2009夏

 例によって、思い出話からはじめます。
 題名も作者も忘れましたが、中学生のとき読んでいた本の中で、何ごとかをなそうとするのを躊躇する仲間にむかって、ある登場人物が「僕たちはコペルニクスを生んだポーランド人なんだぞ」と励ます場面がありました。「ガリレオ・ガリレイの前にコペルニクスがいた。」私にとっての地動説との出会いはそんな格好ではじまりました。ただしそれは、当時の私にとっては、たんに科学的発見のひとつであって、高校に入って「コペルニクス的転回」という言葉に出あった時は何のことだか戸惑った記憶があります。
 ガリレオ・ガリレイのあと、ニュートンより前に、デカルトが現れました。高校の教科書で知ったことなのですが、かれは「我思うゆえに我あり」と言いました。その説明に、「すべてのものを疑ったあと、その疑っている自分の存在だけは疑いようがない、と考えた」とありました。――そんなバカな話はない。すべてを疑うのならその自分の主観も疑おうとすれば疑えるじゃないか、そんなのはただのまやかしだ。まやかしの上にどんなものを構築してもそれはただの虚構だ。――高校生の私の考えたことはおそらく正しかったと思います。と同時に、なにも分かっていなかったとも思います。教科書をつくった当時の大人たちもまたそうです。
 (私はデカルトをまったく読まずにこれを書いています。ですから、もし、この出だしが間違っているならば、これから私の言うことこそ絵空事にすぎなくなるのですが、そんなことは気にせずに書いていきますから、出来ればそのままお付き合いください)

 デカルトは自分の存在を疑うわけにはいかないと考えました。それは、かれの意志でした。決断でした。自分がすべてを、世界を客観視しようと考えたからです。ちょうどガリレイが宇宙を観察したように、デカルトは世界を観察したのです。ガリレイが「ほんとうに太陽が地球を回っているのか」と疑ったその望遠鏡を疑うわけにはいかないように、たとえば私が絵を見ているとき、その絵を見ているということ自体を疑うわけにはいかないように、デカルトは自分の眼を疑うことはできませんでした。だから、かれの言葉は「私はみている。この見ている私だけは疑うわけにはいかない」と解釈すべきです。と同時にこれはひどく奇妙なことでした。
 なぜなら、世界を客観視しているデカルトは世界から逸脱しています。デカルトは世界の部外者になっています。しかもデカルトの世界は本来かれの前後左右上下にあるはずなのに、かれが観察可能なように前面にのみあるのです。かれの世界はちょうど映画館の映写幕のようになっていました。それもいっさいの陰がない、いわば平面展開図のような状態で。
 一方、かれのことばはまた、神学的世界、つまり、キリスト教哲学からの独立宣言でもありました。それまでの考えでは、人は他の動物と同様に神による被造物であり、造物主のつくった世界のなかで安住していました。つまり人間もまた世界のなかのただの一部分だったのです。だからこそ人間にだけは魂が必要だったのです。デカルトの言葉はその造物主によって作られた世界からの独立宣言でもありました。かれは意識していると否とにかかわらず、我が身にはりついている世界を、自分の皮膚をはぎ取るように引きはがし、根限りの力を尽くして、独力で自分の世界のすべてをメリメリバリバリと引きはがし、目の前に張り付けたのです。以後、自分を世界に属さない存在と考えた人間と世界とは、実に奇妙な関係に陥りました。
