暮れの旅の備忘録

FよりGAへ

2011年、暮れの旅の備忘録(2012年1月18日記)
 
 昨年の備忘録を見たら1月12日に書いているから、1週間ほど遅れたことになるが、お許しあれ。
 12月9日にポン(猫、年齢不詳、我が家歴8年)を病院に連れて行き、蓄膿症という診断をもらって、薬を一週間分受け取って帰った時には、きっと快方に向かうと思っていた。それが、いっこうにその兆しがないまま一週間経ち、薬を別のものにして、正月明けまで様子をみることになった。その頃は、呼吸は苦しそうだったが、まだ食欲もあった。
 旅から帰った後、食欲を失ったので再度受診して検査をすると、エイズのキャリアとわかり、そのために免疫力が上がらず、症状が改善しないのだろうと言われた。はっきり言われたわけではないが、そう長くは生きられないというニュアンスを感じた。
 缶詰を練って薬を混ぜ込み、それを口に押し込むということを続けたが、苦しそうな呼吸音を立ててじっとしているばかりになった。1月5日、受診した際、酸素室に入れてやったら少しは楽になるかもしれないと勧められ、そうすることに。
 つまりは、酸素室から出るときは、死んでしまった時だと言われたようなものだったが、苦しそうにしているのを見るに忍びない。6日の午前中見に行くと、ゲージの中で顔を見て呼びかけるようにする。午後電話があり、ケイレンを起こしたが、処置をして大事には至らなかった、一度顔を出してくれというので、すぐに行ってみた。朝よりは苦しそうで、呼びかけても返事する力もない状態だった。ちょっと撫でてやろうと思い、ゲージの小さい窓を開けた時、再びケイレン。注射してもらって、なんとか小康状態になったが、普通なら亡くなっている、心臓が強いのだろう、と言われた。
 一度家に戻り、夜訪れた時は、もう身体を動かす力もなく、瞳孔も開ききった感じで、舌を垂れ、苦しい息を続けているだけだった。たぶん、意識ももうないと言われ、レオナも連れてきてどうするか話し合い、楽にしてあげようということになった。
 ゲージから出し、ケイレンを抑える薬を注射すると、またたくまに腹と胸の動きがなくなり、顔がおだやかなポンに戻った。23時17分だった。

 備忘録に、のっけから書くことではないが、書いてしまわないと旅の記を書けないので、付き合ってもらいました。今ポンは、三年前に若くして逝ったテトのすぐ横の土の中で眠っています。多分、さんざん遊んでやった孫のようなテトと天国で再会していることでしょう。

 さて旅の記です。
 今回は、G君が家の用事で一泊しか出来ないということで、すこぶる残念であったのですが、近江八幡で別れるまでの時間だけでも、とても濃密なものがあってよかったと思います。今回は、A君、G君が久々のフェリーの旅から始めるということも、少し昔の(まだちょっと若かった頃の)気分を思い出すという効果があったのでは?
