油山不定期通信〈7〉

 あ ぶ ら や ま 不 定 期 通 信 7  
   2016/10/25

 先日、福岡出身の大隅良典さんがノーベル賞を受賞したというニュースを見て、「高校はどこだ?」。福岡高校の出身だった。「修猷館は悔しがっているだろうなぁ。」でも、修猷館からは平和賞ぐらいしか出そのうにない。同じ福岡にある県立高校でも、修猷館福岡高校ではその文化がまったく違うのです。
 今日はそんな話をします。

 友人からメルマガが転送されてきた。
 中国や韓国のメディアが今年もまた「どうして日本人ばかりがノーベル賞をとるんだ!?」と喧(かまびす)しいらしい。挙げ句のはては「きっと日本人は賄賂(ワイロ)のつかませ方が上手なんだ。」
 熱くなって人を批評する時は気をつけましょう。ついつい自分自身がふだんどんなことを基準に考え、どんな生き方をしているかがバレバレになってしまう危険性がある。(そういうアマノジャクな目で見ていると、他人や他国がけっこう見えてきますよ。)
 では、どうして中国(日本の10倍以上の人口!!)や韓国(世界のスマホ界に君臨しているサムスンの本拠地であり、現国連事務総長の母国)からノーベル賞がなかなか出ないかというと、簡単に言えば、基礎研究をしている人の割合が日本より極端に少ないからだと思う。
 中国・韓国は儒教文化の国です。儒教とは、政治家や官僚希望者を教育した孔子の教えがもとになっている。だから、儒教の一側面(イチソクメン)は強烈なエリート中心主義なのです。(ただし、2500年前の孔子はむちゃくちゃに奥深い人で、彼の言行を弟子たちが書き残した『論語』はどうにでも解釈できることばかり。だからかの国ではその解釈をめぐって血なまぐさい争いが何度も起こっている。でも、海を隔てた日本は儒教を受け容れる時、その政治的な面を濾過(ロカ)してしまってヒューマンな面だけを受け容れた。老教師にとっての『論語』もそう。──私の恩師から一昨年届いた年賀状にあった俳句「読み始めは『論語』世の中変わるとも」――)
 エリートたちは、基礎研究などには興味を示さない。
――あんなことは下々(しもじも)の人間のやることだ。
 かれらの関心は、ひたすら「高級なこと」や「でっかいこと」「ハデなこと」「目立つこと」にばかり向かう。儒教文化の国では自分の才能に自信のあるひとほど地味なことを見下ろす傾向がある。「汗を流して働く」ことを嫌がるのです。
――汗を流して働くのは、無能な人間の生き方だ。
 江戸時代に日本に来たかの国のエリートは、サムライたちが農民といっしょになって働いているのを見て軽蔑の言葉を日記に書き残している。そういう国には日本のようなやわらかい文化は育ちにくい。
ところが、この国の人たちのなかには、自分の能力に自信があり、なおかつ地味な生き方を選んで(いや、そういう生き方にハマって)得々(トクトク)として(喜んでそうして)いる優れた「変わり者」たちが昔からたくさんいる。そして、人々もそういう「変わり者」への敬意を忘れることがない。
 日本人は、どうしてだか知らないけど、小さなこと、大多数の人が見向きもしないようなこと、目立たないことを、ひっそりと、こっそりと、大切にする。そして、誰からも評価されないことでも、それを「自分の勤め」として最後までやり遂げようとする。そんな日本人が、ノーベル賞受賞者の10万倍、いや百万倍も「自信を持って」この国でいまも生きているんじゃないのかな。――別に日本に限ったことではない。世界中にそういう人たちがタクッサンタクッサンいるから、この世界は保たれている。――
 いまは日本国籍を取得したもと留学生は「最初、日本人の生き方を見ていて気が狂いそうになった。」と書いている。「どうしてこの人たちは社会の片隅の日陰で生きているのにイキイキと幸せそうなんだ!?」。彼女はいったん休学して祖国に戻った。ところが祖国に戻ってみると、もっと気が狂いそうになった。「この人たちの、出世した人は勝ち組、残りはみな出世しそこなった負け組、という考え方は間違っている!!」日本に戻り、大学を卒業し、いまはあまり有名ではない大学の先生をしつつ「日本人が忘れかけている大切なこと」を発言しつづけている。
 わたしたちの祖先は、異分子を受け容れ、それを同化して自分自身と同化していくことによって、進化を成し遂げてきた。受け容れがたいものを、いかにして受け容れるか。「理解する」ということの鍵はそこにある。
 でも、ですね。
 最近の日本人を見ていると、「目立つ」のが大好きなのを通り越して「目立つためなら何でもする」人間がそうとうに増えて来ている感じがする。日本ピンチ!!

