中沢新一「フィロソフィア・ヤポニカ」を読む

GFへ

――レウ゛ィ=ストロースは、まちがいなく、このような(田邊元的)神話の解釈を拒否するであろう。おそらく彼は、このような解釈自体がひとつの神話にほかならず、それはたしかに神話の内包する意味の豊かさを引き出してくるのに役立っているけれども、真正な「神話の科学」ではない、というだろう。しかし、それ以上に彼をいらだたせるにちがいないのは、・・・・・・・レウ゛ィ=ブリュルの「分有の論理」も、デュルケームからバタイユにいたる「聖なるもの」の社会学も、プラトンイデア同様に、想像力の領域に属する思考として、人間の悟性能力の正当な目録におさまることのできないものであり、神話の研究はそよのうな想像力と幻想の論理を排除して進まなければならない、と考えられるからなのである。――第三章――
――レウ゛ィ=ストロースは「種的基体」というものを構造としてとらえようとしたのであるが、田邊元はそれを多様体として思考しようとしたのである。「種」は、類・種・個という概念の三つ組のうちの中間にあたる。この「中間である」という意味を、レウ゛ィ=ストロースは相対的な意味に理解しているのに対して、田邊元はこれを絶対的なものとして受けとって、そこから中間的なものに決定的な重要性をあたえる思考(それが「種の論理」――中沢が、田邊元の最も重要な思考として取り上げているもの――なのであるが)を生み出そうとしたのである。――第四章の出だし――

田邊元とレウ゛ィ=ストロースがきわめて近接しながら決定的に食い違った理由。それは、Wには、科学の名においていかに否定してもそこから逃れられない一神教的世界に育った者と、いくら近代化したように見えても鎮守の杜の傍で育った者との違いのように感じるのだが、如何? もちろんWは、田邊の言う多様体に起源を感じる。
そう考えれば、ど素人なのに、ほとんど遅滞なく読み進めているのは、中沢の明晰な日本語のお陰なのは勿論としても、自分が鎮守の杜の傍で育った最後の世代に属するからだと思える。
と書きつつ、「オレが最後の世代ではないのではないか」という思いを抑えきれない。以前、クラスに韓国人がいたとき、何かについての討論会をやったら、彼が、「日本人はしぶとい」という。その、しぶとさ、は、単に歴史観をさしていたのではなく、その生徒の見た日本人という人間そのもののありかたについての感想だったのではないか。

唐突だが、学校は必要だ。
学校で、少し誘い水を注ぎ、風を送ってやれば、彼らの文化的DNAはすぐ目を覚ます。それによって彼らは、自分が誰かを思い出す。
We may note the courage have come from memory-the way of ones origin. One grow's up by growing back
ベネディクト・アンダーソンの言葉は、ひょっとしたら、書いた本人を超えた意味を持っている。

34歳のとき、退職して北海道にいく途中で横浜に寄った。仕事をやめた、も一度考え直す、というと、それには答えず、「ホワイトヘッドを読んだことがあるか」と聞く。読んでみたいと思うけど、まだだ、と答えたら、じゃ、これを持って行け、と渡された。旭川の山小屋で、その本を真っ赤にして読み終わったとき、「もう一度、教員をやりたい」と思っていた。そんな人だった。本の内容はほとんど覚えていない。ただ。古典教育の必要性について書かれたものだったように思う。

もし、センター試験から古文や漢文がなくなたら、もう日本が日本であることを教える機会は学校からなくなるかもしれない。

また書く。

別件
ちょっと前のこと。昨年ダブって下の学年にいる生徒と放課後に出会った。

  • 先生の定年はいつ?
  • あと、一年やな。

ちょっと考えてから、まだ一年生のままが言った。

  • 書類をごまかして、もう一年いてよ。