『蕨野行』とムーザ・ルバッキーテ


GFへ
 村田の喜代子「蕨野行」を昨夜読んだ。いわゆる棄老伝説にもとづく物語ではあるが、「楢山節考」とはぜんぜん別の世界があった。読み終えたあと、なにも考えずに、実に安らかに眠った。あんな読後感は記憶にない。しあわせだったというのとも、充足感を味わったというのとも違う。体も心も頭もからっぽになったようで、軽々と夜の空気にとけていった気がする。ただ主人公とその嫁の声が全身をすうっと事もなげに通り抜けていって、あとには何も残っていない。
 映画で市原悦子が演じていた役を、舞台では北林谷栄が演じたらしい。その声を聞きたかった。ひょっとしたらそのうちテレビで放映されるかもしれない。情報が入ったら教えてください。あれは、舞台やラジオドラマにするのにふさわしい小説です。
 各自が読まないと損だから中身の話はしない。ただ、「中間市 村田喜代子様」でファンレターを書きたくなった。その理由の大きなひとつは、――「一反田」がほんとうに書けるかもしれない――と感じたことだ。けっしてなめらかな文章ではなく、むしろぎこちなさがあるのだけれど、我らが先住民にとっては、音楽、にもっともちかい文学なのだと思う。
 命の循環。いや、先生なら、「それはイデーの循環なんだ」と杯を口に持っていきながら言うかもしれない。
 村田喜代子は三つ年上。もっと先輩だとばかり思っていた。あのころの筑豊は人材豊富だったのですなあ。

 この何日か、リトアニア出身のピアニスト、ムーザ・ルバッキーテのセザール・フランクばかり聴いている。そのピアノが体にしみこんでから『蕨野行』を読みはじめたのが大成功だった。このピアニストのくわしいことは何もしらない。ただその存在を、タチアナ・ニコライエワについて調べているうちに知った。彼女のフランクは、聴いておいてくれないと次の会話が始まらない気がするので、何とかします。なにしろ、「いい」とかいう言葉では表現できない音楽で、そうだ、「村田さんへのファンレターにCDを同封しよう」と思ったのだった。21世紀の先住民にとってはうりふたつの作品なのです。

 例によって話はとぶ。
 セザール・フランクの弦楽四重奏-草枕-グレン・グールドの弦楽四重奏。このごろ自分の頭に浮かび続けている図式だ。いつか、そんなミニ・試聴会を企画できたらいいけど。


別件
 今年の夏課外授業は全部午前中になった。係りが気をつかってくれたのかもしれない。「今年は家に帰って昼飯を食うかな。」というと、「・・・・」しばらく無言だった絶滅危惧種がひとことだけ言った。

    • 帰ってくるとね?