小論文講座

 小論文講座 

 作文をにがてな生徒がなんとなく好きだ。
 小学校のとき作文の宿題がでて、いっしょうけんめい書いて出したら、先生がみんなの前で読んでくれた。読み終わってから先生が言った。「みなさんは、この作文をどう思いますか? これは嘘です。子供がこんなことを考えるはずはありません。みなさん、作文に嘘を書いてはいけません。」・・・・・そのときの先生の声まで、まだはっきり覚えている。〈大人ちゃこげんもんなとやな〉
 以後、作文の宿題はいっさい出さなかった。小学校のときだけでなく、中学に入っても、高校生になっても----。文章だけでなく、自分の考えを人に言うことじたいがニガテになった。だから、思ったことを言える友達ができたのは、ものすごい幸運に恵まれたとしか思えないし、その延長として、いつのまにか、こうして文章を書くようになった自分が不思議でしかたがない。

 自分の考えていることを他人にわかってもらうということは、何とむずかしいことか。「いや、別にオレは、センセイごと、ややこしい作文ぎらいじゃないと。ただ、考えるとが面倒臭いだけなと。だいいち、普段は何も考えてやらおらん。」という者もいるかもしれない。でもね、実はね、そういう君もちゃーんと考えているんだよ。ただ、それを言葉に換えようとしないだけなのだ。
 「いやいや、--人間は言葉なしに考えることはできない--と前に習うた。」と思い出した者もいるかもしれない。でも、それは間違い。勘違い。人間は言葉なしでも考えることができるのです。というか、その人にとってもとも大切なことは、決して言葉を使って考えてなんかいないから。ただ、「オレは何を考えていたのかな?」と自分に説明するためには言葉にしてみるしかないだけなのだ。しかし、我々にとってもっとも大切なことは、言葉では言いあらわせないないこと、理屈では説明できないことだと、この国語の先生は思っている。説明がつくことなんて、本当はその人にとっては大したことではないのかもしれない。
 「自分は何も考えていない」「自分自身の考え方とかまだ持っていない」と思っている君も、本当はちゃんと考えを持っているし、自分なりのものの見かたも持っている。だいいち、そうでないと、我々は道も歩けないのです。ただ、それらを言語化するのが面倒臭いだけだ。いや、それどころか、すべてを言語化しよう(言葉になおそう)とか思い立ったら、気が狂いそうになるだろう。私たちも君たちも十分に賢いから、決してそんなバカなことをしようとはしない。
 学生時代に、日本語を勉強してから、腕試しに日本にきた夫婦の通訳係を引き受けさせられたことがあった。おっかなびっくり引き受けたけど、やりはじめてみたら何ということもなかった。ふたりとも実に達者な日本語の使い手だった。その夫婦と渓谷に行ったとき、ご主人が、「美しい岩だ。」というと、奥さんが、「いや、あれは大きな石よ。」と言う。「ちいさな岩だ」「大きな石よ」と言い合っているうちに、夫婦喧嘩になってしまった。そして、「どっちが正しいか、日本人のお前が判断しろ。」
 「石でも岩でもどっちでもいいんだ。日本人はそんなことで、いちいち夫婦喧嘩なんかしない!!」
 前置きばかりが長くなってしまった。けれど、「石と岩のちがいを説明せよ。」なんて課題を与えられたら、まず、やる気をなすくだろうな。「岡と丘と山はどう違うのか。」という課題だったら、「ほんとうにそれを考えたいのなら、お前が自分で考えれ。自分は考える気がないのならオレたちへの課題にするな。」とだけ書いて提出するかもしれない。

