『イントゥ ザ ワイルド』

2012/01/11
 昨日から仕事再開。前日まで、イヤでイヤでたまらなかったのに、通勤列車に乗り込んだとたん、そのイヤだった気持ちを忘れた。長年、自分を飼い慣らしてきた成果の条件反射みたいなものか。
 香椎線に乗り換えると、沿線の風景が懐かしい。夏休みや冬休みを教師にきちんととらせないと、結局は社会が損するんだけど、その簡単な理屈を社会はなぜ認めないんだろう。もう列車通勤をしている人などまずいないし、(職場の行き帰りに生徒と顔を合わせたくないだろう)ましてや、筑後タロイモみたいに、通勤途中の風景を懐かしがるひとなど、もう職員室にはいまい。
 恐怖のクラスに授業に行く。
──あ、センセイ、イエーイ。(AKB風のふりつけ付き)アケオメ。
──センセイ、幾つになったと?
──わあ。ウチの爺ちゃんといっしょやん。
 なるほど、そういう仕組みだったか。
──センセ、この子、下の名前で呼んでやって。
 国語が大嫌いだと、授業中寝てばかりいた生徒だ。さて、3学期は起きているかどうか。

 『イントゥ ザ ワイルド』を見た。原作を読んだあとに見た映画は見ちゃいられないことの方が遙かに多かったのだが、今回は違った。むしろ、懐かしさと新鮮さの両方を味わうことができた。
 時間の順番は変えてあるが、筋書きは、ほぼ原作通り。
 原作になかったのは、アラスカの風景と歌。文章で読んだだけでは、あの宏大な大地とその美しさはイメージできなかった。それに歌は原作にまったくなかったものだが良かった。いや、よかったという以上に、われわれの国はいつのまにか歌を失っているのを知らされた。この差は大きい。
 しかし、もっとも惹きつけられたのは、登場人物たちの表情の自然さだ。演じているという感じがまったくない。主人公のクリスも、ヒッピーの中年女性も、クリスに恋をした16歳の女の子も、クリスを雇った収穫業者もそのガールフレンドも。沖縄からアメリカに戻ったのに交通事故で家族をすべて失った、クリスに養子になることを提案する老人も。
 韓流ドラマを覗いたとき、まるでアニメみたいだと感じて、それっきり素通りしている。俳優の表情が、そのときの登場人物の説明になっている。ところが、あまり間を置かずに日本のドラマでも同じことが始まった。だから、最近はまずドラマを見ない。
 『イントゥ ザ ワイルド』の登場人物たちはそうではない。彼らを俳優として意識するときがなかった。それぞれの人物が、主人公のクリスを含めてすべてエキストラ的に感じられた。だから、最後にホンモノのクリスの記念写真が出てきてもまったく違和感がなかった。
 たとえば、『東京物語』のときの息子や娘たちのあの自然さ、さりげなさを、もう演じきれる俳優はいなくなったのか。いや、たぶんその前に、今のこの社会に、ああいう自然な表情の持ち主がいなくなってきているのではないか。どうもその方が正しい気がする。
 そんな具合で、うっとりと2時間を過ごした。
 一流の科学者であり、経営者としても成功した両親のもとで育ち、一流大学をハーバードにも行ける成績で卒業した青年が忽然と姿を消し、二年後、アラスカの無人地帯で死体となって発見される。その真相を原作者のクラカワーは追いかける。手始めは、両親とクリスとの関係。
 人が社会の通念と違う生き方をし始めると、その要因を親との関係に求めたがるのはアメリカのつまらないところだ。映画もその欠点からはまぬがれていない。しかし、クラカワーはしつこく「本当のところ」を探りつづける。家庭的な要因ではない、もっと根源的な欲求をクリスは抱えていたのではないか。
 映画では、飢え死にしていくクリスがメモを書き残す。「それを誰かと分かち合えるときはじめて、幸せは実現される。」(実は、今年最初の授業は、そのことばを板書するところからはじめた)実際に、クリスのノートに、そのことばが残されていたのかもしれない。しかし、クラカワーはそれを採用しなかった。その代わりに、友人の言った「あいつは何か″純粋な現実″というやつに出会いたかったんじゃないかな。」のほうを採用する。そして、クリスを自分の若い頃に引きつける。
 クラカワーは若い頃、山に夢中だった。そして、ついに「幾何かの功名心と、大いなる冒険心と、どうしても生の手応えを感じたいという深刻な欲求に突き動かされて」無謀だという忠告を聞き入れずに冬山への単独登頂を目指す。当然のように登頂に失敗しても下山する気にはならず、下山コースに予定していたルートから再度の挑戦をするが阻まれる。進退窮まったクラカワーは、生還を期すために南側に大きく迂回し下山する。下山したところはもう春の陽光が一杯のカルフォルニアだった。水着姿の人々のなかにドロドロの冬山姿で現れ驚かれるが、それでも彼は自分を敗残者だとは思わない。
 「自分は死と紙一重の状況を体験した時、きっと生の実相に触ったんだ。ただ触っただけだから、それがどんなものかは分からないけれど」
 彼はけっして死んでもいいとは一度も思わなかった。その経験から、クリスも何かに触りたかったのだと推測する。それに触ってからでないと、どんな生き方をするかも考えられなかった、、、のに違いない。クリスの死は、ただの事故だった。
 原作を読んだ感じでは、主人公はやはり甘ちゃんの若者に感じる。社会と自分との間にある隙間を埋める方法を知らないままだった。しかし、すでに心に皺がよった者より、甘チャンでも半端者でも、飢渇感を抱えて危なっかしい行動に走る者に若者らしさを覚えるのは筑後タロイモだけではあるまい。
──反抗心は若者の属性だと思って、お前のことばはそのままに聞いておく。

別件
 中沢新一『哲学の東北』を読んだ。読んでよかった。実に豊かな本だ。その豊かさがそのまま自分に入ってきたような感覚が体中に残っている。図書館から借りた本なので戻すしかないが、もうしばらくは手許に置いておきたい。或いは、あらためて注文するかもしれない。できることなら、その新しい本のほうを図書館にもどしたい。特に東北での農業を経験しているFには勧める。