
会戦場の中央で両者の馬がすれ違うかと思われた時、互いの槍が互いの胸を貫いた。
ふたりは抱き合うようにして横倒しに馬から落ちた。
地に横になったタカ女の顔から髭(ひげ)が消え、美しい女性(によしよう)の顔が現れた。
「お手前がタカ女殿であるか。」
「キビョウエ様ですのね。」
「お会い致しとうござった。」
「嬉しゅうございます。」
ふたりは犇(ひし)と抱き合った。
しかし、その力ははやくも萎(な)えはじめていた。
「もっと語り合いたいが、もうその時間は残されておらぬようだ。ゆるせ、タカ殿。」
キビョウエは最後の力を振り絞って、両軍に聞こえる大音声(だいおんじよう)をあげた。
「者ども聞け! 我らをともに葬れ! この世ではかなわなかったふたりが、のちの世で夫婦(みようと)として添い遂げるためである!」 
タカは満足そうに最後の息をもらした。
タカを抱くキビョウエの腕が緩みはじめた。

北の国の将が兵卒たちに命じた。
「槍を地に置け! このふたりを手厚く葬ろうぞ。」
南の国の将も応じた。
「弓矢も刀も納めよ! ふたりを荼毘(だび)にふす枯れ枝を集めて参れ。」
兵卒たちからすすり泣きの声が漏れはじめた。
夕闇が迫ってくる頃、北と南の別なく、兵卒たちが黙々と集めて積み上げた枯れ枝は、小さな岡のようになった。
二人の亡骸(なきがら)はその上に置かれた。
北の将が大きな声で呼びかけた。
「南の将よ、二度と会うまいぞ。」
南の将も応じた。
「北の将よ、二度と会うまいぞ。」
兵卒たちのすすり泣きは。嗚咽(おえつ)に変わった。
           
とっぷりと暮れた頃、枯れ枝に火が入れられた。
枯れ枝はまたたく間に燃え上がり兵卒たちを赤く照らした。
兵卒たちの嗚咽は号泣となった。
その声は夜空に響き、満天の星たちをふるわした。
                                       2016/11/17
                          
 

      <3>木履(ぽくり)
 
 八七歳の恩師を囲んだクラス会は参加者は十人だったけど盛況だった。
 企画してくれたCちゃん、割り勘要員という名目で加わってくれたO、I、それに、わずかな酒で大声を張り上げる半端爺々の面倒を文句も言わずにして下さったお店の方々、それから、言い忘れたらあとが怖しい優しい女性軍よ、有り難うございました。
 『雪国』を二十回以上読んだというSとは、またも言い合いこになった。「そんな風やからややこしい生き方をしてしまうとたい。女の気持ちやら分からん振りをして戸惑っておけば長続きする。」(なんだか、のっけから何処かの学校の△山通信みたいになってきた。でも、気づかないふりをするのも貴重な優しさ。)とはいうものの、一連の近代史ものが終わったら、友情の証しに五十数年ぶりに読んでみる。『津軽』同様なにか新しい発見があるかもしれない。
 先生は教え子たちに校歌を歌うように要求する。──魚津でもそうだったな。「ミチト歌え!」
 ーー歴史は遠し三千年 光遍き大御代に・・・見よや燦たる校章は朝日に匂う山桜
 教員と生徒の合作なのだそうだ。
 「ヨーシ、匂う、ちゃ何か?」
 「匂いというのはこの場合は鼻でかぐものではなく目で見るまぶしいほどの美しさを言います。」
 「ヨーシ、さすがは国語の先生!」
 (もう引退したんですけど、、、。)
 「なんで山桜なとか? 本居宣長はなんで大和心を山桜に喩えたとか?」
 「サクラ、サクラ、彌生の空は見渡す限り、霞か雲か、ちゅうでしょ? 山桜はぜんぜん目立たんで満開になっても霞か雲と間違えられるぐらいぼうっと見えるとです。だから、目立つ様なことは一切期待せず、己が義務と思うことを確実に果たして自足する精神を、本居宣長は山桜に喩えたとです。」
 「ウーン。よかろう。じゃ、ソメイヨシノと山桜はどう違うとか?」
 「ソメイヨシノは花が先に咲きます。花が散ってから葉が出ます。でも山桜はですねぇ、葉と花が同時です。」
 「ちょっと違う。山桜は葉が先に出る。花はあと。その代わりじっくり咲く。ソメイヨシノはパッと咲いてパッと散る。」
 「はあ、」
 先生は突然「遠き別れに耐えかねて、、」を歌い出す。教え子たちもそれに続いて斉唱する。
 ーー君がさやけき目の色も、君くれなゐの唇も、君が緑の黒髪も、
 たしか前後三回も歌わされた。
 「緑の黒髪ちゃ何か? どうして黒髪が緑なとか?」
 (こんなシツコい人とは思っていなかった。坦々と受験英語を教えながら、こんなことを考えていたんだ)
 「みどり児ちゅう言葉がありますから、「みどり」は色ではなくて、初々しさや若さを表しとぉっちゃないとですか?」
 (日本語の色は、以前「白馬」で「どうして「白」が「あを」なのか」についてウンチクを傾けた様に実にややこしい。)
 「ウーン。も少し行け。生命力じゃ。緑の黒髪はイキイキした黒髪なったい。」
 ーー先生の言いたいことが分かった! 山桜のほうがソメイヨシノより生命力に満ちとる。粘り強く生きるとが大和心ぞち言いたいとばい。
 ーーお前たちはまだヒヨッコじゃ。まだまだこれからジックリと葉を茂らせれ。花を咲かせるとはずっと後ぞち先生は言いよんしゃぁとやね。
 「先生まかせといて下さい。オレたちはしぶとく長生きします。先生もですよ。」
 「オウ、お前たちはオレにとって特別の生徒じゃ。」 
 「これからがオレたちの黄金の十年ぞ!」
 「オウ! よう言うた!」
 それから越後湯沢の話に変わったのは、Sが『雪国』にこだわっていたからだろう。
 その先生の話は次のようなものだった。
 
