南沙織『17歳』

2012/01/15
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 初仕事のあと二日間布団のなかでウツラウツラしていて、やっと起き出してみたら、相棒が熱を出した。ルルをのんで一晩寝たら熱も下がり、今日は演奏会を聴きにいくと言うから、こちらはチビたちとお留守番である。どうやら二人でやっと一人前だな。これから次第に「二人で半人前」に向かって進行していくのだろう。
 
 思い立って『哲学の東北』をアマゾンで注文したらさっそく届いた。もういちど、撫で撫でしながら読み直してみたいのです。届いた単行本は、中古とあったのだが、(定価よりはるかに安かった)どう見てもまっさら。たぶん、万引きされた本なのだろう。どこかの本屋さん、ごめんなさい。

 このところ「うた」の話を何度かしているけど、日本の伝統的うたと、紅白歌合戦的うたを、どちらも「うた」としか呼びようがないので困っている。当面はどっちつかずの言葉づかいをしますから、適当に判断してください。
 前回の歌会始の皇后の歌について追加。
 日本人がいままでに作った歌は数十億首あるだろうから、その中には「歳時記に見ず」も数百首くらいはあるだろうと思う。が、上の句と下の句が、まるで氷山同士のようにぶつかりあっている例は他にはあるまい。なにか異様なのです。その異様さがあの歌の真相だと思う。
 歌会始の中には永田和宏の歌があって、ツシマイエネコは「皇后の歌と並んで出色だ」と言う。次のような歌である。
  舫ひ解けて静かに岸を離れゆく舟あり人に恋ひつつあれば
 チクゴタロイモはこの歌がやたらと気に入らない。というか、気持ちが悪かったので、その理由を考えてみた。要するに、永田さんの歌の下の句の「人に恋ひつつあれば」は説明に過ぎない。つまり、だれかさんたちの連句遊びを一人でやっているかのようだから気持ちが悪いのだ。それは「うた」ではない。若い頃はそういうのを「ひとりよがり」と呼んでいた。品がなさ過ぎることばだから最近は使わないけれど。(「ひとりよがりの最たるものはお前だ」という声が聞こえてきそうだが。)その代わり、この歌は、「一人番」と呼ぶことにする。
 もひとつの「うた」の話。
 正月番組で、南沙織が歌っている40年以上まえの映像が出てきた。何年か前、紅白歌合戦に出てきたときは、ただ南沙織が歌っているというだけで無闇に感動して、その顔ばかり見ていたので「うた」の内容にまで気が回らなかった。
だれもいない海××を確かめたくて、、、来てみたの、、、。
○○のまぶしさ、息もできないくらい。
はやく、、、捕まえにきて。
わたしはいま、生きている。
 いまの日本はうたを失っていると言ったとき頭にあったのは、たぶん、こういう「詩」だったのだと思う。(有馬三恵子の詞だそうだ。題名を「16歳」だと思いこんでいたので、見つけ出すのに手間取った。)
 何らかのイメージを喚起するうた。そして、そのイメージを他者と共有していると思えるうた。いまのうたはただ説明された部分を共有しているだけになってるんじゃないのかな。喚起されるイメージがなければ「うた」とは言えない。その喚起されるものが得体のしれないものになったとき、もうそれは「詩」と呼ぶしかない。皇后のうたはそういうものだった。
 有馬三恵子を見つけ出そうとしていたとき、ついでに「人生よありがとう」と入れてみた。前から気になっていた「うた」だ。ユーチューブでSOSAという歌手が歌っていた。歌詞はもちろん分からない。でも、たしかに「うた」だった。
なにか、うた、とはそういうものだという気がする。

別件
 大魔王を病院に連れて行った。食欲はいまひとつだが、だましだまし食べさせていると、このごろは「だまされ上手」になってきた。というか、大魔王から「だまして」と要求されている気がする。飼い主と犬とが、阿吽の呼吸で協力し合っているような風情である。体重もぎりぎりセーフ。今年も一緒に花見に行けそうだ。
──センセイのお陰です。ありがとうございます。
──いや、ガロちゃんのほんとうの主治医はあなたがただと思います。