 Fは、旭川からの関西便がなくなって久しいので今回も、新千歳までJRで移動。18時15分発伊丹行き。出発は定刻通りということで、2時間後には伊丹にいるはずでしたが、翼についた雪を取るのに手間取り、結果的には2時間ちかく遅れて出発。機中アナウンスで、9時までの伊丹到着が無理になったので関空に向かう旨を知らされた。伊丹は市街地に近いので使用時間に制限があるのだとか。
 結局、関空から電車を乗り継ぎ、京都ガーデンホテルには午前2時にチェックイン。まっこと疲れた。でも、今年も支障なく来られたから幸いである。
 12月23日11時ちょっと前に京都駅八条口で一年ぶりの再会。京都駅2階のミスタードーナッツで、A持参の伊勢神宮の御神酒で乾杯。その後、地下鉄で北大路へ。そこのバスターミナルから京産大行きのバスに乗り、上賀茂御園橋で下車。志明院に向かう前に上賀茂神社に参詣する。山の方は雪もよいながら、陽も射して心地よい。その後、タクシーで雲ヶ畑志明院に向かう。
 バスだと徒歩20〜30分かかる(最後のバス停から山門まで)と聞いて歩く覚悟をしていたのに、タクシーは山門の真下までわれわれを連れて行ってしまった。途中の道は山が迫ってかなり狭く、所々に家もあり、ボタン鍋を食わせるという看板のある建物もあった。平家の落人の入った場所ということだが、京の都からちょっと山に入ると、人跡絶えて、、、、のような雰囲気になってしまうというのは、この地方の奥深さなのかもしれない。鞍馬に限らず、この辺でも天狗が修行していたのではないか。
志明院は、やわらかく降る雪の中に、眠るようにあった。応対して下さった奥様は、俗界の汚れをすっかり拭い去ったような気品のある方だったが、きさくに帰りのタクシーの手配やら、傘の心配やらをして下さった。それだけでもう、はるばるここに来た甲斐があったという気分になる。
 雪で滑りやすくなっている急な道を登り、鳴神伝説の地を眺め、朝廷に献上されたという霊水がしたたる岩屋を見て、山門に戻った。時々杉などの大木の枝先の雪が撥ねて降り注ぐ。他にはご夫婦らしい二人が歩いているだけで、すこぶる静かである。そういえば、鳥の声の記憶もない。Aが、途中にあった家の中には民宿もあるかもしれないから、そこに泊まってみるのもいいなと言う。いつか、さがしてみよう。後の予定がなければ、も少し、ゆっくりしていたかった。豊かな時間が、そこには確かにあった。
 帰りのタクシーは、夢から覚めたみたいに、アッと言う間に我々を上賀茂まで下ろしてしまった。
 次の目的地は、上賀茂社からほど近いところにある高麗美術館である。そこはすぐ見つかったが、昼飯を食っていなかったので、美術館の受付の女性(二人とも韓国の人らしい、きれいなお嬢さんだった。我々は、美しい女性と出会う星を背負っているのかもしれんぞ。)に教えてもらい、食堂がありそうな所に行ってソバ屋を探すも見つからず、やむなく「なか卯」でうどんを食った。
 高麗美術館は、派手さはないが、作った人の故国への愛情の深さは十二分に感じられる展示を行っていて、訪れる人も、予想よりは多かった。各自、記念の絵はがきを一枚ずつ購う。
 タクシーで妙心寺そばの花園会館に行き、コーヒータイム。東林院では、まさかコーヒーが出ることはあるまいから。
 約束していた5時に東林院に入る。ブログでは「無愛想」と書き込みされているオバさんが出迎えてくれる。我々の印象では、特にそんな感じはしない。「庭が眺められる部屋にしてください」と頼んでおかなかったので、細長い中庭に面した八畳の部屋に通された。寒い。畳が冷たい。暖房はエアコン一台。──タイピング係Aの追記。せめて電気炬燵がほしかった──早速30度ほどにセットしたが、なかなか動き出さない。上着を着たまま、用意してあるポットのお茶を飲む。お茶菓子も付いている。Fは、千歳で買ったホタテの貝柱と、何だったか(忘れた)を、昨夜泊まったホテルの冷蔵庫に入れたまま忘れてきたことに気づき、明朝取りに行く旨を連絡。物忘れは、老化なのかなあ。
 6時、院内放送で夕食を食べにくるよう促され、食事をする六畳あるかないかの部屋に行くとすでに膳がしつらえてあり、くだんのオバさんが、ご飯がおひつにはいっていること、最後にお茶はご飯茶椀で飲むべし、といった作法を伝える。さて、その精進料理の内容は、
