「一反田」以後〈Ⅰ〉
ラン
体がすっと持ち上げられた。
これまで経験したことのない高さになったが、ちっとも怖くなかった。
あたかい胸に抱かれて喜びでいっぱいになったとき、
彼女は母親のことも兄弟のことも、すべて忘れていた。
少年は子犬をランと名づけた。
「ラン」
そう呼ばれただけで幸福になりすぎて体がふるえ、
ランは少年のもとに駆けつけた。
抱きかかえられたランは、も一度幸福を味わいたくて体をばたつかせ、
下ろされると、わざと少年から離れて、名前を呼ばれるのを待った。
「ラン」
聞き終わらないうちにランは少年に突進した。
至福の毎日が過ぎ、ランは少年を追い越して大人になった。
ある日の散歩の途中、ランは一匹の雄々しい犬を見かけるともう走り出していた。
「待て!」という少年の声は耳に入らなかった。
ランは五匹のかわいらしい子どもを産んだ。
子どもたちから乳を吸われているとき、
ランは喜びで恍惚となりそうだった。
お腹が空くと町に出て、
口を動かしている人間の前にお座りしてシッポを振った。
辛抱強くシッポを振っていれば、人間は苦笑して食べ物を分けてくれた。
魚屋や肉屋は、店じまいのときに残りものを投げてくれた。
出産場所に選んだ神社の床下は、ランと子どもたちとの楽園だった。
そこを侵そうとするものが現れたとき、
ランは歯をむいて威嚇し、追い払った。
乳離れを迎えた子どもたちを、ランは町に連れていった。
子どもたちが人間に抱きかかえられて行くのを、
ランはうっとりとしながら見送った。
充実した日々を過ごしているうちに、ランは老いていった。
雄犬はランに近づかなくなった。
シッポを振っても食べ物をくれる人間が減った。
ランはやせていった。
でも、ランは落胆しなかった。
それほどお腹が空くこともなくなっていた。
子どもたちとの楽園だった神社の床下でまどろむときがいちばん安心できた。
そこでランは夢をみていた。
夢をみているときランはしあわせだったが、
それが何の夢なのかはわからなかった。
ある日、喉のかわきをおぼえて床下から外に出ると、飢えた犬と目が合った。
飢えた犬のなかには、死肉の味を覚えたものがいることをランは知っていた。
それでも、べつに怖いとは感じなかった。
ただ一瞬立ち止まったとき急に喉が熱くなった。
「こらっ!」
太い声が聞こえると、喉の熱さが消えた。
「かわいそうに」
大きな手が体を抱きあげようとしているのが分かった。
そのとき彼女は自分が「ラン」であるのを思い出した。
満ち足りた気持ちが体のすみずみにまで行きわたった。
2016/11/04