岸とふ文字を歳時記に見ず

2012/01/14
GFsへ

 初仕事のあと二日間寝床のなかで過ごした。べつにどこがどうというわけじゃない。ただ寒かったのと、頭がぼうっとしていただけ。布団のなかは実に気持ちがよかった。気持ちがいいのなら、わざわざ起き出して、何かをしなければいけないわけじゃない。少しずつ、年金暮らしが身につきはじめているのかもしれない。「いまごろあいつらは、若い頃にもどってオダをあげているのかなぁ」
 近所に一カ所だけ残っていた空き地に家が建つことになり、基礎工事がはじまった。去年だか一昨年だかにできた、若夫婦の家は外形がほぼ五角形の将棋の駒のような形で、当初はなんとも戸惑いを覚えた。今度の家を建てるのも、ツシマイエネコの話では30代の夫婦だという。いったいどんな家になることやら。
 この家が出来たのは、もう20年以上まえ。建築設計士をはじめ、いろんな職種の人と話すのが面白かった。外装を請け負った人は、「階段や玄関に石やタイルを使って高級感を出したがる人もいますが、雨が降ったとき滑りやすくなります。センメントだけのほうを勧めます」という。高級にするほうが儲かるだろうに、面白い男だと思って、忠告通りにした。セメントを塗りにきたのは夫婦だった。黙々と手際よく仕事をした。途中で様子を見にきた外装請け負い人が「あの人なにか頼みませんでしたか?」地球緑化運動に1000円寄付してくれないかと遠慮しながらパンフレットを渡されていた。「やっぱり。腕はほんとうにいいんですけどね」。
 これで仕事が終わりましたと、挨拶されたとき、寄付金を渡すと、夫婦で頭を下げて帰られた。以後会っていないが、雨が降るたびに思い出す。玄関の前は平らになっているとしか見えないのに、雨水は門から階段の方にスムーズに流れていくので、水たまりがまったく出来ない。なるほど腕がいいのだ。これだったら、少々の困ったところがあっても仕事を依頼したくなるだろう。以前から使っている『自由労働者』のイメージを与えてくれた人たちでもある。それに、夫婦で手分けして働いている姿がカッコよかった。あの夫婦は24時間いっしょに過ごしていたのだろう。
 大昔だが、団伊玖磨の奥さんの短い文章を読んだことがある。八丈島で生活しているときの話だった。団伊玖磨は仕事をはじめると部屋に籠もりきりで、食事の時しか顔を見られない。その食事の最中も、頭のなかはまだ仕事中で、声をかけることもできない。
 そんな生活のなかで、ときどき野菜売りの夫婦が勝手口から声をかけた。「おじさんがリヤカーをひいて、おばさんが後ろからそれを押しながら、声をかけにくる。」そのおばさんがうらやましくてならなかった、という。それもまた『自由労働者』の姿だろう。
 
 そろそろ『哲学の東北』を戻さなくてはいけないので、そのなかの幾つかのことばだけ拾い出しておく。ほんとうに、いい本なのです。

山形県大蔵村について  
 村の中を歩いていて、何度か風向きが変わってくるんです。さっきまでは山から吹き下ろしていたと思ったら、こんどは山のほうへ向かって吹きあがったり、家のほうから渦を巻くような空気がぼくのほうへ襲いかかってきたり。人間が自然と触れ合ったり、向き合ったりするときは、そういう予測のつかなさとか、しょっちゅう変化していくものに肌身で触れている。ところが人間同士の世界というのはそうじゃなくて、いろいろな媒介を間に入れていくことなんですよね。自分の心のなかに風のように湧き上がってくる感情を直接相手の存在に吹きかけたり、相手から感情の風や雨が自分に吹きかかってこないように、言葉とか、いろんな媒介をはさむ。それを文化と呼んでいるわけです。

修験道について
 宇宙は(倫理的な)嘘と同じ構造でできているんだ。それを模倣することによって、ぼくらは宇宙の裸の姿を分かるんじゃないか。

「哲学の東北」について
 今日の世界で、私たちがいまだにその本性をつかみかねている何者かによる、地球規模の企みによって、自分たちの人生を盗まれないようにするためには、戦略上、この東北に向かって、陣地を移動していくことが必要だ、と思うのです。

 書き写しているうちに、気がついたことがある。「ふらう」がやろうとしていることは、たぶん、中沢新一のイメージの逆のこと(ということは裏返しの同じこと)なのではないか。プロメーテウスのチンケな模倣のように、「ふらう」は、自分たちの人生のために、この世界から何かを盗みとろうとしているのだ。まるでルパン三世になった気分で。

 
別件
 「歌会始」の皇后の歌にはぎょっとなった。

   帰りくるを立ちて待てるに季のなく岸とふ文字を歳時記に見ず

 ことばとことばがゴツゴツぶつかり合って自然に流れていかない。まるで流氷どうしが軋みをたててぶつかり合っているようだ。もうこれは、短歌の範疇からはみ出している。
もし、堀田善衛が生きていたら、「マラルメ以後、こんな詩を作る人類はいなかった」、と言うかもしれない。