 大根、昆布、何かの煮たもの、高野豆腐、さつまいもの天ぷらと煮たニンジン、コンニャク、お新香、サトイモの煮っころがし、名前の分からない青菜の和え物、黒豆(大)、うずら豆の煮物、ご飯と、湯葉とキノコのおすまし。
 なんだか、煮物ばっかりみたいだが、おいしかった。(席の横には、食事五観文というものが置いてあった)
 朝食は、大分から来たご夫婦も一緒。
 海苔、アゲの煮物、お新香、ご飯と味噌汁。これも満足。
 帰る前に庭を見る。古い沙羅双樹はすでに無くなっていた。禅寺らしい、仰々しさのない庭だった。
 帰りがけ、オバさんが、以前宿泊したことがあるかと尋ねるので、自分はないが、妻とその姉が泊まったことはありますと答えると、珍しい名前に記憶があったのだということだった。決して無愛想な感じはしなかったことを付け加えておこう。それと、寒いのでGは羽毛コートを着たまま寝たことも。
 もう一つ、酒のことを書き忘れていた。風呂(三人一緒に入れた)の後、Gの持参した繁枡と、Fの持参した大雪の蔵を飲みつつ話す。しかし、室内が寒いので早めに就寝した。
 タクシーで京都ガーデンホテルに行き、忘れ物を受け取る。その後は地下鉄で京都駅に行き、先ずはコーヒーを飲める店に入る。その後、9時30分発の列車で近江八幡に向かう。
 約束した10時前にトヨタレンタリースに到着。スタッドレスを履いたヴィッツを借りて、先ずは石塔寺を目指す。ナビゲーターはG。大きな間違いもなく到着できた。
 かなり長い石段を登りつめると、巨大な阿育王塔が目にとびこんでくる。韓国を知っているAには、それは韓国のもののように感じられたらしい。巨大な王塔の周囲だけではなく、その山の峰一面に無数の石塔、また石仏が並んでいる。Fには、その石塔の姿は、古代百済人の故国への想いがこもっているように思われた。
 その峰の背後には、川と覚しきものがあって、Aによれば、プヨの古都の様子と似ているという。昨夜降ったのであろう雪は、ほとんど溶けていたが、まだ木陰の地面は白いものを残していた。雪の合間に見える青空の色が、石塔の色にひどく似合っているように思った。
 石塔寺の後は、百済の王族だった鬼室集斯の墓を目指す。三年越しに行ってみたいと思っていた所だったが、小さな部落の小さな神社の背後にあった石の祠は、何かを語りかけてくるような感じのものではなかった。天智天皇から大学寮の学識頭に補せられたという人の墓なんだろうか。その辺の歴史があたりの風景から立ち上がってくることはなかった。
 次は日登美美術館へ。何のことはない、日登美ワイナリー(日登美山荘の奥さんの弟がやっている)に入らないと美術館へは入館できない。しかし、バーナード・リーチの作品を中心にした展示は、美術館の作りも含めて落ち着いたいいものだった。
 ワイナリーに戻り、ドイツパンを購う。一つはAとFの夜食用。もう一つはGの新幹線のなか用。運転しているFと、夜、運転する予定のGはワインの試飲ができないので、Aが一手に引き受け、8種類ほどのワインをすべて飲み、小瓶のマスカットのワインを一本買い込んだ。その後、すぐ近くのそば屋でようやくニシンそばにありつく。
 Gはもう近江八幡に戻らなければならない。名残惜しいがやむなし。ほぼ一本道の国道を近江八幡に向かう。途中、車が混雑してる店がある。洋菓子屋さんだった。そうか、今日は12月24日クリスマス・イブなのだ。
 近江八幡でGと別れ、AとFは百済寺を目指す。新しいナビゲーターはAである。AもFも、その手の電子機器に手慣れているとは言い難い。それでも、なんとかかんとか百済寺に辿り着くことができた。
 百済寺は湖東三山の一つで、千四百年も法灯を守ってきた古刹だという。その創建には聖徳太子が関わっていると寺のパンフレットにはある。盛時には三百余の僧坊があったらしいが、信長の兵火によって一山悉く焼亡、烏有に帰したようだ。その本格的な復興は江戸時代のことだという。山のあちこちに山城の跡を思わせる石積みが残っている。それは、百済人の為に建てられたということと関わりがあるのかもしれない。寺の庭園には、「遠望台」なる場所があり、そこからは遠く比叡山に連なる山々を見はるかすこともできる。丁度、夕暮れ時だったので、そこに立ってみると、山々と雲の間に夕陽が沈んで行くところだった。そこもまた、見えはしないけれども、遠く百済を思ってみる場所であったのかもしれない。
