ヨナスとレヴィナス

GFへ

 今日はだらだらと書く。それが、これをはじめた本来の目的だった。

 ハンス・ヨナスの『グノーシスの宗教』を読みはじめてからもう一ヶ月になるが、まだ三回しか開いていない。が、実はこの本に辿りつくまでに40年以上かかったことになる。だから、いまさら慌てまい。
 たしか高校二年のとき、倫理社会の教科書に、『ユダヤ教が普遍化してキリスト教になった』という意味の説明があった。根がはやとちりのタイプだから、とんでもない勘違いだったのかもしれないが、このフヘン化が、わからなかった。
 ユダヤ教が広まっていくうちにフヘン化してキリスト教に変わった、というのなら何となくイメージがわく。が、どうやらそうではなく、ユダヤ教が突然変異的に世界中で受け入れ可能な宗教に変質し、周りに広まった、ということらしい。
つまり、『ユダヤ教が普遍化してキリスト教になった』過程で、何かありえないことが起こったのだとは見当がついても、その起こったことがどういうことなのか、まったく見えてこなかった。
 もちろん、45年前に上のように考えたわけではない。そうではなくて、45年後にやっと、あのころ何が分からなかったのかが分かりかけてきた気がするから、これを書いている。
 このことは、後に、カトリックという言葉自体にそういう意味合いがあるらしいと読みかじっても、何の解決手段もおもいつかなかった。かといって、では、ユダヤ教とはどんな宗教か勉強したかというと、まったく何もせずに、ただ首を傾げたまま40年以上がたった。
 が、それが不幸中の幸いどころか、幸運中の幸運だったと分かったのは昨年のことだ。
 内田樹訳レヴィナスを読みはじめて、ほとんど動物的な本能で『やばい』と思った。とはいえ、本を閉じる気にはならず最後までめくったが、その間にわいてくる生理的な嫌悪感を抑えきれなかった。
 その嫌悪感の出所については、いくつか思いあたることがないわけでもない。しかし、なにより、彼の語ろうとしているユダヤ教は、その始源が暗黒なのだ。見えないのだ。その始源に近づこうとしても、人間の想像力を超えた時間のはるか向こうにある。そして人間は、この地上に丸裸のままで置き去りにされている。
 若いころ、ユダヤ人の書いているものを読んでいるうちに、「永遠ということをイメージできるのは、日本人とユダヤ人だけかもしれない」と思ったことがある。その思いは今も変わらない。しかし、日本人のイメージする永遠は充足的なのに対し、レヴィナスの永遠は無間地獄的だ。(ただし、仏教の無間地獄が垂直的なのに対して、レヴィナスノの場合は水平的)
 「レヴィナスはまるで、はじめに比喩があった、と言っているようだ。」と、書き送ったのは、そういう事情による。
 たぶん、その時の生理的嫌悪感は、Fが野見山暁治の『キューリー病院』を読んだときに言ってきた、吐き気、に限りなく近い。
 ただし、レヴィナスの場合は、ユダヤ教という宗教について、しかも、ラビとして、現実的な記憶を語っている。・・・これでは無神論紙一重じゃないか、・・・だのに、めくりつづけたのは、同時に、『ほら、仏教まであとひと息だ』という思いが募ったからかもしれない。・・・
 あの文章の難解さは、たぶん、本来、西洋とはまったく違う文脈上のことを西洋の文脈で語ろうとしているからじゃなかろうか。
 もし、60歳以前にあの本を開いていたら、即座に投げ棄てたか、無間地獄にはまってしまっていたか。――元来が臆病者だから、這い這いをしてでも逃げ出して、二度と近づかなかったにちがいない。――それでも、高校生のときの『フヘン化』への疑問はそのまま残りつづけたろう。

 グノーシスに興味をもったのは、ひょっとしたらそれがwにとって、ユダヤ教キリスト教をつなぐミッシング・リングの役割をはたしてくれるかもしれない、と感じたからだ。
 まだ読みはじめたばかりだが、どうもヤマカンはハズレであるらしい。が、ヨナスの訳は実に魅力的な日本語だし、なにか今まで自分の知らなかった風景が見えてくる気がしている。それを、今のヤマカンでいうなら、『個人の所有物ではない魂の相貌』ということになりそうな気がするのだが・・・・。
 もしそうだとすると、それもまた、キリスト教的西洋の文脈とは縁のないことなのかもしれない。
 いずれにせよ、元祖のユダヤ教のことは何もわかるまい。いや、もう、わかろうという気力がない。

別件
 自習時間に2年生が話しかけてきた。
 五木寛之の『青春の門』を読みはじめた。面白くて最後まで読みたいから3巻目も学級文庫に入れてくれ。
――主人公のシンスケの性格は先生にめっちゃ良う似とうよ。
 Wがシンスケに似ているはずがない。しかし、普通の男の子たちと30年も向かいあって、彼らに必要だと感じる言動をとっているうちに、シンスケ的なものが残ったのかもしれない。が、それ以上に、あの生徒は、センセイをそう見たかったのだ。そう見たくなると、そう見えはじめたのだ。
――先生も読んだ?
――うん、筑豊編だけやけど、読んだ。遠賀川の土手をバイクでぶっ飛ばすところはカッコよかったな。
――うん。
――来週友だちたちに会うから、お前の言ったことをそのまま皆に伝えよう。きっと手を叩いて喜ぶぞ。
――その人たちも先生みたいな人?
――うん。
 生徒は嬉しそうに笑った。
                  2010,2,20WF