「劣等鳩」として

2012/01/17
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 通勤列車のなかで、『広場の孤独』を読みはじめた。第一章は、朝鮮戦争勃発時の新聞社内からはじまる。その臨場感にびびった。すぐ第二章にはいって場面が変わるのだが、呆然となって次の場面を読む気になれない。本を閉じてそのままただ坐っていた。この本を最初に開いた若い頃、いったい何を読んだのだろう。
 帰りの列車で、気持ちを取り直して、も一度最初から読んだ。今度は心構えができていたらしく、60ページほど読み進んだ。堀田善衛は、その最初から、いま自分が思い描いている小説家だったのだ。
 たとえば、新聞社で翻訳のアルバイトをしている主人公は、次のように語る。
──もし僕が書くとしたら、君たち(共産党員。もちろん六全協まえの共産党です)のような、この時代にはっきりとした確信と希望をもって生きている人を主題にした、現代世界そのものがファクターになったものが書きたい。・・・僕は・・・戦争にゆかなかった。そして僕と同世代の連中が、口にこそ出さなかったが、僕らは君たちのために死ぬ、という、そういう表情をあらわに見せて各々の家を出ていった。あれを思い出す。僕は一種のうしろめたさと屈辱感を覚えて辛かった・・・そして戦争が終わったとき、人々がみなやれやれ逃れたと云ったとき、僕は、これからは決して間断ない屈辱の中に自分を置くまい、と誓った。ところがしかし・・・
 朝鮮での取材から帰ってきたアメリカ人が主人公に対して言う。
──(征服され支配されることへの嫌悪が日本にあるのなら、日本は、)何故米国に頼らないで自力で防衛しようと思わないのだろう?
 主人公は答える。
──いま、日本は考えている。・・・恐怖は判断の基準についての確信を動揺させる。世界に共通の判断基準がなくなれば、あらゆる議論は反対側にとって、考慮の対象ではなく、挑戦とみなされるようになる。そうなれば理性はその役を果たさず、歴史は人間の思考および祈念をおしのけて自動的に破局へと回転していく・・・
 主人公のことばには直接に答えず、アメリカのジャーナリストは「ぽつりと」次のように言う。
──朝鮮の状況は深刻だ。しかし米軍は決して海へ放り出されるようなことはない。米国人が血を流して持ちこたえている間に、キガキ(主人公の名前)、君もゆっくり考えてくれ、僕も考えよう。
 あれはアイケルバーガーといったろうか、のちに中将にまでなったアメリカ海軍の将校は、朝鮮戦争をきっかけに日本とのつながりができ、日本海軍の再生に協力を惜しまなかった。その男が朝鮮戦線の視察から、東京にどろどろに疲れ切ってもどったとき、宿舎にしていたホテルの従業員たちの率直な心遣いのお陰で、凍りついた心に温かみを取り戻すことができた。それが、日本に係わることになる彼の動機になった、と阿川弘之は説明している。
 だれかモデルがいたのだろうが、小説家は、北朝鮮軍を「敵」と書く日本の新聞へ強烈な違和感を抱く主人公を登場させながら、アメリカ人ジャーナリストの開放的な態度を描写することに躊躇しない。この小説家の現実を受け容れるキャパシティの大きさにはただ驚く。
 あるいは、こんな描写もある。
──軍艦の艦橋部のような形をしたA新聞社の上に伝書鳩が舞っていた。一羽、二羽、どうしても他の鳩たちのように陣列をつくって飛ばないのがいた。ああいうのを劣等鳩というのであろう。木垣はその劣等鳩がしまいにはどうするか、どうなるか、と並々ならぬ気持で注視していた。
 その劣等鳩は、自分を「ナショナリストか」と思いつつ、どこかに帰属すべき場所があるのかどうか、まだ判断がつきかねている主人公の暗喩なのだろう。
 小説家は、自分が所属する社会への帰属意識に必要なものを「社会の目的に対する共感」と呼んでいる。・・・いまの、この社会に所属している人たちに、その「社会の目的に対する共感」があるのだろうか。この「劣等鳩」はそれを抱いているつもりなのだが。たとえその「目的」は、劣等鳩の空想の産物であるかにしても。
 以後は、再読しおわるまで、なにもおしゃべりしません。この頃、少しおしゃべりがすぎる。きっと心のタガがゆるんで、口にもしまりがなくなって来ているのだな。そのうちギコバタもばらばらになって、ただのバタバタになってしまうことだろう。
 今日は広島に出かけるつもり。不思議な縁で知り合った、もうお墓が撤去されたひとの墓参りをしたい。合葬された墓ならきっとあるだろう。天涯孤独のひとだったから、われわれ以外には、たぶんもう誰もあのひとを訪ねる者はいまい。自分にしても、場合によってはこれが最後になるかもしれないと思っている。

別件
 修学旅行前の最後の授業は、恐怖のクラスだった。もう気持ちはどこかに行っていて、まるっきりこちらを向いていない。ともかく、山崎正和『現代の神話』第一章だけ終わらせて、挨拶をしたあと、休み時間にはたいてい本を読んでいる生徒が近づいてきた。
──先生が今日言おうとしていたことは、途中まで聞いていて、ぼく分かりました。先生の授業は面白いです。
──じゃ、君たちが修学旅行に行っているあいだに休憩して、また頑張るかな。
──はい。