昔、越後湯沢に匂いたつほどに美しい娘がいた。
娘は両親を知らずに育ったが、優しい祖父母と兄たちに守られて健やかに成長した。
村の男たちは彼女のまばゆさに誰も声をかけることが出来ずにいた。
娘は年頃になっても一度も男から言い寄られないのを気に病んでいた。
まだ鏡というものを知らなかった頃のことである。
ある年の夏祭のとき、隣村から来た若者が、一緒に踊ろうと誘った。
娘は天にものぼる気持ちになった。
祭が終わったあと若者は、来年の春、雪が融けたら迎えに来ていいか、と娘に言った。
娘は大きくうなづいた。
秋がきて冬になった。
雪が降り続き、みな家に閉じこもっているしかなかった。
家族の話題はしぜんに隣村の若者のことになった。
「早く春が来てくんろ」
しかし、越後湯沢の冬は長かった。
毎日毎日雪が降り続いた。
ほんとうに春が来るのか。
それ以上に、あの人は本当に迎えに来てくれるのか。
娘はしだいに悩み始めた。
そして焦りはじめた。
ある日、娘は、隣村に行ってみると言い出した。
驚いた家族は、吹雪になるかも知れないからと引き留めようとした。
しかし、寡黙な娘が一度言い出したら決して引こうとしないことを良く知ってもいた。
娘は、親が、形見にと娘に残した木履を出してきた。
「そんなもん危ねぇから、せめて雪ぐつを履いていけ。」
娘は拒んだ。
女の子に恵まれたことを喜んで親が買ってくれていたという木履以外、彼女は何一つ華やかなものを持ち合わせていなかった。
木履での雪道は難渋した。
それでなくとも覚悟していた道中は少しも進まなかった。
しかも家族の言ったとおり次第に吹雪き始めた。
寒かった。
暗くなってきた。
方角があやしくなっていった。
泣きそうになるのをこらえながら、それでも先に進もうとして転んだ。
「ひゃっ。」
足から外れた木履を手にした娘に絶望感が襲った。
片方の鼻緒が切れていた。
「会えない。」
彼女は泣きながら引き返した。
「会えない。」
それは、もう一生会えないことのように思えた。
吹雪は何日も続いた。
娘は食事も喉を通らず、口もきけずに過ごした。
家族はただ黙って見守っているしかなかった。
雪も風も止み、明るい陽がさしてきた日。
娘は木履のことが気になって、も一度あの場所に出かけた。
木履はなかなか見つからなかった。
見つからなければ見つからないほど、鼻緒が切れたとは言え、あの木履が、自分と若者を結びつける唯一のたよりのような気がした。
この辺りだったはずだと雪を払っているうちに、
「あった!」
木履を見つけた。
手にした木履には真新しい赤い鼻緒が付け替えられていた。
 
