中沢新一『フィロソフィア・ヤポニカ』を読む〔Ⅲ〕
GFへ
今日は別件からはじめる。
久しぶりの休日で、朝からのんびりしていると、チビたちも家主さまもえらく機嫌がいい。ありがたいこっちゃ。「早めの墓参りに行って、晩飯前に帰ってくる」というと、家主さまはいよいよ上機嫌になった。退職後も、毎日でかける用事をつくっておかねばならぬ。
道中のBGMは『ノクターン』。偶然とはいえ、なかなかいい選曲だと悦に入っているうちに、曲は森田童子に変わる。最初の学校で「ぼくは、世界でいちばん優しいのは森田童子だと思います」と書いた生徒も、そろそろ50になるんだなぁと思いつつ聴いているうちに、なんだか得体のしれない怒りがこみあげてきた。何に対する怒りかも解らない。
君子あやうきに近寄らず。ヘッドホンをはずせば全てがまるく収まる。
しかし、まだまだ整理しきれていないものが、ここらへんに踞っているらしい。もっとも整理をしようという意志自体がなさそうなんだが。
――現代とは別名「唯物論」の時代である。それは、この時代が物質主義の支配に覆われた時代であるからではなく、物質の内部にさえそれを突き抜けて「質料(コーラ/マテリアル)」の運動領域を開かんとする、「質料による革命(コーラ革命)」の時代であるからであり、マラルメはその先駆者であったのだ。彼の実践こそが、そののちの絵画や音楽や映画の領域で遂行される、さまざまな現代的「革命」のモデルとなったのである、とジュリア・クリステヴァたちは論じたのである。
――第四章週末ちかく――
この前後は、いや、この本全体が推理小説みたいな面白さに満ちているのだが、今日はちょっとズラす。
上に引用した部分のちょっと前に以下のような記述をしたあと、マラルメの『海の微風(そよかぜ)』が引用されている。
――彼女(ジュリア・クリステヴァ)は、マラルメ詩をみたす音楽性、リズム性、身体性、宇宙性の本質を、「コーラ・セミオティック(記号論的コーラ)」と呼んで、言語の体系的側面(ラング)を示す「サンボリック(象徴的)」と対立させたのである。
生ける身は悲し、ああ、書物みな読み終わりて。
逃れる、遠くへ逃れる! 未知の水泡(みなわ)と
天空との間にあって、鳥たちの陶酔を、私は知る。
なにものも、また眼に映る年古りた庭園(にわ)も
大海に浸るこの心を引きとめるすべはない。
おお、夜よ! 素白(ましろ)に護られた空白(うつろ)な紙を
寂しく照らすわが洋燈(ランプ)も、
嬰児(みどりご)に乳ふくませる若い女も。
出帆だ! おまえの帆柱をゆする汽船よ、
異国の自然へと錨を掲げよ!
倦怠は、無慈悲な希望に当惑し、いまもなお
薄布(ハンカチ)をふるまたとない別れを想う。
そしておそらく、あの檣(マスト)は、嵐をよびつつ
突風により傾く、難破船上の檣なのだ。
消えはてて、檣は見えず、檣は見えず、豊かな島影もまた・・・
されど、おおわが心よ、水夫(かこ)の歌声に耳を傾けよ!
(加藤美雄訳『マラルメ詩集』)
実はこの詩のあとに、最初のクリステヴァの解釈があり、その あとに、「田邊元になりかわって」中沢新一が説明しているんだ けど、それはほっといて、・・・
あのですねぇ、これですねぇ、どことなく『ふらう』的だとは思 いませんか? Wだけかなぁ・・・。
さらに逆もどりして引用し、本日のシメとする。
――魂は有でもなくまた無でもなく、ハイブリッドな有無の中間体にほかならない。それはプリミティブな「分有の論理」がとらえたさまざまな「精霊」たちと同じように、存在の手前に止まって、存在そのものを支え、包摂するフラクタルな基体となって、働いてきたのもだ。「心」にはその基体がある。それが「魂」と呼ばれてきたものであり、田邊元の思考をたどれば、それは「質料(マテリアル)」と呼ばれてきた概念にあたるものであることが、はっきりとわkる。そして、私たちの日常的な思考が、「物質、物質」と呼んでいるものも、この質料を基体とするものであり、(質料は物質にとっての前物質なのである)、「心―物質」のペアには、その基体としての「魂―質料」が対応していることも、はっきりと見えてくる。
そして、次のように続く。
――これはたしかに、本質的な新しさ(本質的な古さ?)をもったマテリアリズムである。