ペリリュー・沖縄戦記

GFへ

 敷地外に設置されている喫煙所で校長と一緒になった。
 口をきくのは三度目。
 一度目は歓迎会の時。二度目は野球公式戦のスタンドで。「私は生徒たちに自信をつけさせたいのです。」
──我々は、四年間遊びながら、少しずつ社会人になる覚悟をきめて行きました。でも、アイツらは直接世の中に出ていくんです。スゴいですよ。
 担任の面接指導の仕上げに校長を薦めてもいいですか?と訊くと、「はい、いつでも引き受けます。」

 「使う頭と動く頭」を生徒に配った。
 しばらくして一番前の席で競って勉強している二人のうちの一人が相棒に話しかけた。──読んだ?
──いや、オレ読まん。疲れる。
 返事をした方は、新学期当初「中学校のとき心ない生徒から笑われることがあったそうですから気を配ってください」と言われた生徒だった。が、慣れてきて、就職試験問題か何かをやらせているとき質問したので「教えん。」と言うと「生徒が分からないことを教えるのが先生の仕事でしょう! 先生はそれでも先生ですか?」もう大丈夫。「うんにゃ。生徒から考えるチャンスや調べるチャンスを奪うとは先生の仕事じゃなぁい。」
 先生が居なくなってから携帯で調べろ、と言うと納得した。学校に持ってくるのは構わないルールなのです。
 でも、考えてみると、あれをスルスルッと読む生徒と、「読んだら疲れる」生徒と、こちらが想定している「読者」はどっちなんだろう?

 今年でリセットするほうが無難な気がしはじめているが、博工が最後の学校になるのなら本望だ。

 金丸利孝さんの『フィリピン戦記』(実にいい本でだったので、礼状を書いた。戻っては来なかったから届きはしたのだろうが、ご本人が受け取ったかどうかは分からない。存命なら95〜96歳)を読んだあと、何年も机の横に置きっ放しになっていた、ユージン・B・スレッジ『ペリリュー・沖縄戦記』を読んだ。ユダヤ系なのかなと思うが敬虔なキリスト教徒。激戦のさなか日本兵の遺留品に防水袋を見つけて、それに聖書を入れ、大切に体から放さないようにしていたという。
 裕福な医者の息子で大学に行っていたのに、親の反対を押し切って海兵隊に入り、親との妥協で入学した士官候補コースからドロップアウトして二等兵として、20歳ほどで太平洋戦線に参加した男。
 4〜5日で片付くと言われて強行上陸し、一万強(捕虜数十名のみ)の日本兵死者と一万弱の米兵死傷者を出したペリリューの30日間が終わったあと、(スレッジの中隊は三分の一に減っていた。)現地で呼び出され「士官になる気はないか?」と訊かれ、「帰国できるなら希望します」と答えて(穏やかで好意的だった)面接官を苦笑させる。「全滅するかもしれないと感じる指令を受けた時それを部下に命じられるか?」出来ませんと答えてテントに戻ったスレッジから事情を説明された同僚から「お前はいい男だ」と言われた一言がどんな勲章よりも嬉しかったと書いているが、それを「そうだったろうな」と受け止められた。

 でも、あんな並外れた知性と感性の持ち主が、どうして選りにも選って海兵隊に志願したのか。読みながら一番知りたかったのはそのことだった。

 『沖縄戦記』に上官だった大尉の序文がある。
「スレッジの言葉には、過去の出来事に対する分析やら態度表明やらとは無縁の、真実だけが込められている。本人の身に起こったこと、したがって、そこで戦った海兵隊員全員の身に起こったことだけが、淡々と写し出されている。私にはそれがよくわかる。なぜなら、私も彼らとともに戦ったからだ。」
 その、「淡々と写し出される出来事」のなんとむごたらしいことか。
 この本の紹介はしない。というか、出来ない。
 『ペリリュー・沖縄戦記』は詳細なディテールの集積であって、それを圧縮することは内容を損なうことにしかならない。たとえばスレッジが一番伝えたかったかもしれないことのひとつは、敵味方の死者がその場で死臭を放っている場所で両軍とも釘付けのまま数日間を過ごした沖縄の戦いの、その腐臭だったと思うのだが、それをリアルに感じるのは現場を経験した者たちだけだろうと思う。「私はいまもあのにおいが甦るとものが食べられなくなる。」
 テレビで食い入るように見たトム・ハンクススピルバーグの『パシフィック』は傑作だった。けど、その元になった本を読むと、スレッジの書き残したことの百分の一も表現されていなかったのだと分かる。(でも、「読んだほうがいい」とは勧められないから、せめていつか『パシフィック』を見てください。)
 沖縄の50日間が終わったあと、当初の250名と次々に投入された補充兵250名合わせて500名のスレッジの中隊は50名に減っていた。(もちろんその450名の中には「百万ドルの負傷」をしてリタイアした者たちも含まれている。)