 先生の話の記憶はそこで途切れている。
 先生が酔ってしまったのか、自分が限界を越えたのか、あるいはその両方か、もうその記憶も当然のようにない。ただ、新しい鼻緒の赤さはいまも、それこそ「みどりの赤」と呼びたいほど鮮やかに甦る。
 だから、その記憶が新鮮なうちに、先生の話を完成させたい。
 
「あの人だ。あの人は虫の報せで吹雪のなかを私を探しに出てきたんだ。そして鼻緒の切れたこの木履を見つけて、付け替えてくれたんだ。ーー春になったら必ず迎えにいくから待っていろーーと私を励ますために。」
娘は、若者の冷え切った手を温めるかのように、そうっとその木履を胸に入れて抱きしめた。
そして涙が頬を伝わるのも気にせずに家に戻った。
もちろん、
春になり、雪がとけるとすぐ、若者が晴れやかな顔で娘を迎えにきた。
家族からの心のこもった風呂敷包みを抱えて出てきた娘は、赤い鼻緒を若者に見せて微笑んだ。
夫となるべき若者は左右の鼻緒が片々なのに気づき、「どちらかと似た布ぎれが家にあるかなぁ。」と思いつつ微笑みを返した。
村の若者は最後まで娘に声をかけることなく、まぶしそうに二人を見送った。

附記
 散会が近づいた頃、小学校以来の同級生が話しかけてきた。
 「アタシ、もういつ死んでもいいと思いよった。ばってん、未練を残しながら死ぬのもいいかなあち思うようになってきた。」
 「そら良か。是非そうしぃ。」
 「うん。」
                                                                      2017/06/06
 
 
      挿話
      
ドシンという大きな音がしたので階下に降りた。
ガラス戸の向こうに鳶らしき小さな物体を見つけた。
戸を開けようとすると、
「行ったらいかん! 母親が近くにおる!」
失神しているだけかもしれないと見守っていたが、いつまでたっても動かないので、玄関から回って裏庭に行ってみた。
バサッという音に驚いて見回すと、思いがけぬほど大きな翼が隣家の軒下から空に去って行くのが目に入った。
(ああ、いま彼女は、自分に子があったことを百%忘れた)
                                                             2017/110/29
 