 友人から送られてきたメルマガには「日本人が世界的に優れた研究をするのは、日本語のせいがあるのかもしれない」という意見が載っていた。
 君たちを悩ませてきた通り、日本の文字は、漢字、ひらがな、カタカナ、三種類もある。最近はそれにabcをそのまま使ってもいるから4種類。しかも漢字の読みは訓読みと音読みの二種類。しかもその訓は一学期に紹介したように「生なま」、「生い」きる、「生お」いる、「生う」まれる、「生うぶ」な、「生き」のままで、「生憎あいにく」など幾つもある。しかもしかもその上、音読みは「学生ガクセイ」、「平生ヘイゼイ」、「畜生チクショウ」、「衆生シュジョウ」。
 これだけでも読み方は11種類!!
 その4種類の文字とどうかしたら10種類以上ある読みとを頭のなかで常にたったひとつの言語として情報処理しながら生きている人たちは、ほかの国にはいそうにない。そのなかで、ごく自然に「他の人たちが思いつかないこと」に到達する場合がある、のかもしれない。
 『進化論』で有名なダーウィンはこう言っている。
 「動物と人間の違いは、人間がまさに千差万別の音と観念を結びつける、ほとんど無限に大きな能力を持っていることにある」。
 というか、その能力を身につけた時、(つまり数万年前、言葉を発明した時)、人間は人間になったのです。チンパンジーも言葉(音)や文字(記号)を理解できる。でも、チンパンジーはたくさんの雑音のなかから言葉だけを選び取ること、たくさんの模様のなかから文字だけを選び取ることは出来ない。コンピューターの能力なんて君たちの能力の一億分の一以下なんじゃんないのかな。
 ちなみに、中国では漢字の読み方は一種類しかないし、文字も漢字のみ。外国人の名前もぜんぶ漢字化して書かれている。たとえば「オバマ」は「奥巴馬」。(じつは今の中国が使っている漢字は簡体文字といって、もとの漢字とは違った記号のようなもの。だから、若い中国人はもしお爺ちゃんとお婆ちゃんのラブレターを見つけても読めない。下で書くように韓国もハングルしか知らない世代はお爺ちゃんやお婆ちゃんの日記が出てきても読めない。どちらの国の若者も自分の家族の歴史からチョン切れたところで生きている)
 韓国ではもともと漢字を訓読みすることがなく、音のみ。それも一種類しかなかったけど、独立後の「外国文化追放」で、漢字を義務教育から捨てた。(大学教育のみで漢字が使われていると聞くが、どの程度のレベルなのかは知らない)
 学生時代だったから50年ほど前、韓国に行ったとき、簡易ホテルのそばの喫茶店でモーニング・コーヒーを呑みながら向こうの新聞を読んでいた。当時のエリート新聞は日本の新聞なみに漢字だらけだったので、漢字だけを追いかけていれば。だいたいの意味が分かったのです。それを女の子が不思議そうに「読めるの?」と訊くから「うん。」と言うと、「わたしたちは読めない。」こっちのほうがビックリした。(日本人が読める韓国の新聞を韓国人が読めないなんて!!)それで知ったことです。
 私が最近出会った韓国の小学6年生は自分の名前を漢字では書けなかった。
   ほんしょのとくちょうとこうせい。
   ほんしょは、きょうかしょのないようのりかいとふくしゅ
   うをもくてきにへんしゅうしたもんだいしゅうです。
 分かりますか?君たちの使っている「かがくとにんげんせいかつ」の出だしの部分をハングルのみにしたらどうなるか。ハングルは日本の「ひらがな」にあたるので、試しにひらがな訳してみたものです。ひらがなだけだと、小学校に入学したばかりの子は助かるかもしれないけど、高校生がこんな教科書で勉強する?その文化の将来は危ない。
 文字を覚える手間を省くことで、そのぶんコンピューターや英語を学ぶ時間とエネルギーを殖(ふ)やす作戦かもしれないけど、たとえ一時的には成功しても、いずれその社会自体が沈没する。老教師は、中国や韓国(と、もひとつの国)のことが、じつは心配でならないのです。だって、わたしたちの大切なお隣さんなんだもの。これからもずうっと続くお隣さんなんだもの。

