あぶらやま通信〈5〉

 あ ぶ ら や ま 不 定 期 通 信 5  
2016/09/05
 
 わが母親は現在99歳。生まれ故郷にあるグループ・ホームで穏やかに暮らしていらっしゃる。
 もう言葉は出て来ないが、こちらの言うことはほとんど分かっている。数ヶ月前だが、母親のベッドの脇でスタッフとお喋りをしていたとき、「私の父親は女の気持ちがよく分からない男だったので、」と言うと大きく頷(うなづ)いたので、大笑いになったことがある。
 「アタシは頭が悪いから」というのが口癖だったけど、あの人の悪かったのは学校の成績であって、頭ではなかったという気がする。成績の良し悪しと頭の良し悪しとは正比例しない。というか、ぜんぜん別々の要素なんじゃないかしら。
 
 頭の働きには、ふた通りの要素がある。
 わたしたちは普段、頭を使って生きている。その頭の使い方の訓練をしているのが学校だ。だから、頭の使い方が上手になった者は成績がよくなる。うまく頭を使いこなせない者は、成績がなかなか上がらない。
 でも、学校の成績の良かった者のほうが「いい生き方」をするかというと、どうもそう単純じゃない。同窓会で出会った同級生のなかには、学校の成績は悪くて、高校にも行かないままだったのに、羨(うらや)ましくなるほどイキイキとしている場合もある。(もちろん、その逆のパタンも)
 彼は、頭を使うのは下手だった。でも、頭が動いていたのだ。

 「使う頭」と「動く頭」
 わたしたちの脳には大きく分けて二つの働きがある。
 「頭を使う」のは意識的な働きに属(ゾク)する。「頭が動く」のは無意識的な働き。
 生きていく上で最終的に重要なのは、その「動く頭」の能力なのではないか。

 わたしたちのように先進国で生きている者たちは、目の前のことに対処(タイショ)するために、常に頭を使いつづけている。
 20世紀初めに比べて、今の日本人の所得は約3、000倍になっているという試算もある。(その間に物価も上がっているんだけど、それを差し引いても、たぶん日本人の収入は2〜5倍にはなった。数字にばらつきがあるのは、100年前の日本には特権階級の人たちが居たから。でも、その、もと特権階級のひとたちの収入はほとんど横ばいのはずだ。)それは単に「儲(もう)かる」ようになった、のではなく、一人一人の労働量がそれだけ増えたということでもある。20世紀初めの日本人はもっとのんびり生きていたのです。
 その増えた「労働量」は「体を使う量」ではなく、「頭を使う量」なのだ。
 単純な例で言うと、コンビニでアルバイトをしている人たちのテキパキさには感動的なほどに感心する。(ワシゃ、とてもじゃないが、もうあんなに頭を使いこなすことは出来ない。)
 コンピューターが登場して、人間の労働量(頭を使う量)が減ったかというと、さにあらず。減ったのは「体を使う量」であって「頭を使う量」はコンピューターに合わせて増え続けている。
 そんな趨勢(スウセイ≒傾向)のなかで、スピードについて行けない人が増えている。が、だからといって、日本だけがコンピューターなしの世界に戻るわけにはいかない。だったら世の中の所々(あちこち)に「スローライフ」の空間を意識的に作らなくっちゃ。……そういう空間は、スピードについて行っている人たちにとっても「ほっ」と出来るたいせつな場所になるはずだ。
 もう店を畳んでしまったけど、「注文を受けてから炊きますので、出来上がるまでに小一時間(こいちじかん)かかります」という張り紙のある、お婆ちゃんが一人でやっている釜飯屋さんがあった。座席は4つのみ。(これで商売になるのかなあ? でもお婆ちゃん一人なら、これでもやっていけるか?)お客は常連ばかりなので、ゆっくりお喋りをしながら炊きあがるのを待っている。「お待ち遠様でした。」

 でも、もう一度話は最初に戻る。
 「頭の使い方」が上手になったからと言って、「いい生き方」が出来るようになるとは限らない。
 「頭の使い方」が下手だからと言って、「いい生き方」が出来ない訳ではない。
 「動きつづける頭」こそが、その人の生き方を決めていく。──そう思えてならない。
 その「頭の動き」を教えられる先生はほとんどいない。
 なぜならそれは、無意識に動く、ものだから。
 ただ、気休めにしかならないかも知れないけど、その「頭の動き」を刺激しているのは、集団生活なのではないかと思う。
 老教師は、若い頃から、生徒がいわゆる単位制の学校にいくのを勧めなかった。「学校は窮屈かもしれないけど、そこで学ぶことは英数国社理だけじゃないと思うよ。もっと大切な何かがありそうな気がする。」

 運動会が近づいてきた。
(運動会と呼ばないと、老教師にはピンと来ないのです。50年前の学校には運動会とは別に「体育祭」があった。それは「体育競技会」のことだった。グランド全体でまる一日、走跳投の競技があるのは、もの珍しく面白かった。いちばん面白かったのは走り高跳び。地面に寝転がって選手が飛ぶのをバーの下から見上げるのは丸っきり飽きなかった。記録は120〜30㎝に過ぎなかったけどそれを地面から見ていると「スゲェ。」)
 50年前、ほとんど上級生の指導だけで準備をする間、残暑厳しいグランドに正座させられたりして、「こんなことして何の役に立つとやろか」と思っていたが、(じっさい何の役に立ったのか分からないけど)でも、19世紀の人たちが考え、それを20世紀を経て、21世紀まで受け継いでいるのには、なにか大切な理由がある。
 もう「進学校」のなかには「無駄」な学校行事をやめて勉強一本にしている所もあると聞く。──でも、それって、本当に生徒たちに「いい生き方」をさせたいと願ってのことなの?──