                  <四>ひょう
     
太郎と始一は敵同士でありながら、互いを唯一の兄弟のように意識していた。
二人の父親は境を接した国の慈悲深い領主たちだった。
それぞれの領民を慈しみ、郎党を育てているうちに若者が増え、新しい耕作地が必要になったのだが、その新天地は入会地を越えた国ざかいの荒れ地にしか求めようがなかった。
二人の領主は、郎党や領民を気づかい、一騎打ちで決着させることを選び、入会地の奥に進み、人々の見守るなかで刺し違えて死んだ。
太郎と始一は幼い領主として大切に育てられたが、いつかはまた父親と同様の立場になることを覚悟し、心身の錬磨を怠ることはなかった。
太郎が矢を二十間先の的に当てたと伝え聞くと、始一は的を二十五間先に据えさせた。
始一が俵かつぎに加わっていると伝え聞くと、太郎は叺(かます)運びを手伝った。
太郎が畳では寝ようとしないと聞くと、始一は重ね着をいっさい拒むようになった。
始一が一汁一菜を貫いていると知ると、太郎は水以外の飲み物をけっして口にしなくなった。
あるとき太郎は領民から一頭の美しい仔馬を贈られた。
太郎はその馬が一目で気に入り、「ひょう」と名づけ、それからは馬小屋でいっしょに暮らした。
飼い葉を与え、体を洗い、いつもひょうに話しかけていると、ひょうはしだいに人語を解するようになった。
「シューッ。」
「ひょう、起きるぞ」
「シューッ。」
「ひょう、頭をあげろ」
「シューッ。」
「ヒョウ、足を折れ」
「シューッ。」
「ひょう、今日はよく走ったな。明日は川向こうまで行ってみるぞ」
「シューッ。」
可愛がっているうちに、ひょうはあっという間に太郎よりも大きくたくましくなった。
美しくたくましいひょうにまたがって巡回する太郎の後ろに郎党は誇らしげに続き、領民はまぶしそうに見上げては頭を下げた。
しかし、いちばん誇らしそうであるのがひょうであることを誰も疑わなかった。
太郎の治世は次第に国を富ませ、また子どもたちが増えはじめ、人々は太郎を見上げることがつらくなってきた。
始一の国もまた富んできたといううわさが流れてきていたからである。
あるとき太郎は新しい遊びをひょうに教えることを思いついた。
「ひょう、動くな」
「動くな、ひょう」
しだいに距離をとり、もう限界かと思えるところから、
「ひょう、来い!」
ひょうは猛然と太郎に突進した。
「どお、どお!」
「シューッ。」
「とまれ、ひょう!」
「シューッ。」
太郎が大手を拡げて立ちはだかると、ひょうは太郎の目の前で前脚を高々とあげて止まった。
息を呑んで見ていた郎党たちは、その鮮やかさと美しさに、思わず歓声をあげた。
太郎とひょうとの遊びは毎日つづいた。
ある日、太郎は始一に最大最高のm贈り物を届けた。
自分の最愛のひょうであった。
始一はひょうの美しさに一目惚れし、毎日いっしょに暮らした。
野を駆けるときも、水浴びをするときも、食事をするときも、眠るときも、始一とひょうはいつもいっしょだった。
ひょうは始一の人語もまたすぐに解するようになった。
「ひょう、悲しむな。それがどんな日になるかは別として、きっとまたお前は太郎に会える」
ひょうは始一にたいして常に忠実であったが、声でこたえることがないのに始一は気づかなかった。
国ざかいでの小競り合いが頻発するようになった。
太郎は始一に手紙を書いた。
「オレはひとりで行く。お前もひとりで来い」
始一は太郎に返事を書いた。
「郎党たちには百間(ひやつけん)以内にはけっして近づくなと命じる。かられがオレの命令に従うことを信じてくれ」
ふたりはそれぞれの入会地を過ぎ、峠を越えて争いの地につくと、馬にのって進んだ。
太郎の馬は新しい馬、始一の馬はひょうであった。
その天地の主人だった狼たちは恐れて二人にその場をゆずり、姿をかくした。
「始一、いくぞ!」
「太郎、こい!」
二人の馬は猛然と走り出した。
中間点ちかくまでくると太郎は馬から下り、大手を拡げて立ちはだかった。
「ひょう、どお、どお! とまれ!」
ひょうは前のめりになりそうになりながら立ち止まり、前脚を大きく空に向けた。
始一は地面に叩きつけられた。
「ひょう、オレのひょう!」
喜色に満ちあふれた太郎が近づこうとした。
しかし、ひょうはそのまま後ろ脚で進み、太郎の上に覆いかぶさってきた。
太郎はひょうの巨体を避けようとはしなかった。
「シューッ。」
(ひょう、お前はそんなにオレを恨んでいたのか⁉)
「シューッ。」
太郎の郎党たちは、
「この畜生めが!」
と駆けつけて次々にひょうの背中に槍を突き刺した。
ひょうはまるで太郎をかばうかのように身じろぎもせず、その槍をすべて受けとめた。
ひょうの背中は槍だらけになった。
「シューッ。」
息を吹き返した始一は目の前の光景をみてすべてを悟り、大声をあげた。
「ひけぇ! ものども、ひけぇ! もうお前たちの太郎は戻ってこない。オレの双子の兄弟のようだった太郎はもう戻ってこない。オレが心から愛したひょうももう戻ってこない。ひけぇ!」
始一はさらに続けた。
「お前らに太郎の何が分かるというのか⁉ お前らに太郎が分かるはずがない! オレしかいない。太郎が分かるのはオレしかいなかった! 太郎が分かるのはオレしかいなかったぁ!」
それから、始一は両側の人々に令した。
「帰れ! ひょうは愚かなオレたちにもっとも大切なことを教えた。・・・愛するものをけっして手放すな。愛するものからけっして離れるな。・・・分かったものは帰れ。まっすぐ愛するもののところに帰れ! 帰り着いたら二度とそこを離れるな。・・・帰れ!」
人々は後ずさりをし、それから背を向け、はじめはのろのろと、そしてしだいに速度をはやめ、争いの地から姿を消していった。
夜になった。
荒野にひとり残った始一は、意をけっしたように立ちあがり、月明かりの下で、手で土をあつめ、太郎とひょうの上にかけはじめた。
遠巻きにしていた狼たちは黙って始一のすることを見守っていた。
始一は一週間、太郎とひょうに土をかけつづけた。
その間、始一はひとことももらさず、土をかける以外のなにごともしなかった。
太郎とひょうはちいさなひとつの山になった。
始一はその前に坐り、さらに一週間生きた。
そして前のめりになって地に伏し、動かなくなった。
雨が始一を腐らせ、土が始一を吸い取り、虫たちが始一を崩し、陽が始一を乾かし、風が始一を吹き飛ばしていった。
始一が消えてしまうまで、狼たちはただ哀しげに遠吠えを繰り返すばかりで、あえて近づこうとはしなかった。
                                                    2018/2/17