 すっかり暗くなってしまった中を、永源寺上流にある日登美山荘を目指す。しかし、ナビゲーションが正確に使えず、しばらく時間を食ってしまった。永源寺ダムに近づくと、さすがに道路が圧雪アイスバーンのようになっている所もあり、またけっこう雪も舞っている。まだか、まだか、と思いつつ鈴鹿山中を目指して走るうちに、ようやく山荘にたどり着いた。
 山荘は、想像した通りの古い民家で、三和土で靴を脱ぎ、炭の入った囲炉裏のある板の間に上がった。出迎えてくれたのは奥さんで、旦那さんは台所で料理の準備をしている。家のあちこちにポータブルの石油ストーブがあり、ほとんど寒さを感じない。先ず風呂で疲れを流し、囲炉裏端で夕餉にありついた。地酒を所望し、火を見ながら、出してもらったものに舌鼓を打つ。至福の時だった。
夜の献立。(記憶が落ちているものもあるかも)
 高野豆腐オランダ煮(揚げて炊くこと──タイピング係Aの注。筑後で云う治部煮のことか──)。永源寺コンニャク煮付け。岩魚の煮付け。マイタケの三杯酢。丁字麩のフライ。イノシシとゴボウの味噌煮。刺身三種盛り(カルパッチョ梅肉和え、刺身)岩魚塩焼き。かぶら蒸し。岩魚朴葉味噌焼。冬瓜の和風ポタージュ。岩魚飯と荒汁。梅酒ゼリー。お新香(タクワン、ソーメン、日野菜、カボチャ)。
 宿の人達が自宅に引っ込んでからは、残っていた大雪の蔵を空け、Aが買ったマスカットのワインも空けてしまった。囲炉裏の熱を顔に浴びながら飲むと、悪酔いなどはしないような気がする。それにしてもGにも食べさせたかったな、と、それが唯一心残りだった。あとで考えると一日目と二日目を逆にする発想もあり得たのに、と思うが、その時は思い付かなかった。ごめん。
 翌朝、起き出して外に出てみると、5センチほどの積雪があった。しかし、外気は温かく感じる。山荘の目の前の林の中に、岩魚の生け簀があり、10センチぐらいから30センチ近いようなものまで元気に泳いでいる。国道に出てみると、鈴鹿の山々が高々と迫っている。郵便局もある。──タイピング係の追記。前夜ずっとパトカーが後をつけて来たが、すぐ近くに駐在所もあった。──ゴウゴウと音を立てている川にかかっている橋に出ると、清冽な水が豊かに流れている。これが愛知(えち)川である。橋上からも川底が透けて見える。夏の水遊びはさぞ楽しいだろう。国道の雪は圧雪になることもなく、溶け出している。凍結していないのは有り難い。
 日登美山荘のご主人と奥さんに別れた時、今回の旅は実質終わっていた。10時までにレンタカーを返さねばならないので、国道を真っ直ぐ走って近江八幡を目指した。そしてまた京都へ。
 Aは新幹線を予定より早い時間のに変えて帰途につくことになり、Fは夜の関空発の飛行機まで大分時間が余ったので、駅近くでまだ行ったことがない場所はないかと考え、三十三間堂に行ってみることにした。長大な堂宇の中に並ぶ一千体の観音は壮観であったが、石塔寺百済寺を巡った後では、それは、ただ権力なのか、何なのかはわからないが、何かを誇るために作られた見世物のようにしか思われなかった。そこに祈りを感じなかったというのが実感に近い。──タイピング係の呟き。摩波羅女像を見てほしかった。それだけが、あそこで奇蹟的に祈りの形を現している。──
 結局、京都博物館は改装中で休み。やむなく、近くにある智積院に行って長谷川等伯の障壁画を眺め、その近所の妙法院でしばし時間を費やした。そして少し早めに大阪に行き、デパートの地下で大きな揚げを購い(京都「もりか」の揚げは京都のデパートでは売っていない)、関空へ。
 飛行機は時間通りに離陸し、ほぼ予定時刻には新千歳に着いた。札幌発の最終特急にも間に合い、12時過ぎには家に帰り着いているはずだった。しかし、冬の北海道を甘く見てはならない。大雪の影響でポイントの不具合が発生し、、、、家には午前3時過ぎに到着した次第。
 それでも、また豊かな思い出が作れたことを、心から感謝しつつ、旅の記を終わりにします。