 読んでいるうちに、クラカワーの『荒野へ』を思い出した。
 あの主人公がアラスカに求めた「純粋の現実」の中にスレッジも身を投じてみたかったのだ。少数派ではあっても若者のなかには必ずそういう志向を持っているものがいる。そんな若者に「危ないから」という忠告は意味をなさない。
 が、身を投じた「純粋の現実」は若者の想像を超えた世界だった。
 沖縄戦での日本軍の死者12万〜13万人。米軍の死者行方不明者7千数百人。が、米軍には2万5千人を超える「精神障害」によるリタイアが出たという。
 スレッジは、「あんなことを経験して変わらない者がいたら、その人間のほうがおかしい。私も変わった。」と、自分がペリリューで日本兵の死体に凌辱を加えた出来事も淡々と書き残している。が、寸前のところで上官が正気を取り戻させてくれた。
 と同時に、日本軍のホタテの缶詰が気に入って、日本兵を殺してはホタテの缶詰を探したことも、そのまま書いている。
 その精神的強靱さ。

 学生時代に読んだ大森実のルポの中で、オーストリアで精神を病んで世捨て人のようにして生きている帰還兵から聞いた話だけを覚えている。
 彼らの塹壕日本兵が奇襲をかけてきた。彼の上官に士官が日本刀を振りかざした。上官は鉄製の箱で防ごうとした。上官はその箱ごと切られて死んだ。
「オレはその日本兵にナイフを投げつけて殺した」
 帰還兵は「いまさらマットウな人間に戻れるか」と言ったと記憶しているが、ひょっとしたらその言葉はこちらの頭がかってに動いて出てきたものかもしれない。

 数字と「分析」だらけなので、一カ所だけ「そんなこと知らなかった」と感じた箇所を引用する。
 沖縄の西海岸に上陸し、「東海岸に到達せよ」と命じられた当初数日間の行軍は日本軍の抵抗もなく、ピクニックのようだった。
「子供たちはだいたいみんなかわいらしく、あかるい表情をしていた。丸い顔に黒い瞳。男の子はたいてい髪を短く刈り、女の子も黒々としたつややかな髪を短く切りそろえていた。われわれは子供たちに心を奪われた。ほとんど全員が、キャンディやら糧食やら、子供たちに与えた。われわれに対する恐怖心を解くのも大人より早く、うれしそうにいっしょに笑ってくれたりした。
 ・・・二人の沖縄女性とその子供たちの話である。
 止まれの号令がかかり、あわただしい進軍がふたたび始まるまで〝10分休憩〟を命じられたわれわれ分隊は、丘の中腹にある典型的な沖縄の水場の近くで休憩をとった。・・・われわれは、二人の女性と子供たちが水を飲む姿を見ていた。当然ながら、なんとなくびくびくして、こちらを気にしているようだったが、幼子をかかえていればしなければならないことがある。一人が石に腰かけて、キモノの胸を平然とはだけ、赤ん坊に乳を含ませはじめた。
 その間、上の男の子(四歳くらい)は母親の履き物をいじって遊んでいたが、すぐに飽きて、母親の気をひこうとちょっかいを出し始めた。、もう一人の女性も小さい子を抱えていて手がふさがっていたから、どうしようもない。母親は退屈している男の子をしかりつけたが、子供は赤ん坊を踏みつけて母親の体によじ登り、邪魔をしはじめた。どうするのかと興味津々で見ていると、怒った母親は赤ん坊の口から乳首をはずし、むずかる兄の顔に向けた。そして、まるで牛の乳をしぼるように自分の乳をしぼり、子供の顔に勢いよく飛ばした。
 われわれは脇腹を押さえて笑い転げた。女性たちは目を上げ、何を笑っているのかと怪訝そうだったが、それでも、緊張が解けて笑顔になった。顔に乳をかけられた子供も泣きやんで、笑いはじめた。〝装備を持て、出発〟隊列に号令が飛んだ。」

 何人かに送った葉書で、「人間性を破壊する戦争の悲惨を綴る証言」という文庫本の宣伝文句に「中身を読んでいない無責任男か、読んでも分からない不感症男だ。」と文句をつけた。
 誤解を恐れずに言うならば、引用した部分に限らず、あのむごたらしい出来事を最後まで読みつづけたのは、そこに「人間の光輝」を感じたからだ。人間に生まれて良かったと感じさせてくれる何かがあったからだ。
 書かれていることと、感じたことの背理については、これから時間をかけて考えることになるだろう。それこそ、「頭を使って」ではなく、「頭が動い」たときに。


追記
 五歳若い四国の友人から葉書が届いた。
 「はじめて投稿した歌が地方欄に載り、新聞社から記念品が贈られてきた」と言う。

     三十路越え都会の水に慣れた娘が「紹介するよ」で夫婦安堵す
       
追記2
 金丸利孝さんのご子息から丁重な手紙をいただいた。
 金丸さんは平成23年に亡くなっていた。
 合掌。
                          2016/09/21