 
            <五>無題
 
二人にはなにもなかった。
なにもなかったが、新しい命を授かった。
二人は山に入って炭焼きをすることにし、小さな小屋を建てた。
炭を焼きながら、少しずつ畑と田を作っていった。
毎日、毎日、二人はただ働いた。
ただ夢中で働いた。
夜、二人は一枚の布団で抱き合って眠った。
抱き合っていると、冬でも少しも寒くなかった。
子どもが一人増えると、そのぶん田や畑を増やした。
小屋も、家と呼べるような広さにした。
ただ夢中だった。
家には新聞もラジオもなかった。
でも、なにも読みたいとは思わず、聴きたいこともなかった。
夜の風の音と、季節ごとの鳥と、虫の声と、子どもたちの嬌声があれば、もうそれで十分だった。
十分すぎるほどに十分だった。
その季節になれば夜通し鳴く蛙の声に包まれて眠るのが好きだった。
昼中鳴く蟬の声の下で働くのが好きだった。
子どもが小さいうちは畑の傍らの木陰に寝かしつけて働いた。
大きくなった子どもたちは、親が働いているあいだ、田や畑のそばで遊んだり喧嘩をしたりして、いつも賑やかだった。
二人とも夢中だったから、学校に行きはじめた子どもたちが次第に無口になっていくのには気がつかなかった。
子どもたちは成長し、一人、二人と家を出て行った。
子どもが家を出て行くたびに、田や畑を山に戻していった。
気がつくと、また二人になっていた。
布団があまるようになったが、二人はやはり一つの布団で眠った。
子どもたちが携帯ラジオを送ってきた。
二人は喜んで毎日それを木陰にぶら下げて働いた。
少し賑やかになったが、電池が切れて音がしなくなっても無頓着だった。
ただ、働いて、汗をかいて、木陰で休息をとるときの風が気持ちよかった。
ともすると、木陰に腰を下ろして風を感じるために働いているような気さえした。
相変わらず新聞はなかったし、カレンダーもなかったから、子どもたちがいなくなってどのくらい経つのかも気にしなかった。
ある日、いつも通り木陰で昼寝をしている夫がいつまでも起きてこないので近寄ってみると、大きないびきをたてたまま眼を覚まさないのに気がついた。
 
夫が病院に送られたあと、子どもたちが帰ってきた。
これからの父親と母親をどうするかという子どもたちの話し合いは、いつまでも終わりそうになかった。
妻は眠るのをあきらめて外に出て、いつもの木陰に行って腰を下ろした。
月明かりがきれいだった。
蛙の声がやかましかった。
彼女にはその蛙の声だけが現実のように思えた。
風が通りすぎていった。
                                                       2018//04/17