サッカー追想

Fへ

 去年のことだったと思うけど、サッカー好きの生徒と話していると、「本田はヤバイですよ。あいつのプレーは日本人には見えません。」という。当時は顔も知らなかったから、「そうか。」で終わったけど、その生徒の眼力は相当のものだったらしい。おかげでゴールシーンをなんべんも見ることになった。
 今回のチームには本田だけでなく、「アレッ」と思う選手が何人もいる。何かが変わって、チームとして強くなりつつある。そういう時は一気に強くならなきゃいけない。29日のパラグアイ戦はハラハラドキドキできたらいいな。勝てる気がするし、勝たなきゃいけない試合だと思う。どうせまた睡魔に襲われるのだろうけど。
 福岡出身の長友は、我らが明治OBでもあるらしい。そういえば少し前、明治が学生選手権で優勝したことがあって、「なんだ、明治にサッカー部があったのか。」と思ったが、新聞記事を読んでいると、かのフリーキックの名手だった木村も明治だそうで、オレたちも威張っていていいみたいだ。そんなことを何にも知らないのがユニバーシティのいいところかな。
 その長友にもどこからか誘いがかかりそうな気がする。テレビで見ていて、ディフェンスなのにふっと姿を見せるタイミングがいい。
 ポジションはちがうけど、以前ジュピロに藤田という選手がいた。かれがテレビ画面に突然姿を見せると何かがおきた。残念ながらヨーロッパでは出番がなかったようだが、長友は藤田より頑丈に感じるし、スタミナもありそうだ。それに、なにか戦術眼のようなものも感じる。将来は指導者として成功するかもしれない。
 やっと体調が戻りかけたら今度はテレビばかり見るのかな。選挙の番組よりは遥かにこっちの頭脳を刺激してくれる。


GFへ

別件
 「神の発明」を読み終えたが、筆者が興奮している割には、なにかピンとこなかった。要するに、最近の小説と同様に、妙につじつまを合わせようとしすぎているんじゃないかな。
 あとひとつ気になるのは、かれの考える人間社会の未来像が見えてこないことだ。中沢の論理をそのままなぞっていくと、けっきょく小国寡民無政府状態しか思い浮かばない。
 この広がりすぎた世界を維持していくためには、大きな抑制の装置が必要だ。それをわれわれは文明と呼んでいる。その抑制装置のおかげで我々安心して日々を過ごすことができている。いや、不安がいっぱいだからといって、「自由」をほしがっているわけでは決してない。
 世界はすでに啓かれているし、そのわれわれの世界はけっして閉じられてはならない。今までの未来も、これからの未来も、いつ破局が訪れてもおかしくない危機をはらんでいる。だからこそ思い出が大切なのだ。その思い出が前に進んでいく勇気を与えてくれ、その思い出がわれれの行動にに規範をもたらしてくれる。この世界は自分を啓いたままで、しかも思い出を持ち続けることが大切なのだと思う。他人の思いでも大切にすることが必要なのだ。その思い出を思い出させてくれた事には心から感謝をする。しかし、思い出と未来を混同しては、ただのアナクロニズムに陥るだけだ。
 けっきょく、かれの書きつづけていることは、一種の知的ゲームの内側からは出られないみたいだ。出たかったら、たぶん「文学」というナマのものに身をよせるしかないだろう。
 未来への具体的展望なぞWが持っているわけもない。が、あえていう。イスラムプロテスタントのようなピュアなものより、貪欲に土俗性を吸い込んだギリシャ正教や、われわれの神仏習合や、ヒンドゥのような、様々な要素がないまざった(そして、そのさまざまな要素を別々の部分としてとりだすことが無意味なまでに一体化した)、「宗教」という語では言い表しきれないものの未来に、夢、のようなものを覚えている。たとえば、緑ゆたかなアジアに移植されたイスラムのような。