匹夫有責


GFへ

 及川から久方ぶりにメールが届いた。
 いろんなことを考えているようだが、行きつくところは、残された時間がどんどん少なくなっていくなかで、次世代にわたすべきものは何か、ということに尽きるようだ。
 そして、年賀状にあったのと同じことばが出てくる。
――匹夫有責
 いいことばだ。もうすべてが終わったつもりで福岡に戻ったとき、おなじことを考えていた。
 今から35年前、たまたまのように教員になった。なった以上はなにをしようかと考えて、ふたつのことを実行しようと決めた。
 ひとつは、自分のなかにある、「日本」のイメージを生徒に伝えること。あとひとつは、宗教心の種をかれらの心にそっとまくこと。どちらも、同世代のものたちを見ていて、決定的に欠けていると感じたことだった。が、そのどちらも、いまの学校現場で実行しようとするには戦略が必要だったし、ほとんど闘いにちかかった。
 以後、それをどれくらい有効に実行できたかはわからないが、戦略を変更したことはあっても闘いを放棄したことはない。そのことについては結構な満足感がある。だから来年からは威張って年金を受け取る。
 もう何度も話したはずだから聞きあきたかもしれないが、「福岡にもどって教員になります」と言ったとき、じゃあ当分会えないだろうから覚えておけと、いくつかのことを先生が言った。「どんどん読んで、どんどん忘れろ。」はそのなかでもっとも実行したはずのことだ。もはや「どんどん読む」ほうは戦線離脱したけれど、「忘れる」ほうは絶好調だ。――その先生のことばのひとつが「偽善者になることを恐れるな。」だった。・・・・35年間えらそうにしていた。もう解放されると思ったら、それだけでほっとする。
 が、その言葉と、先生と出会ったわが嘉穂高校の「否、ためらふことなかれ。気高さを求むることを」とは、表裏一体のものだと思う。「だれも分かってくれなくともいいと覚悟することは悪くない。しかし、思いがけないかたちで自分の言葉をきいてくれる人がいるかもしれないということも忘れるな。」
 オレはもう先生の文章を読み返さない。そうして前に進んでゆく。そう決めた。
――積極的無常ってそういうことですよね? たぶん私はいつも先生のことばを「思いがけない形」に読み取り続けてきたのです。
 それでも「匹夫有責」はつきまとう。次の「責」に向かう気力は養っているつもりだ。
 及川、へこたれるな。「歴史はジグザグにしか進まない」んじゃぞ。
 あれは何という小説だったか、「どうせ歴史なんて、――現状とちがうなら何でもいい――と思った連中がやみくもに動いた結果の集積だ」と登場人物に言わせていた。
 だからこそ匹夫には「責」がつきまとう。匹夫のまままでいようぜ。
 『イージーライダー』の追悼番組みたいなものをチョロっとみた。先住民のこの男に限らず、われわれにとってあの映画は、単車を転がす映画ではなく、たき火を燃やしながらともに野宿する映画だったんだなと思う。

別件
 映画の「蕨野行」をテレビで見はじめて、こりゃいかん、と思った。ことばだけのほうが遥かにイメージが浮かぶ。あの映画をつくった真面目な人たちには悪いが、映像化できると思った人には知性が決定的に欠けている。今晩、文庫本をひらく。もうすでに予感がある。あの小説のなかにはすべてのエレメントがある。すべてのエレメントがある、エレメントしかない。