イサム・ノグチ展と野見山暁治展

2013/10/13

広島・尾道報告

 イサム・ノグチ展と野見山暁治展に行ってきた。
 広島のはイサム・ノグチだけでなく、ピカソ、ミロ、ダリ。これでもか、これでもか、という感じでヘトヘト。が、それはそれとして。
 丸木位里・俊『原爆の図』、平山郁夫『広島生変図』、藤田嗣治アッツ島玉砕』、岡本太郎『明日への希望』などなど。なんだか絵を見ているというよりは、広島の自己主張を見せられているようだった。「要するに絵だな」。申し訳ないがそう感じた。岡本太郎のだけはいくぶんその「要」から免れていたか。
 そういう要約の埒外に海老原喜之助『船を造る人』、高橋英吉黒潮閑日』があった。もちろんイサム・ノグチもそうだ。が、ノグチは、庭園や公園に目を瞠るものがある。札幌のモエレ沼公園に就学旅行団をつれていったのは自慢の仕事。牟藎の庭園美術館にはいつか個人で行く。

 翌日は尾道
 野見山さんのすごいところは、90代になってからの仕事が充実していることだ。博多駅福岡国際空港のステンドグラスもここ数年の仕事。それを確かめたかった。期待通り、ふたつのステンドグラスの原画が並んでいた。(ステンドグラスは気に入ったみたいで、会場の外光が入ってくるところに幾つも置いてあった。おしゃれだった)
壮観だった。そして隣の部屋に今年の作品があった。今年93?94?

 30年ほど前、新天町の画廊で新作展があった。(30年前というと野見山さんは60代だった勘定になる)そのときは、セザンヌの一部分を拡大した絵、という印象で、「野見山さんでもセザンヌなのか」と少々拍子抜けだった。
 30年後。そのセザンヌの全体に出あった。ついに「総合化」が起こった。
 「セザンヌはなにか怖い」と野見山さんは書いている。今年になって、江藤淳が同じことを言っていたのを知った。「セザンヌのまえにずっと立っていられる人が解らない」
 サン・ビクトールの奥にはなにかが潜んでいる。
 しかし、画家自身は「なにか」を描こうとしたのではない。ただ見たものをそのまま描こうとしていただけだ。いや、そのことに執着していたと言っていい。
 もともと印象派というのは、それまでのロマンを嫌い、見たものをそのまま即物的に描こうとした人たちだと思っている。モネの睡蓮も、ルノワールの女の肌も、ゴッホの月や星も、かれらにはあのように見えた。
 そこにロマンを感じるのは鑑賞者の自由だが、セザンヌはただ「自分に見えているサン・ビクトール」を写しとることに集中していたのだ。
 野見山さんはついにその「即物性」に逢着した。
 それはすでに「絵」を超えている。
 「よかったですね」
 本人がいたらきっと、そう挨拶をしていたろう。
 
追伸
 旅行報告を書いたあと、山小屋付近の地図がほしくて図書館分館に行ったら、野見山さんの聞き書き集『眼の人』があるのに気づいた。時々こういう「たまたま」があるのが楽しい。でも今回はちょっとできすぎ。
 夜、寝床にひっくり返って読みはじめると、なんだか懐かしくて止まらなくなり読み終わってしまった。
「ぼくは見たものしか描けない」
 うらやましくなってきた。

あとは、いつもの愚痴です。
 放射能汚染への不安から漁獲物の売れ行き不振がつづく韓国が、日本からの輸入を停止した、という記事を見た。(まだ続いているのか、もう止めたのかは知らない。)テレビのニュースによると、日本はどこかに提訴するんだそうだ。(実際にそうしたのかどうかも知らない)
 相変わらずヘタだねぇ。一本調子だねぇ。まともなブレーンはいないのか?危ういねぇ。
「われわれは日本近海の魚の安全性には自信がある。現に日本国民はとっくに安心して自国の魚を食べている。もともと我が国の食品安全性への気配りには周辺諸国以上のものがあるという自負をもっているし、その自負をいまも忘れていない。
 ただし、ものごとの印象は現場より距離を隔てた所のほうが増幅されるという一般的な現象を知らないわけではないから、韓国政府の判断にそれなりの動機があることも理解できる。
 しかし、日本近海では今日もおおくの韓国漁船が操業をしている。
 おなじ海域での漁獲物なのに、日本の漁船がとったものは危険で、韓国漁船がとったものなら安全だという韓国政府の判断に承服する韓国民がどれだけいるのか疑問だが、その疑問が内政干渉にあたるというのであればわれわれがそれをいつでも取り下げる用意はある。
 もし、韓国民が今回の韓国政府の判断と処置を支持しているのであれば、その愛国心には驚嘆をこめた羨望を禁じ得ない。」
 くらいのことが言えないのかねぇ。
 ところで、パンギムン国連事務総長の発言を韓国大使館のまえに大きく掲げてさしあげるという案はその後どうなっていますか?電光掲示板のほうが目立つけど費用が嵩みそうだし、裏側から韓国が「はずしてくれ」と要求する可能性もあるから(その程度には彼らのなかからまだ羞恥心は消えきっていないという信頼感がある)、安く仕上げよう。