自分が仏になりたいと思うのが仏教だ。

Fへ

もう何年前になるか、授業の初めに「昨日のところで何か質問はないか?」と言ったら手を上げた生徒がいた。全校集会で校歌を歌う時、手拍子をとって教頭から大目玉をくらった生徒だった。
「先生、先生は死んだらどうなると思いよると?」
ちょうど前の時間は「」のまとめで、法華経の話をしていたのだった。
ーー一応法華経の現代語訳を読みはしたが、さっぱり解らなかったので、ハウツウものの受け売りをしとくな。
それを聞いていて何か感じることがあったのだろう。
ーーそれは、文化によって色んな考え方がある。
ーーそげなことを聞きようっちゃないと。先生自身はどう思いよると?
ーーそうか。先生は、アメリカのネイティブの考えが一番気に入っている。オレが死んだら、この体は土になる。この心は風になる。(いまなら、ついでに、叶わなかった願いは光になる、と続けるが、それは後知恵)
ーーふうん。いいね。
話はそれで終わった。その生徒が何を考えていたのかは知らない。ただ、卒業式のあと、Wの体をソッと抱きしめるようにして黙って出て行った。
今日は卒業式。いい式だった。
校歌も国歌も、どこぞの進学校さまの(さしずめ)インテリたちに聞かせてやりたかった。
ああ、いい日だなあ、と思っていると、そんなことを思い出した。

大塚先生の通夜で、会衆に長々と説教しやがった坊主に腹が立った理由がやっと分かった。
仏教の根幹は、自分も仏になりたい、と思うことだ。それだけが「発心」の意味だ。それだけが「出家」の目的だ。だから、出家したのに、仏になってないものは全て脱落者だ。その脱落者がオレたちに説教を垂れやがるからむかっ腹が立つ。
脱落者でいい。どうせ99.99パーセントは脱落者に決まっている。脱落者は一途に読経をすればそれでいいんだ。読経とは祈りだ。たとえインチキ坊主でも一途に祈ってくれたら、死者に先立たれた者たちも、それなりに納得する。なのに、その一途さがない。一途さがないくせに、えらそうに、愚かな我々に説教を垂れやがる。
「邪魔するな。出ていけ」
翌日、時枝先生の弔辞がなかったら、大塚先生も浮かばれないところだった。

土曜日は、Gたちと同窓会をやった。その中の一人がやっている弓道部が九州大会で優勝したお祝いだった。この30年間、一人も増えず、一人も減らず。かんがえたらよく続くもんだ。
大塚先生たちも全く一緒だった。