 日本人が優れた研究をし、結果をだす理由があとふたつあると思っている。
 そのひとつは、この国に「ご破算」にする文化があることだ。これは、カシオの電子卓上計算機(電卓)によって急速に姿を消した算盤(そろバン)の用語なんだけど、算盤がなくなったあとでも、日本にはひとつの文化として根づいている。なぜなら、それは、算盤以前からあるこの国独特の文化だからだ。つまり、何事かがあると「これまでのことはチャラにしよう」という文化だ。「すべてを水に流す」文化でもある。
 これには、どう考えても良いとは思えない面もある。
 この前の戦争に負けたあと、日本は軍国主義をチャラにして平和主義になった。ほとんど一日で日本中がそうなった。軍国主義のほうがいいと言っているんじゃないけれど、いくらなんでも変わり身の早さが異常じゃありませんか? 「鬼畜米英」が次の日から最大の友好国。(日本人を「信用できない」という人は、よくこの「歴史的事実」を突き付けてくる。)
 日本に乗り込んできたマッカーサー司令官に、(本国に奥さんがいることを無視して)「結婚して下さい」というラブレターを出した日本女性が数百人もいたという。
 だが、研究者にとってはこの「チャラ」にするのは大切な能力。
 研究は常に順調なわけではない。むしろ大半の研究はどこかできっと行き詰まる。その時に「も一度ゼロから考え直す」のは、じつは、よほどの人じゃないと出来ないことなのだ。だって自分のしてきたことを自分で否定することなのだから。
 老教師が最大級の敬意を持っている山本七平という方がいらっしゃった。かれは「ゼロから考えるという文化を持っているのは世界でユダヤ人と日本人だけかもしれない」と書いている。(どちらも世界中からの嫌われ者だったのです。いや、過去形にするのは早すぎるかもしれない)
 ヨーロッパ人は「もとに戻ろう」としたときの「もと」は「一」。つまり「一」が原点。「それ以下」はない。
 でも、「一から」ではなく、「ゼロから」やり直す勇気はわたしたちにも必要になる時がある。きっと、津波地震や噴火や台風など、自然災害と隣り合わせで生きてきた祖先たちから受け継いだDNAのなかに、それがちゃんと組み込まれているのだろうと思う。

 最後に考えた「日本人がノーベル賞級の研究をたくさんして、成果をあげている」理由は、日本独特の「割り勘」文化。
 最初に外国旅行をした時ともだちが出来て、どこかの店で「わぁーっ!」と騒いで、支払いをするときになって「割り勘」を提案したらポカンとしているので説明したら笑い出した。「それ面白い!! 今日はジャパニーズ・システムでやろう!!」
 今年の大隅さんも、去年の梶田さんも異口同音(イクドウオン)に同じようなコメントを出した。「これは私ひとりがもらったのではなく、多くの仲間の代表としてもらうのだと思います。だから私は、その研究仲間全員に「おめでとう」と言いたい。」
 日本は「オレが!!」文化の国ではない、みんなで一つの目標に向かって努力することに喜びを感じる人たちの国なんだ。だから、たとえ直接研究に携(たずさ)わってはいなくとも、そこで働いている人は誇りを持って働く。なぜなら自分も「仲間」なのだから。忘年会のときは平等な参加者になれるのだから。忘年会の時だけは「先生そんなことじゃダメですよオ。」と言っても怒られないのだから。
 もちろん参加費は割り勘。タダ酒はいけません。