 関係がないものを見ることは私たちにはできません。(私に言わせると、私たちはそのように造られているのです。)客観化するとは無関係になることなのでしょうか。それとも、より緊密な関係になることなのでしょうか。
 が、同時に、この被観察物、被認識物である世界と、観察者であり認識者である人間との構図は、科学の、あるいは科学技術の飛躍的発展のきっかけをもたらしました。何かを観察したかったら、人間が観察しやすい構図をつくればいいのです。自然界ではなく、実験室という世界を人間が作ればいいのです。試験管という人工的世界、シャーレという切り取られた世界、プレパラートという極小世界をつくれば、人間は自分の見たい世界だけを、いくらでも客観的に観察することができるのです。
 この構図は、その後の生産技術の急激な発展にも大きく貢献しました。台の上にすべての部品をならべれば、それを組み立てていく行程が全部見えるようになるのです。この発想はさらに、最初に土台(シャーシ)をつくり、その上で部品を組み立てれば、そのまま台ごと完成品になるという新しい技術をも生み出しました。
 しかし、この、世界からはみ出ることで独立を手に入れた人間はただの赤裸でした。あまりにも孤独でした。
 18世紀を生きたカントは、この人類があらたに獲得した自然科学的哲学――人間観であり世界観。それは人間が自分の内側と外側にある世界を自分の意志で追放して獲得したものでした――に危機を感じ、世界を認識しているはずの人間の理性がはたして造物主から独立した純粋なものであるかどうかを徹底的に検証しました。そうすることで、人間をもう一度造物主の庇護のもとに戻そうと密かに考えたのです。が、芸術界においてこそ大きな影響を与えたかれの思索は、「科学的に」という思潮の速度ををわずかに滞らせただけのように感じます。またその後のいわゆるカント主義とは、かれの密かな願いとは別の、単なる手段にすぎなくなっていた気がします。
 19世紀、幕末から明治にかけてのマルクスは、この「世界からはみ出た人間」のイメージをかりて疎外とよび、社会の成員として認められない人間たち、そして「人間」的とよべない人間たちののありかたとして用いました。デカルトにとっては自らの意思と力で成し遂げたことが、そこでは逆に自らの意思に反して、自らの力及ばずおかれた状況になったのです。この「科学的な」世界と人間の見かたは、資本主義と帝国主義が猛烈な勢いをもっていた時代に多くの人々に受け入れられ、世界史を動かす力を与えました。
 20世紀まで生きたフッサールは、もう一度世界と人間との親密をとりもどそうとしました。追放したりされたりすることによって、人間も世界もともに情緒を失い、存在というもの自体がなにか物質的なものになりかけていると考えたのです。(存在とは過程です。変化です。変化しつづけているのに、それでもなお個性をもちつづけていることを、我々は「存在している」と呼んでいるのです。)私は、世界だけでなく、造物主との親密も自然な形で甦らせ、人間というイメージを回復しようと自己矛盾を恐れずに困難な思索をかさねたフッサールの勇気に力づけられた時期があるのですが、学問とは科学であり、科学は唯物的でなければならないと考える人々や進歩主義の思潮は、神学的臭いのする彼の哲学の根幹を置き去りにし、ただ存在を物質から解放する考え方(手段)の起こりとしました。
 人間は世界から距離をとった場所(それはもともと造物主の座だったはずです)を獲得することで孤独に陥り、連帯を求める人々は社会に回帰しようとし、歴史はいつの間にか「自然科学的に」人の意思から独立したものとして見えるようになりました。