 言葉で説明するのがいちばん厄介(やっかい)なのは、たぶん「自分」だ。「身長170センチ。体重60㌔。17歳。」と書いても、たぶん自分を説明した気がしない。「高校生。野球部員。外野手。ベンチウォーマー。」「家族5人。住所、福岡市西区今宿」いくら書いても、それは、「ある男子高校生」の姿をなぞっている(外見をたどっている)だけで、自分自身にはたどりつかない。で、先生からも「なんや、これだけか? もっと考えれ。自分を見つめてみろ。」と怒られる。もともと嫌だったことだから、ムカつく。ウザい。ダルい。「オレはオレやからよかろうもん!」      
 そう「オレはオレ」「岩は岩」「石は石」なのだ。それが一番正確な言い方なのだ。と同時に、それでは何を説明したことにもならない。つまり、「説明する」とは、限りなくウソをつくことにちかいのだ。私たちは、「できるだけ本当にちかいウソをつく」ことを「説明する」と呼んでいる。
 ウソが嫌いな人は、ふつう黙っている。黙ったままでいることで、自分を、自分の誠実さを守ろうとしている。そして、ぺらぺらしゃべっている人を胡散臭(うさんくさ)く――どことなく疑わしく――感じている。
 もし、「何も言わなくても、自分のことを分かってくれる」友達だちや家族がいたら、どんなにいいだろう。そんな先生がいたら毎日の学校が楽しいのに。――ほんとうにそうだろうか?――もし、「何も言わないのにオレの考えていることがわかる先生」がいたら、それこそウザくて、もう学校になんか行きたくなくなるんじゃないかな。
 きっと我々のなかには、「オレを正面から堂々と分かられてたまるか。」という気持ちと、「ちょっと離れたななめから、さりげなく分かられたい」という気持ちが同居している。直接はぜったいにイヤなのだ。
 半端にウソをつくくらいなら黙っているほうがましだ、と思っている君も、実は、薄くて邪魔にならない程度のオブラートのようなウソにつつまれているから、安心して日常生活をおくっていられる。そのことを大人は「演じる」と言う。
 人間はみな「自分」を演じているのだと思う。その演技がまだ不自然な間は未成年。「自分」を自然に演じられるようになたった者を大人と呼んでいる。
 こんなことを書いている61歳の教員も、別に生れつき教員だったわけではない。27歳のときに教員になって、なった以上はと、一生懸命「センセイ」を演じてきた気がする。一生懸命センセイをやりながら、心のどこかで、それ以外の「ほんとうの自分」がありそうな気がしていた。でも、あるとき気がついた。AさんやBさん、C君やD君がそれぞれ見ている「自分」は全部ほんとうの「オレ」なのだ。それらを全部ひっくるめたものが、「ほんとうのオレ」なのだ。
 「半端なウソやらつきたくない」と思っている人も、「だれも分かってくれんでもいい、オレはオレたい」と思っている人も、実はそういう「自分」を演じていることに変わりはない。
じゃあ、その自分。人が見ている自分。先生が思っている自分、社会が期待している自分ってどういう人間なんだろう。
 ものごとは全部、同時進行ですすむ。同時進行だから、ひとつひとつが全て100パーセントなんてことは最初からありえない。
 けっして、100パーセントを求めるな。60パーセントで十分だ。60パーセントだけ自分の考えをまとめよう。(言葉にしよう)それができたら大成功だ。そのまた60パーセントぶんだけ人に説明できから大成功。0.60×0.60=0.36パーセント説明できたら大々成功なのだ。
 さあ、今日も「小論文」


追記

 最近思うこと。

 日本語でものを考えるときに必要なもののひとつは、「口ごもる能力」であるようだ。口ごもることによって、われわれは考えるための時間稼ぎをしている。その「時間をかけて考える」ことが大切なのだ。考えることに時間をかけない「頭のいい人」たちとは、できるだけ疎遠(そえん)にしていたい。じっさい、口ごもることがにがてな人は考える能力じたいが劣る気がする。
 もともとの日本語の論理は西洋の論理とはずいぶん様子がちがっている。「たゆたふ論理」「やすらふ論理」(「たゆたふ」「やすらふ」の意味がわからない君は古語辞典をひきなさい。)で昔の日本人はものを考えていた。君たちの知っている古語でいうなら「いざよふ論理」こそが日本人の本来の論理なのだ。だから、口ごもりながら、少しずつ考え考えしながら話す人の日本語には快いリズムを感じる。日本人が西洋の直線的論理でものを考えるようになって以来、口ごもりつつ語られる話にじっくりと耳を傾ける忍耐力が失われて以来、この国ではロクなことが起こっていない気がする。
                  ――読書教材より――  

別件
 老人ホームのFおばあちゃんが亡くなった。若いころは幼稚園の先生をなさっていたそうで、介護士さんたちは「せんせい」と読んでいた。一年前に見かけたとき、表情がいきいきしていらっしゃったので、そのことを介護士さんにいうと、「はい、Fさんは、テレビを見ていて、登場人物が崖から墜ちそうになると、テレビのなかに飛び込んで助けようとなさいます。」・・・・ジブリの少女がそのままお婆ちゃんしているような方だった。
 あるとき、たまたま横に座っていると、こちらの顔をためつすがめつ見ている。介護士さんが、「先生、その人が気に入りましたか?」と声をかけると、「うん、このオイサンはいいねぇ。」――相思相愛ですね、というと、介護士さんたちが大笑いをした。
 2週間前も、「また会いにきますね。」というと、最高の笑顔で応えてくれたのに、熱を出して3日目のことだったという。
――先生、また会いましょうね。