 認識という機能、存在という点、世界の部外者になってしまった人間、気がつくと故郷を放棄し、過去も未来も失っている人間に、いかに生気を取りもどさせるか。人間に大きさをもたらすイメージは何か。どう考えれば我々は世界との親和を回復できるのか。どうすれば安住の地をこの中空に見いだせるのか。――人間がこの世界の当事者になること――それを自然科学的ことばで(自然科学的な体裁で、神学に陥らずに)考えること。20世紀の哲学者の課題はそういうことだったのだろうと思います。
 そのように考えていくと、世界は「歴史」の相貌を帯びてきます。「世界」には時間が流れ始めるのです。単なる個だった人間は個人になっていきいます。個人となった人間は、世界というよりは全体を意識するようになります。
 ハイデガーが哲学を志したとき、世界と人間は上記のような状態にあったのです。
 
 20世紀を「難民の時代」と呼んだ人たちがいます。しかし、その表現は、単に国籍のある土地から避難せざるをいなかった人々のみを形容しているのではありません。われわれ全体のおかれていた状況なのです。 

 さまざまな人々がそれぞれの取り組みかたをしたのでしょうが、ただぼうっとしていた私には語るべき何ごともありません。ただ、ハイデガーのイメージしようとしていたことだけが、不思議に目に見えてくる気がします。
 われわれは、「オレは人間だ」と世界にむかって声をあげようとしたとき、この世界からはみ出そうになります。しかし、同時にわれわれは「自分の自由意志」でこの世界に全身を投じていくのです。その繰り返しが、われわれの生きているということなのです。だから、存在するということは過程なのです。変化なのです。われわれはこの世界のなかにいるのです。
 私には、人間のあり方とイルカのようなクジラ科の生き物の泳ぎ方がダブってきます。イルカにとっての世界は海です。そこで彼らは自由に生きています。同時に彼らは空中に(世界外に)身を躍らせ、外気を肺いっぱいに吸い込んでまた水中に戻っていきます。その躍動感こそハイデガーの考えた人間のイメージのように思えます。
 この、人間の在り方のダイナミックなイメージは、私にはひどく魅力的です。しかも、われわれは自分の意志で、自分の自由な判断で、そんな在り方、世界のなかにいつづけることを常に選び続けているのです。
 が、彼がそのイメージを現実の社会や歴史のなかで実践しようとしたとき、ただ周りに深刻な混乱や不幸を惹き起こしただけでした。
 「世界」について考えていた彼には、哲学とは文学であり、自然科学とはまったくちがったもう一つの原始的な学問なのだという基本が消えていたのだと思います。
                      2009、8、2
 
 私のおしゃべりはここで終わります。
 が、こう書いていくと、不思議に感じることがあります。なによりも、彼らの世界には、花も鳥も季節もなかったらしいことに驚きます。それに彼らは「認識」つまり「見ること」ばかりに熱中し(それは自然科学の大きな特徴でもありました)、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、感じることは置き去りにされていたようなのです。それは、私たちに課せられた大切な課題です。
 20世紀、特にその前半は過激な時代でした。特にその技術的発達のスピードには、ただただ唖然となります。
 よく思うのですが、ライト兄弟がはじめて飛行に成功したのは確か1903年(明治36年)です。それを目撃した10歳の少年がいたとします。かれは、青年になったとき、あの時わずか地上数メートルに浮かんだ飛行機が海を渡ってパリにまで飛んでいったということを知ります。そして、壮年期には、誰も乗っていないロケットというものが爆弾をつんで海の反対側にあるイギリスにまで飛んでいき、街を破壊しているという噂を耳にします。そして、76歳のとき、人類がはじめて月に到着したのをテレビの実況中継で見るのです。
 私もそのテレビ中継を息をつめて見ました。
 その後の技術の発達については、あまり目に見える形には進んでいない気がしますし、人間のイメージはむしろ萎縮し、希薄化してきているように感じます。しかし、それは、人間が自分を等身大に見るようになってきたことのように思えますし、自分を世界の中の存在としてみなすのが当たり前になってきたことの表れとも思えます。
 21世紀は冒険の時代が終わり、定住の時代を迎えているのかもしれません。

追記その2
 上のようなことを考えたあと、レヴィナスの本を2冊めくりました。読み始めると、なにか自分のなかに動揺が起こり始めているのに気づき、読むのをわざと回避しつつ、それでも結局最後までページをめくりつづけました。
 その間、頭に浮かんでいたことは、たとえばべケットの『ゴドーを待ちながら』であったり、デュラスの『ヒロシマ・私の恋人』であったり、保田與重郎の『日本の橋』であったり、「仏教的世界と紙一重のところまで来ているのに」という思いであったりしました。
 レヴィナスによって起こされた動揺とは、たぶん慣れ親しんだ西洋的な世界観とはまったく異質なもの(時間感覚を含めて)がそこにあったからだろうと、あとで思いました。
 西洋人の世界観は、地動説以来、神ぬきで世界の見取り図をもとうと試みたのにもかかわらず、結局のところ天動説(キリスト教的世界観)から抜け出しようがなかったのだと思います。――それは当然のことで、否定的に言っているつもりはまったくありません。――いまもなおそれは変わりません。
 ただ、いわゆるユダヤ人(イスラエル人ではありません)は、ここでいう「西洋人」には含まないほうが、世界や人間を考えるとき、わかりやすくなる気がしてきました。彼らの世界は一般の西洋人とはまったくちがったもののようです。むしろ、「西洋人⇄日本人⇄ユダヤ人」という図式のほうが我々には便利かもしれません。
 われわれ仏教的世界観のなかで育ったものにとっては、自分という「主体」をいかにして解消していくか、のほうが大きな課題でした。少し読みかじっただけでハイデガーがイメージしようとしたことが見えた気がしたのは、自分たちと似たものがそこにあったからだろうと思われます。
 一方、すでに西洋的世界観という枠に組みこまれてしまった我々がこれから考えていくべきことは、個体に属しているらしい主体ではなく、かといって民族や歴史に解消されることもない、より大きな主体をどうやってイメージしていくかということなのかもしれません。